凍てついた令嬢は、異国の太陽に抱かれる

第十一話:氷の城壁に触れる熱(エルサ・カイル視点)
【エルサ視点】揺らぎ始めた均衡
スープの温かさが、じわりと胃の腑に染み渡っていく。
二口、三口と飲み進めるうちに、私の「大人の頭脳」はまたしても、その幸福感を異常事態として検知していた。
(美味しくて、温かい。……そんなことが、あっていいはずがない)
前世の二十五年、生きるために食べていたのは、冷え切って固くなったコンビニの弁当や、消費期限の切れた安価な食材ばかりだった。大人になり、いくら自分で金を稼げるようになっても、心がそれを楽しむことを許さなかった。今世の公爵家でも、私の食事は常に妹のステラの残り物か、冷めきった泥のようなスープだった。
それなのに、この国の人々は、私が何も生み出さず、ただここにいるだけで、これほどまでに慈悲深い温かさを差し出してくる。
コンコン、と。
私室の扉が叩かれ、入ってきたのはゼオン様ーーではなく、その筆頭側近のカイル様だった。その表情は、いつになく実務的で、どこか私を推し量るような鋭さを孕んでいる。
「エルサ様。少々、お耳に入れたいことがございます」
「カイル様。……祖国から、何か動きがあったのですか」
私が淡々と尋ねると、カイル様は微かに目を見開いた。流石は大人になるまで地獄を生き抜いてきた頭脳、とでも言いたげな、複雑な苦笑がその唇に浮かぶ。
「察しが良いのは助かります。貴女の元婚約者と公爵家から、身柄の引き渡しを求める親書が届きました。貴女がいなくなったことで、あちらの国務や財政処理が完全に麻痺し、大パニックに陥っているそうです。……あちらの言い分では、貴女は『我が国に国家機密を売り渡した悪女』だそうですよ」
「……そうですか」
私の心は、驚くほど冷静だった。
やっぱり、と思う。都合よく搾取し、いなくなれば罪を着せてでも引き戻そうとする。前世の二十五年間、そして今世のこれまで、私を囲んでいたのは常にそういう「冷酷な世界」だった。
「ゼオン様にお伝えください。私は、大人しく祖国へ戻ります。私が戻れば、ガルディニアに国際的な不利益は及びません。……元より、私はただの拾われた道具ですから」
そう告げた瞬間、カイル様の背後の扉が、凄まじい衝撃と共に内側へ蹴り開けられた。
【カイル視点】覇王の逆鱗
「ーー誰の許可を得て、戻るなどと口にしている、エルサ」
背筋が凍りつくような、地を這う低音。
振り返るまでもない。そこに立っていたのは、紺色の瞳を獣のように爛々と輝かせ、怒りで周囲の空気を歪ませている我が主君、ゼオン殿下だった。
私は一歩下がり、頭を垂れる。殿下の怒りは私ではなく、自らを「道具」と断じて檻へ戻ろうとするエルサ様に向けられていた。
「殿下、お聞きください。私は大人の分別として、我が国の利益をーー」
「黙れと言っている!」
ゼオン殿下は大股で歩み寄り、エルサ様の細い肩を、壊さんばかりの力で掴み上げた。だが、その指先が微かに震えているのを、私は見逃さなかった。殿下は怒っているのではない。彼女がまた、あの「誰も助けてくれない冷たい雨の世界」へ自ら戻ろうとすることに、激しく恐怖しているのだ。
「国務の麻痺だ? 国際問題だ? くだらん! あんな腐った国、欲しければ今すぐにでも我がガルディニアの軍勢で踏み潰して更地にしてやる!」
「殿下、それは横暴です……!」
「横暴で結構だ! エルサ、お前は二十五年もの間、誰も自分を大切にしなかったと言ったな。その結果が、これか? 問題が起きれば、自分が身代わりに差し出されれば丸く収まると、その擦り切れた大人の頭脳で、また自分を犠牲にしようというのか!」
ゼオン殿下の叫びは、王宮の壁を震わせるほどの熱量を持っていた。
エルサ様は、その圧倒的な覇気に圧されながらも、琥珀色の瞳に強い拒絶の光を宿らせている。
「犠牲ではありません、これが私の『生存戦略』です! 誰も守ってくれないのなら、自分で傷を最小限に抑えるしかない……それを大人というのです、ゼオン様!」
「そんな哀しい大人、俺が認めん!!」
ゼオン殿下はエルサ様をそのまま自身の胸へと、力任せに抱きすくめた。
「お前を二度と、あの冷たい雨の中に帰しはしない。お前を道具としてしか見ない世界など、俺がすべて壊してやる。お前を守るために、このガルディニアという国があるんだ。頼むから……俺に、お前を大切にさせてくれ……っ」
主君の、血を吐くような恋乞いの言葉。
抱きしめられたエルサ様の身体が、凍りついたように硬直していく。その強固な氷の城壁に、ゼオン殿下の命がけの熱が、今度こそ深く、深く侵食していくのを、私はただ黙って見届けることしかできなかった。