ロビーに沈黙が落ちていた。
健太の手の中には、さっきまでなかった一枚の紙。
「次は、八人目が決まる。」
その一文だけが、妙に現実味を持って重かった。
「……八人目って。」
結衣がかすれた声を出す。
美咲はゆっくり周囲を見回した。
一人。
二人。
三人。
四人。
五人。
六人。
七人。
そこで止まる。
(七人……?)
もう一度数える。
健太。
美咲。
奈々。
結衣。
高橋。
修一。
真理子。
「……八人いる。」
美咲の喉がひゅっと鳴った。
⸻
数え直す恐怖
「今、数えた?」
健太が静かに言う。
「え……」
「もう一回だ。」
健太の声は冷静だったが、わずかに緊張が混じっている。
美咲は深呼吸して、もう一度数える。
健太。
美咲。
奈々。
結衣。
高橋。
修一。
真理子。
そして――
「……あれ?」
「一人多い。」
奈々が顔を青くする。
「さっきと違う……」
修一が立ち上がる。
「何を言ってるんだ!」
「全員ここにいるだろ!」
しかし、その声すらどこか震えていた。
⸻
“増えた”のではない
健太がゆっくり言った。
「違う。」
全員が健太を見る。
「増えたんじゃない。」
「“数え方が揺らいでる”。」
美咲は息を呑む。
「どういうこと?」
健太はロビーの中央に立った。
「俺たちは今、“同じ存在を別の基準で数えている”。」
「名前じゃない。」
「役割でもない。」
「“記録上の存在”で数えられてる。」
真理子が小さく後ずさる。
「そんなの……ありえない。」
健太は続ける。
「でも、実際に起きてる。」
⸻
もう一つの時計
そのとき、美咲の視線が柱時計に止まった。
針は午後十時のまま。
しかし――
音がした。
カチ……カチ……。
動いている。
「え?」
結衣が息をのむ。
「さっき止まってたよね?」
高橋が近づく。
「動いています。」
修一が首を振る。
「壊れてるんじゃなかったのか?」
健太は時計をじっと見た。
そして裏側を確認する。
「ワイヤーが外れてる。」
「え?」
「さっきの仕掛けはもう使えないはずだ。」
美咲はぞくりとする。
「じゃあ、なんで……」
健太は静かに言った。
「この時計、誰かが“手で動かしてる”。」
⸻
記録が人を動かす
その瞬間、高橋が低い声で言った。
「違います。」
全員が振り向く。
「動かしているのは時計じゃない。」
「記録です。」
美咲は理解できない顔をする。
「記録……?」
高橋はゆっくり続けた。
「もし“八人いる”と記録されれば八人になる。」
「七人なら七人。」
「九人なら九人。」
健太が目を細める。
「つまり……」
高橋は頷いた。
「ここでは“記録が現実を上書きしている”。」
⸻
最初の犠牲
その瞬間。
廊下の奥から物音がした。
ドン。
誰かが倒れる音。
全員が同時に振り向く。
「誰だ!」
健太が走る。
廊下の先。
そこには――
誰もいない。
しかし床にだけ、濡れた足跡が一列続いている。
そしてその足跡は途中で途切れていた。
まるでそこから先が「存在しない」かのように。
美咲は震える声で言う。
「ねえ……」
「“八人目”って……」
健太が静かに答える。
「人数じゃない。」
「状態だ。」
「状態?」
「この宿では、“八人目にされた瞬間”に何かが起きる。」
真理子が青ざめる。
「それは……消えるってこと?」
健太は首を振る。
「もっと厄介だ。」
「“存在の扱いが変わる”んだ。」
そのときだった。
ロビーの電話が、もう一度鳴った。
リーン……。
全員が凍りつく。
しかし今度は誰も取らない。
