地下通路に静寂が戻った。
レインコート姿の人物は、美咲たちの前から姿を消していた。
残されたのは、湿った土の匂いと、遠ざかる足音だけだった。
健太はしばらく通路の奥を見つめていたが、やがて静かに息を吐いた。
「追わない。」
「え?」
美咲が思わず聞き返す。
「今追えば、向こうの思うつぼだ。」
健太は懐中電灯を床へ向けた。
赤い泥の足跡。
その横には、もう一種類の靴跡があった。
「……違う。」
奈々がしゃがみ込む。
「何が?」
「この足跡。」
奈々は指先で泥をなぞる。
「大きさが違う。」
健太もしゃがみ込んだ。
確かに二種類ある。
一つは登山靴。
もう一つは、底が平らな革靴だった。
「少なくとも二人。」
健太は低く言った。
「レインコートの人物だけじゃない。」
美咲の背筋が冷たくなる。
「じゃあ、もう一人が黒幕?」
「まだ分からない。」
健太は首を横に振る。
「でも、一つだけ確かなことがある。」
「何?」
「レインコートの人物は、わざと俺たちの前に姿を見せている。」
「わざと?」
「追わせるためだ。」
⸻
奇妙な時刻
地下から戻った美咲たちは、まだ夜が明けないうちにロビーへ集まった。
修一は頭に包帯を巻き、椅子に座っている。
高橋も地下から姿を現し、これまでの経緯を簡単に説明した。
「僕は二十年前の事故を調べていました。」
静かな声だった。
「大学時代の恩師から、このペンションについて相談を受けたんです。」
「相談?」
結衣が尋ねる。
「二十年前の事故には、不自然な点が多すぎる、と。」
高橋はテーブルに一冊の手帳を置いた。
中には、びっしりと時刻や出来事が書き込まれている。
美咲はページをめくった。
『午後九時五十五分 消灯』
『午後十時 柱時計』
『午後十時一分 足音』
その記録を見て、健太の目が止まる。
「午後十時……。」
「どうした?」
「美咲。」
「うん?」
「第一夜も第二夜も、足音は必ず十時過ぎだったよな。」
「そうだけど。」
「誰か、時計を見たか?」
美咲は考え込む。
柱時計の鐘を聞き、それから足音が始まる。
だが、自分の腕時計やスマートフォンで時刻を確認した記憶はない。
「……見てない。」
「俺もだ。」
高橋が静かに言った。
「柱時計は、本当に十時を指していたのでしょうか。」
その一言で、全員が顔を見合わせた。
⸻
止まった時計
健太はロビーの柱時計へ近づいた。
振り子は止まっている。
針は今も、
午後十時を指したままだ。
「昨日から動いていない。」
修一が言う。
「壊れたんだ。」
「違います。」
高橋が首を振った。
「壊れたなら、毎晩十時に鐘は鳴りません。」
「……!」
美咲は息をのむ。
確かにそうだ。
時計は十時で止まっているのに、毎晩十時になると鐘だけが鳴る。
「誰かが鳴らしている?」
奈々がつぶやく。
「機械式なら、外から細工できる可能性があります。」
健太は時計の裏側を調べ始めた。
脚立に上がり、背面の木板を外す。
すると中から一本の細いワイヤーが伸びていた。
「これだ。」
ワイヤーは壁の中へ続いている。
「誰かが別の場所から鐘だけを鳴らせる。」
美咲は思い出した。
第一夜。
鐘が鳴った直後に足音が始まった。
つまり――
犯人は鐘を合図にして行動していた。
「時計が十時だから足音が始まるんじゃない。」
健太が静かに言う。
「足音を始めるために、鐘を鳴らしていたんだ。」
⸻
最初の嘘
その時だった。
高橋が宿泊名簿を開いた。
「皆さん、これを見てください。」
全員が集まる。
宿泊者名簿には、美咲たち四人、高橋、藤崎、坂本の名前が並んでいる。
「ここです。」
高橋が指差した。
宿泊日。
その欄だけ、インクの色が違っていた。
「書き足されてる……。」
美咲がつぶやく。
「つまり、この宿泊名簿はあとから書き換えられている。」
「誰が?」
高橋は首を振る。
「まだ分かりません。」
「でも、一人だけ確かなことがあります。」
ページの端をめくる。
そこには消しゴムで消された跡があった。
健太はライトを斜めから当てる。
浮かび上がった文字を見て、目を見開く。
「……一人、名前が消されてる。」
その瞬間、ロビーの電話が突然鳴り響いた。
リーン……。
全員が凍りつく。
「電話……?」
土砂崩れで回線は切れているはずだった。
それなのに電話は鳴っている。
誰も受話器を取ろうとしない。
二度。
三度。
鳴り続ける。
やがて修一が意を決したように受話器へ手を伸ばした。
「もしもし……。」
数秒後。
修一の顔から血の気が引いていく。
「……そんな。」
「どうしたんですか!」
修一は震える手で受話器を置いた。
そして、かすれた声で言った。
「橋が復旧したそうだ。」
全員が安堵しかけた、その直後。
修一はゆっくり首を横に振る。
「でも。」
「警察は来られない。」
「なぜですか?」
「橋の向こうで……。」
修一は言葉を絞り出した。
「新しい遺体が見つかったそうだ。」
ロビーは、一瞬で静まり返った。
ロビーには重苦しい空気が流れていた。
「橋の向こうで遺体が……。」
結衣が青ざめた顔でつぶやく。
修一は受話器を見つめたまま、しばらく動かなかった。
「警察の人は、身元の確認が終わるまでは詳しいことは話せないと言っていました。ただ……」
一度言葉を切る。
「男性だそうです。」
全員が顔を見合わせた。
高橋はここにいる。
修一も、坂本も、藤崎も無事だ。
では、その遺体は誰なのか。
美咲の胸に嫌な予感が広がった。
⸻
健太の違和感
「少し待ってください。」
静かに口を開いたのは健太だった。
「電話のことです。」
修一が振り向く。
「どういう意味?」
「昨日まで固定電話は完全に不通でした。」
「そうだ。」
「それなのに、突然かかってきた。」
健太はロビーの窓の外を見た。
雨は弱まり、霧も少しずつ晴れ始めている。
「橋が復旧したなら電話がつながっても不思議ではありません。」
美咲が言う。
