診察室の扉が閉まってから、どれくらい時間が経ったのだろう。
待合室の時計の針だけが、静かに時を刻んでいた。
私は膝の上で握りしめた手を見つめる。
指先は冷たく、少し震えていた。
(お願い……。)
(何でもないって言って。)
(ただの検査だったって笑って。)
そう願い続けることしかできなかった。
やがて診察室の扉が開く。
白衣の医師と一緒に、怜が出てきた。
さっきと同じ笑顔。
だけど、その笑顔はどこか無理をしているように見えた。
「先生、ありがとうございました。」
頭を下げた怜は、私に気付くと苦笑した。
「……帰ろっか。」
その一言だけだった。
私は何も聞けずに頷く。
二人は病院を出て、近くの公園まで歩いた。
夕焼けに染まる空。
ブランコが風に揺れ、きぃ……きぃ……と小さな音を立てている。
怜はベンチに腰を下ろした。
「怒ってる?」
突然の言葉に、私は首を振る。
「怒ってない。」
「じゃあ、どうしてそんな顔してる?」
「……心配だから。」
その一言で、怜は静かに目を伏せた。
「ごめん。」
「ごめんじゃないよ。」
思わず声が震える。
「最近倒れそうになったり、病院に来たり……。全部、大丈夫って笑ってごまかして。」
涙が込み上げてくる。
「幼馴染なのに、何も知らないなんて嫌だよ……。」
怜は何も言わない。
ただ、夕焼けを見つめていた。
長い沈黙のあと、小さく息を吐く。
「……結衣。」
「うん。」
「俺さ。」
怜はゆっくりと笑った。
「生まれつき、心臓が弱いんだ。」
その言葉に、世界が止まった気がした。
「え……?」
「小さい頃から何度も入院してる。」
「そんな……。」
「小学生の頃は元気だっただろ?」
私は頷く。
「薬がよく効いてたんだ。」
怜は自分の胸にそっと手を当てる。
「でも、高校に入ってから少しずつ悪くなってきた。」
私の目から涙がこぼれる。
「嘘だよね……?」
「嘘だったら良かったんだけど。」
怜は困ったように笑う。
「体育で倒れそうになったのも、本当は体が限界だった。」
「どうして言ってくれなかったの!」
声が公園に響く。
「私、何も知らなくて……。」
「心配かけたくなかった。」
その言葉が、胸に突き刺さる。
「みんな、俺を普通の高校生として見てくれてる。」
「だから、そのままでいたかった。」
「かわいそうって思われたくなかった。」
私はもう我慢できなかった。
ベンチから立ち上がり、怜の前に立つ。
「そんなの、一人で抱え込まないでよ!」
「私は幼馴染なんだよ!」
「嬉しいことも、悲しいことも、一緒に分け合いたい!」
涙が止まらない。
怜は驚いたように私を見つめていた。
そして、ふっと優しく笑う。
「……ありがとう。」
その笑顔は、今まで見たどの笑顔よりも切なかった。
「でも、一つだけ約束して。」
「……約束?」
「このことは、誰にも言わないで。」
私は息をのむ。
「親友にも。」
「先生にも。」
「学校のみんなにも。」
「誰にも。」
「普通の高校生活を、最後まで送りたいんだ。」
"最後まで"
その言葉が、胸の奥で重く響いた。
「最後までって……どういう意味?」
怜は少しだけ空を見上げる。
夕焼けの向こうで、一羽の鳥が羽ばたいていく。
「……それは、まだ言えない。」
その横顔は、どこか覚悟を決めたように見えた。
私は何も言えず、ただ怜の隣に座った。
夕日が沈むまで、二人は何も話さなかった。
ただ、同じ空を見上げていた。
それが今の私たちにできる、精一杯の時間だった。
翌朝。
目覚まし時計が鳴る前に、私は目を覚ました。
昨夜はほとんど眠れなかった。
怜の言葉が何度も頭の中で繰り返される。
『生まれつき、心臓が弱いんだ。』
『誰にも言わないで。』
カーテンを開けると、眩しい朝日が部屋に差し込んだ。
こんなにいい天気なのに、私の心は重たいままだった。
学校へ向かう道。
いつもなら待ち合わせ場所で笑っている怜の姿が見えるはずなのに、今日はまだ来ていない。
少し不安になったその時だった。
「……おはよう。」
