「……彩花?」
美咲の声に、ロビーにいた全員が振り返った。
「どうした?」
修一が不思議そうな顔をする。
美咲は慌てて掲示板を指さした。
「そこ……。」
宿泊者名簿。
一番下。
確かに見たはずだった。
佐伯 彩花
そう書かれていた。
しかし今は——
何もない。
宿泊客の名前が七人分並んでいるだけだった。
「……。」
美咲は何度も目をこする。
見間違いだったのか。
疲労で幻を見たのか。
「美咲?」
結衣が心配そうに肩へ手を置く。
「顔色悪いよ。」
「う、うん……。」
(言わない方がいい。)
そう判断した。
今ここで「彩花の名前が見えた」と話せば、不安を煽るだけだ。
しかも証拠はない。
⸻
夕食の時間になっても、食堂には重苦しい空気が漂っていた。
宿泊客は誰も笑わない。
食器が触れ合う音だけが響いている。
修一が無理に笑顔を作る。
「道路は明日もう一度確認します。」
誰も返事をしない。
「必ず連絡は取れます。」
それでも沈黙。
美咲は料理へ目を落とした。
シチュー。
パン。
温野菜。
昨日と同じように丁寧に作られている。
だが、一つだけ違和感があった。
「健太。」
小さく話しかける。
「スプーン。」
「え?」
「一本多い。」
健太も数える。
一。
二。
三。
四。
五。
六。
七。
八。
食卓には八本のスプーンが置かれていた。
宿泊客とペンション側を合わせても、今ここにいる人数とは合わない。
健太は何も言わず、一番端のスプーンを自分の横へ寄せた。
その様子を、美咲は見逃さなかった。
⸻
食事の後。
四人は部屋へ戻る。
ドアを閉めるなり健太が小声で言った。
「地下のことは誰にも話すな。」
「どうして?」
奈々が尋ねる。
「まだ信用できない。」
健太は窓の外を確認してから続けた。
「地下道を知っている人間が、この宿にいる。」
全員が黙る。
「もし犯人が宿の中にいるなら、俺たちが地下を見つけたことを知られるのは危険だ。」
結衣も頷く。
「確かに……。」
美咲はポケットからペンダントを取り出した。
地下祭壇で拾ったものだ。
銀色の小さなペンダント。
裏には、
Ayaka
と刻まれている。
「これも秘密。」
健太が言う。
「警察に渡せるまで誰にも見せない。」
美咲は静かに頷いた。
⸻
その夜。
午後十一時。
四人は交代で見張りをすることに決めた。
最初は健太。
次は美咲。
その次が奈々。
最後が結衣。
「二時間ずつ。」
「了解。」
外は相変わらず激しい雨だった。
⸻
午前零時過ぎ。
健太が美咲を起こす。
「交代。」
「うん。」
健太は小声で言った。
「異常なし。」
美咲は窓際へ座る。
懐中電灯を消し、暗闇へ目を慣らす。
雨。
風。
揺れる木々。
ただ、それだけ。
(考えすぎなのかな。)
そう思い始めた時だった。
玄関の方で、
ガチャ。
鍵を開ける音がした。
美咲は時計を見る。
午前零時二十七分。
こんな時間に外へ出る人間がいるはずがない。
そっとカーテンの隙間から玄関を見る。
一人の人影が、静かに外へ出て行った。
レインコート。
フードを深くかぶり、顔は見えない。
足取りは迷いがなく、まっすぐ裏山へ向かっていく。
(地下道……。)
美咲は心臓が高鳴るのを感じた。
地下道の出口は裏山にあった。
あの人物は、その場所を知っているように見えた。
(追うべき?)