「確かに。」
健太はうなずく。
「でも、気になることがあります。」
「何?」
「電話は鳴った。」
「うん。」
「でも、こちらからは一度も掛けていない。」
全員が黙る。
確かにそうだ。
誰も試していない。
「もし回線が復旧したなら、こちらから警察へ連絡できるはずです。」
修一は受話器を持ち上げた。
番号を押す。
全員が息をひそめる。
耳を澄ます。
ザーッ……
無機質な雑音だけが返ってきた。
「つながらない……。」
美咲は息をのんだ。
「じゃあ、さっきの電話は……。」
「外からだけ、かけられた?」
健太は首を横に振る。
「違う。」
「え?」
「もっと単純です。」
健太は電話機を持ち上げた。
裏側を見る。
そこには新しい配線が一本だけ増えていた。
「内線。」
高橋が小さくつぶやく。
「つまり、この電話は館内のどこか別の電話機とつながっている。」
「地下……?」
美咲が思わず口にする。
健太はゆっくりうなずいた。
「誰かが地下から電話をかけてきたんだ。」
⸻
嘘をついたのは誰か
高橋は宿泊名簿を広げた。
「昨日から、皆さんの話を整理していました。」
一枚の紙を取り出す。
そこには全員の行動が時間順に書かれていた。
午後六時 夕食。
午後七時 三々五々に部屋へ。
午後九時五十五分 鐘。
午後十時 足音。
「一つだけ、おかしい人がいます。」
健太が紙を見つめる。
「藤崎さん……。」
「ええ。」
高橋は静かに答えた。
「藤崎さんは『九時からずっとロビーで本を読んでいた』と話しています。」
「でも。」
美咲も気付いた。
「あの時間、ロビーには誰もいなかった。」
「そう。」
健太は言う。
「俺たちは部屋へ戻っていた。」
「つまり、その証言を確認した人がいない。」
奈々が不安そうに尋ねる。
「じゃあ、藤崎さんが犯人?」
健太は首を振る。
「まだ決めつけられない。」
「でも、一つ分かった。」
「藤崎さんは嘘をついている。」
⸻
消えたページ
その時だった。
真理子が宿泊名簿を手に取る。
「あれ?」
「どうしました?」
「ページが……。」
美咲ものぞき込む。
宿泊者一覧の途中が、不自然に切り取られていた。
破られた跡は古い。
「最初からじゃない。」
高橋が言う。
「誰かが後から抜き取っています。」
健太はページ番号を確認した。
二十八。
二十九。
三十二。
「三十と三十一がない。」
「そのページに何があったの?」
美咲が尋ねる。
高橋は静かに答えた。
「二十年前の宿泊記録です。」
全員の背筋が凍った。
⸻
レインコートの人物
突然、玄関のベルが鳴った。
カラン……。
全員が振り向く。
玄関のガラス越しに、一人の人影が立っていた。
黒いレインコート。
フードを深くかぶっている。
「また……!」
結衣が息をのむ。
人影はゆっくり右手を上げた。
敵意はない。
まるで「外へ来い」と合図しているようだった。
健太は玄関へ歩く。
鍵を外す。
扉を開けた瞬間――
人影は森の中へ走り出した。
「待て!」
健太が追う。
美咲も続こうとした、その時。
足元に白い封筒が落ちていることに気付いた。
拾い上げる。
宛名はない。
中には一枚の紙だけが入っていた。
そこには、ワープロで印字された短い文章が書かれていた。
「犯人は、一度も嘘をついていない。」
美咲は何度もその文を読み返した。
「そんな……。」
藤崎は嘘をついていた。
修一も、坂本も秘密を隠していた。
なのに、この手紙は「犯人は一度も嘘をついていない」と断言している。
つまり――
嘘をついていた人物と、犯人は別人。
美咲はその意味に気づき、背筋がぞくりと震えた。
遠くで、森の中を走る健太の声が聞こえる。
そして白い霧の向こうで、レインコートの人物は一度だけ振り返ると、静かに姿を消した。
森へ飛び出した健太を追って、美咲も玄関を飛び出した。
昨夜まで降り続いていた雨は止み、濃い霧だけが木々の間を漂っている。
「健太!」
返事はない。
霧の向こうから、枝を踏む音だけが聞こえた。
パキッ。
パキッ。
美咲は慎重に足を進める。
地面には赤い泥が残っている。
レインコートの人物が通った跡だ。
だが、その足跡の横には、別の靴跡があった。
「……また二人分。」
美咲はしゃがみ込み、靴跡を見比べた。
一つは登山靴。
もう一つは革靴。
しかも革靴の跡は、途中で向きを変え、ペンションへ戻っている。
「戻った……?」
そのとき。
「美咲!」
健太が木立の向こうから現れた。
「追いつけた?」
健太は首を振る。
「いや。」
「でも、これを見つけた。」
健太が差し出したのは、黒い革製の手帳だった。
雨で濡れてはいたが、中身は無事だった。
表紙には金色の文字で、
『宿泊予約台帳』
と刻まれている。
「予約台帳……?」
「ロビーにある宿泊名簿とは別物だ。」
二人は急いでペンションへ戻った。
⸻
予約台帳
ロビーでは高橋と真理子が待っていた。
健太は予約台帳をテーブルへ置く。
「これを見てください。」
高橋が慎重にページをめくる。
今年の予約。
昨年の予約。
そして二十年前。
「……あった。」
ページの中央に、事件が起きた日の予約が残っていた。
全員が息をのむ。
そこには、宿泊者の名前が九人分並んでいた。
「九人……?」
奈々が小さく声を漏らす。
宿泊名簿には八人しか記録されていない。
だが予約台帳には九人。
「一人多い。」
結衣が震える声で言う。
「この人が……。」
高橋は九人目の欄を指差した。
しかし、そこだけ黒いインクで塗りつぶされていた。
名前だけが消されている。
「誰かが意図的に隠したんだ。」
健太が静かに言う。
「事件のあとで。」
⸻
消せなかった文字
高橋は台帳を窓際へ持っていった。
斜めから光を当てる。
黒く塗られた下に、文字の輪郭がわずかに浮かび上がる。
「読めるかもしれない。」
全員が身を乗り出した。
「……さ。」
「さ?」
「佐……。」
修一の顔色が変わる。
「佐伯?」