健太が電話を見つめる。
そして言った。
「出るな。」
「それはもう電話じゃない。」
「“確認装置”だ。」
美咲は息を呑む。
「確認?」
健太は頷く。
「今ここに“何人いるか”を確かめてる。」
⸻
その瞬間。
電話が止まった。
そして、どこからともなく声がした。
『……八人、確認。』
ロビーに冷たい静寂が落ちる。
誰も動けない。
健太だけが低く言った。
「まずいな。」
「もう“決まった”。」
美咲が震える。
「何が……?」
健太は答えた。
「次に消される“八人目”が。」
⸻
そしてロビーの隅で、
誰も見ていないはずの場所に、
もう一つの足音が静かに立っていた。
「次に消される“八人目”が決まった。」
健太の言葉が落ちた瞬間、ロビーの空気が一段冷えた気がした。
美咲は無意識に周囲を見回す。
健太。美咲。奈々。結衣。高橋。修一。真理子。
……七人。
(さっきと同じ)
でも“同じ”という感覚がもう信用できない。
⸻
ずれた視線
高橋が静かに言った。
「今、全員で互いを確認してください。」
「名前を呼び合うんだ。」
健太が頷く。
「俺からいく。」
「健太。」
「美咲。」
「奈々。」
「結衣。」
順に確認していく。
誰も異論を挟まない。
次に高橋。
修一。
真理子。
ここまでは問題ないように見えた。
だが、美咲の中で何かが引っかかる。
(“一人足りない”んじゃない)
(“誰かがずっと曖昧だ”)
⸻
影の違和感
そのとき、結衣が小さく声を上げた。
「ねえ……さっきから思ってたんだけど。」
全員が振り向く。
「廊下の鏡に、もう一人いる気がする」
「え?」
ロビーの奥の古い姿見。
そこに全員が映っている。
……はずだった。
美咲は目を凝らす。
映っている。
健太。自分。奈々。結衣。高橋。修一。真理子。
七人。
問題ない。
しかし――
「一人、動きがズレてる。」
健太が低く言った。
⸻
“八人目の影”
映像の中。
全員は同じタイミングで呼吸している。
だが一人だけ、
わずかに遅れている影があった。
健太が目を細める。
「真理子さん。」
真理子が一瞬固まる。
「……え?」
「あなた、鏡の中でだけ“遅れてる”。」
ロビーが静まり返る。
真理子は何も言わない。
いや、言えないように見えた。
⸻
崩れ始める記録
高橋が小さくつぶやく。
「記録が揺れている。」
健太が続ける。
「“八人目”ってのは人じゃない。」
「ズレだ。」
「記録と現実のズレ。」
美咲の背筋が冷える。
「じゃあ今……」
健太は短く言った。
「誰かが“ズレの中心”にいる。」
⸻
決定
その瞬間。
ロビーの電話が鳴った。
リーン。
一度だけ。
そして止まる。
健太は受話器を取らない。
代わりに言った。
「出なくていい。」
「もう確認は終わった。」
美咲が息を呑む。
「何が終わったの?」
健太は真理子を見た。
そして静かに言った。
「八人目が決まった。」
真理子が一歩後ずさる。
「違う……私は……」
その瞬間。
柱時計が――
カチ、と動いた。
午後十時から、わずかにずれた。
午後十時一分。
⸻
健太は低く言う。
「“ズレた人間”が八人目になる。」
ロビーに沈黙。
そして真理子の影だけが、
ほんの少しだけ遅れて床に落ちていた。
「真理子さんが八人目になる。」
健太の言葉が落ちた瞬間、ロビーの空気が固まった。
真理子は一歩後ずさる。
「違う……私はずれてなんか……」
声が震えている。
美咲は真理子を見ていたが、同時に“違和感の正体”に気づきかけていた。
(ずれているのは……人じゃない?)
