君島准教授、ちょっといいですか。

君島先生がキョトンとした顔で私を見ている。
しまった。
私は何を口走っているのか。

大学のオフィスアワー。
レポートの相談をしたくて勇気を出して刑法研究室の前まで来た。
君島先生は予約不要。
だけど、本当に突然来て大丈夫なんだろうか。
ゼミではいつも飄々としているから、いまいちよくわからない。
ふぅ。
意を決してノックしようとした時。
「僕のところに用?」
突然後ろから、扉の向こうにいるものだと思っていた人に声をかけられ、ビクッとした。
「は、はい」
「どうぞ、入って」
私の緊張とは裏腹に、君島先生はさらりと部屋へ招き入れてくれた。
「どうしたの?」
「あ、えっと、レポートのことで教えていただきたくて」
「うん、どんなこと?」
「あの、刑務作業についてもう少し掘り下げて調べたくて。実際の体験談が読める本ってありますか?」
「あー」
そう言うと君島先生は立ち上がり、壁面いっぱいの本を眺めながら、
「何が知りたい? 作業の内容? 更生との関係?」
「あ、できれば両方」
「OK」
君島先生は本棚を少し見上げ、本を2冊取り出し、
「この辺りは参考になるかな」
と言って手渡してくれた。
「次のゼミまでに返してくれたらいいよ」
「ありがとうございます」
そう言って、すぐに部屋を出ればよかったのに。
私は本に視線を落としたまま一瞬固まってしまった。
「刑務作業って、何も考えずに黙々と労働ができてちょっと羨ましい」
と、ため息とともに唐突にそんなことを呟いてしまったものだから、君島先生は目を丸くしている。
はっと我に返ったが、発してしまった言葉は取り消すことはできず。
「すみません、不謹慎なこと言っちゃった」
「いや。思うのは自由だから」
「……」
君島先生は時計を見、
「このあと授業?」
「いえ」
「じゃあ、時間ある?」
「あります」
「コーヒー、飲む?」
「え?」
「あれ、そういう気分じゃなかったらいいんだけど」
君島先生は首を傾げながら私を見下ろす。
私はなんとなくそのまま勧められた椅子に座ってしまった。