健太は首を横に振った。
「違う。」
もう一度目を凝らす。
「佐久……。」
「佐久間?」
最後の文字は読めない。
しかし、
『佐久間』
という姓だけは判読できた。
真理子が驚いたように顔を上げた。
「そんな……。」
「知っているんですか?」
「父の日記に、その名前が出てきたことがあります。」
「どんな人なんです?」
真理子はゆっくり首を振る。
「分かりません。」
「でも父は一度だけ書いていました。」
『佐久間だけは信用するな』
ロビーの空気が張り詰める。
⸻
高橋の推理
高橋は予約台帳を閉じた。
「これで分かりました。」
「何がですか?」
美咲が尋ねる。
「二十年前、宿泊していたのは八人ではありません。」
「九人です。」
「その九人目が記録から消された。」
「だから『八人目は帰れない』という言葉が生まれた。」
健太がうなずく。
「本当は九人目なのに、人数を一人減らして記録した。」
「つまり。」
「事件そのものが、最初から改ざんされていた。」
⸻
新たな違和感
そのとき、美咲の視線がロビーの壁へ向いた。
古い集合写真。
第一章で見つけた写真だった。
あのときは気づかなかった。
「健太。」
「ん?」
「この写真……。」
健太も近づく。
写真の隅には、事件当日の参加者が並んでいる。
一、二、三……
九人いる。
「写真は九人。」
「予約台帳も九人。」
「宿泊名簿だけ八人。」
健太は小さく笑った。
「やっと見えてきた。」
「誰かが、一人だけ存在を消したんだ。」
その瞬間だった。
ロビーの窓ガラスに、小石が当たる音が響く。
カンッ。
全員が振り向く。
窓の外。
森の入口に、レインコート姿の人物が立っていた。
今度は逃げない。
ただ静かに、一冊の古びたノートを地面へ置くと、深く一礼した。
そして霧の中へ姿を消していった。
健太が外へ飛び出し、ノートを拾い上げる。
表紙には、古い文字でこう書かれていた。
『佐伯隆一 調査記録』
修一が震える声を漏らした。
「兄さんの……ノートだ。」
美咲たちはついに、二十年前の事件を追い続けた人物の記録を手に入れた。
そこには、この事件を覆す決定的な真実が記されているとは、まだ誰も知らなかった。
ロビーの空気は、さっきまでとは別物のように重くなっていた。
健太が持ち帰ったノート。
『佐伯隆一 調査記録』
その表紙を見つめたまま、修一は動けなかった。
「……兄さんの字だ。」
掠れた声だった。
真理子がそっと肩に手を置く。
「開けてもいいの?」
健太が尋ねると、修一は小さくうなずいた。
「……もう、隠す意味はない。」
⸻
ノートの第一ページ
美咲が慎重にページをめくる。
そこには日付と、短いメモが並んでいた。
20XX年8月25日
「九人目の存在を確認」
健太が顔を上げる。
「やっぱり……九人目は最初からいた。」
ページをめくる。
⸻
8月26日
「地下施設の図面を入手。
立入禁止区画あり。3-B」
奈々が息をのむ。
「もう3-Bの名前が出てる……」
さらに次のページ。
⸻
8月27日(事件当日)
「全員が揃った。
ただし“予約されていない人物”が一人混じっている。」
美咲の指が止まる。
「予約されていない……?」
健太がゆっくり言った。
「つまり、九人目は“最初からいた客じゃない”ってことか。」
⸻
崩れ始める前提
ページをめくるたび、記録は不穏さを増していく。
「夜10時の鐘。
これは合図だ。」
「地下に降りる動きがある。」
「誰かが“人数を数え直している”。」
真理子が顔を上げる。
「人数を数え直す……?」
健太が小さくつぶやく。
「八人目は帰れない、じゃない。」
「“八人目にされる”ってことかもしれない。」
ロビーに沈黙が落ちた。
⸻
決定的な一文
美咲が最後のページを開く。
そこには、震えたような文字で書かれていた。
「気づいた。
この施設では“記録された人数だけが存在する”。」
健太の目が鋭くなる。
「どういう意味だ?」
高橋がゆっくり説明する。
「もし……」
「記録から消されたら?」
誰もすぐに答えられなかった。
やがて美咲が小さく言う。
「……いないことになる?」
健太はうなずいた。
「存在そのものじゃなくて、“記録上の存在”が消える。」
修一が顔を歪める。
「そんな馬鹿な……」
しかし誰も否定できなかった。
すでに現実として、
* 宿泊名簿には八人
* 予約台帳には九人
* 写真には九人
そして
* 名簿から一人だけ消えている
⸻
九人目の正体へ
そのとき、真理子がぽつりと呟いた。
「父は昔、こう言っていました。」
全員が振り向く。
「“この宿は記録で人を管理している”って。」
「記録……?」
健太が反応する。
真理子はうなずいた。
「宿泊名簿、予約台帳、地下の管理記録……」
「全部が繋がっていると。」
美咲は気づく。
「じゃあ、もし誰かがその“管理側”だったら……」
健太が続ける。
「一人の存在を、自由に消せる。」
⸻
再び鳴る鐘
その瞬間。
ゴーン……。
柱時計が鳴った。
しかし時計は動いていない。
針は依然として午後十時。
それでも鐘だけが鳴る。
全員が固まる。
美咲は気づいた。
「これ……昨日も聞いた。」
健太が静かに言う。
「違う。」
「昨日じゃない。」
「“同じ時間を繰り返している”みたいだ。」
その言葉に、ロビーの空気がさらに冷えた。
⸻
レインコートの意味
健太はノートを閉じる。
「一つ分かったことがある。」
「何?」
「レインコートの人物は、犯人じゃない。」
全員が顔を上げる。
健太は続ける。
「むしろ逆だ。」
「“消された九人目”を追っている側だ。」
美咲の頭に、あの言葉がよぎる。
「犯人は、一度も嘘をついていない。」
もしそれが本当なら。
犯人は最初から隠れていない。
むしろ――
“記録の外側”にいる人物こそが、真実に一番近い。
⸻
新たな崩壊
そのとき、外から激しい風の音が響いた。
そして――
ガシャンッ!
