七月。
蝉の鳴き声が、朝から街中に響いていた。
梅雨が明け、本格的な夏が始まる。
病院の屋上で交わした約束から、一か月。
私はあの日から、一つだけ決めたことがある。
「泣くのは、怜の前ではやめよう。」
怜が笑ってほしいと言うなら、私は笑顔で隣にいる。
どんなに不安でも、どんなに怖くても。
それが今の私にできることだった。
「結衣ー!」
教室の窓から身を乗り出して手を振る怜。
「今日の放課後、空いてる?」
「うん。」
「じゃあ、駅前集合!」
「どうしたの?」
怜はいたずらっぽく笑った。
「秘密。」
その笑顔につられて、私も笑ってしまう。
放課後。
駅前の時計台で待っていると、私服姿の怜が走ってきた。
「ごめん、待った?」
「今来たところ。」
「よかった!」
白いシャツにデニムというシンプルな服装なのに、不思議なくらい似合っている。
私は思わず見とれてしまった。
「……どうした?」
「な、何でもない!」
「変なの。」
怜は笑いながら、私に一枚のチラシを差し出した。
そこには大きく書かれていた。
『夏まつり開催! 午後六時から花火大会』
「行こう。」
怜が言う。
「今年の夏、一番最初の思い出。」
私は嬉しくなって大きく頷いた。
「うん!」
夏祭り当日。
私は水色の浴衣に袖を通し、鏡の前で何度も深呼吸をした。
「変じゃないかな……。」
小さくつぶやくと、母が微笑んだ。
「すごく似合ってるわよ。」
「本当?」
「怜くん、きっと驚くわ。」
その言葉に顔が熱くなる。
待ち合わせ場所へ向かうと、すでに怜が立っていた。
紺色の浴衣姿。
普段の制服とは違う大人っぽい雰囲気に、思わず息をのむ。
「……結衣?」
怜は目を丸くした。
「浴衣……すごく似合ってる。」
「えっ……。」
その一言だけで胸がいっぱいになる。
「怜も……かっこいい。」
照れながら言うと、怜は耳まで赤くして笑った。
「ありがとう。」
二人は顔を見合わせ、照れくさそうに笑う。
それだけなのに、とても幸せだった。
屋台が並ぶ通りは、人でいっぱいだった。
「りんご飴食べる?」
「食べたい!」
「じゃあ俺がおごる。」
「え、いいよ!」
「今日くらい、かっこつけさせて。」
「ふふっ。」
たこ焼き、焼きそば、かき氷。
二人で半分ずつ分け合って食べる。
射的では怜がぬいぐるみを取ってくれた。
「はい。」
差し出されたのは、小さな白いうさぎのぬいぐるみ。
「かわいい……!」
「結衣っぽい。」
「え?」
「いつも優しくて、ふわふわしてるから。」
そんなことを真っすぐ言われてしまい、私は何も返せなくなった。
やがて、会場のアナウンスが流れる。
『まもなく花火大会を開始いたします。』
「行こう。」
怜がそっと私の手を取る。
一瞬驚いたけれど、その手は少しだけ冷たくて、少しだけ震えていた。
私は何も言わず、ぎゅっと握り返した。
二人は人混みを抜け、小高い丘へ向かう。
ここは、小さい頃から毎年一緒に花火を見ていた場所。
夜空には、無数の星が輝いていた。
「覚えてる?」
怜が笑う。
「小学生の頃、花火の音が怖くて結衣が泣いたこと。」
「もう! それ何回言うの?」
「だってかわいかったし。」
二人で笑い合う。
その瞬間――
ドーンッ!!
夜空いっぱいに、最初の大輪の花火が咲いた。
赤、青、金色。
色鮮やかな光が、二人の横顔を照らす。
私は花火に見とれていた。
すると、隣から小さな声が聞こえた。
「……結衣。」
振り向くと、怜が真っすぐ私を見つめていた。
花火の光を映した瞳が、少しだけ揺れている。
「俺……。」
言葉の続きが聞こえる前に――
再び大きな花火が夜空に打ち上がった。
ドォォン――!!
