最後の夏、君に恋をした

 夏休みが始まった。

 窓の外では蝉が元気よく鳴き、青い空には大きな入道雲が浮かんでいる。

 私は机の上に置かれた「この夏にやりたいことリスト」を開いた。

 ページの一番上には、大きな丸で囲まれた文字。

 『海へ行く』

 その文字を見ていると、スマートフォンが震えた。

『おはよう。今日、海行かない?』

 送り主は怜。

 思わず笑みがこぼれる。

『行く!』

 すぐに返信すると、数秒後には『決まり!』というスタンプが返ってきた。

 そのやり取りだけで、胸が弾んだ。

 二人で電車に揺られ、一時間ほど。

 目の前に広がったのは、どこまでも続く青い海だった。

「わぁ……!」

 思わず声が漏れる。

 波が太陽の光を反射して、きらきらと輝いている。

「きれいだな。」

 隣で怜も目を細めた。

「よし!」

 靴を脱いで砂浜へ駆け出す。

「結衣、競争!」

「また!?」

「負けないぞー!」

 子どもの頃と同じように笑いながら走る。

 私は必死に追いかけるけれど、やっぱり追いつけない。

「待ってよー!」

 すると怜は立ち止まり、振り返って笑った。

「ほら。」

 差し出された右手。

「一緒に行こう。」

 私はその手をそっと握る。

 もう照れることはなかった。

 あの日の花火大会から、手をつなぐことが自然になっていた。

 二人で波打ち際を歩く。

 冷たい海水が足元をくすぐるたびに、笑い声がこぼれた。

「結衣!」

 突然、怜が海水をかけてきた。

「きゃっ!」

「ははっ!」

「もう!」

 私も負けじと水をかけ返す。

 気づけば二人ともびしょ濡れになって笑っていた。

 その笑顔は、病気のことを忘れてしまうくらい無邪気だった。

 でも――。

「……っ。」

 笑っていた怜の表情が、一瞬だけ曇る。

 胸を押さえ、小さく息をついた。

「怜?」

「大丈夫。」

 また、その言葉だった。

「本当に?」

「少し休めば平気。」

 私は砂浜に敷いたレジャーシートへ怜を連れていく。

 スポーツドリンクを差し出すと、怜は小さく笑った。

「ありがとう。」

 潮風が二人の髪を揺らす。

 私は海を見つめながら、小さくつぶやいた。

「ねぇ、怜。」

「ん?」

「来年も……ここに来ようね。」

 その言葉に、怜は少しだけ目を伏せた。

 すぐには返事をしない。

 私はしまった、と思った。

 来年⋯⋯。

 その言葉は、今の怜にとって重すぎたのかもしれない。

 しばらくして、怜は静かに笑った。

「うん。」

 その笑顔は優しかった。

 でも、どこか切なかった。

「約束。」

 そう言って、小指を差し出す。

 私は何も言わず、小指を絡めた。

 海風に吹かれながら交わした約束。

 その約束を、私は心から信じたかった。

 信じ続けたかった。

 だけど、その日の帰り道。

 怜は私に気づかれないようにポケットから薬を取り出し、そっと飲み込んでいた。

 私はその姿を見てしまう。

 何も言えなかった。

 言葉にした瞬間、現実になってしまう気がしたから。

 夏の夕日は、そんな二人を静かに照らし

休みも半分を過ぎ、町では少しずつ文化祭の準備が始まっていた。

「今年のクラス企画、何にする?」

「お化け屋敷がいい!」

「いや、喫茶店でしょ!」

 教室は朝から大賑わいだった。

 私は黒板に書かれた候補を見ながら笑う。

「結衣は何がいい?」

 怜が隣の席から身を乗り出してくる。

「私は喫茶店かな。」

「じゃあ決まり!」

「えっ?」

「結衣がいる喫茶店なら絶対人気だ。」

「もう、からかわないで。」

 私が頬をふくらませると、怜は楽しそうに笑った。

 その笑顔を見ていると、不安も少しだけ薄れていく気がした。

 放課後。

 文化祭の買い出しのため、私は怜と駅前のショッピングモールへ向かった。

「買う物、結構あるね。」

「全部持つよ。」

「私も持てるよ?」

「いいから。」

 そう言って、重い荷物を軽々と持ち上げる怜。

 やっぱり頼もしい。

 でも、その横顔を見ていると、少しだけ息が荒いことに気づいた。

「少し休もう?」

「まだ平気。」

「怜。」

 私が真剣な顔をすると、怜は観念したように笑う。

「……分かった。」

 二人でベンチに腰掛ける。

 目の前では、小さな男の子と女の子が手をつないで歩いていた。

「かわいいね。」

 私が微笑むと、怜も目を細める。

「俺たちも、あんな感じだったのかな。」

「うん。」

「毎日けんかして。」

「毎日一緒に帰って。」

「毎日笑ってた。」

 懐かしい思い出に、二人で笑い合う。

「結衣。」

「ん?」

「もしさ。」

 怜は少しだけ言葉を選ぶように空を見上げた。

「もし病気なんてなかったら……。」

 その続きを、私は聞くことができなかった。

「そんなこと言わないで。」

 私が小さく首を振ると、怜は優しく笑った。

「ごめん。」

「でも、考えちゃうんだ。」

「未来のこと。」

 私はそっと怜の手を握る。

「未来は、まだこれからだよ。」

「一緒に作っていこう。」

 怜は驚いたように私を見つめたあと、少し照れたように笑った。