頭の中で警鐘が鳴る。
危険だ。
一人では絶対に危険だ。
それでも——。
真実を知るチャンスかもしれない。
美咲は眠っている三人を見つめる。
起こすべきか。
それとも、自分一人で確かめるべきか。
その時だった。
部屋のドアの下から、一枚の紙が静かに滑り込んできた。
音もなく。
まるで誰かが廊下から差し入れたように。
美咲はゆっくり紙を拾い上げる。
そこには、ワープロで印字された文字が並んでいた。
「午前一時。旧診療所へ来い。
高橋を生かしたければ、一人で。」
差出人の名前はなかった。
インクはまだ新しく、紙も乾いている。
つまり、このメッセージはたった今、誰かがドアの外から入れたものだった。
美咲はドアへ耳を当てる。
廊下には、もう誰の気配もなかった。
だが、部屋の前の床には、雨に濡れた靴跡が一つだけ残されていた。
それは地下で見たものと同じ、登山靴の靴跡だった。
美咲はメモを握りしめたまま、しばらく動けなかった。
「午前一時。旧診療所へ来い。
高橋を生かしたければ、一人で。」
時計を見る。
午前零時三十分。
約三十分後。
(どうする……。)
一人で行けば危険なのは分かっている。
だが、高橋が本当に生きているなら。
助けられる機会を逃したくはなかった。
美咲は健太の寝顔を見た。
規則正しい寝息を立てている。
「……ごめん。」
小さく肩を揺する。
健太はすぐに目を開けた。
「何かあった?」
美咲は返事の代わりにメモを差し出した。
健太の表情が一変する。
何度も文章を読み返し、小さく息を吐いた。
「やっぱり来たか。」
「予想してたの?」
「地下道を見つけた時点で、犯人は俺たちを警戒している。」
健太は声を潜める。
「でも、この手紙は逆にチャンスだ。」
「え?」
「犯人が必ず現れる。」
⸻
健太は机の上に館内のパンフレットを広げた。
ペンションの見取り図だ。
「旧診療所へ行くには三つのルートがある。」
彼は鉛筆で線を引いた。
一つ目は正面階段。
二つ目は東館。
そして三つ目は、地下道。
「犯人は地下を知っている。」
「うん。」
「だから俺たちは地下を使わない。」
美咲は頷いた。
「待ち伏せされる。」
「その通り。」
健太は続ける。
「俺は少し遅れて後を追う。」
「でも『一人で来い』って……。」
「だからだ。」
健太は静かに笑う。
「犯人は『一人』しか見ていないと思わせたい。」
「……。」
「俺は別ルートから旧診療所へ入る。」
その作戦に、美咲は少しだけ安心した。
⸻
「二人だけで行くの?」
奈々が目を覚ましていた。
「起きてたの?」
「途中から。」
結衣も身体を起こす。
「私たちも行く。」
健太は首を横に振った。
「駄目だ。」
「どうして?」
「四人で動けば目立つ。」
「でも……。」
「もし俺たちが戻らなかったら、修一さんに地下道のことを話してくれ。」
部屋が静まり返る。
その言葉には覚悟がにじんでいた。
⸻
午前零時五十五分。
美咲は一人で部屋を出た。
廊下は真っ暗だった。
柱時計だけが静かに時を刻んでいる。
カチ。
カチ。
カチ。
美咲は足音を立てないよう慎重に歩いた。
ロビーを抜ける。
誰もいない。
外は激しい雨。
玄関の鍵は開いていた。
(さっき誰かが出ていった。)
美咲はそのことを思い出す。
外へ出ると、雨粒が容赦なく身体を打った。
懐中電灯を点ける。
細い山道を進み、裏山へ向かう。
周囲は雨音だけ。
誰もいない。
だが数分歩いたところで、美咲は違和感を覚えた。
誰かに見られている。
振り返る。
誰もいない。
木々が揺れているだけ。
(気のせい……?)