その音に包まれるように、怜はそっと私の頬へ手を添えた。
そして、ゆっくりと距離が縮まっていく。
私は驚きながらも、目を閉じた。
次の瞬間。
柔らかな唇が、そっと重なった。
それは、ほんの数秒の短いキス。
でも私にとっては、永遠にも感じられる時間だった。
花火は次々と夜空を彩り、人々の歓声が響く。
誰も気づかない。
この夏、一番大切な思い出が生まれたことを。
唇が離れると、怜は照れくさそうに笑った。
「……ごめん。驚いた?」
私は頬を真っ赤にしながら、小さく首を横に振った。
「ううん。びっくりしたけど……。」
涙がこぼれそうになるくらい、嬉しかった。
花火の光の中で、二人はもう一度手をつないだ。
その手は、もう離したくないと思えるほど温かった。
花火が夜空いっぱいに咲き続ける。
赤、青、金色――。
次々と色を変える光が、私たちを優しく照らしていた。
私はまだ、さっきのキスが夢だったんじゃないかと思っていた。
唇に残る温もり。
つないだ手のぬくもり。
全部が現実なのに、信じられないくらい幸せだった。
「結衣。」
怜が少し照れくさそうに笑う。
「……怒ってない?」
「どうして?」
「勝手にキスしたから。」
私は思わず笑ってしまう。
「怒るわけないよ。」
「じゃあ……。」
怜は安心したように息を吐く。
「よかった。」
二人で顔を見合わせると、どちらからともなく笑い声がこぼれた。
その笑顔は、小さい頃から何度も見てきた笑顔なのに、今日は少しだけ違って見えた。
幼馴染ではなく、一人の男の子として。
私は怜を見つめていた。
帰り道。
祭りの賑わいが少しずつ遠ざかり、夜風が火照った頬を優しくなでる。
「結衣。」
「ん?」
「今日はありがとう。」
「私も楽しかった。」
「今年の夏、一番の思い出になった。」
怜は夜空を見上げながら微笑む。
「まだ夏は始まったばかりだよ。」
私がそう言うと、怜は小さく頷いた。
「そうだな。」
少し歩いたところで、怜が急に立ち止まる。
「どうしたの?」
「少しだけ……休憩。」
笑っていたけれど、その額にはうっすらと汗が浮かんでいた。
「無理してる?」
「大丈夫。」
その言葉とは裏腹に、呼吸は少しだけ荒い。
私は近くのベンチを指さした。
「少し座ろう。」
「……ありがと。」
二人で静かに腰を下ろす。
虫の鳴き声だけが聞こえる夏の夜。
私は何も言わず、ペットボトルのお茶を差し出した。
「はい。」
「ありがとう。」
怜は一口飲んで、小さく笑う。
「結衣ってさ。」
「いつも俺のこと見てるよな。」
心臓が跳ねた。
「え?」
「俺が少し苦しそうにすると、すぐ気づく。」
「それは……。」
「昔から変わらない。」
怜は私の方を見る。
「ありがとう。」
その優しい声に、胸がいっぱいになる。
「私は……。」
言葉が喉まで出かかった。
"好き。"
たった二文字なのに、どうしてこんなに難しいんだろう。
結局、私は笑ってごまかした。
「幼馴染だから。」
「そっか。」
怜も笑う。
だけど、その笑顔はどこか寂しそうだった。
家の近くまで帰ってきた時、怜が私を呼び止める。
「結衣。」
「なに?」
「今日のキス。」
私はまた顔が熱くなる。
「あれ……。」
怜は少し恥ずかしそうに笑った。
「後悔してないから。」
その言葉を聞いた瞬間、胸がいっぱいになった。
私はゆっくり首を横に振る。
「私も。」
短い返事。
それだけで十分だった。
二人の距離は、今日確かに変わった。
幼馴染から、一歩前へ。
でも、その幸せな時間は長くは続かなかった。
数日後の朝。
登校中の私は、いつもの待ち合わせ場所へ向かう。
けれど、怜の姿はない。
「遅いな……。」
十分待っても来ない。
二十分待っても来ない。
その時、スマートフォンが震えた。
画面には、知らない番号。
「もしもし?」
