最後の夏、君に恋をした

病院の廊下は、いつもより静かに感じた。

 白い壁。

 消毒液の匂い。

 規則正しく進む時計の針。

 そのすべてが、私の胸を締めつける。

「神崎さん、朝比奈さん。」

 診察室に呼ばれ、私たちは並んで椅子に座った。

 担当医はカルテを閉じると、ゆっくりと口を開く。

「検査結果ですが……。」

 部屋の空気が一瞬で張りつめた。

「心臓の機能は、この数か月でさらに低下しています。」

 私は思わず怜を見る。

 怜は静かに話を聞いていた。

「今なら手術を受けられる可能性があります。」

 医師は続ける。

「ですが、このまま状態が悪化すると、手術自体が難しくなる恐れがあります。」

 つまり⋯⋯。

「今が、一番大切なタイミングです。」

 その言葉が重く響いた。

 診察室を出ても、私たちはしばらく何も話せなかった。

 病院の中庭には、小さな噴水が静かに水を揺らしている。

 夏の終わりを告げる風が吹き抜けた。

「結衣。」

 怜が先に口を開いた。

「俺、まだ決められない。」

 私はゆっくりとうなずく。

「怖い?」

「うん。」

 怜は苦笑する。

「手術が怖いんじゃない。もし失敗したら、もう結衣に会えなくなる。」

 その一言で、胸が苦しくなる。

「でも、このまま何もしなかったら……。」

 怜は言葉を飲み込んだ。

 その続きを、私は聞かなくても分かっていた。

 二人とも、同じ未来を想像していたから。

 帰り道。

 私たちは小さい頃によく遊んだ公園へ寄った。

 ブランコは昔と変わらず風に揺れている。

「覚えてる?」

 怜が笑う。

「小学生の頃、結衣がブランコから落ちたこと。」

「もう、その話ばっかり!」

「だって面白かったし。」

 私は思わず笑ってしまう。

 こんな何気ない会話が、どうしてこんなにも幸せなんだろう。

 夕日が沈み始めた頃。

 私はベンチから立ち上がり、怜の前に立った。

「怜。」

「ん?」

「私ね……。」

 心臓が早鐘を打つ。

 今まで何度も言えなかった言葉。

 でも、もう後悔したくない。

「ずっと伝えたいことがあるの。」

 怜は静かに私を見つめる。

 私は大きく息を吸った。

「私――」

 その瞬間。

 公園の時計が午後六時を知らせるチャイムを鳴らした。

 懐かしい音が、夕暮れの空に響く。

 私は少しだけ笑う。

「このチャイムを聞くと、小学生の頃を思い出すね。」

 怜も笑った。

「毎日、急いで帰ってた。」

「『また明日!』って手を振って。」

「うん。」

 私は一歩だけ怜に近づく。

「でもね。」

「私は『また明日』じゃ足りなかった。」

「え……?」

 目に涙がにじむ。

「もっと一緒にいたかった。」

「もっと話したかった。もっと、怜の隣にいたかった。」

 怜の瞳が揺れる。

「小学生の頃も。」

「中学生の頃も。」

「高校生になってからも。」

「ずっと。」

 涙が頬を伝う。

「私は……。」

 あと少し。

 あと一言で、この想いは届く。

 怜は息をのむように私を見つめていた。

 夕焼けが二人を優しく包み込む。

 その時、私はようやく覚悟を決めた。

「怜。」

「私は⋯」

 その言葉は、もう迷わなかった。

夕焼けが公園をオレンジ色に染めていた。

 風が木々を揺らし、ブランコが小さな音を立てる。

 怜は静かに私を見つめていた。

「結衣。」

「私は――」

 一度だけ目を閉じる。

 逃げたくなった。

 もし振られたら。

 もし困らせてしまったら。

 そんな不安が頭をよぎる。

 でも、それ以上に。

 伝えられないまま後悔するほうが、もっと怖かった。

 私はゆっくりと顔を上げる。

「私は、怜が好き。」

 その一言を口にした瞬間、胸の奥につかえていたものがあふれ出した。

「小さい頃からずっと好きだった。」

「幼馴染としてじゃない。」

「一人の男の子として、ずっと。」

 涙が止まらない。

「だから……。」

「お願い。」

「生きて。」

「手術を受けて。」

「私は怜と、来年も、その先も、一緒に笑っていたい。」

 言葉が途切れ、私はうつむいた。

 返事が怖かった。

 沈黙が、永遠のように長く感じる。

 その時だった。

「結衣。」

 優しく名前を呼ばれる。

 顔を上げると、怜は泣いていた。

 私は初めて見る涙だった。

「ずるいよ。」

 怜は涙をぬぐいながら笑う。

「そんなこと言われたら、格好つけられないじゃん。」

「え……?」

「俺も。」

 一歩、私に近づく。

「俺も、小さい頃からずっと結衣が好きだった。」

 心臓が止まりそうになる。

「友達に『好きな人いるの?』って聞かれても、ずっと結衣しか思い浮かばなかった。」

「夏祭りでキスしたのも。」

「本当は、あの日告白するつもりだった。」

「でも……。」

 怜は少しだけ目を伏せる。

「病気の俺が、結衣を幸せにできるのか分からなくて。」

「怖かった。」

 私は首を横に振る。

「幸せだよ。」

「怜といるだけで、私は幸せ。」

「だから、一人で決めないで。」

「一緒に悩もう。」

「一緒に泣こう。」

「一緒に未来を信じよう。」

 怜は静かにうなずいた。

 そして、私の両手をそっと包み込む。

「ありがとう。」

「結衣。」

「俺……生きたい。」

 その一言に、私は涙を流しながら笑った。

「うん。」

「絶対、生きよう。」

 怜は大きく深呼吸をすると、空を見上げた。

 夕焼けの向こうには、青空が少しだけ残っている。

「決めた。」

 その瞳には、もう迷いはなかった。

「俺、手術を受ける。」

「結衣と、未来を歩きたい。」

「来年も海へ行きたい。」

「また花火も見たい。」

「もっと、たくさん思い出を作りたい。」

「だから――」

 怜はまっすぐ私を見つめる。

「これからも、俺の隣にいてくれますか。」

 私は泣きながら何度もうなずいた。

「もちろん。」

「ずっと。」

「これからも。」

「怜の隣にいる。」

 怜は安心したように笑う。

 そして、そっと私を抱きしめた。

 私はその腕の中で、小さく笑う。

 聞こえる鼓動が、何より愛おしかった。

 夕焼けに包まれた公園で、二人はようやく恋人になった。

 幼馴染として過ごした十数年。

 遠回りした時間は、決して無駄ではなかった。

 そのすべてが、この瞬間につながっていたのだから。

 数日後。

 怜は正式に手術の日程を決める。

 それは、九月二十日。

 二人にとって、新しい未来へ踏み出す日になった。

 私は手帳にその日付を書き込み、小さくつぶやく。

「絶対、大丈夫。」

 その言葉は、自分に言い聞かせるようでもあり、怜への約束でもあった。

 そして、運命の日は少しずつ近づいていく――。