玄関のガラスが割れた。
全員が振り向く。
入口に誰かが立っている。
今度はレインコートではない。
泥だらけの服。
肩で息をしている男。
高橋だった。
「……見つけた。」
その顔は恐怖と確信が入り混じっていた。
「九人目の……名前。」
美咲は息を呑む。
「誰なんですか?」
高橋は一言だけ言った。
「最初から、この宿に“いなかったはずの人”です。」
⸻
そしてロビーの時計が、再び十時を指したまま、静かに止まった。
ロビーの空気が張りつめる。
高橋の言葉だけが、妙に静かに響いていた。
「最初から、この宿に“いなかったはずの人”です。」
美咲は無意識に息を止めていた。
「いなかったはずの人って……どういう意味ですか。」
高橋は一度視線を落とし、それからゆっくり続けた。
「この宿には三種類の記録があります。」
指を折る。
「予約台帳。」
「宿泊名簿。」
「そして、地下の管理記録。」
健太がうなずく。
「その三つが食い違ってる。」
「ええ。」
高橋はノートを開いた。
ページの一部を指でなぞる。
「そしてもう一つ。」
「現場で“目撃された人数”。」
⸻
ずれていく人数
健太が壁の集合写真を取り出す。
九人。
高橋が予約台帳を開く。
九人。
修一が宿泊名簿を見せる。
八人。
美咲はその違いを何度も見比べる。
「……一人だけ合ってない。」
奈々が小さく言う。
「宿泊名簿だけが少ない。」
健太が言う。
「つまり、ここにいる“誰か一人”が、名簿から消されている。」
その瞬間、真理子の顔がわずかに強張った。
美咲はそれを見逃さなかった。
⸻
消された理由
「どうして消す必要があるんですか?」
結衣の問いに、高橋は短く答える。
「事故を成立させるためです。」
「事故?」
「もし九人全員が揃っていたら、管理責任が問われる。」
健太が続ける。
「でも八人なら?」
「単なる偶然や確認ミスで処理できる。」
美咲はぞくりとした。
「じゃあ……」
「一人を“最初からいなかったことにする”ことで、事件そのものの形を変えた。」
修一が顔を伏せる。
「そんなことを……誰が。」
高橋は答えなかった。
ただ一冊のノートを取り出す。
⸻
佐伯隆一の最後のページ
ページには短い一文だけが書かれていた。
「消される前に記録を残す。
九人目は“存在している”」
健太が顔を上げる。
「存在している、って……」
高橋は静かに言う。
「重要なのは“誰か”ではありません。」
「“どうやって消されたか”です。」
⸻
記録のトリック
高橋は机の上に三つの資料を並べる。
予約台帳。
宿泊名簿。
集合写真。
「これらは全部同じ日に作られたものではない。」
美咲が気づく。
「違うんですか?」
「ええ。」
「集合写真は当日。」
「予約台帳は事前。」
「宿泊名簿は……」
高橋は一度言葉を切った。
「事後です。」
健太の目が鋭くなる。
「つまり?」
高橋は静かに答えた。
「宿泊名簿は、“事件のあとで作られた”。」
ロビーに沈黙が落ちる。
⸻
最初の矛盾
美咲は息をのむ。
「じゃあ……八人っていう記録自体が……」
「後から決められた数です。」
修一が小さく首を振る。
「そんな……」
高橋は続ける。
「もし最初から九人だったなら。」
「“誰か一人が消えた”という事実を隠す必要がある。」
健太が言う。
「だから逆に、“最初から八人だったことにした”。」
高橋はうなずく。
「そのために一人を消した。」
美咲は言葉を失った。
⸻
レインコートの影
そのとき。
窓の外で影が動いた。
全員が同時に振り向く。
レインコートの人物ではない。
もっと低い姿勢。
霧の中を這うように動いている。
健太が小声で言う。
「……追跡してる。」
「誰を?」
健太は答えない。
その視線は一点を見ていた。
ロビーの奥。
電話。
さっきの内線電話機。
⸻
電話の正体
突然、電話が鳴る。
リーン……。
全員が凍りつく。
今度は誰も動かない。
二度目。
三度目。
健太がゆっくり受話器を取る。
「もしもし。」
沈黙。
そして――
かすれた声。
『……気づくのが遅い。』
健太の表情が変わる。
「誰だ。」
『九人目は、もう“いない”。』
美咲が息をのむ。
健太は続ける。
「お前は誰だ。」
少しの間。
そして声は答えた。
『私は、最初から“記録の外”にいた者だ。』
ブツッ。
通話は切れた。
⸻
真理子の一言
真理子が小さくつぶやく。
「記録の外……」
健太が振り向く。
「どういう意味ですか。」
真理子は青ざめたまま言う。
「父の言葉です。」
「この宿には、“記録に残らない管理者”がいるって。」
美咲は息をのむ。
「それって……」
その瞬間、ロビーの電気が一瞬だけ消えた。
再び点いたとき。
電話の上に、一枚の紙が置かれていた。
誰も近づいていない。
それなのに、そこにある。
健太が手に取る。
そこには一行だけ。
「次は、八人目が決まる。」
⸻
ロビーの空気が完全に凍る。
そして誰も気づいていなかった。
今、この場にいる人数は――
すでに、八人になっていた。
レインコート姿の人物は、美咲たちの前から姿を消していた。
残されたのは、湿った土の匂いと、遠ざかる足音だけだった。
健太はしばらく通路の奥を見つめていたが、やがて静かに息を吐いた。
「追わない。」
「え?」
美咲が思わず聞き返す。
「今追えば、向こうの思うつぼだ。」
健太は懐中電灯を床へ向けた。
赤い泥の足跡。
その横には、もう一種類の靴跡があった。
「……違う。」
奈々がしゃがみ込む。
「何が?」
「この足跡。」
奈々は指先で泥をなぞる。
「大きさが違う。」
健太もしゃがみ込んだ。
確かに二種類ある。
一つは登山靴。
もう一つは、底が平らな革靴だった。
