凍てついた令嬢は、異国の太陽に抱かれる

第十話:招かれざる「過去」の足音(ゼオン・マルタ視点)
【ゼオン視点】歪んだ執着
「殿下、ベルトラン公爵家、ならびに元婚約者であるルミナス公爵世子より、エルサ様の『身柄引き渡し』を求める親書が届きました」
カイルが苦々しい表情で差し出してきた書状を、俺は一瞥しただけで、机の上のキャンドルの炎にくべた。
紙が黒く焼け焦げ、灰になっていくのを、冷徹な心地よさで見つめる。
「我が国を貶めた悪女を匿うのは国際問題だ、とでも書いてあったか」
「はい。建国祭での殿下の行動は、向こうの国でも大きな波紋を呼んでいるようです。特に、エルサ様がこれまで処理していた膨大な国務や公爵家の裏仕事が完全にストップし、向こうの内政官どもは今、パニックに陥っているとか」
カイルの報告に、俺は腹の底から湧き上がる嘲笑を隠さなかった。
都合よくエルサの知性を搾取し、25歳で死んだという前世の生き写しのように彼女を扱い倒しておきながら、いなくなれば「返せ」だと?
「ふざけるな。あいつらは、エルサがどれほどの絶望の中で生きていたかも、その魂がどれほど冷え切っているかも何も知らない。ただの『便利な道具』を失って慌てているだけだ」
俺は立ち上がり、窓の外の夜空を睨みつけた。
エルサは今も、俺の愛を「恐怖」だと言って拒み続けている。だが、それは彼女が生き延びるために必要だった、哀しい防壁だ。そんな彼女を再びあの泥塗れの檻に戻すなど、天地がひっくり返ってもあり得ない。
「カイル。返書は不要だ。我が国に仇なす国があれば、その国ごと叩き潰す。エルサは、もう二度と誰にも渡さない」
【侍女(マルタ)視点】小さな変化
翌朝、エルサ様のお部屋へ朝食をお持ちした私は、ごく僅かな、けれど確かな「変化」に気がつきました。
「……マルタ。おはようございます」
エルサ様は、いつも通り表情を崩さず、静かに私を迎えられました。
ですが、そのお身体に纏われているのは、昨夜私がお持ちした、あの白い柔らかな毛布だったのです。ベッドの上に綺麗に畳まれることもなく、まるで寒さを凌ぐように、その細い肩をそっと包み込んでいらっしゃいました。
(ああ……お受け取りくださったのですね)
私は胸の奥がじんわりと熱くなるのを堪え、平然を装って一礼しました。
「おはようございます、エルサ様。本日の朝食は、クロエが腕によりをかけた、カボチャの温かいポタージュでございます。少しでもお口に合えば良いのですが」
エルサ様はスープの器をじっと見つめたあと、ゆっくりとスプーンを口に運ばれました。いつもなら一口で止まってしまう手が、今朝は二口、三口と進んでいきます。
「……美味しい、です。温かくて、とても」
感情の起伏は少ない、大人の冷静な声。けれど、その琥珀色の瞳の奥に、ほんの少しだけ、頑なな氷が溶け出したような柔らかな光が見えた気がしました。
祖国からの不穏な足音が近づいていることも知らず、エルサ様はこのガルディニアの温かさに、確かに浸食され始めています。私たちは何があっても、この小さく灯った光を、あの冷酷な過去に消させはしないと、心に強く誓うのでした。