『黒薔薇館の十三夜』

 コン、コン。

 静まり返った部屋に、二度だけ響くノック。

 美咲はベッドの上で体を強張らせた。

「……朝倉さん。」

 少女の声が、もう一度聞こえる。

 透き通るようにか細く、それでいてどこか悲しげな声だった。

 美咲は恐る恐る扉へ近づく。

 ドアノブに手を伸ばしかけた、その時だった。

 ――『午後九時以降は、決して部屋からお出になりませんよう。』

 霧島の言葉が頭をよぎる。

 ただの注意とは思えない、あの真剣な表情。

 美咲は伸ばしかけた手を引っ込めた。

「……誰、ですか?」

 震える声で問いかける。

 返事はない。

 耳を澄ますと、廊下の向こうへ歩いていくような足音だけが聞こえた。

 ギシ……。

 ギシ……。

 やがて、その音も遠ざかり、館は再び静寂に包まれる。

「夢……じゃないよね。」

 美咲はドアスコープを覗いた。

 薄暗い廊下には、誰の姿もない。

 ほっと胸をなで下ろした、その瞬間。

 廊下の突き当たりにある窓の前を、黒い影が横切った。

「……っ!」

 美咲は思わず息を呑む。

 長い髪。

 黒いドレス。

 昨日、結衣が見たと言っていた少女と同じような姿だった。

 しかし次の瞬間には、影は跡形もなく消えていた。

「そんな……。」

 美咲は慌ててカーテンを閉め、ベッドへ戻った。

 その夜はほとんど眠ることができなかった。

 ◇

 翌朝。

 窓から差し込む柔らかな光に、美咲はゆっくり目を覚ました。

 昨日の激しい雨が嘘のように空は晴れ渡り、庭の黒い薔薇が朝露をまとって輝いている。

 時計は午前七時半。

 恐る恐る部屋を出ると、廊下にはすでに悠斗が立っていた。

「おはよう。……寝不足?」

 美咲は苦笑する。

「顔に出てる?」

「思いっきり。」

 その時、隣の部屋から結衣も出てきた。

 彼女もどこか疲れた表情をしている。

「結衣、大丈夫?」

「……昨日、私も聞いた。」

「何を?」

「足音。」

 三人の表情が変わる。

「誰かが廊下を歩いてた。」

「やっぱり……。」

 美咲は昨夜の出来事を話した。

 少女の声。

 ノック。

 黒い影。

 話を聞き終えた悠斗は腕を組み、小さくうなった。

「偶然じゃないな。」

 そこへ蓮、大翔、紗奈、健人も集まってくる。

「なんだ、朝から深刻そうな顔して。」

 大翔が笑いながら近づいたが、美咲たちの話を聞くうちに、その笑顔は消えていった。

「俺も夜中に目が覚めた。」

 健人が口を開く。

「誰かが階段を上り下りしてる音がした。」

「俺も聞いた。」

 蓮も続ける。

「でも部屋は出なかった。」

 七人全員が顔を見合わせた。

 昨夜、誰一人部屋を出ていない。

 なのに足音を聞いている。

「じゃあ……誰が歩いてたんだ?」

 誰も答えられなかった。

 ◇

 朝食の席でも重たい空気は続いていた。

 霧島は何事もなかったかのように紅茶を注いでいる。

「霧島さん。」

 美咲は意を決して尋ねた。

「昨日の夜、誰か廊下を歩いていましたよね?」

 霧島の手が一瞬だけ止まる。

「いいえ。」

「でも私たち全員……。」

「聞き間違いでしょう。」

 淡々とした返答だった。

「この館は古く、風が吹くと木材が軋みます。」

「それだけじゃ説明できません!」

 思わず声を荒らげる美咲。

 しかし霧島は穏やかな笑みを崩さない。

「朝食の後は、ご自由に館をご見学ください。」

 まるで質問そのものをなかったことにするようだった。

 ◇

 朝食を終えた七人は館の探索を始めた。

 三階へ続く階段。

 書斎。

 音楽室。

 温室。

 どの部屋も立派で、まるで美術館のようだった。

 しかし、不思議なことが一つあった。

 二階の廊下の奥に、一本だけ鍵の掛かった扉がある。

 重厚な鉄製の鍵。

 扉には古びたプレートが付いていた。

 「立入禁止」

「昨日は気づかなかったな。」

 悠斗がプレートを指でなぞる。

「何があるんだろう。」

 大翔がノブを回す。

 ガチャ。

 開かない。

「当然か。」

 蓮は扉を軽く叩く。

 コン……コン。

 その瞬間だった。

 ――コン。

 中から、誰かが叩き返した。

「え……?」

 七人の動きが止まる。

 もう一度。

 コン。

 確かに、扉の向こうから音が返ってきた。

 紗奈の顔が青ざめる。

「誰か……いるの?」

 返事はない。

 館は静まり返っている。

「おい、霧島さん!」

 悠斗が大声で呼ぶ。

 だが返事はなかった。

 もう一度、蓮が扉を叩く。

 コン。

 しかし今度は何も返ってこない。

「聞き間違い……?」

 誰もそうは思えなかった。

 その時だった。

 廊下の向こうから霧島が静かに歩いてくる。

 その表情からは感情がまったく読み取れない。

「皆様。」

 霧島は鍵の掛かった扉の前で立ち止まった。

「この部屋には近づかないでください。」

「中に誰かいるんですか?」

 健人が尋ねる。

 霧島はゆっくり首を横に振る。

「……誰もおりません。」

「じゃあ、さっきの音は?」

「館は時々、不思議な音を立てます。」

 そう言って鍵を確認すると、霧島は七人を見渡した。

 その目は初めて、穏やかさではなく警戒を宿していた。

「どうか、この館のルールだけは守ってください。」

 そう言い残し、霧島は去っていく。

 七人は誰一人、その場を動けなかった。

 そして美咲は気づいてしまう。

 霧島が確認した鍵は、最初から開いていた形跡があったことに。

 鍵穴の周りには、新しく付いた無数の擦り傷。

 まるで最近、何度も誰かが無理やり開けようとしたかのように――。

 美咲はその傷から目を離せなかった。

 この館には、まだ誰も知らない秘密が隠されている。

 そんな予感だけが、胸の奥で静かに膨らんでいった。