『朝比奈結衣さんでしょうか。』
聞き覚えのない女性の声。
『神崎怜さんが今朝、自宅で倒れ、現在病院に搬送されています。』
頭の中が真っ白になった。
『ご家族から、あなたにも伝えてほしいと頼まれました。』
私は何も言えず、その場に立ち尽くす。
スマートフォンを握る手が震えた。
「怜……?」
さっきまで笑っていたはずなのに。
一緒に約束したばかりなのに。
私はランドセルを背負って一緒に登校した小学生の頃の景色を思い出しながら、涙をこらえて病院へ向かって走り出した⋯⋯。
病院までの道のりが、こんなにも長く感じたのは初めてだった。
息が切れる。
それでも足を止めることはできなかった。
「お願い……。お願いだから、無事でいて……。」
何度もそう願いながら病院の自動ドアをくぐる。
受付で名前を伝えると、看護師さんが優しく頷いた。
「神崎さんは三階です。」
私はエレベーターに飛び乗った。
胸の鼓動がうるさいくらい響く。
"チーン"
扉が開き、私は病室へ走った。
コンコン――。
ノックをする手が震える。
「……失礼します。」
ゆっくり扉を開けると、そこにはベッドに横たわる怜の姿があった。
酸素チューブはついていない。
点滴だけが静かに落ちている。
その姿を見た瞬間、張り詰めていた気持ちが一気にほどけた。
「怜……。」
声をかけると、怜がゆっくり目を開ける。
「あ……結衣。」
少しかすれた声。
でも、その笑顔はいつも通りだった。
「ごめん。また心配かけた。」
私は何も言えず、ベッドの横まで歩いた。
そして次の瞬間。
怜の胸に顔をうずめるように抱きついた。
「……っ!」
涙が止まらなかった。
「もう嫌だよ……。倒れたりしないでよ……。突然いなくならないでよ……。」
嗚咽混じりの声が病室に響く。
怜は少し驚いたあと、そっと私の頭を撫でた。
「ごめん。本当に、ごめん。」
「謝らないで……。」
私は顔を上げる。
泣き腫らした目で怜を見つめると、怜は少し照れたように笑った。
「結衣。」
「ん?」
「この前のキス。」
「……うん。」
「あれさ。」
怜は耳まで赤くしながら続けた。
「勢いじゃなかった。」
私の心臓が大きく鳴る。
「ずっと前から……したかった。」
言葉を失う。
そんなこと、思ってもいなかった。
怜は恥ずかしそうに視線をそらした。
「でも、もし嫌だったら忘れて。」
「忘れない。」
私はすぐに答えた。
「絶対に忘れない。」
病室に静かな時間が流れる。
窓の外では、夏の青空がどこまでも広がっていた。
私はバッグの中から、小さなノートを取り出す。
「これ、見て。」
「ん?」
表紙には大きく書かれていた。
『この夏にやりたいことリスト』
怜は思わず笑う。
「何これ。」
「怜がこの前言ってたでしょ?」
「後悔したくないって。」
私はページを開いた。
そこには、色とりどりのペンでたくさんの文字が並んでいた。
・海へ行く。
・水族館へ行く。
・ひまわり畑を見る。
・流れ星を探す。
・おそろいのお守りを買う。
・文化祭を思い切り楽しむ。
・写真を百枚撮る。
・一緒にアイスを食べる。
・朝日を見る。
・夕日を見る。
・二人で桜の木に「また来よう」と約束する。
ページをめくるたびに、怜の目が少しずつ潤んでいく。
「結衣……。」
「全部、一緒に叶えよう。一つでも多く。だから、諦めないで。」
怜は何も言えなかった。
静かにノートを閉じると、小さく笑った。
「ありがとう。俺、生きたい。」
その一言に、私は涙を流しながら笑った。
「うん。一緒に頑張ろう。」
怜はゆっくりと右手を差し出す。
私はその手をぎゅっと握った。
二人の手は、以前よりもしっかりと結ばれていた。
それは恋人になったわけでも、告白したわけでもない。
それでも、お互いが誰よりも大切な存在だと伝わる温もりだった。