後ろから聞き慣れた声がした。
振り返ると、怜がゆっくり歩いてくる。
「お、おはよう!」
私はほっとして笑った。
でも、近くで見ると怜の顔色は少し悪かった。
「昨日、ちゃんと寝られた?」
私が尋ねると、怜は苦笑した。
「少しだけ。」
「私は全然寝られなかった。」
「……ごめん。」
「また謝る。」
私が少し頬を膨らませると、怜は困ったように笑った。
「じゃあ、『ありがとう』にしとく。」
「うん。その方がいい。」
二人で顔を見合わせて笑う。
その笑顔が少しだけ昔に戻れた気がして、私は胸をなで下ろした。
教室へ入ると、いつものように友達が話しかけてきた。
「結衣、おはよう!」
「神崎くんもおはよう!」
「おはよー!」
怜はいつも通り明るく返事をする。
昨日病院で見た、あの苦しそうな表情はどこにもない。
(演技……なんだ。)
そう思うと胸が痛んだ。
ずっと、一人でこんなふうに笑ってきたんだ。
昼休み。
私は屋上へ向かった。
そこにはフェンスにもたれかかりながら空を見上げる怜がいた。
「ここにいたんだ。」
「結衣。」
隣に立つと、爽やかな風が吹き抜ける。
「今日は雲が少ないな。」
「うん。」
しばらく無言の時間が流れる。
不思議と気まずくはなかった。
沈黙さえも心地いい。
「結衣。」
「ん?」
「俺さ。」
怜は青空を見つめたまま言った。
「あと何回、この景色を見られるんだろうって考える時がある。」
私は息をのんだ。
「そんなこと……言わないで。」
「ごめん。」
怜は少し笑った。
「でも、不思議なんだ。」
「怖くないの?」
私が聞くと、怜は首を横に振る。
「怖いよ。」
「すごく怖い。」
「でも、それ以上に後悔したくない。」
「後悔?」
「高校生らしいこと、全部やりたい。」
怜は指を折りながら数え始める。
「体育祭で走って。」
「文化祭でバカ騒ぎして。」
「夏祭りで浴衣着て。」
「海にも行きたい。」
「花火も見たい。」
そして、少し照れくさそうに笑った。
「……好きな人とも思い出を作りたい。」
その一言に、胸が大きく高鳴る。
だけど私は聞けなかった。
その『好きな人』が誰なのか。
もし自分じゃなかったらと思うと、怖かったから。
「だからさ。」
怜は私の方を向く。
「結衣。」
「今年の夏、いっぱい遊ぼう。」
「思い出、たくさん作ろう。」
私は涙がこぼれそうになるのを必死でこらえた。
「……うん!」
「約束。」
そう言って、小指を差し出す。
怜も笑って、小指を絡めた。
「約束。」
小さな約束だった。
だけどその約束が、これからの二人にとって何より大切な宝物になることを、まだ誰も知らなかった。
その日の放課後。
校庭を歩いていると、怜が突然立ち止まる。
「……っ。」
苦しそうに胸を押さえ、呼吸が浅くなる。
「怜!」
私は慌てて支える。
「大丈夫……。」
そう言った瞬間、怜の体から力が抜け、そのまま私にもたれかかるように倒れ込んだ。
「怜っ!!」
私の叫び声が、夕暮れの校庭に響き渡った。
「怜っ!!」
私は必死に怜の身体を支えた。
ぐったりとした身体は思っていたより重く、呼吸は浅く乱れている。
「誰かっ! 先生を呼んでください!」
近くにいた生徒が職員室へ走っていく。
周りにはあっという間に人だかりができた。
「神崎くん!?」
「救急車!」
「早く!」
先生が駆け寄り、すぐに救急車を要請した。
私は怜の手を握ったまま、震えが止まらなかった。
「怜……お願い……。」
ゆっくりと閉じられた瞳。
かすかに上下する胸。
その姿を見るだけで涙があふれてくる。
「結衣……。」
小さく名前を呼ばれた。
「怜!」
薄く目を開けた怜は、苦しそうに笑った。
「……泣くな。」
「泣くよ……。だって……怖いよ……。」
私の声は震えていた。
怜は少しだけ力を込めて私の手を握る。
「大丈夫。……ごめんな。」
その言葉を最後に、再び意識を失ってしまった。
病院。
私は待合室で一人、椅子に座っていた。
制服の袖は涙で濡れている。
時計の秒針だけが、静かな廊下に響いていた。