「少なくとも二人。」
健太は低く言った。
「レインコートの人物だけじゃない。」
美咲の背筋が冷たくなる。
「じゃあ、もう一人が黒幕?」
「まだ分からない。」
健太は首を横に振る。
「でも、一つだけ確かなことがある。」
「何?」
「レインコートの人物は、わざと俺たちの前に姿を見せている。」
「わざと?」
「追わせるためだ。」
⸻
奇妙な時刻
地下から戻った美咲たちは、まだ夜が明けないうちにロビーへ集まった。
修一は頭に包帯を巻き、椅子に座っている。
高橋も地下から姿を現し、これまでの経緯を簡単に説明した。
「僕は二十年前の事故を調べていました。」
静かな声だった。
「大学時代の恩師から、このペンションについて相談を受けたんです。」
「相談?」
結衣が尋ねる。
「二十年前の事故には、不自然な点が多すぎる、と。」
高橋はテーブルに一冊の手帳を置いた。
中には、びっしりと時刻や出来事が書き込まれている。
美咲はページをめくった。
『午後九時五十五分 消灯』
『午後十時 柱時計』
『午後十時一分 足音』
その記録を見て、健太の目が止まる。
「午後十時……。」
「どうした?」
「美咲。」
「うん?」
「第一夜も第二夜も、足音は必ず十時過ぎだったよな。」
「そうだけど。」
「誰か、時計を見たか?」
美咲は考え込む。
柱時計の鐘を聞き、それから足音が始まる。
だが、自分の腕時計やスマートフォンで時刻を確認した記憶はない。
「……見てない。」
「俺もだ。」
高橋が静かに言った。
「柱時計は、本当に十時を指していたのでしょうか。」
その一言で、全員が顔を見合わせた。
⸻
止まった時計
健太はロビーの柱時計へ近づいた。
振り子は止まっている。
針は今も、
午後十時を指したままだ。
「昨日から動いていない。」
修一が言う。
「壊れたんだ。」
「違います。」
高橋が首を振った。
「壊れたなら、毎晩十時に鐘は鳴りません。」
「……!」
美咲は息をのむ。
確かにそうだ。
時計は十時で止まっているのに、毎晩十時になると鐘だけが鳴る。
「誰かが鳴らしている?」
奈々がつぶやく。
「機械式なら、外から細工できる可能性があります。」
健太は時計の裏側を調べ始めた。
脚立に上がり、背面の木板を外す。
すると中から一本の細いワイヤーが伸びていた。
「これだ。」
ワイヤーは壁の中へ続いている。
「誰かが別の場所から鐘だけを鳴らせる。」
美咲は思い出した。
第一夜。
鐘が鳴った直後に足音が始まった。
つまり――
犯人は鐘を合図にして行動していた。
「時計が十時だから足音が始まるんじゃない。」
健太が静かに言う。
「足音を始めるために、鐘を鳴らしていたんだ。」
⸻
最初の嘘
その時だった。
高橋が宿泊名簿を開いた。
「皆さん、これを見てください。」
全員が集まる。
宿泊者名簿には、美咲たち四人、高橋、藤崎、坂本の名前が並んでいる。
「ここです。」
高橋が指差した。
宿泊日。
その欄だけ、インクの色が違っていた。
「書き足されてる……。」
美咲がつぶやく。
「つまり、この宿泊名簿はあとから書き換えられている。」
「誰が?」
高橋は首を振る。
「まだ分かりません。」
「でも、一人だけ確かなことがあります。」
ページの端をめくる。
そこには消しゴムで消された跡があった。
健太はライトを斜めから当てる。
浮かび上がった文字を見て、目を見開く。
「……一人、名前が消されてる。」
その瞬間、ロビーの電話が突然鳴り響いた。
リーン……。
全員が凍りつく。
「電話……?」
土砂崩れで回線は切れているはずだった。
それなのに電話は鳴っている。
誰も受話器を取ろうとしない。
二度。
三度。
鳴り続ける。
やがて修一が意を決したように受話器へ手を伸ばした。
「もしもし……。」
数秒後。
修一の顔から血の気が引いていく。
「……そんな。」
「どうしたんですか!」
修一は震える手で受話器を置いた。
そして、かすれた声で言った。
「橋が復旧したそうだ。」
全員が安堵しかけた、その直後。
修一はゆっくり首を横に振る。
「でも。」
「警察は来られない。」
「なぜですか?」
「橋の向こうで……。」
修一は言葉を絞り出した。
「新しい遺体が見つかったそうだ。」
ロビーは、一瞬で静まり返った。
ロビーには重苦しい空気が流れていた。
「橋の向こうで遺体が……。」
結衣が青ざめた顔でつぶやく。
修一は受話器を見つめたまま、しばらく動かなかった。
「警察の人は、身元の確認が終わるまでは詳しいことは話せないと言っていました。ただ……」
一度言葉を切る。
「男性だそうです。」
全員が顔を見合わせた。
高橋はここにいる。
修一も、坂本も、藤崎も無事だ。
では、その遺体は誰なのか。
美咲の胸に嫌な予感が広がった。
⸻
健太の違和感
「少し待ってください。」
静かに口を開いたのは健太だった。
「電話のことです。」
修一が振り向く。
「どういう意味?」
「昨日まで固定電話は完全に不通でした。」
「そうだ。」
「それなのに、突然かかってきた。」
健太はロビーの窓の外を見た。
雨は弱まり、霧も少しずつ晴れ始めている。
「橋が復旧したなら電話がつながっても不思議ではありません。」
美咲が言う。
「確かに。」
健太はうなずく。
「でも、気になることがあります。」
「何?」
「電話は鳴った。」
「うん。」
「でも、こちらからは一度も掛けていない。」
全員が黙る。
確かにそうだ。
誰も試していない。
「もし回線が復旧したなら、こちらから警察へ連絡できるはずです。」
修一は受話器を持ち上げた。
番号を押す。
全員が息をひそめる。
耳を澄ます。
ザーッ……
無機質な雑音だけが返ってきた。