⸻
鏡と現実の差
健太がゆっくり言う。
「もう一回、確認する。」
全員の名前を指でなぞる。
健太。美咲。奈々。結衣。高橋。修一。真理子。
「七人いる。」
「でもさっきからずっと、“一人分だけ揺れてる”。」
高橋が小さく頷く。
「記録が安定していないんです。」
「誰かが、固定されていない。」
⸻
崩れる影
美咲はふと床を見た。
七つの影。
しかし――
そのうち一つだけ、輪郭がぼやけている。
「……あれ。」
結衣も気づく。
「影が……遅れてる。」
健太が短く言った。
「影は嘘をつかない。」
その一言で、ロビーの空気がさらに冷える。
⸻
“八人目”の正体
高橋が静かに言う。
「八人目は人ではありません。」
全員が振り向く。
「じゃあ何なんだよ!」
修一の声が少し荒くなる。
高橋は続けた。
「“ずれた記録の位置”です。」
「この宿では、記録と現実が一致しないとき、その差分が“八人目”として扱われる。」
健太が目を細める。
「つまり……」
「誰かが消えたんじゃない。」
「“誰かの記録が一人分ズレている”だけ。」
⸻
決定的な一瞬
そのとき。
真理子がふらついた。
「私は……ただ……」
その瞬間。
柱時計が鳴る。
ゴーン。
午後十時。
だが時計はもう少しずれている。
午後十時三分。
健太が呟く。
「ズレが広がってる。」
美咲の背筋が冷える。
(じゃあ、このままいくと……)
⸻
侵食
ロビーの電気が一瞬だけ点滅する。
その瞬間――
真理子の姿が、ほんの一瞬だけ二重に見えた。
「……!」
美咲は息をのむ。
次の瞬間には元に戻っている。
しかし健太は確信したように言った。
「もう始まってる。」
「八人目の“確定プロセス”だ。」
⸻
選ばれるということ
高橋が低い声で言う。
「一度ズレが固定されると、それは修正できません。」
「ではどうなるんですか?」
奈々の問いに、高橋は一瞬だけ沈黙し、
そして答えた。
「“その人の記録が、他の誰かと入れ替わる”。」
ロビーが凍りつく。
健太が言う。
「つまり……存在のすり替えか。」
高橋はうなずいた。
⸻
崩壊の前触れ
そのとき、玄関のガラスが小さく鳴った。
カン……。
全員が振り向く。
外には誰もいない。
しかし、霧の向こうに“人影の輪郭”だけが立っていた。
健太が小さく言う。
「来たな。」
美咲が聞く。
「誰が?」
健太は答えない。
ただ一言。
「八人目が、完成する。」
⸻
そして次の瞬間、
真理子の影が床から消えた。
「影が……消えた。」
美咲の声はかすれていた。
さっきまで床にあった真理子の影が、跡形もなく消えている。
真理子自身はそこに立っているのに、何かだけが欠けていた。
⸻
健太の確信
健太が一歩前に出る。
「始まった。」
高橋が短く息を吐く。
「すり替えです。」
修一が顔を上げる。
「何と何が……?」
健太は真理子を見たまま言った。
「“真理子”と、“別の誰か”だ。」
「別の誰かって誰だよ!」
結衣の声が震える。
健太は答えない。
ただロビーの奥を見ていた。
⸻
名前のズレ
高橋が宿泊名簿を開く。
「確認してください。」
全員の名前を指でなぞる。
健太、美咲、奈々、結衣、高橋、修一。
そして――真理子。
「六人+一人。」
健太が小さく言う。
「でも今、“一人分の情報が揺れてる”。」
美咲は息を呑む。
「揺れてるって……何が?」
健太は真理子を指さす。
「その人の“位置情報”だ。」
⸻
すり替えの兆候
その瞬間。
真理子がふらついた。
「……私は……ここに……」
言葉が途中で途切れる。
美咲には、真理子の輪郭が一瞬だけ薄くなったように見えた。
「今の……」
奈々が青ざめる。
「見えた?」
高橋が静かに頷く。
「存在が“更新されている”途中です。」
⸻
誰が上書きされるのか
健太が低く言う。
「問題は一つだけだ。」
「誰が消える?」
ロビーに重い沈黙が落ちる。
修一が震える声で言う。
「真理子じゃない……よな?」
健太は答えない。
代わりに視線を床へ落とす。
そこには、七つあったはずの影が――
一つだけ増えかけていた。
⸻
増える影
美咲は息を呑む。
「……増えてる。」
影が七つから八つへと、じわじわと伸びている。
だが、その八つ目ははっきりしない。
輪郭がない。
ただ“そこに何かがある気配”だけ。
健太が言う。
「これが八人目だ。」
高橋が続ける。
「まだ“固定されていない存在”です。」