歩き出そうとした、その時。
ガサッ。
右側の茂みが揺れた。
「誰?」
返事はない。
ライトを向ける。
何もいない。
美咲はゆっくり近づいた。
そこには折れた枝と、新しい靴跡だけが残されていた。
しかも、その靴跡は美咲の進行方向とは逆へ続いている。
(誰かが隠れていた。)
そう確信した。
⸻
一方その頃。
健太は東館から地下へ降りていた。
旧診療所へ続く隠し通路。
懐中電灯を消し、暗闇の中を慎重に進む。
すると床に小さな紙片が落ちていることに気づく。
拾い上げる。
そこには印刷された数字だけが並んでいた。
「8」
裏返す。
「次は君だ」
健太は眉をひそめる。
(脅しか。)
その時。
地下の奥から小さく話し声が聞こえた。
男が二人。
「時間だ。」
「女の子は来る。」
「もう一人は?」
「始末する。」
健太の表情が凍りつく。
(俺のことを知っている……。)
つまり犯人は、美咲だけでなく、健太が動くことまで予測していた。
作戦は最初から読まれていたのだ。
健太は壁際へ身を寄せ、慎重に息を潜める。
男たちのライトがゆっくり近づいてくる。
逃げるか。
隠れるか。
それとも——。
その時、地下通路のさらに奥から、別の足音が聞こえた。
コツ……。
コツ……。
男たちも動きを止める。
「誰だ?」
「おい……誰かいるぞ。」
二人の声に、わずかな動揺が走る。
健太も耳を澄ませた。
足音は一人分。
一定の速さで近づいてくる。
やがて暗闇の中に、一人の人影が浮かび上がった。
レインコート姿。
フードを深くかぶり、顔は見えない。
男たちはその人物を見るなり、小さく息をのむ。
そして、驚くべき言葉を口にした。
「……あなたが、来るなんて。」
その一言で、健太は確信する。
犯人は一人ではない。
そして、その人物は男たちよりも上の立場にいる――。
「……あなたが、来るなんて。」
男の声は震えていた。
健太は岩壁の陰で身を低くしたまま、息を殺す。
懐中電灯の光が地下通路を横切る。
現れたレインコート姿の人物は何も答えない。
ゆっくりと二人の男の前まで歩いていく。
「予定が変わった。」
低い声だった。
男か女か判別できないほど抑えられた声。
機械で変えているようにも聞こえる。
「高校生たちが地下へ入った。」
「申し訳ありません。」
「想定外でした。」
二人は頭を下げる。
健太は眉をひそめた。
(上下関係がある。)
少なくとも、この二人は命令を受ける立場だ。
レインコートの人物が短く言う。
「証拠を回収しろ。」
「はい。」
「高橋は。」
一瞬の沈黙。
「まだ生きています。」
「余計なことは話していないか。」
「……おそらく。」
「おそらく?」
その声だけで、二人は肩を震わせた。
「確認します。」
「急げ。」
レインコートの人物は踵を返し、地下のさらに奥へ歩き去る。
足音が完全に聞こえなくなってから、二人の男がようやく息を吐いた。
「怖ぇ……。」
「失敗したら俺たちも終わりだ。」
「急ぐぞ。」
二人は監禁部屋の方へ走り去った。
健太はしばらく動かなかった。
今の会話だけで分かったことがある。
犯人グループは少なくとも三人以上。
そして、その頂点にいる人物がいる。
⸻
一方、美咲は旧診療所の入口へたどり着いていた。
時計は午前一時ちょうど。
周囲には誰もいない。
「高橋さん?」
返事はない。
雨だけが静かに降り続いている。
その時だった。
診療所の玄関に、白い封筒が置かれていることに気付いた。
恐る恐る手に取る。
中には写真が一枚。
写っていたのは、二十年前の集合写真だった。
昼間に廊下で見たものとは別の写真。
開業十周年の記念写真。
美咲は人数を数える。
一人。
二人。
三人。
四人。
五人。
六人。
七人。
――七人しかいない。
「あれ……?」
昼間に見た写真は八人いた。
少女・彩花も写っていた。
だが、この写真には彩花の姿がない。
裏返す。
鉛筆で短く書かれていた。
「本物を探せ。」
美咲の背筋が冷たくなる。
(写真が二種類ある……。)
どちらかが偽物なのか。
それとも、どちらも本物なのか。
⸻
その頃、ペンションでは——。
結衣と奈々がロビーで修一と向かい合っていた。
「まだ戻らないんです。」
結衣の声は震えていた。
修一は時計を見る。
午前一時十五分。
「健太君も?」
「はい。」
真理子が不安そうに言う。
「館内を探しましょう。」
その時だった。
宿泊客の一人、藤崎悟が立ち上がった。
五十代半ばの出版社勤務を名乗る男だ。
これまで目立たない存在だったが、落ち着いた口調で言った。
「待ってください。」
全員が藤崎を見る。
「慌てて探すと危険です。」
「でも。」
「犯人がいるなら、人数を分散させるべきではありません。」
理にかなっている。
修一もうなずいた。
「確かに。」
しかし奈々は違和感を覚えた。
(どうして”犯人”って言ったんだろう。)
誰も「事件」だとは言っている。
だが、この場で犯人がいるとは断定していない。
それなのに藤崎は、ごく自然にその言葉を使った。
奈々は何気なく宿泊名簿へ目を向ける。
そこに書かれた名前。
藤崎 悟
ふと、地下で見つけた監視日誌を思い出した。
「八名確認」。
「一名消失」。
あの日誌には宿泊客の名前は書かれていなかった。
しかし、一つだけ気になることがある。
夕方、チェックインした時。
藤崎は自分で宿帳を書かなかった。
修一が「あらかじめ予約表から転記しておきました」と言っていた。
(本当に予約していたの……?)