「つながらない……。」
美咲は息をのんだ。
「じゃあ、さっきの電話は……。」
「外からだけ、かけられた?」
健太は首を横に振る。
「違う。」
「え?」
「もっと単純です。」
健太は電話機を持ち上げた。
裏側を見る。
そこには新しい配線が一本だけ増えていた。
「内線。」
高橋が小さくつぶやく。
「つまり、この電話は館内のどこか別の電話機とつながっている。」
「地下……?」
美咲が思わず口にする。
健太はゆっくりうなずいた。
「誰かが地下から電話をかけてきたんだ。」
⸻
嘘をついたのは誰か
高橋は宿泊名簿を広げた。
「昨日から、皆さんの話を整理していました。」
一枚の紙を取り出す。
そこには全員の行動が時間順に書かれていた。
午後六時 夕食。
午後七時 三々五々に部屋へ。
午後九時五十五分 鐘。
午後十時 足音。
「一つだけ、おかしい人がいます。」
健太が紙を見つめる。
「藤崎さん……。」
「ええ。」
高橋は静かに答えた。
「藤崎さんは『九時からずっとロビーで本を読んでいた』と話しています。」
「でも。」
美咲も気付いた。
「あの時間、ロビーには誰もいなかった。」
「そう。」
健太は言う。
「俺たちは部屋へ戻っていた。」
「つまり、その証言を確認した人がいない。」
奈々が不安そうに尋ねる。
「じゃあ、藤崎さんが犯人?」
健太は首を振る。
「まだ決めつけられない。」
「でも、一つ分かった。」
「藤崎さんは嘘をついている。」
⸻
消えたページ
その時だった。
真理子が宿泊名簿を手に取る。
「あれ?」
「どうしました?」
「ページが……。」
美咲ものぞき込む。
宿泊者一覧の途中が、不自然に切り取られていた。
破られた跡は古い。
「最初からじゃない。」
高橋が言う。
「誰かが後から抜き取っています。」
健太はページ番号を確認した。
二十八。
二十九。
三十二。
「三十と三十一がない。」
「そのページに何があったの?」
美咲が尋ねる。
高橋は静かに答えた。
「二十年前の宿泊記録です。」
全員の背筋が凍った。
⸻
レインコートの人物
突然、玄関のベルが鳴った。
カラン……。
全員が振り向く。
玄関のガラス越しに、一人の人影が立っていた。
黒いレインコート。
フードを深くかぶっている。
「また……!」
結衣が息をのむ。
人影はゆっくり右手を上げた。
敵意はない。
まるで「外へ来い」と合図しているようだった。
健太は玄関へ歩く。
鍵を外す。
扉を開けた瞬間――
人影は森の中へ走り出した。
「待て!」
健太が追う。
美咲も続こうとした、その時。
足元に白い封筒が落ちていることに気付いた。
拾い上げる。
宛名はない。
中には一枚の紙だけが入っていた。
そこには、ワープロで印字された短い文章が書かれていた。
「犯人は、一度も嘘をついていない。」
美咲は何度もその文を読み返した。
「そんな……。」
藤崎は嘘をついていた。
修一も、坂本も秘密を隠していた。
なのに、この手紙は「犯人は一度も嘘をついていない」と断言している。
つまり――
嘘をついていた人物と、犯人は別人。
美咲はその意味に気づき、背筋がぞくりと震えた。
遠くで、森の中を走る健太の声が聞こえる。
そして白い霧の向こうで、レインコートの人物は一度だけ振り返ると、静かに姿を消した。
森へ飛び出した健太を追って、美咲も玄関を飛び出した。
昨夜まで降り続いていた雨は止み、濃い霧だけが木々の間を漂っている。
「健太!」
返事はない。
霧の向こうから、枝を踏む音だけが聞こえた。
パキッ。
パキッ。
美咲は慎重に足を進める。
地面には赤い泥が残っている。
レインコートの人物が通った跡だ。
だが、その足跡の横には、別の靴跡があった。
「……また二人分。」
美咲はしゃがみ込み、靴跡を見比べた。
一つは登山靴。
もう一つは革靴。
しかも革靴の跡は、途中で向きを変え、ペンションへ戻っている。
「戻った……?」
そのとき。
「美咲!」
健太が木立の向こうから現れた。
「追いつけた?」
健太は首を振る。
「いや。」
「でも、これを見つけた。」
健太が差し出したのは、黒い革製の手帳だった。
雨で濡れてはいたが、中身は無事だった。
表紙には金色の文字で、
『宿泊予約台帳』
と刻まれている。
「予約台帳……?」
「ロビーにある宿泊名簿とは別物だ。」
二人は急いでペンションへ戻った。
⸻
予約台帳
ロビーでは高橋と真理子が待っていた。
健太は予約台帳をテーブルへ置く。
「これを見てください。」
高橋が慎重にページをめくる。
今年の予約。
昨年の予約。
そして二十年前。
「……あった。」
ページの中央に、事件が起きた日の予約が残っていた。
全員が息をのむ。
そこには、宿泊者の名前が九人分並んでいた。
「九人……?」
奈々が小さく声を漏らす。
宿泊名簿には八人しか記録されていない。
だが予約台帳には九人。
「一人多い。」
結衣が震える声で言う。
「この人が……。」
高橋は九人目の欄を指差した。
しかし、そこだけ黒いインクで塗りつぶされていた。
名前だけが消されている。
「誰かが意図的に隠したんだ。」
健太が静かに言う。
「事件のあとで。」
⸻
消せなかった文字
高橋は台帳を窓際へ持っていった。
斜めから光を当てる。
黒く塗られた下に、文字の輪郭がわずかに浮かび上がる。
「読めるかもしれない。」
全員が身を乗り出した。
「……さ。」
「さ?」
「佐……。」
修一の顔色が変わる。
「佐伯?」
健太は首を横に振った。
「違う。」
もう一度目を凝らす。
「佐久……。」
「佐久間?」
最後の文字は読めない。
しかし、
『佐久間』
という姓だけは判読できた。
真理子が驚いたように顔を上げた。