⸻
固定の条件
美咲が問う。
「どうすれば止まるの?」
健太は短く答えた。
「記録を確定させる必要がある。」
「記録……?」
「この宿のどこかにある“最終記録”。」
高橋がうなずく。
「それを書き換えられた瞬間、すり替えが確定します。」
修一が顔を歪める。
「そんなの……止められないじゃないか!」
健太は静かに言った。
「だから探す。」
⸻
レインコートの再登場
そのとき。
玄関の外で音がした。
コツ。
一歩。
全員が振り向く。
霧の向こうに、あのレインコートが立っている。
今度は動かない。
ただ扉の前で待っている。
そしてゆっくりと、紙を掲げた。
そこには短く書かれていた。
「最終記録は地下3-C」
健太が目を細める。
「誘導してるな。」
美咲が聞く。
「敵なの?」
健太は少しだけ間を置いて言った。
「敵かどうかはまだ分からない。」
「でも少なくとも――」
「“この仕組みを知ってる側”だ。」
⸻
決断
健太が扉へ向かう。
「行くぞ。」
美咲が続く。
結衣、奈々、高橋、修一、真理子。
全員が動き出す。
そのとき――
真理子の声が小さく響いた。
「ねえ……私、本当にここにいていいの?」
健太は振り返らずに答える。
「それを決めるのは“記録”じゃない。」
「俺たちだ。」
⸻
霧の向こうへ、一行は歩き出す。
そしてロビーの電気が一瞬だけ消えたとき、
そこに“八人目の影”が完全に固定されかけていた。
霧の中、ペンション裏の階段が続いていた。
木の手すりは腐りかけていて、踏むたびに軋む。
「ここ……前に来たときはなかった。」
美咲が呟くと、健太が短く返す。
「“今できた”んだろ。」
「え?」
「記録が変わると、構造も変わる。」
誰も意味をすぐには理解できなかった。
⸻
増えていく違和感
階段を降りるたびに、空気が重くなる。
真理子の足取りが少し遅れている。
その“遅れ”は、さっきより明確だった。
結衣が小さく言う。
「ねえ……真理子さん、さっきから呼吸ずれてない?」
真理子は答えない。
代わりに健太が言った。
「もう“同期してない”。」
高橋が壁を照らす。
そこには古いプレートがあった。
3-C 管理記録室
錆びているが、確かに残っている。
⸻
最終記録
扉は開いていた。
中は異様に整っていた。
棚には古いファイルがびっしり並び、中央に一冊だけ黒い台帳が置かれている。
健太がそれを手に取る。
表紙にはこう書かれていた。
「最終宿泊記録」
ページを開いた瞬間、
美咲の息が止まった。
⸻
そこには“現在の全員の名前”があった。
健太、美咲、奈々、結衣、高橋、修一、真理子。
そして――
空白が一つ。
⸻
空白の意味
健太が静かに言う。
「これが“八人目の枠”だ。」
美咲が震える。
「じゃあ……ここに名前を書かれたら?」
高橋が答える。
「その人が“八人目として固定される”。」
修一が顔を歪める。
「やめろ……そんなの……!」
そのときだった。
背後で音がした。
ページが一枚、勝手にめくれる。
そこに新しい文字が浮かび上がる。
⸻
書き換え
「八人目:真理子」
真理子が息をのむ。
「違う……私は……!」
しかし、その声は途中で途切れた。
影が一瞬だけ二重になる。
健太が叫ぶ。
「閉じろ!」
だが遅い。
⸻
すり替えの完成
空白が消える。
真理子の名前が“固定される”。
同時に、ロビーにいた“もう一人の存在”が揺らぎ始める。
美咲は気づく。
「……誰かが減ってる。」
結衣が震える。
「え、誰?」
健太は低く言った。
「まだ分からない。」
「でも確実に、“一人ずつズレてる”。」
⸻
レインコートの真意
その瞬間、奥の暗闇から声がした。
『ようやくここまで来たか。』
全員が振り向く。
レインコートの人物が立っている。
今度は逃げない。
フードを少しだけ上げる。
健太が息を呑む。
「お前……」
レインコートは静かに言った。
『八人目は“選ばれる”ものじゃない。』
『“作られる”ものだ。』
⸻
そして一歩近づく。
『そして今、完成した。』
健太の手の中には、さっきまでなかった一枚の紙。
「次は、八人目が決まる。」
その一文だけが、妙に現実味を持って重かった。
「……八人目って。」
結衣がかすれた声を出す。
美咲はゆっくり周囲を見回した。
一人。
二人。
三人。
四人。
五人。
六人。
七人。
そこで止まる。
(七人……?)