「……そうだな。」

 文化祭当日まで、あと一週間。

 クラスのみんなで飾り付けをしていると、突然教室の電気が消えた。

「停電!?」

 誰かが叫ぶ。

 すると窓の外から、大粒の雨が降り始めた。

「夕立だ!」

 教室中がざわつく。

 私は窓を閉めようとして手を伸ばした。

 その時。

 強い風が吹き込み、飾り付けの星が宙に舞った。

「危ない!」

 怜がとっさに私の腕を引く。

 私はその勢いで怜の胸に飛び込むような形になった。

「……ご、ごめん!」

「大丈夫?」

 顔を上げると、すぐ目の前に怜の顔があった。

 お互いの鼓動が聞こえそうなくらい近い。

 その瞬間。

「おーい!」

 クラスメイトの声が聞こえ、二人は慌てて離れた。

「何してるんだよー!」

「もしかして、いい雰囲気だった?」

 教室中から冷やかしの声が飛ぶ。

「ち、違う!」

 私と怜は同時に答え、教室は笑いに包まれた。

 笑いながらも、私は気づいてしまった。

 怜の耳が真っ赤だったことに。

 そしてきっと、私も同じくらい赤くなっていたことに。

 その日の帰り道。

 夕焼けの中を並んで歩きながら、怜がぽつりとつぶやく。

「結衣。」

「ん?」

「文化祭が終わったら、行きたい場所があるんだ。」

「どこ?」

 怜は少しだけ照れたように笑った。

「その時になったら教える。」

 私は首をかしげながらも笑って頷いた。

「楽しみにしてる。」

 でも、その場所が二人の運命を大きく動かす場所になることを、この時の私はまだ知らなかった。

文化祭当日。

 朝早くから校舎はたくさんの人で賑わっていた。

「結衣! エプロン似合ってる!」

 クラスメイトにそう言われ、私は照れながら笑う。

「ありがとう。」

 喫茶店の準備も順調に進み、お客さんが次々と入ってくる。

「いらっしゃいませ!」

 みんなの笑顔が教室いっぱいに広がる。

 忙しい時間が少し落ち着いた頃、入口から聞き慣れた声がした。

「朝比奈さん、おすすめの席ありますか?」

 振り向くと、執事風の衣装を着た怜が立っていた。

「怜!」

 思わず名前を呼ぶ。

「他のクラスの手伝い終わったから来た。」

 白いシャツに黒いベスト。

 制服とは違う姿に、思わず見とれてしまう。

「どう?」

 少し照れくさそうに聞く怜。

「……すごく似合ってる。」

 その一言で、怜は嬉しそうに笑った。

「ありがとう。」

 ◇

 文化祭は大成功だった。

 閉会式が終わる頃には夕日が校舎を赤く染めていた。

「疲れたー!」

「でも楽しかった!」

 クラスメイトたちが写真を撮り合っている。

「結衣。」

 怜が私の名前を呼ぶ。

「この前言ってた場所、行こう。」

「うん。」

 二人で学校を出て、電車に乗る。

 着いたのは、小高い丘の上にある展望公園だった。

 町が一望できる場所。

 夕焼けから少しずつ夜へ変わる空が、とてもきれいだった。

「ここ……。」

「小さい頃、一度だけ来たことあるだろ?」

 私は辺りを見回す。

「あっ……。」

 思い出した。

 小学生の頃、迷子になって泣いていた私を怜がここまで連れてきてくれた。

「泣き止ませようと思って。」

「夕日がきれいだからって。」

「覚えてたんだ。」

「もちろん。」

 怜は少し恥ずかしそうに笑う。

 しばらく二人で景色を眺める。

 静かな風が吹き、木々がやさしく揺れた。

「結衣。」

「ん?」

「この夏、一緒にいろんなところへ行ったな。」

「海も、水族館も、夏祭りも。」

「文化祭も。」

「全部楽しかった。」

 私はうなずいた。

「私も。」

「全部、大切な思い出。」

 怜は少しだけ視線を落とした。

 何かを言おうとして、何度も口を開いては閉じる。

「……怜?」

 私が呼ぶと、怜は苦笑した。

「ごめん。」

「言いたいことがあるのに、勇気が出ない。」

 私は胸が高鳴るのを感じた。

 もしかして⋯⋯。

 でも、その時だった。

 怜のスマートフォンが鳴る。

 画面には病院からの着信。

 怜の表情が少しだけ曇る。

「……もしもし。」

 短いやり取りのあと、電話を切った怜は小さく息を吐いた。

「明日、病院に来てほしいって。」

 その声は、どこか覚悟を決めたようだった。

「検査結果が出るらしい。」

 私は不安でいっぱいになりながらも、笑顔を作る。

「きっと大丈夫。」

 怜は私を見つめ、静かにうなずいた。

「うん。」

 だけど、その瞳の奥には隠しきれない不安が浮かんでいた。

 帰り道。

 駅のホームで電車を待ちながら、怜が私の手をそっと握る。

「結衣。」

「なに?」

「……ありがとう。」

「え?」

「今年の夏、一緒に笑ってくれて。」

「俺、本当に幸せだった。」

 その言葉が、胸に深く残る。

 電車がホームに滑り込んできた。

 扉が開き、人が乗り降りしていく。

 私は怜の手を握り返した。

「まだ終わってないよ。」

「これからも、思い出を増やそう。」

 怜は少しだけ目を潤ませながら笑った。

「……そうだな。」

 翌日。

 病院で告げられる言葉が、二人の未来を大きく変えることになるとは⋯⋯

 まだ、誰も知らなかった。