奈々は初めて、藤崎という男に疑いの目を向けた。
⸻
地下通路。
健太は監禁部屋へ戻ってきた。
扉は開いたまま。
誰もいない。
だが、ベッドの上に新しい紙切れが置かれていた。
さっきまではなかったものだ。
健太は慎重に拾う。
そこには一文だけ印字されていた。
「仲間を疑え。」
健太は紙を見つめる。
これは脅しか。
それとも忠告か。
その瞬間、美咲から預かっていたペンダントがポケットの中で指先に触れた。
Ayaka。
地下祭壇。
二種類の集合写真。
そして「本物を探せ」という言葉。
すべてが一つの方向を指している気がした。
(二十年前の事件は、俺たちが聞かされている話とは違う。)
健太は静かに拳を握る。
「真実は、まだ隠されている。」
その頃、美咲は診療所の裏口で、誰かの気配を感じて振り返っていた。
暗闇の中、レインコート姿の人物が立っている。
しかしその人物は逃げることも襲いかかることもせず、ただ一言だけ告げた。
「……信じる相手を間違えるな。」
言い終えると、その人物は森の闇へ静かに消えていった。
美咲は追いかけようとしたが、その足は止まった。
相手は自分を誘い込もうとしているのか。
それとも、本当に警告してくれたのか。
答えはまだ、霧の中だった。
雨は弱まるどころか、夜明けが近づくにつれてさらに激しさを増していた。
美咲は診療所の裏口からペンションへ戻る山道を急いでいた。
レインコート姿の人物が残した言葉が、頭の中で何度も繰り返される。
「信じる相手を間違えるな。」
(あれは脅し? それとも警告……?)
考えても答えは出ない。
だが一つだけ確かなことがあった。
犯人は、自分たちの行動を把握している。
しかも、その動きを逐一監視しているかのようだった。
⸻
午前一時四十分。
ペンションのロビーへ戻ると、健太もほぼ同時に裏口から入ってきた。
二人は一瞬だけ目を合わせる。
「無事だったか。」
「うん。」
それだけを言い合い、何も知らないふりをしてロビーへ入る。
そこには修一、真理子、結衣、奈々、そして宿泊客二人──藤崎悟と、無口な老人・坂本義雄が集まっていた。
修一は険しい表情で腕を組んでいる。
「どこへ行っていたんだ。」
健太は一拍置いてから答えた。
「眠れなかったので、館内を歩いていました。」
「二人で?」
「途中で偶然会いました。」
修一は黙ったまま二人を見つめていた。
やがて静かに言う。
「今は全員、同じ部屋で休んでください。」
「え?」
「これ以上、一人で行動するのは危険です。」
もっともな判断だった。
誰も反対しない。
⸻
しかし、その直後。
「一つ、いいですか。」
口を開いたのは藤崎だった。
眼鏡を押し上げながら、穏やかな口調で尋ねる。
「健太君。」
「はい。」
「君の靴、泥が付いているね。」
ロビーの空気が凍った。
健太は足元を見た。
登山靴には確かに赤茶けた泥が付着している。
地下通路で付いた泥だ。
「裏山へ行ったのかい?」
「……。」
健太は答えない。
「この雨なら、館内を歩いただけではそんな泥は付かない。」
藤崎の視線は鋭かった。
まるで最初から知っていたかのように。
「何か隠していることがあるんじゃないかな。」
修一も健太を見る。