もう一度数える。
健太。
美咲。
奈々。
結衣。
高橋。
修一。
真理子。
「……八人いる。」
美咲の喉がひゅっと鳴った。
⸻
数え直す恐怖
「今、数えた?」
健太が静かに言う。
「え……」
「もう一回だ。」
健太の声は冷静だったが、わずかに緊張が混じっている。
美咲は深呼吸して、もう一度数える。
健太。
美咲。
奈々。
結衣。
高橋。
修一。
真理子。
そして――
「……あれ?」
「一人多い。」
奈々が顔を青くする。
「さっきと違う……」
修一が立ち上がる。
「何を言ってるんだ!」
「全員ここにいるだろ!」
しかし、その声すらどこか震えていた。
⸻
“増えた”のではない
健太がゆっくり言った。
「違う。」
全員が健太を見る。
「増えたんじゃない。」
「“数え方が揺らいでる”。」
美咲は息を呑む。
「どういうこと?」
健太はロビーの中央に立った。
「俺たちは今、“同じ存在を別の基準で数えている”。」
「名前じゃない。」
「役割でもない。」
「“記録上の存在”で数えられてる。」
真理子が小さく後ずさる。
「そんなの……ありえない。」
健太は続ける。
「でも、実際に起きてる。」
⸻
もう一つの時計
そのとき、美咲の視線が柱時計に止まった。
針は午後十時のまま。
しかし――
音がした。
カチ……カチ……。
動いている。
「え?」
結衣が息をのむ。
「さっき止まってたよね?」
高橋が近づく。
「動いています。」
修一が首を振る。
「壊れてるんじゃなかったのか?」
健太は時計をじっと見た。
そして裏側を確認する。
「ワイヤーが外れてる。」
「え?」
「さっきの仕掛けはもう使えないはずだ。」
美咲はぞくりとする。
「じゃあ、なんで……」
健太は静かに言った。
「この時計、誰かが“手で動かしてる”。」
⸻
記録が人を動かす
その瞬間、高橋が低い声で言った。
「違います。」
全員が振り向く。
「動かしているのは時計じゃない。」
「記録です。」
美咲は理解できない顔をする。
「記録……?」
高橋はゆっくり続けた。
「もし“八人いる”と記録されれば八人になる。」
「七人なら七人。」
「九人なら九人。」
健太が目を細める。
「つまり……」
高橋は頷いた。
「ここでは“記録が現実を上書きしている”。」
⸻
最初の犠牲
その瞬間。
廊下の奥から物音がした。
ドン。
誰かが倒れる音。
全員が同時に振り向く。
「誰だ!」
健太が走る。
廊下の先。
そこには――
誰もいない。
しかし床にだけ、濡れた足跡が一列続いている。
そしてその足跡は途中で途切れていた。
まるでそこから先が「存在しない」かのように。
美咲は震える声で言う。
「ねえ……」
「“八人目”って……」
健太が静かに答える。
「人数じゃない。」
「状態だ。」
「状態?」
「この宿では、“八人目にされた瞬間”に何かが起きる。」
真理子が青ざめる。
「それは……消えるってこと?」
健太は首を振る。
「もっと厄介だ。」
「“存在の扱いが変わる”んだ。」
そのときだった。
ロビーの電話が、もう一度鳴った。
リーン……。
全員が凍りつく。
しかし今度は誰も取らない。
健太が電話を見つめる。
そして言った。
「出るな。」
「それはもう電話じゃない。」
「“確認装置”だ。」
美咲は息を呑む。
「確認?」
健太は頷く。
