凍てついた令嬢は、異国の太陽に抱かれる

第二十五話:冷え切った焦燥(元婚約者・ベルトラン公爵視点)
【元婚約者視点】狂い始めた歯車
「ーーなぜだ! なぜこれほどまでに国務が滞る!?」
ガルディニア王国から遠く離れた、ベルトラン公爵家の壮麗な執務室。私ーーキリアン・ルミナスは、デスクの上に山積みにされた書類を引きむしるようにして、怒号を上げていた。
かつて、この部屋には常に完璧な静寂と、寸分の狂いもない秩序があった。私がどんなに難解な財政計画や領地経営の課題を放り投げても、あの女ーーエルサは、感情を一切見せない無機質な顔で、翌朝には完璧な成果書を揃えていたのだ。
『キリアン様、こちらの予算配分ですが、統計学上のリスクがーー』
「黙れ! 悪女の分際で私に意見するな!」
あの時、私は彼女を冷酷に怒鳴りつけ、すべての成果を愛らしいステラのものとした。道具なのだから、都合よく搾取され、捨てられるのが当然のルールだと信じて疑わなかった。
だが、彼女を「国家機密を盗んだ悪女」としてガルディニアへ追放してから数週間。
我がルミナス公爵家、そしてベルトラン公爵家の財政は、まるで底の抜けた桶のように崩壊を始めていた。エルサが裏で処理していた、数千に及ぶ複雑な数式や、他国との極秘の通商バランス。それを理解できる人間が、この国には一人も存在しなかったのだ。
「キリアン様ぁ、どうして今月はお小遣いが少ないのですかぁ?」
隣でステラが甘ったるい声で袖を引いてくるが、今の私にはそれをあやす余裕すら一切ない。
「……クソっ! なぜ、なぜあの道具一ついないだけで、これほどの不利益が生じるのだ……っ!」
【ベルトラン公爵視点】覇王からの「宣告」
「手遅れだ、キリアン」
重々しい扉を開けて入ってきた我が父、ベルトラン公爵の顔は、幽鬼のように真っ白に刷り上がっていた。その手には、ガルディニア王国の筆頭側近・カイルの名が記された、一通の返書が握られている。
「父上、ガルディニア側は何と? 『悪女』を引き渡すとの要求に、色よい返事はあったのですか!?」
私は掴みかかるように尋ねた。エルサさえ戻れば、この忌々しい書類の山も、麻痺した国務も、すべて元通りになるはずなのだ。
だが、父が震える手で差し出してきた書状の内容に、私の思考は完全に凍りついた。

『我がガルディニアの至宝たるエルサに、二度とその汚い指で触れようとするな。これ以上の要求は、我が国への宣戦布告とみなす』

「せ、宣戦布告……!? たかが、あの一介の出来損ないの娘一人のために、大国ガルディニアが本気で我が国を潰すとでも言うのか……!」
「それだけではない……」
父は絶望に顔を歪め、ガタガタと唇を震わせた。
「我が国の生命線である、ガルディニアからの穀物流通が、今朝方すべて完全に停止した。経済的な窒息だ。……私たちは、とんでもない怪物の逆鱗に触れてしまったのだ。あの娘は、出来損ないなどではなかった。大国が、国を賭けてでも囲い込むほどの、本物の『至宝』だったのだ……っ!」
激しい後悔と焦燥が、冷たい泥のように私たちの足元から這い上がってくる。
捨てたはずの「道具」が、今や自分たちを滅ぼす巨大な刃となって、喉元に突きつけられていることに、私たちはようやく気付かされたのだった。