「そんな……。」
「知っているんですか?」
「父の日記に、その名前が出てきたことがあります。」
「どんな人なんです?」
真理子はゆっくり首を振る。
「分かりません。」
「でも父は一度だけ書いていました。」
『佐久間だけは信用するな』
ロビーの空気が張り詰める。
⸻
高橋の推理
高橋は予約台帳を閉じた。
「これで分かりました。」
「何がですか?」
美咲が尋ねる。
「二十年前、宿泊していたのは八人ではありません。」
「九人です。」
「その九人目が記録から消された。」
「だから『八人目は帰れない』という言葉が生まれた。」
健太がうなずく。
「本当は九人目なのに、人数を一人減らして記録した。」
「つまり。」
「事件そのものが、最初から改ざんされていた。」
⸻
新たな違和感
そのとき、美咲の視線がロビーの壁へ向いた。
古い集合写真。
第一章で見つけた写真だった。
あのときは気づかなかった。
「健太。」
「ん?」
「この写真……。」
健太も近づく。
写真の隅には、事件当日の参加者が並んでいる。
一、二、三……
九人いる。
「写真は九人。」
「予約台帳も九人。」
「宿泊名簿だけ八人。」
健太は小さく笑った。
「やっと見えてきた。」
「誰かが、一人だけ存在を消したんだ。」
その瞬間だった。
ロビーの窓ガラスに、小石が当たる音が響く。
カンッ。
全員が振り向く。
窓の外。
森の入口に、レインコート姿の人物が立っていた。
今度は逃げない。
ただ静かに、一冊の古びたノートを地面へ置くと、深く一礼した。
そして霧の中へ姿を消していった。
健太が外へ飛び出し、ノートを拾い上げる。
表紙には、古い文字でこう書かれていた。
『佐伯隆一 調査記録』
修一が震える声を漏らした。
「兄さんの……ノートだ。」
美咲たちはついに、二十年前の事件を追い続けた人物の記録を手に入れた。
そこには、この事件を覆す決定的な真実が記されているとは、まだ誰も知らなかった。
ロビーの空気は、さっきまでとは別物のように重くなっていた。
健太が持ち帰ったノート。
『佐伯隆一 調査記録』
その表紙を見つめたまま、修一は動けなかった。
「……兄さんの字だ。」
掠れた声だった。
真理子がそっと肩に手を置く。
「開けてもいいの?」
健太が尋ねると、修一は小さくうなずいた。
「……もう、隠す意味はない。」
⸻
ノートの第一ページ
美咲が慎重にページをめくる。
そこには日付と、短いメモが並んでいた。
20XX年8月25日
「九人目の存在を確認」
健太が顔を上げる。
「やっぱり……九人目は最初からいた。」
ページをめくる。
⸻
8月26日
「地下施設の図面を入手。
立入禁止区画あり。3-B」
奈々が息をのむ。
「もう3-Bの名前が出てる……」
さらに次のページ。
⸻
8月27日(事件当日)
「全員が揃った。
ただし“予約されていない人物”が一人混じっている。」
美咲の指が止まる。
「予約されていない……?」
健太がゆっくり言った。
「つまり、九人目は“最初からいた客じゃない”ってことか。」
⸻
崩れ始める前提
ページをめくるたび、記録は不穏さを増していく。
「夜10時の鐘。
これは合図だ。」
「地下に降りる動きがある。」
「誰かが“人数を数え直している”。」
真理子が顔を上げる。
「人数を数え直す……?」
健太が小さくつぶやく。
「八人目は帰れない、じゃない。」
「“八人目にされる”ってことかもしれない。」
ロビーに沈黙が落ちた。
⸻
決定的な一文
美咲が最後のページを開く。
そこには、震えたような文字で書かれていた。
「気づいた。
この施設では“記録された人数だけが存在する”。」
健太の目が鋭くなる。
「どういう意味だ?」
高橋がゆっくり説明する。
「もし……」
「記録から消されたら?」
誰もすぐに答えられなかった。
やがて美咲が小さく言う。
「……いないことになる?」
健太はうなずいた。
「存在そのものじゃなくて、“記録上の存在”が消える。」
修一が顔を歪める。
「そんな馬鹿な……」
しかし誰も否定できなかった。
すでに現実として、
* 宿泊名簿には八人
* 予約台帳には九人
* 写真には九人
そして
* 名簿から一人だけ消えている
⸻
九人目の正体へ
そのとき、真理子がぽつりと呟いた。
「父は昔、こう言っていました。」
全員が振り向く。
「“この宿は記録で人を管理している”って。」
「記録……?」
健太が反応する。
真理子はうなずいた。
「宿泊名簿、予約台帳、地下の管理記録……」
「全部が繋がっていると。」
美咲は気づく。
「じゃあ、もし誰かがその“管理側”だったら……」
健太が続ける。
「一人の存在を、自由に消せる。」
⸻
再び鳴る鐘
その瞬間。
ゴーン……。
柱時計が鳴った。
しかし時計は動いていない。
針は依然として午後十時。
それでも鐘だけが鳴る。
全員が固まる。
美咲は気づいた。
「これ……昨日も聞いた。」
健太が静かに言う。
「違う。」
「昨日じゃない。」
「“同じ時間を繰り返している”みたいだ。」
その言葉に、ロビーの空気がさらに冷えた。
⸻
レインコートの意味
健太はノートを閉じる。
「一つ分かったことがある。」
「何?」
「レインコートの人物は、犯人じゃない。」
全員が顔を上げる。
健太は続ける。
「むしろ逆だ。」
「“消された九人目”を追っている側だ。」
美咲の頭に、あの言葉がよぎる。
「犯人は、一度も嘘をついていない。」
もしそれが本当なら。
犯人は最初から隠れていない。
むしろ――
“記録の外側”にいる人物こそが、真実に一番近い。
⸻
新たな崩壊
そのとき、外から激しい風の音が響いた。
そして――
ガシャンッ!