「今ここに“何人いるか”を確かめてる。」
⸻
その瞬間。
電話が止まった。
そして、どこからともなく声がした。
『……八人、確認。』
ロビーに冷たい静寂が落ちる。
誰も動けない。
健太だけが低く言った。
「まずいな。」
「もう“決まった”。」
美咲が震える。
「何が……?」
健太は答えた。
「次に消される“八人目”が。」
⸻
そしてロビーの隅で、
誰も見ていないはずの場所に、
もう一つの足音が静かに立っていた。
「次に消される“八人目”が決まった。」
健太の言葉が落ちた瞬間、ロビーの空気が一段冷えた気がした。
美咲は無意識に周囲を見回す。
健太。美咲。奈々。結衣。高橋。修一。真理子。
……七人。
(さっきと同じ)
でも“同じ”という感覚がもう信用できない。
⸻
ずれた視線
高橋が静かに言った。
「今、全員で互いを確認してください。」
「名前を呼び合うんだ。」
健太が頷く。
「俺からいく。」
「健太。」
「美咲。」
「奈々。」
「結衣。」
順に確認していく。
誰も異論を挟まない。
次に高橋。
修一。
真理子。
ここまでは問題ないように見えた。
だが、美咲の中で何かが引っかかる。
(“一人足りない”んじゃない)
(“誰かがずっと曖昧だ”)
⸻
影の違和感
そのとき、結衣が小さく声を上げた。
「ねえ……さっきから思ってたんだけど。」
全員が振り向く。
「廊下の鏡に、もう一人いる気がする」
「え?」
ロビーの奥の古い姿見。
そこに全員が映っている。
……はずだった。
美咲は目を凝らす。
映っている。
健太。自分。奈々。結衣。高橋。修一。真理子。
七人。
問題ない。
しかし――
「一人、動きがズレてる。」
健太が低く言った。
⸻
“八人目の影”
映像の中。
全員は同じタイミングで呼吸している。
だが一人だけ、
わずかに遅れている影があった。
健太が目を細める。
「真理子さん。」
真理子が一瞬固まる。
「……え?」
「あなた、鏡の中でだけ“遅れてる”。」
ロビーが静まり返る。
真理子は何も言わない。
いや、言えないように見えた。
⸻
崩れ始める記録
高橋が小さくつぶやく。
「記録が揺れている。」
健太が続ける。
「“八人目”ってのは人じゃない。」
「ズレだ。」
「記録と現実のズレ。」
美咲の背筋が冷える。
「じゃあ今……」
健太は短く言った。
「誰かが“ズレの中心”にいる。」
⸻
決定
その瞬間。
ロビーの電話が鳴った。
リーン。
一度だけ。
そして止まる。
健太は受話器を取らない。
代わりに言った。
「出なくていい。」
「もう確認は終わった。」
美咲が息を呑む。
「何が終わったの?」
健太は真理子を見た。
そして静かに言った。
「八人目が決まった。」
真理子が一歩後ずさる。
「違う……私は……」
その瞬間。
柱時計が――
カチ、と動いた。
午後十時から、わずかにずれた。
午後十時一分。
⸻
健太は低く言う。
「“ズレた人間”が八人目になる。」
ロビーに沈黙。
そして真理子の影だけが、
ほんの少しだけ遅れて床に落ちていた。
「真理子さんが八人目になる。」
健太の言葉が落ちた瞬間、ロビーの空気が固まった。
真理子は一歩後ずさる。
「違う……私はずれてなんか……」
声が震えている。
美咲は真理子を見ていたが、同時に“違和感の正体”に気づきかけていた。
(ずれているのは……人じゃない?)