この夏は、まだ始まったばかり。
だけど運命は、二人に残された時間を静かに刻み始めていた。
誰にも気づかれないように⋯⋯。
蝉の鳴き声が、朝から街中に響いていた。
梅雨が明け、本格的な夏が始まる。
病院の屋上で交わした約束から、一か月。
私はあの日から、一つだけ決めたことがある。
「泣くのは、怜の前ではやめよう。」
怜が笑ってほしいと言うなら、私は笑顔で隣にいる。
どんなに不安でも、どんなに怖くても。
それが今の私にできることだった。
「結衣ー!」
教室の窓から身を乗り出して手を振る怜。
「今日の放課後、空いてる?」
「うん。」
「じゃあ、駅前集合!」
「どうしたの?」
怜はいたずらっぽく笑った。
「秘密。」
その笑顔につられて、私も笑ってしまう。
放課後。
駅前の時計台で待っていると、私服姿の怜が走ってきた。
「ごめん、待った?」
「今来たところ。」
「よかった!」
白いシャツにデニムというシンプルな服装なのに、不思議なくらい似合っている。
私は思わず見とれてしまった。
「……どうした?」
「な、何でもない!」
「変なの。」
怜は笑いながら、私に一枚のチラシを差し出した。
そこには大きく書かれていた。
『夏まつり開催! 午後六時から花火大会』
「行こう。」
怜が言う。
「今年の夏、一番最初の思い出。」
私は嬉しくなって大きく頷いた。
「うん!」
夏祭り当日。
私は水色の浴衣に袖を通し、鏡の前で何度も深呼吸をした。
「変じゃないかな……。」
小さくつぶやくと、母が微笑んだ。
「すごく似合ってるわよ。」
「本当?」
「怜くん、きっと驚くわ。」
その言葉に顔が熱くなる。
待ち合わせ場所へ向かうと、すでに怜が立っていた。
紺色の浴衣姿。
普段の制服とは違う大人っぽい雰囲気に、思わず息をのむ。
「……結衣?」
怜は目を丸くした。
「浴衣……すごく似合ってる。」
「えっ……。」
その一言だけで胸がいっぱいになる。
「怜も……かっこいい。」
照れながら言うと、怜は耳まで赤くして笑った。
「ありがとう。」
二人は顔を見合わせ、照れくさそうに笑う。
それだけなのに、とても幸せだった。
屋台が並ぶ通りは、人でいっぱいだった。
「りんご飴食べる?」
「食べたい!」
「じゃあ俺がおごる。」
「え、いいよ!」
「今日くらい、かっこつけさせて。」
「ふふっ。」
たこ焼き、焼きそば、かき氷。
二人で半分ずつ分け合って食べる。
射的では怜がぬいぐるみを取ってくれた。
「はい。」
差し出されたのは、小さな白いうさぎのぬいぐるみ。
「かわいい……!」
「結衣っぽい。」
「え?」
「いつも優しくて、ふわふわしてるから。」
そんなことを真っすぐ言われてしまい、私は何も返せなくなった。
やがて、会場のアナウンスが流れる。
『まもなく花火大会を開始いたします。』
「行こう。」
怜がそっと私の手を取る。
一瞬驚いたけれど、その手は少しだけ冷たくて、少しだけ震えていた。
私は何も言わず、ぎゅっと握り返した。
二人は人混みを抜け、小高い丘へ向かう。
ここは、小さい頃から毎年一緒に花火を見ていた場所。
夜空には、無数の星が輝いていた。
「覚えてる?」
怜が笑う。
「小学生の頃、花火の音が怖くて結衣が泣いたこと。」
「もう! それ何回言うの?」
「だってかわいかったし。」
二人で笑い合う。
その瞬間――
ドーンッ!!
夜空いっぱいに、最初の大輪の花火が咲いた。
赤、青、金色。
色鮮やかな光が、二人の横顔を照らす。
私は花火に見とれていた。
すると、隣から小さな声が聞こえた。
「……結衣。」
振り向くと、怜が真っすぐ私を見つめていた。
花火の光を映した瞳が、少しだけ揺れている。
「俺……。」
言葉の続きが聞こえる前に――
再び大きな花火が夜空に打ち上がった。
ドォォン――!!