「本当なのか?」
美咲は胸が締めつけられた。
ここで地下道の存在を話すべきか。
しかし話せば、犯人にも知られてしまう。
その時だった。
「待ってください。」
奈々が一歩前へ出た。
「健太君だけじゃありません。」
全員の視線が奈々へ向く。
「藤崎さん。」
「何かな?」
「あなたの靴にも同じ泥が付いています。」
静寂が落ちた。
藤崎はゆっくりと自分の足元を見た。
確かに革靴の縁には、赤茶色の泥がこびり付いている。
「偶然ですよ。」
藤崎は笑う。
「昼間、外を歩きましたから。」
奈々は首を振った。
「昼間の庭の土は黒土でした。」
誰も言葉を発しない。
「この赤い泥は裏山だけです。」
美咲も思い出した。
地下道の出口周辺は、鉄分を多く含んだ赤い土だった。
昼間に庭を歩いただけでは付かない。
つまり──
藤崎も裏山へ行っていた。
⸻
「どういうことですか?」
修一が低い声で尋ねる。
藤崎は少し困ったように笑った。
「実は……。」
一度言葉を切る。
「私は昔、この辺りを旅行したことがあるんです。」
「え?」
「懐かしくなって、夕方少し歩いてみました。」
健太は内心で首を振る。
(嘘だ。)
夕方は豪雨だった。
修一自身が「危険だから外へ出ないでください」と何度も注意していた。
その状況で一人だけ散歩をするだろうか。
「それに。」
奈々が続ける。
「あなたのレインコート。」
「何です?」
「濡れていません。」
藤崎の笑顔が止まる。
外へ出たなら、肩までびしょ濡れになっているはずだ。
しかし彼のレインコートは乾いていた。
「……。」
数秒の沈黙。
やがて藤崎は肩をすくめ、小さく笑った。
「女子高生に尋問されるとは思わなかった。」
冗談めかした口調だったが、その目は笑っていない。
⸻
その時、突然──
ガタンッ!
食堂の方から大きな物音が響いた。
全員が振り返る。
真理子が悲鳴を上げる。
「誰かいる!」
健太は真っ先に食堂へ駆け込んだ。
照明を点ける。
誰もいない。
だが、窓が大きく開いている。
吹き込んだ風でカーテンが激しく揺れていた。
床には一枚の紙が落ちている。
健太は拾い上げる。
そこには赤いインクで一文だけ書かれていた。
『七人目も消える』
ロビーへ戻ると、全員の顔色が変わっていた。
「七人目……?」
結衣が震える声でつぶやく。
その瞬間だった。
「坂本さんは?」
修一が辺りを見回す。
老人・坂本義雄の姿がない。
つい数秒前までロビーにいたはずなのに。
全員で館内を探す。
食堂。
談話室。
客室。
浴場。
どこにもいない。
そして最後に開けた地下倉庫の扉の前で、美咲は足を止めた。
床には一本の杖が転がっている。
坂本がいつも手放さなかった木製の杖だ。
その先には、水滴が点々と奥へ続いていた。
まるで誰かが、雨に濡れたまま地下へ引きずられていったように──。
ロビーに重苦しい沈黙が落ちた。
坂本義雄の杖だけが、地下倉庫の入口に転がっている。
「坂本さん!」
修一が叫ぶ。
返事はない。
健太はしゃがみ込み、杖を手に取った。
まだ湿っている。
「最近落としたものだ。」
美咲も床へライトを向ける。
地下倉庫へ続くコンクリートの床には、水滴が一直線に続いていた。
その横には、泥の付いた靴跡。
