第十九話:不器用な雪解け(エルサ・カイル視点)
【エルサ視点】熱のあとの静寂
視界の端で、宮廷医たちが「奇跡だ」と涙ぐみながら胸を撫で下ろしているのが見える。
ゼオン様は、私が目覚めた瞬間にその大きな身体で私を抱きしめ、しばらくの間、子供のように私の肩に顔を埋めて動かなかった。大国の王太子をここまで取り乱させたという事実に、私の「大人の頭脳」は相変わらず、取り返しのつかない負債を抱えてしまったような、かすかな恐れを抱いている。
けれどーー不思議と、あの倒れる前のような、息もできないほどの拒絶感は消え失せていた。
「……ゼオン様。そんなに強く抱きしめられては、せっかく下がった熱が、また上がってしまいます」
私が掠れた声で淡々と告げると、ゼオン様はハッとしたように身体を離した。その紺色の瞳には、まだ消えぬ切なさと、言葉にできないほどの愛おしさが波打っている。
「すまない。だが、お前が本当に戻ってきたのだと思うと、どうしても手が離せなくてな……。気分はどうだ? どこか痛むところはないか?」
「はい。ただ、少し……喉が渇きました」
そう言うと、部屋の隅に控えていたマルタたちが、弾かれたように動き出し、最高のタイミングで温かい白湯を差し出してくれた。それを一口、喉に流し込む。
かつては「対価」を求めて怯えていた心の檻が、一度完全に壊れたせいか、今はただ、その温かさを「心地よい」と感じている自分に驚いていた。
二十五年の絶望の防壁は、確かにゼオン様の涙によって穿たれた。
だが、長年培った大人の生存戦略が、一朝一夕で消えるわけではない。私はまだ、この無条件の愛という劇薬の扱い方を知らないのだ。
【カイル視点】悪女の素顔
「ーー意識が戻られたか。本当に、大した執念だな、我が主君も」
寝室の外の回廊で、私は手元にあるベルトラン公爵家への「宣戦布告崩れ」の返書を眺めながら、小さく息を吐いた。
部屋から出てきた宮廷医官長は、信じられないものを見たという顔で私に告げた。「魂が生きることを選んだのです。あのお方は、殿下の熱に、ご自身の意志で応えられた」と。
この数日間、私たちはあのエルサという女性の、剥き出しの過去の傷痕を見せつけられてきた。
無能な悪女などという噂がいかに的外れであったか。彼女はただ、生きるために完璧であり続け、その結果として擦り切れた、哀しい「大人」だったのだ。
「カイル、そこにいるな」
背後から、低く、けれどどこか憑き物が落ちたような声がした。振り返ると、寝室から出てきたゼオン殿下が立っていた。その顔には疲労が色濃く残っているが、瞳には一切の迷いがない。
「殿下。エルサ様のご様子は」
「落ち着いている。今は、マルタたちが用意した粥を、少しずつだが自分の意志で口にしている」
ゼオン殿下は私の横に並び、窓の外の青空を見上げた。
「カイル。あいつはまだ、俺の愛を完全に信じたわけじゃない。傷が深すぎる。だが、俺の手を拒まずに、ここにいることを受け入れ始めてくれた。……それで十分だ。あいつが何度でも檻に閉じこもろうとするなら、俺は何度でもその檻を壊しに行く」
「……随分と、気の長い話ですね。我が国の王太子殿下が、一人の令嬢にそこまで骨抜きにされるとは」
私が皮肉混じりに言うと、殿下はフッと不敵な笑みを浮かべた。
「骨抜きで結構だ。カイル、あちらの国への手紙は、予定通りに送れ。エルサを傷つけた奴らには、我が国が受ける『至宝』の価値に見合うだけの、最大級の対価を支払わせてやる」
その瞳に宿る覇王の光は、一人の異邦人を守り抜くという、揺るぎない覚悟に満ちていた。
【エルサ視点】熱のあとの静寂
視界の端で、宮廷医たちが「奇跡だ」と涙ぐみながら胸を撫で下ろしているのが見える。
ゼオン様は、私が目覚めた瞬間にその大きな身体で私を抱きしめ、しばらくの間、子供のように私の肩に顔を埋めて動かなかった。大国の王太子をここまで取り乱させたという事実に、私の「大人の頭脳」は相変わらず、取り返しのつかない負債を抱えてしまったような、かすかな恐れを抱いている。
けれどーー不思議と、あの倒れる前のような、息もできないほどの拒絶感は消え失せていた。
「……ゼオン様。そんなに強く抱きしめられては、せっかく下がった熱が、また上がってしまいます」
私が掠れた声で淡々と告げると、ゼオン様はハッとしたように身体を離した。その紺色の瞳には、まだ消えぬ切なさと、言葉にできないほどの愛おしさが波打っている。
「すまない。だが、お前が本当に戻ってきたのだと思うと、どうしても手が離せなくてな……。気分はどうだ? どこか痛むところはないか?」
「はい。ただ、少し……喉が渇きました」
そう言うと、部屋の隅に控えていたマルタたちが、弾かれたように動き出し、最高のタイミングで温かい白湯を差し出してくれた。それを一口、喉に流し込む。
かつては「対価」を求めて怯えていた心の檻が、一度完全に壊れたせいか、今はただ、その温かさを「心地よい」と感じている自分に驚いていた。
二十五年の絶望の防壁は、確かにゼオン様の涙によって穿たれた。
だが、長年培った大人の生存戦略が、一朝一夕で消えるわけではない。私はまだ、この無条件の愛という劇薬の扱い方を知らないのだ。
【カイル視点】悪女の素顔
「ーー意識が戻られたか。本当に、大した執念だな、我が主君も」
寝室の外の回廊で、私は手元にあるベルトラン公爵家への「宣戦布告崩れ」の返書を眺めながら、小さく息を吐いた。
部屋から出てきた宮廷医官長は、信じられないものを見たという顔で私に告げた。「魂が生きることを選んだのです。あのお方は、殿下の熱に、ご自身の意志で応えられた」と。
この数日間、私たちはあのエルサという女性の、剥き出しの過去の傷痕を見せつけられてきた。
無能な悪女などという噂がいかに的外れであったか。彼女はただ、生きるために完璧であり続け、その結果として擦り切れた、哀しい「大人」だったのだ。
「カイル、そこにいるな」
背後から、低く、けれどどこか憑き物が落ちたような声がした。振り返ると、寝室から出てきたゼオン殿下が立っていた。その顔には疲労が色濃く残っているが、瞳には一切の迷いがない。
「殿下。エルサ様のご様子は」
「落ち着いている。今は、マルタたちが用意した粥を、少しずつだが自分の意志で口にしている」
ゼオン殿下は私の横に並び、窓の外の青空を見上げた。
「カイル。あいつはまだ、俺の愛を完全に信じたわけじゃない。傷が深すぎる。だが、俺の手を拒まずに、ここにいることを受け入れ始めてくれた。……それで十分だ。あいつが何度でも檻に閉じこもろうとするなら、俺は何度でもその檻を壊しに行く」
「……随分と、気の長い話ですね。我が国の王太子殿下が、一人の令嬢にそこまで骨抜きにされるとは」
私が皮肉混じりに言うと、殿下はフッと不敵な笑みを浮かべた。
「骨抜きで結構だ。カイル、あちらの国への手紙は、予定通りに送れ。エルサを傷つけた奴らには、我が国が受ける『至宝』の価値に見合うだけの、最大級の対価を支払わせてやる」
その瞳に宿る覇王の光は、一人の異邦人を守り抜くという、揺るぎない覚悟に満ちていた。