その音に包まれるように、怜はそっと私の頬へ手を添えた。
そして、ゆっくりと距離が縮まっていく。
私は驚きながらも、目を閉じた。
次の瞬間。
柔らかな唇が、そっと重なった。
それは、ほんの数秒の短いキス。
でも私にとっては、永遠にも感じられる時間だった。
花火は次々と夜空を彩り、人々の歓声が響く。
誰も気づかない。
この夏、一番大切な思い出が生まれたことを。
唇が離れると、怜は照れくさそうに笑った。
「……ごめん。驚いた?」
私は頬を真っ赤にしながら、小さく首を横に振った。
「ううん。びっくりしたけど……。」
涙がこぼれそうになるくらい、嬉しかった。
花火の光の中で、二人はもう一度手をつないだ。
その手は、もう離したくないと思えるほど温かった。
花火が夜空いっぱいに咲き続ける。
赤、青、金色――。
次々と色を変える光が、私たちを優しく照らしていた。
私はまだ、さっきのキスが夢だったんじゃないかと思っていた。
唇に残る温もり。
つないだ手のぬくもり。
全部が現実なのに、信じられないくらい幸せだった。
「結衣。」
怜が少し照れくさそうに笑う。
「……怒ってない?」
「どうして?」
「勝手にキスしたから。」
私は思わず笑ってしまう。
「怒るわけないよ。」
「じゃあ……。」
怜は安心したように息を吐く。
「よかった。」
二人で顔を見合わせると、どちらからともなく笑い声がこぼれた。
その笑顔は、小さい頃から何度も見てきた笑顔なのに、今日は少しだけ違って見えた。
幼馴染ではなく、一人の男の子として。
私は怜を見つめていた。
帰り道。
祭りの賑わいが少しずつ遠ざかり、夜風が火照った頬を優しくなでる。
「結衣。」
「ん?」
「今日はありがとう。」
「私も楽しかった。」
「今年の夏、一番の思い出になった。」
怜は夜空を見上げながら微笑む。
「まだ夏は始まったばかりだよ。」
私がそう言うと、怜は小さく頷いた。
「そうだな。」
少し歩いたところで、怜が急に立ち止まる。
「どうしたの?」
「少しだけ……休憩。」
笑っていたけれど、その額にはうっすらと汗が浮かんでいた。
「無理してる?」
「大丈夫。」
その言葉とは裏腹に、呼吸は少しだけ荒い。
私は近くのベンチを指さした。
「少し座ろう。」
「……ありがと。」
二人で静かに腰を下ろす。
虫の鳴き声だけが聞こえる夏の夜。
私は何も言わず、ペットボトルのお茶を差し出した。
「はい。」
「ありがとう。」
怜は一口飲んで、小さく笑う。
「結衣ってさ。」
「いつも俺のこと見てるよな。」
心臓が跳ねた。
「え?」
「俺が少し苦しそうにすると、すぐ気づく。」
「それは……。」
「昔から変わらない。」
怜は私の方を見る。
「ありがとう。」
その優しい声に、胸がいっぱいになる。
「私は……。」
言葉が喉まで出かかった。
"好き。"
たった二文字なのに、どうしてこんなに難しいんだろう。
結局、私は笑ってごまかした。
「幼馴染だから。」
「そっか。」
怜も笑う。
だけど、その笑顔はどこか寂しそうだった。
家の近くまで帰ってきた時、怜が私を呼び止める。
「結衣。」
「なに?」
「今日のキス。」
私はまた顔が熱くなる。
「あれ……。」
怜は少し恥ずかしそうに笑った。
「後悔してないから。」
その言葉を聞いた瞬間、胸がいっぱいになった。
私はゆっくり首を横に振る。
「私も。」
短い返事。
それだけで十分だった。
二人の距離は、今日確かに変わった。
幼馴染から、一歩前へ。
でも、その幸せな時間は長くは続かなかった。
数日後の朝。
登校中の私は、いつもの待ち合わせ場所へ向かう。
けれど、怜の姿はない。
「遅いな……。」
十分待っても来ない。
二十分待っても来ない。
その時、スマートフォンが震えた。
画面には、知らない番号。
「もしもし?」
『朝比奈結衣さんでしょうか。』
聞き覚えのない女性の声。