君島先生は何も言わずコーヒーを2杯作っている。
ほっとするいい香りが研究室に広がる。
「ミルクは?あ、牛乳だけど」
「いえ」
「砂糖は?」
「欲しいです」
「いくつ?」
「ひとつ」
「ん」
そう言って、君島先生は角砂糖をひとつ入れ机の上にコーヒーを置いた。
「ありがとうございます」
そして、もうひとつのコーヒーは牛乳も砂糖もたくさん入った、まるで子供が飲むようなコーヒー牛乳ができあがっていた。
先生、甘党なんだ。
いい年齢の大人の男性なのに、ブラックじゃないんだな。
君島先生は自分の椅子に深く腰掛け、甘そうなコーヒー牛乳をひと口飲むと、
「はぁ」
と気の抜けた声を出し、
「どうぞ」
と私にコーヒーを勧めた。
遠慮がちにコーヒーを口に含む。
喉の奥を通っていくのがわかった。
先生は黙ったままただ静かに飲んでいる。
沈黙。
え。
先生何か話があるんじゃないの?
「口に合う?」
「あ、大丈夫です」
そう言うと、君島先生はふっと笑い、
「君正直だね」
「え」
「おいしかったらおいしいって言うでしょ」
「あ」
別にまずかったわけじゃない。
ただ、私はコーヒーより紅茶が好きなだけ。
「そういうわけじゃなくて」
「いいのいいの」
そう言うと君島先生は楽しそうに笑った。
その笑顔が全然意地悪じゃなくて。
君島先生って、こんな感じなんだ。
ちょっと肩の力が抜けた。
カップを両手で包む。
君島先生は私がここにいるのを忘れているかのように、外を眺めながら静かにコーヒー牛乳を飲んでいる。
先生は沈黙のこの空間、気まずくないんだろうか。
どうして何も聞かないのだろう。
時間だけが静かに流れていく。
カップにはもうほとんどコーヒーが残っていない。
「先生」
「ん?」
「先生はどうして大学の先生になろうと思ったんですか?」
「僕?」
「はい」
「うーん……成り行き、かな」
「え?」
「気づいたらなってた」
そう言うと、ふっと目を細めて笑った。
「そんなことあります?」
「そんなもんじゃない?」
そんなもの、なんだろうか。
そんな感じで進路を決めていいのだろうか。
そんなの、怖すぎない?
「先生、私……」
君島先生は首を傾げて次の言葉を待っている。
「……やりたいことなくて」
「そうなんだ」
そうなんだ、って。
そんなあっさり。
「でも、就活はしなきゃって思ってるんです。働かなくちゃいけないのはわかってるから」
「うん」
「でも、ほんと、やりたいことがなくて。適職診断とかしても、いまいちピンと来ないし」
「うん」
「みんなそれなりになんとなく方向定まってたりするし。なのに自分はなんにも見つからなくて」
「うん」
「こんな私が就活していいんでしょうか」
カップに落としていた視線を恐る恐る上げると、君島先生がこちらをまっすぐ見ていてどきっとした。
「ひとつ聞いてもいい?」
「はい」
「やりたくない仕事ってある?」
「やりたくない仕事……」
「そう」
「介護、とか?」
「とか?」
「営業、とか?」
「うん」
「あと、販売系も苦手かも」
「なるほど。苦手なものはよくわかってるんだね」
「よくわかっているというか、そんなに得意なものがないというか」
「これだけは得意なんです、って言える人、そんな多くないと思うよ」
「そうなんですか?」
「なんとなくで仕事決めた大人なんていっぱいいるさ」
「え、でも、それって怖くないですか?」
「ん?」
「なんとなくで決めて失敗したら」
「失敗?」
「はい。嫌じゃないですか、せっかく就職できたと思ったのに合わなかったなんて」
「合わなかっただけだよね?」
「え?」
「そりゃまあ、最初に選んだ会社に長くいられればそれが一番ラッキーだけどさ」
「ラッキー……」
そんな運ゲーみたいに言われても。
「もし合わなくて仕事辞めちゃったら履歴書に傷つきません?」
「まあ、そうかもね」
そうかもね、って……。
「やっぱ、怖いです」
「うん」
君島先生は脚を組み直した。
きっと呆れてるんだ。
あれこれ理由をつけて動けない私のことを。
「真面目なんだね」
「え?」
「そういう人、嫌いじゃないよ」
そう言うと君島先生はにっこりした。
「僕なんて成り行きで働いてるんだから」
「でもちゃんと先生してるじゃないですか」
「そんな大したもんじゃないよ。あ、でも」
ふっと私の目を見つめ、
「学生と話すのは嫌いじゃない」
そう言ってにんまり笑った。
「でもそれも、働いてみて気づいたんだけどね」
「じゃあ、やっぱり働いてみないとわからないってことですか?」
「そうだね。少なくとも僕はそうだった」
私は小さく息を吐いた。
「やっぱり、怖いです」
「うん」
そう言うと君島先生は黙ってしまった。
困らせてしまったかも。
2人の間になんとも言えない間が流れる。
すると、
「怖いままでいいんじゃない?」
「え?」
「怖くなくなる日なんて、多分来ないよ。僕も今でも怖いし」
「先生も?」
「うん」
「だから、とりあえず今できることだけやってる」
そう言うと君島先生は冷めかけたコーヒー牛乳を一口飲んだ。
私は思わず笑ってしまった。
「なんで笑うの?」
「なんか先生って、思ってた人と違ったなって」
「よく言われる」

「失礼しました」
君島先生に借りた本を抱えて研究室を後にした。
なにも解決しなかったけど。
でも。
話せてよかったかも。