⸻
鏡と現実の差
健太がゆっくり言う。
「もう一回、確認する。」
全員の名前を指でなぞる。
健太。美咲。奈々。結衣。高橋。修一。真理子。
「七人いる。」
「でもさっきからずっと、“一人分だけ揺れてる”。」
高橋が小さく頷く。
「記録が安定していないんです。」
「誰かが、固定されていない。」
⸻
崩れる影
美咲はふと床を見た。
七つの影。
しかし――
そのうち一つだけ、輪郭がぼやけている。
「……あれ。」
結衣も気づく。
「影が……遅れてる。」
健太が短く言った。
「影は嘘をつかない。」
その一言で、ロビーの空気がさらに冷える。
⸻
“八人目”の正体
高橋が静かに言う。
「八人目は人ではありません。」
全員が振り向く。
「じゃあ何なんだよ!」
修一の声が少し荒くなる。
高橋は続けた。
「“ずれた記録の位置”です。」
「この宿では、記録と現実が一致しないとき、その差分が“八人目”として扱われる。」
健太が目を細める。
「つまり……」
「誰かが消えたんじゃない。」
「“誰かの記録が一人分ズレている”だけ。」
⸻
決定的な一瞬
そのとき。
真理子がふらついた。
「私は……ただ……」
その瞬間。
柱時計が鳴る。
ゴーン。
午後十時。
だが時計はもう少しずれている。
午後十時三分。
健太が呟く。
「ズレが広がってる。」
美咲の背筋が冷える。
(じゃあ、このままいくと……)
⸻
侵食
ロビーの電気が一瞬だけ点滅する。
その瞬間――
真理子の姿が、ほんの一瞬だけ二重に見えた。
「……!」
美咲は息をのむ。
次の瞬間には元に戻っている。
しかし健太は確信したように言った。
「もう始まってる。」
「八人目の“確定プロセス”だ。」
⸻
選ばれるということ
高橋が低い声で言う。
「一度ズレが固定されると、それは修正できません。」
「ではどうなるんですか?」
奈々の問いに、高橋は一瞬だけ沈黙し、
そして答えた。
「“その人の記録が、他の誰かと入れ替わる”。」
ロビーが凍りつく。
健太が言う。
「つまり……存在のすり替えか。」
高橋はうなずいた。
⸻
崩壊の前触れ
そのとき、玄関のガラスが小さく鳴った。
カン……。
全員が振り向く。
外には誰もいない。
しかし、霧の向こうに“人影の輪郭”だけが立っていた。
健太が小さく言う。
「来たな。」
美咲が聞く。
「誰が?」
健太は答えない。
ただ一言。
「八人目が、完成する。」
⸻
そして次の瞬間、
真理子の影が床から消えた。
「影が……消えた。」
美咲の声はかすれていた。
さっきまで床にあった真理子の影が、跡形もなく消えている。
真理子自身はそこに立っているのに、何かだけが欠けていた。
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健太の確信
健太が一歩前に出る。
「始まった。」
高橋が短く息を吐く。
「すり替えです。」
修一が顔を上げる。
「何と何が……?」
健太は真理子を見たまま言った。
「“真理子”と、“別の誰か”だ。」
「別の誰かって誰だよ!」
結衣の声が震える。
健太は答えない。
ただロビーの奥を見ていた。
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名前のズレ
高橋が宿泊名簿を開く。
「確認してください。」
全員の名前を指でなぞる。
健太、美咲、奈々、結衣、高橋、修一。
そして――真理子。
「六人+一人。」
健太が小さく言う。
「でも今、“一人分の情報が揺れてる”。」
美咲は息を呑む。
「揺れてるって……何が?」
健太は真理子を指さす。
「その人の“位置情報”だ。」
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すり替えの兆候
その瞬間。
真理子がふらついた。
「……私は……ここに……」
言葉が途中で途切れる。
美咲には、真理子の輪郭が一瞬だけ薄くなったように見えた。
「今の……」
奈々が青ざめる。
「見えた?」
高橋が静かに頷く。
「存在が“更新されている”途中です。」
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誰が上書きされるのか
健太が低く言う。
「問題は一つだけだ。」
「誰が消える?」
ロビーに重い沈黙が落ちる。
修一が震える声で言う。
「真理子じゃない……よな?」
健太は答えない。
代わりに視線を床へ落とす。
そこには、七つあったはずの影が――
一つだけ増えかけていた。
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増える影
美咲は息を呑む。
「……増えてる。」
影が七つから八つへと、じわじわと伸びている。
だが、その八つ目ははっきりしない。
輪郭がない。
ただ“そこに何かがある気配”だけ。
健太が言う。
「これが八人目だ。」
高橋が続ける。
「まだ“固定されていない存在”です。」
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固定の条件
美咲が問う。
「どうすれば止まるの?」
健太は短く答えた。
「記録を確定させる必要がある。」