『神崎怜さんが今朝、自宅で倒れ、現在病院に搬送されています。』
頭の中が真っ白になった。
『ご家族から、あなたにも伝えてほしいと頼まれました。』
私は何も言えず、その場に立ち尽くす。
スマートフォンを握る手が震えた。
「怜……?」
さっきまで笑っていたはずなのに。
一緒に約束したばかりなのに。
私はランドセルを背負って一緒に登校した小学生の頃の景色を思い出しながら、涙をこらえて病院へ向かって走り出した⋯⋯。
病院までの道のりが、こんなにも長く感じたのは初めてだった。
息が切れる。
それでも足を止めることはできなかった。
「お願い……。お願いだから、無事でいて……。」
何度もそう願いながら病院の自動ドアをくぐる。
受付で名前を伝えると、看護師さんが優しく頷いた。
「神崎さんは三階です。」
私はエレベーターに飛び乗った。
胸の鼓動がうるさいくらい響く。
"チーン"
扉が開き、私は病室へ走った。
コンコン――。
ノックをする手が震える。
「……失礼します。」
ゆっくり扉を開けると、そこにはベッドに横たわる怜の姿があった。
酸素チューブはついていない。
点滴だけが静かに落ちている。
その姿を見た瞬間、張り詰めていた気持ちが一気にほどけた。
「怜……。」
声をかけると、怜がゆっくり目を開ける。
「あ……結衣。」
少しかすれた声。
でも、その笑顔はいつも通りだった。
「ごめん。また心配かけた。」
私は何も言えず、ベッドの横まで歩いた。
そして次の瞬間。
怜の胸に顔をうずめるように抱きついた。
「……っ!」
涙が止まらなかった。
「もう嫌だよ……。倒れたりしないでよ……。突然いなくならないでよ……。」
嗚咽混じりの声が病室に響く。
怜は少し驚いたあと、そっと私の頭を撫でた。
「ごめん。本当に、ごめん。」
「謝らないで……。」
私は顔を上げる。
泣き腫らした目で怜を見つめると、怜は少し照れたように笑った。
「結衣。」
「ん?」
「この前のキス。」
「……うん。」
「あれさ。」
怜は耳まで赤くしながら続けた。
「勢いじゃなかった。」
私の心臓が大きく鳴る。
「ずっと前から……したかった。」
言葉を失う。
そんなこと、思ってもいなかった。
怜は恥ずかしそうに視線をそらした。
「でも、もし嫌だったら忘れて。」
「忘れない。」
私はすぐに答えた。
「絶対に忘れない。」
病室に静かな時間が流れる。
窓の外では、夏の青空がどこまでも広がっていた。
私はバッグの中から、小さなノートを取り出す。
「これ、見て。」
「ん?」
表紙には大きく書かれていた。
『この夏にやりたいことリスト』
怜は思わず笑う。
「何これ。」
「怜がこの前言ってたでしょ?」
「後悔したくないって。」
私はページを開いた。
そこには、色とりどりのペンでたくさんの文字が並んでいた。
・海へ行く。
・水族館へ行く。
・ひまわり畑を見る。
・流れ星を探す。
・おそろいのお守りを買う。
・文化祭を思い切り楽しむ。
・写真を百枚撮る。
・一緒にアイスを食べる。
・朝日を見る。
・夕日を見る。
・二人で桜の木に「また来よう」と約束する。
ページをめくるたびに、怜の目が少しずつ潤んでいく。
「結衣……。」
「全部、一緒に叶えよう。一つでも多く。だから、諦めないで。」
怜は何も言えなかった。
静かにノートを閉じると、小さく笑った。
「ありがとう。俺、生きたい。」
その一言に、私は涙を流しながら笑った。
「うん。一緒に頑張ろう。」
怜はゆっくりと右手を差し出す。
私はその手をぎゅっと握った。
二人の手は、以前よりもしっかりと結ばれていた。
それは恋人になったわけでも、告白したわけでもない。
それでも、お互いが誰よりも大切な存在だと伝わる温もりだった。
この夏は、まだ始まったばかり。
だけど運命は、二人に残された時間を静かに刻み始めていた。
誰にも気づかれないように⋯⋯。

