最後の夏、君に恋をした

九月二十日。

 まだ朝日も昇りきらない病院の廊下は、静かな空気に包まれていた。

 怜は病室の窓から空を見上げ、小さく息を吐く。

「いい天気だな。」

「うん。」

 私は隣に立ち、そっと怜の手を握った。

 初めて手をつないだ夏祭りの日よりも、その手は少しだけ温かく感じた。

「緊張してる?」

 私が尋ねると、怜は苦笑する。

「正直、すごく。」

「でも、不思議なんだ。」

「結衣がいるから、頑張れる気がする。」

 その言葉に、私は笑顔でうなずいた。

「帰ってきたら、また海へ行こう。」

「うん。」

「来年も花火を見よう。」

「うん。」

「その次の年も、そのまた次の年も。」

 怜は少し照れたように笑った。

「約束だ。」

 そこへ看護師さんが病室へ入ってくる。

「神崎さん、お時間です。」

 静かな声が響く。

 怜は立ち上がり、私の前まで歩いてきた。

「結衣。」

「待ってて。」

「もちろん。」

「何年でも待つ。」

 私は涙をこらえながら笑う。

「だから、約束どおり帰ってきて。」

 怜は大きくうなずいた。

「行ってきます。」

「……行ってらっしゃい。」

 手術室へ向かう背中が少しずつ遠ざかる。

 扉が閉まる直前、怜はもう一度だけ振り返り、大きく手を振った。

 私も精いっぱい笑顔で手を振り返した。

 ◇

 時計の針はゆっくりと進んでいく。

 一時間。

 二時間。

 三時間。

 病院のロビーで待つ時間は、とても長かった。

 私は何度も二人で撮った写真を見返した。

 海で笑った日。

 夏祭りで浴衣を着た日。

 文化祭で一緒に撮った一枚。

「怜……。」

 静かにつぶやいた、その時だった。

 手術室のランプが消えた。

 扉が開き、担当医が姿を現す。

 私は立ち上がる。

「先生!」

 医師は私を見つめ、ゆっくりとうなずいた。

「手術は――」

 一瞬、息が止まる。

「無事に成功しました。」

 その言葉を聞いた瞬間、張りつめていたものが一気にほどけた。

 私はその場に座り込み、涙を流した。

「よかった……。」

「本当によかった……。」

 ◇

 一か月後。

 秋風が心地よく吹く午後。

 退院した怜と私は、あの桜並木を歩いていた。

 葉は少しずつ色づき始め、夏とは違う景色が広がっている。

「ただいま。」

 怜が照れくさそうに言う。

「おかえり。」

 私は笑顔で答えた。

 二人は自然と立ち止まる。

 幼い頃から何度も歩いたこの場所。

 悲しい日も、楽しい日も、一緒に歩いてきた道。

「結衣。」

「これからも、ずっと隣にいてくれる?」

 私は迷わずうなずいた。

「もちろん。」

「私はずっと、怜の隣にいる。」

 怜は安心したように笑い、私の頬にそっと手を添えた。

「ありがとう。」

 秋風が優しく吹き抜ける。

 私はゆっくりと目を閉じた。

 二人はそっと距離を縮め、穏やかな気持ちを確かめ合うように唇を重ねた。

 短いキスだった。

 けれど、あの夏祭りの初めてのキスとは違う。

 未来を一緒に歩いていこうという約束が込められた、大人へ一歩近づいた二人のキスだった。

 唇が離れると、怜は少し照れたように笑う。

「これからは、毎年一緒に花火を見よう。」

「うん。」

「海も、水族館も、桜も。」

「全部、一緒に行こう。」

 私は怜の手をぎゅっと握る。

 もう、その手を離すことはない。

 たくさん泣いた。

 たくさん笑った。

 遠回りもした。

 それでも二人は、同じ未来を選んだ。

 青くて、少し切なくて。

 だけど、誰よりも幸せな恋だった。

 手術から一年。

 夏の風が街を優しく吹き抜けていた。

「結衣、急がないと花火始まる!」

「待ってよ、怜!」

 去年と同じ夏祭り。

 去年と同じ浴衣。

 だけど、去年とは違うことが一つだけあった。

 怜はもう、苦しそうに胸を押さえることはなかった。

 医師からも「無理をしなければ普段どおりの生活を送れます」と言われ、少しずつ学校生活にも戻っていた。

 二人はあの丘へ向かう。

 初めてキスをした、大切な場所。

「懐かしいね。」

 結衣が笑うと、怜も優しく笑い返した。

「あの日、すごく緊張してた。」

「私も。」

「花火なんてほとんど覚えてない。」

 二人は顔を見合わせて笑う。

 夜空に一発目の花火が咲いた。

 色鮮やかな光が、二人を照らす。

「結衣。」

「ん?」

 怜はポケットから、小さな箱を取り出した。

「これ……。」

「手術の前に渡そうと思ってた。」

 結衣はゆっくりと箱を開ける。

 中には、夏の夜空のような青いガラス玉が付いた、小さなキーホルダーが入っていた。

「きれい……。」

「俺とおそろい。」

 怜は自分のバッグにも同じキーホルダーを付けて見せる。

「離れていても、お互い頑張れるようにって。」

 結衣は目を潤ませながら笑った。

「ありがとう。」

「一生、大切にする。」

 怜は結衣の手を優しく握る。

「来年も。」

「再来年も。」

「十年後も。」

「ずっと一緒に花火を見よう。」

 結衣は大きくうなずく。

「約束。」

 花火の音が夜空いっぱいに響く。

 二人は肩を寄せ合い、満開の花火を見上げた。

 あの夏、病室で書いた『やりたいことリスト』。

 ページをめくれば、ほとんどの項目に大きな花丸が付いている。

 そして、一番最後のページには、新しい文字が増えていた。

 『何気ない毎日を、これからも二人で過ごす。』

 特別な夢ではない。

 けれど、それが二人にとって一番大切な願いだった。

 夏の夜空に咲く花火のように、一瞬一瞬を大切にしながら。

 二人はこれからも、同じ未来を歩いていく。