しかも二種類。
「一人じゃない……。」
健太が静かに言う。
「誰かと一緒に地下へ降りた。」
「連れ去られたんじゃ……。」
結衣が青ざめる。
健太は首を横に振った。
「いや。」
「え?」
「見て。」
ライトを近づける。
靴跡は乱れていない。
争った跡もない。
杖だけが不自然に落ちている。
「坂本さんは、自分の意思で歩いている。」
「でも杖は?」
「置いていった。」
その一言に全員が驚いた。
坂本は足が悪く、杖なしではほとんど歩けない。
そんな人物が、自ら杖を手放す理由とは何なのか。
⸻
「追いましょう。」
美咲が言う。
「危険だ。」
修一は反対した。
「相手が複数なら……。」
「でも、このままじゃ坂本さんが。」
沈黙が流れる。
その時、意外な人物が口を開いた。
「私も行きます。」
真理子だった。
「あなた?」
修一が目を見開く。
「地下のことは、あなたより私の方が知っています。」
ロビーの空気が張り詰める。
「どういう意味だ?」
修一が尋ねる。
真理子は静かに息を吸った。
「……このペンションになる前、この建物は診療所でした。」
「それは知ってる。」
「ええ。」
真理子は続ける。
「私の父が、その診療所で働いていたんです。」
美咲たちは顔を見合わせた。
「昔、父から地下通路の話を聞いたことがあります。」
「地下道があることを知っていたの?」
「存在だけです。」
「どうして今まで黙っていたんですか?」
美咲の問いに、真理子は苦しそうな表情を浮かべる。
「話すべきじゃないと思っていました。」
「なぜ?」
「……あそこでは、人が亡くなったからです。」
誰も声を出せなかった。
⸻
十分後。
地下倉庫の奥。
隠し扉を開け、美咲たちは再び地下通路へ入った。
先頭は健太。
その後ろに美咲。
奈々、結衣。
真理子。
最後尾を修一が歩く。
「一本道じゃない。」
真理子が壁を照らす。
「この先で三つに分かれます。」
「知ってるんですね。」
健太が振り返る。
「昔、一度だけ来たことがあります。」
「誰と?」
「父と。」
それ以上は話さなかった。
⸻
分岐点へ着く。
右。
左。
そして正面。
床を見ると、それぞれに異なる足跡が残っていた。
健太はしゃがみ込む。
「右は古い。」
「左も。」
「新しいのは……。」
全員が正面を見る。
泥がまだ乾いていない。
「こっちだ。」
進み始める。
数分後。
通路の先に、ぼんやりと灯りが見えた。
ランタンの光だ。
「止まって。」
健太が手を上げる。
全員が身を伏せる。
灯りの向こうで、誰かが話している。
老人の声。
「もう終わりにしよう。」
坂本だった。
生きている。
その向かいには、もう一人。
椅子に腰掛けた人物の後ろ姿が見える。
レインコートではない。
黒いスーツ姿。
「今さら遅い。」
低い声。
「二十年前に終わらせるべきだった。」
美咲は息をのむ。
(二十年前……。)
やはり今回の事件は、過去とつながっている。
坂本は苦しそうに言った。
「彩花は何も知らなかった。」
その名前が出た瞬間、部屋の空気が凍りつく。
黒いスーツの人物はゆっくり立ち上がった。
「だからこそ、都合が良かった。」
美咲の胸が強く締めつけられる。
(どういう意味……?)