「記録……?」
「この宿のどこかにある“最終記録”。」
高橋がうなずく。
「それを書き換えられた瞬間、すり替えが確定します。」
修一が顔を歪める。
「そんなの……止められないじゃないか!」
健太は静かに言った。
「だから探す。」
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レインコートの再登場
そのとき。
玄関の外で音がした。
コツ。
一歩。
全員が振り向く。
霧の向こうに、あのレインコートが立っている。
今度は動かない。
ただ扉の前で待っている。
そしてゆっくりと、紙を掲げた。
そこには短く書かれていた。
「最終記録は地下3-C」
健太が目を細める。
「誘導してるな。」
美咲が聞く。
「敵なの?」
健太は少しだけ間を置いて言った。
「敵かどうかはまだ分からない。」
「でも少なくとも――」
「“この仕組みを知ってる側”だ。」
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決断
健太が扉へ向かう。
「行くぞ。」
美咲が続く。
結衣、奈々、高橋、修一、真理子。
全員が動き出す。
そのとき――
真理子の声が小さく響いた。
「ねえ……私、本当にここにいていいの?」
健太は振り返らずに答える。
「それを決めるのは“記録”じゃない。」
「俺たちだ。」
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霧の向こうへ、一行は歩き出す。
そしてロビーの電気が一瞬だけ消えたとき、
そこに“八人目の影”が完全に固定されかけていた。
霧の中、ペンション裏の階段が続いていた。
木の手すりは腐りかけていて、踏むたびに軋む。
「ここ……前に来たときはなかった。」
美咲が呟くと、健太が短く返す。
「“今できた”んだろ。」
「え?」
「記録が変わると、構造も変わる。」
誰も意味をすぐには理解できなかった。
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増えていく違和感
階段を降りるたびに、空気が重くなる。
真理子の足取りが少し遅れている。
その“遅れ”は、さっきより明確だった。
結衣が小さく言う。
「ねえ……真理子さん、さっきから呼吸ずれてない?」
真理子は答えない。
代わりに健太が言った。
「もう“同期してない”。」
高橋が壁を照らす。
そこには古いプレートがあった。
3-C 管理記録室
錆びているが、確かに残っている。
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最終記録
扉は開いていた。
中は異様に整っていた。
棚には古いファイルがびっしり並び、中央に一冊だけ黒い台帳が置かれている。
健太がそれを手に取る。
表紙にはこう書かれていた。
「最終宿泊記録」
ページを開いた瞬間、
美咲の息が止まった。
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そこには“現在の全員の名前”があった。
健太、美咲、奈々、結衣、高橋、修一、真理子。
そして――
空白が一つ。
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空白の意味
健太が静かに言う。
「これが“八人目の枠”だ。」
美咲が震える。
「じゃあ……ここに名前を書かれたら?」
高橋が答える。
「その人が“八人目として固定される”。」
修一が顔を歪める。
「やめろ……そんなの……!」
そのときだった。
背後で音がした。
ページが一枚、勝手にめくれる。
そこに新しい文字が浮かび上がる。
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書き換え
「八人目:真理子」
真理子が息をのむ。
「違う……私は……!」
しかし、その声は途中で途切れた。
影が一瞬だけ二重になる。
健太が叫ぶ。
「閉じろ!」
だが遅い。
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すり替えの完成
空白が消える。
真理子の名前が“固定される”。
同時に、ロビーにいた“もう一人の存在”が揺らぎ始める。
美咲は気づく。
「……誰かが減ってる。」
結衣が震える。
「え、誰?」
健太は低く言った。
「まだ分からない。」
「でも確実に、“一人ずつズレてる”。」
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レインコートの真意
その瞬間、奥の暗闇から声がした。
『ようやくここまで来たか。』
全員が振り向く。
レインコートの人物が立っている。
今度は逃げない。
フードを少しだけ上げる。
健太が息を呑む。
「お前……」
レインコートは静かに言った。
『八人目は“選ばれる”ものじゃない。』
『“作られる”ものだ。』
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そして一歩近づく。
『そして今、完成した。』