一時間ほど経った頃。
「朝比奈さん。」
名前を呼ばれ、私は立ち上がる。
診察室には怜と、担当の医師がいた。
怜はベッドに座り、少し疲れたような笑顔を浮かべている。
「心配かけてごめん。」
私は何も言えず、首を横に振った。
医師は静かに話し始める。
「神崎くんは、生まれつき心臓に重い病気があります。ここ最近、心臓の機能が急激に低下しています。」
私は言葉を失った。
「薬で抑えられる段階ではなくなってきています。」
「え……。」
「手術という選択肢もあります。しかし⋯⋯」
医師は一度言葉を切った。
「非常に難しい手術です。」
「成功する可能性は、およそ五十パーセント。」
五十パーセント。
半分。
その数字が頭の中で何度も響く。
「失敗した場合は……命を落とす可能性があります。」
私は思わず口元を押さえた。
涙が止まらない。
怜は静かに笑っていた。
まるで、自分のことではないかのように。
診察室を出たあと、病院の屋上へ向かった。
夕焼けが街を赤く染めている。
「結衣。」
「……うん。」
「そんな顔するなよ。」
「無理だよ……。」
涙が止まらない。
「怜がいなくなるなんて、考えたくない……。」
怜は少しだけ困ったように笑う。
「俺も、まだ死にたくない。」
その一言で、私は顔を上げた。
「もっと笑いたい。」
「もっとみんなと過ごしたい。」
「もっと……結衣と一緒にいたい。」
風が二人の間を吹き抜ける。
私は涙をぬぐい、怜の前に立った。
「じゃあ約束しよう。」
「え?」
「絶対に諦めないこと。最後まで笑うこと。そして⋯⋯」
私は勇気を振り絞って言った。
「今年の夏を、一生忘れられない夏にしよう。」
怜は驚いたように目を見開いた。
そして、ゆっくりと笑う。
「……うん。」
「約束。」
二人は小指を絡めた。
夕日に照らされたその約束は、とても小さくて、とても大きな約束だった。
だけど、その時の私はまだ知らなかった。
この約束が、二人にとって最後の約束になるかもしれないことを⋯⋯。
待合室の時計の針だけが、静かに時を刻んでいた。
私は膝の上で握りしめた手を見つめる。
指先は冷たく、少し震えていた。
(お願い……。)
(何でもないって言って。)
(ただの検査だったって笑って。)
そう願い続けることしかできなかった。
やがて診察室の扉が開く。
白衣の医師と一緒に、怜が出てきた。
さっきと同じ笑顔。
だけど、その笑顔はどこか無理をしているように見えた。
「先生、ありがとうございました。」
頭を下げた怜は、私に気付くと苦笑した。
「……帰ろっか。」
その一言だけだった。
私は何も聞けずに頷く。
二人は病院を出て、近くの公園まで歩いた。
夕焼けに染まる空。
ブランコが風に揺れ、きぃ……きぃ……と小さな音を立てている。
怜はベンチに腰を下ろした。
「怒ってる?」
突然の言葉に、私は首を振る。
「怒ってない。」
「じゃあ、どうしてそんな顔してる?」
「……心配だから。」
その一言で、怜は静かに目を伏せた。
「ごめん。」
「ごめんじゃないよ。」
思わず声が震える。
「最近倒れそうになったり、病院に来たり……。全部、大丈夫って笑ってごまかして。」
涙が込み上げてくる。
「幼馴染なのに、何も知らないなんて嫌だよ……。」
怜は何も言わない。
ただ、夕焼けを見つめていた。
長い沈黙のあと、小さく息を吐く。
「……結衣。」
「うん。」
「俺さ。」
怜はゆっくりと笑った。
「生まれつき、心臓が弱いんだ。」
その言葉に、世界が止まった気がした。
「え……?」
「小さい頃から何度も入院してる。」
「そんな……。」
「小学生の頃は元気だっただろ?」
私は頷く。
「薬がよく効いてたんだ。」
怜は自分の胸にそっと手を当てる。
「でも、高校に入ってから少しずつ悪くなってきた。」
私の目から涙がこぼれる。
「嘘だよね……?」
「嘘だったら良かったんだけど。」
怜は困ったように笑う。
「体育で倒れそうになったのも、本当は体が限界だった。」