玄関のガラスが割れた。
全員が振り向く。
入口に誰かが立っている。
今度はレインコートではない。
泥だらけの服。
肩で息をしている男。
高橋だった。
「……見つけた。」
その顔は恐怖と確信が入り混じっていた。
「九人目の……名前。」
美咲は息を呑む。
「誰なんですか?」
高橋は一言だけ言った。
「最初から、この宿に“いなかったはずの人”です。」
⸻
そしてロビーの時計が、再び十時を指したまま、静かに止まった。
ロビーの空気が張りつめる。
高橋の言葉だけが、妙に静かに響いていた。
「最初から、この宿に“いなかったはずの人”です。」
美咲は無意識に息を止めていた。
「いなかったはずの人って……どういう意味ですか。」
高橋は一度視線を落とし、それからゆっくり続けた。
「この宿には三種類の記録があります。」
指を折る。
「予約台帳。」
「宿泊名簿。」
「そして、地下の管理記録。」
健太がうなずく。
「その三つが食い違ってる。」
「ええ。」
高橋はノートを開いた。
ページの一部を指でなぞる。
「そしてもう一つ。」
「現場で“目撃された人数”。」
⸻
ずれていく人数
健太が壁の集合写真を取り出す。
九人。
高橋が予約台帳を開く。
九人。
修一が宿泊名簿を見せる。
八人。
美咲はその違いを何度も見比べる。
「……一人だけ合ってない。」
奈々が小さく言う。
「宿泊名簿だけが少ない。」
健太が言う。
「つまり、ここにいる“誰か一人”が、名簿から消されている。」
その瞬間、真理子の顔がわずかに強張った。
美咲はそれを見逃さなかった。
⸻
消された理由
「どうして消す必要があるんですか?」
結衣の問いに、高橋は短く答える。
「事故を成立させるためです。」
「事故?」
「もし九人全員が揃っていたら、管理責任が問われる。」
健太が続ける。
「でも八人なら?」
「単なる偶然や確認ミスで処理できる。」
美咲はぞくりとした。
「じゃあ……」
「一人を“最初からいなかったことにする”ことで、事件そのものの形を変えた。」
修一が顔を伏せる。
「そんなことを……誰が。」
高橋は答えなかった。
ただ一冊のノートを取り出す。
⸻
佐伯隆一の最後のページ
ページには短い一文だけが書かれていた。
「消される前に記録を残す。
九人目は“存在している”」
健太が顔を上げる。
「存在している、って……」
高橋は静かに言う。
「重要なのは“誰か”ではありません。」
「“どうやって消されたか”です。」
⸻
記録のトリック
高橋は机の上に三つの資料を並べる。
予約台帳。
宿泊名簿。
集合写真。
「これらは全部同じ日に作られたものではない。」
美咲が気づく。
「違うんですか?」
「ええ。」
「集合写真は当日。」
「予約台帳は事前。」
「宿泊名簿は……」
高橋は一度言葉を切った。
「事後です。」
健太の目が鋭くなる。
「つまり?」
高橋は静かに答えた。
「宿泊名簿は、“事件のあとで作られた”。」
ロビーに沈黙が落ちる。
⸻
最初の矛盾
美咲は息をのむ。
「じゃあ……八人っていう記録自体が……」
「後から決められた数です。」
修一が小さく首を振る。
「そんな……」
高橋は続ける。
「もし最初から九人だったなら。」
「“誰か一人が消えた”という事実を隠す必要がある。」
健太が言う。
「だから逆に、“最初から八人だったことにした”。」
高橋はうなずく。
「そのために一人を消した。」
美咲は言葉を失った。
⸻
レインコートの影
そのとき。
窓の外で影が動いた。
全員が同時に振り向く。
レインコートの人物ではない。
もっと低い姿勢。
霧の中を這うように動いている。
健太が小声で言う。
「……追跡してる。」
「誰を?」
健太は答えない。
その視線は一点を見ていた。
ロビーの奥。
電話。
さっきの内線電話機。
⸻
電話の正体
突然、電話が鳴る。
リーン……。
全員が凍りつく。
今度は誰も動かない。
二度目。
三度目。
健太がゆっくり受話器を取る。
「もしもし。」
沈黙。
そして――
かすれた声。
『……気づくのが遅い。』
健太の表情が変わる。
「誰だ。」
『九人目は、もう“いない”。』
美咲が息をのむ。
健太は続ける。
「お前は誰だ。」
少しの間。
そして声は答えた。
『私は、最初から“記録の外”にいた者だ。』
ブツッ。
通話は切れた。
⸻
真理子の一言
真理子が小さくつぶやく。
「記録の外……」
健太が振り向く。
「どういう意味ですか。」
真理子は青ざめたまま言う。
「父の言葉です。」
「この宿には、“記録に残らない管理者”がいるって。」
美咲は息をのむ。
「それって……」
その瞬間、ロビーの電気が一瞬だけ消えた。
再び点いたとき。
電話の上に、一枚の紙が置かれていた。
誰も近づいていない。
それなのに、そこにある。
健太が手に取る。
そこには一行だけ。
「次は、八人目が決まる。」
⸻
ロビーの空気が完全に凍る。
そして誰も気づいていなかった。
今、この場にいる人数は――
すでに、八人になっていた。