「どうして言ってくれなかったの!」
声が公園に響く。
「私、何も知らなくて……。」
「心配かけたくなかった。」
その言葉が、胸に突き刺さる。
「みんな、俺を普通の高校生として見てくれてる。」
「だから、そのままでいたかった。」
「かわいそうって思われたくなかった。」
私はもう我慢できなかった。
ベンチから立ち上がり、怜の前に立つ。
「そんなの、一人で抱え込まないでよ!」
「私は幼馴染なんだよ!」
「嬉しいことも、悲しいことも、一緒に分け合いたい!」
涙が止まらない。
怜は驚いたように私を見つめていた。
そして、ふっと優しく笑う。
「……ありがとう。」
その笑顔は、今まで見たどの笑顔よりも切なかった。
「でも、一つだけ約束して。」
「……約束?」
「このことは、誰にも言わないで。」
私は息をのむ。
「親友にも。」
「先生にも。」
「学校のみんなにも。」
「誰にも。」
「普通の高校生活を、最後まで送りたいんだ。」
"最後まで"
その言葉が、胸の奥で重く響いた。
「最後までって……どういう意味?」
怜は少しだけ空を見上げる。
夕焼けの向こうで、一羽の鳥が羽ばたいていく。
「……それは、まだ言えない。」
その横顔は、どこか覚悟を決めたように見えた。
私は何も言えず、ただ怜の隣に座った。
夕日が沈むまで、二人は何も話さなかった。
ただ、同じ空を見上げていた。
それが今の私たちにできる、精一杯の時間だった。
翌朝。
目覚まし時計が鳴る前に、私は目を覚ました。
昨夜はほとんど眠れなかった。
怜の言葉が何度も頭の中で繰り返される。
『生まれつき、心臓が弱いんだ。』
『誰にも言わないで。』
カーテンを開けると、眩しい朝日が部屋に差し込んだ。
こんなにいい天気なのに、私の心は重たいままだった。
学校へ向かう道。
いつもなら待ち合わせ場所で笑っている怜の姿が見えるはずなのに、今日はまだ来ていない。
少し不安になったその時だった。
「……おはよう。」
後ろから聞き慣れた声がした。
振り返ると、怜がゆっくり歩いてくる。
「お、おはよう!」
私はほっとして笑った。
でも、近くで見ると怜の顔色は少し悪かった。
「昨日、ちゃんと寝られた?」
私が尋ねると、怜は苦笑した。
「少しだけ。」
「私は全然寝られなかった。」
「……ごめん。」
「また謝る。」
私が少し頬を膨らませると、怜は困ったように笑った。
「じゃあ、『ありがとう』にしとく。」
「うん。その方がいい。」
二人で顔を見合わせて笑う。
その笑顔が少しだけ昔に戻れた気がして、私は胸をなで下ろした。
教室へ入ると、いつものように友達が話しかけてきた。
「結衣、おはよう!」
「神崎くんもおはよう!」
「おはよー!」
怜はいつも通り明るく返事をする。
昨日病院で見た、あの苦しそうな表情はどこにもない。
(演技……なんだ。)
そう思うと胸が痛んだ。
ずっと、一人でこんなふうに笑ってきたんだ。
昼休み。
私は屋上へ向かった。
そこにはフェンスにもたれかかりながら空を見上げる怜がいた。
「ここにいたんだ。」
「結衣。」
隣に立つと、爽やかな風が吹き抜ける。
「今日は雲が少ないな。」
「うん。」
しばらく無言の時間が流れる。
不思議と気まずくはなかった。
沈黙さえも心地いい。
「結衣。」
「ん?」
「俺さ。」
怜は青空を見つめたまま言った。
「あと何回、この景色を見られるんだろうって考える時がある。」
私は息をのんだ。
「そんなこと……言わないで。」
「ごめん。」
怜は少し笑った。
「でも、不思議なんだ。」
「怖くないの?」
私が聞くと、怜は首を横に振る。
「怖いよ。」
「すごく怖い。」
「でも、それ以上に後悔したくない。」
「後悔?」
「高校生らしいこと、全部やりたい。」
怜は指を折りながら数え始める。
「体育祭で走って。」
「文化祭でバカ騒ぎして。」
「夏祭りで浴衣着て。」
「海にも行きたい。」
「花火も見たい。」
そして、少し照れくさそうに笑った。
「……好きな人とも思い出を作りたい。」
その一言に、胸が大きく高鳴る。
だけど私は聞けなかった。
その『好きな人』が誰なのか。
もし自分じゃなかったらと思うと、怖かったから。
「だからさ。」
怜は私の方を向く。
「結衣。」
「今年の夏、いっぱい遊ぼう。」
「思い出、たくさん作ろう。」
私は涙がこぼれそうになるのを必死でこらえた。
「……うん!」
「約束。」
そう言って、小指を差し出す。
怜も笑って、小指を絡めた。
「約束。」
小さな約束だった。
だけどその約束が、これからの二人にとって何より大切な宝物になることを、まだ誰も知らなかった。
その日の放課後。
校庭を歩いていると、怜が突然立ち止まる。
「……っ。」
苦しそうに胸を押さえ、呼吸が浅くなる。
「怜!」
私は慌てて支える。
「大丈夫……。」
そう言った瞬間、怜の体から力が抜け、そのまま私にもたれかかるように倒れ込んだ。
「怜っ!!」
私の叫び声が、夕暮れの校庭に響き渡った。
「怜っ!!」
私は必死に怜の身体を支えた。
ぐったりとした身体は思っていたより重く、呼吸は浅く乱れている。
「誰かっ! 先生を呼んでください!」
近くにいた生徒が職員室へ走っていく。
周りにはあっという間に人だかりができた。
「神崎くん!?」
「救急車!」
「早く!」
先生が駆け寄り、すぐに救急車を要請した。
私は怜の手を握ったまま、震えが止まらなかった。
「怜……お願い……。」
ゆっくりと閉じられた瞳。
かすかに上下する胸。
その姿を見るだけで涙があふれてくる。
「結衣……。」
小さく名前を呼ばれた。
「怜!」
薄く目を開けた怜は、苦しそうに笑った。
「……泣くな。」
「泣くよ……。だって……怖いよ……。」
私の声は震えていた。
怜は少しだけ力を込めて私の手を握る。
「大丈夫。……ごめんな。」
その言葉を最後に、再び意識を失ってしまった。
病院。
私は待合室で一人、椅子に座っていた。
制服の袖は涙で濡れている。
時計の秒針だけが、静かな廊下に響いていた。
一時間ほど経った頃。
「朝比奈さん。」
名前を呼ばれ、私は立ち上がる。
診察室には怜と、担当の医師がいた。
怜はベッドに座り、少し疲れたような笑顔を浮かべている。
「心配かけてごめん。」
私は何も言えず、首を横に振った。
医師は静かに話し始める。
「神崎くんは、生まれつき心臓に重い病気があります。ここ最近、心臓の機能が急激に低下しています。」
私は言葉を失った。
「薬で抑えられる段階ではなくなってきています。」
「え……。」
「手術という選択肢もあります。しかし⋯⋯」
医師は一度言葉を切った。
「非常に難しい手術です。」
「成功する可能性は、およそ五十パーセント。」
五十パーセント。
半分。
その数字が頭の中で何度も響く。
「失敗した場合は……命を落とす可能性があります。」
私は思わず口元を押さえた。
涙が止まらない。
怜は静かに笑っていた。
まるで、自分のことではないかのように。
診察室を出たあと、病院の屋上へ向かった。
夕焼けが街を赤く染めている。
「結衣。」
「……うん。」
「そんな顔するなよ。」
「無理だよ……。」
涙が止まらない。
「怜がいなくなるなんて、考えたくない……。」
怜は少しだけ困ったように笑う。
「俺も、まだ死にたくない。」
その一言で、私は顔を上げた。
「もっと笑いたい。」
「もっとみんなと過ごしたい。」
「もっと……結衣と一緒にいたい。」
風が二人の間を吹き抜ける。
私は涙をぬぐい、怜の前に立った。
「じゃあ約束しよう。」
「え?」
「絶対に諦めないこと。最後まで笑うこと。そして⋯⋯」
私は勇気を振り絞って言った。
「今年の夏を、一生忘れられない夏にしよう。」
怜は驚いたように目を見開いた。
そして、ゆっくりと笑う。
「……うん。」
「約束。」
二人は小指を絡めた。
夕日に照らされたその約束は、とても小さくて、とても大きな約束だった。
だけど、その時の私はまだ知らなかった。
この約束が、二人にとって最後の約束になるかもしれないことを⋯⋯。