その瞬間。
パキッ。
奈々の足元で、小枝が折れた。
しまった。
全員が顔を上げる。
部屋の中の人物も、こちらを振り向いた。
「誰だ!」
鋭い声が響く。
健太が叫ぶ。
「逃げろ!」
その直後、ランタンの火が消された。
地下通路は一瞬で闇に包まれる。
足音が四方八方へ散る。
誰が敵で、誰が味方なのか。
誰が逃げて、誰が追ってきているのか。
暗闇では何も分からない。
美咲は必死に壁を伝って走る。
その時、誰かが腕をつかんだ。
「きゃっ!」
叫びそうになった瞬間、小さな声が耳元でささやく。
「静かに。」
聞き覚えのある声だった。
「高橋……さん?」
「助けに来るなと言ったはずだ。」
美咲は暗闇の中で目を見開く。
高橋は確かに生きていた。
しかも、監禁されているようには思えない。
彼は美咲の手に、何か小さなものを握らせた。
「これを健太君に。」
「え?」
「時間がない。」
足音が近づく。
高橋は闇の中へ姿を消した。
美咲は手の中を開く。
そこには古びた真鍮の鍵と、小さく折り畳まれた紙片があった。
紙には、たった一行だけ。
「犯人は”八人目”ではない。」
その意味を理解する間もなく、通路の奥から再び懐中電灯の光が迫ってくる。
「いたぞ!」
男たちの叫び声が地下に響いた。
美咲は鍵を強く握りしめ、健太たちのいる方向へ走り出した。
美咲の声に、ロビーにいた全員が振り返った。
「どうした?」
修一が不思議そうな顔をする。
美咲は慌てて掲示板を指さした。
「そこ……。」
宿泊者名簿。
一番下。
確かに見たはずだった。
佐伯 彩花
そう書かれていた。
しかし今は——
何もない。
宿泊客の名前が七人分並んでいるだけだった。
「……。」
美咲は何度も目をこする。
見間違いだったのか。
疲労で幻を見たのか。
「美咲?」
結衣が心配そうに肩へ手を置く。
「顔色悪いよ。」
「う、うん……。」
(言わない方がいい。)
そう判断した。
今ここで「彩花の名前が見えた」と話せば、不安を煽るだけだ。
しかも証拠はない。
⸻
夕食の時間になっても、食堂には重苦しい空気が漂っていた。
宿泊客は誰も笑わない。
食器が触れ合う音だけが響いている。
修一が無理に笑顔を作る。
「道路は明日もう一度確認します。」
誰も返事をしない。
「必ず連絡は取れます。」
それでも沈黙。
美咲は料理へ目を落とした。
シチュー。
パン。
温野菜。
昨日と同じように丁寧に作られている。
だが、一つだけ違和感があった。
「健太。」
小さく話しかける。
「スプーン。」
「え?」
「一本多い。」
健太も数える。
一。
二。
三。
四。
五。
六。
七。
八。
食卓には八本のスプーンが置かれていた。
宿泊客とペンション側を合わせても、今ここにいる人数とは合わない。
健太は何も言わず、一番端のスプーンを自分の横へ寄せた。
その様子を、美咲は見逃さなかった。
⸻
食事の後。
四人は部屋へ戻る。
ドアを閉めるなり健太が小声で言った。
「地下のことは誰にも話すな。」
「どうして?」
奈々が尋ねる。
「まだ信用できない。」
健太は窓の外を確認してから続けた。
「地下道を知っている人間が、この宿にいる。」
全員が黙る。
「もし犯人が宿の中にいるなら、俺たちが地下を見つけたことを知られるのは危険だ。」
結衣も頷く。
「確かに……。」
美咲はポケットからペンダントを取り出した。
地下祭壇で拾ったものだ。
銀色の小さなペンダント。
裏には、
Ayaka
と刻まれている。
「これも秘密。」
健太が言う。
「警察に渡せるまで誰にも見せない。」
美咲は静かに頷いた。
⸻
その夜。
午後十一時。
四人は交代で見張りをすることに決めた。
最初は健太。
次は美咲。
その次が奈々。
最後が結衣。
「二時間ずつ。」
「了解。」
外は相変わらず激しい雨だった。
⸻
午前零時過ぎ。
健太が美咲を起こす。
「交代。」
「うん。」
健太は小声で言った。
「異常なし。」
美咲は窓際へ座る。
懐中電灯を消し、暗闇へ目を慣らす。
雨。
風。
揺れる木々。
ただ、それだけ。
(考えすぎなのかな。)
そう思い始めた時だった。
玄関の方で、
ガチャ。
鍵を開ける音がした。
美咲は時計を見る。
午前零時二十七分。
こんな時間に外へ出る人間がいるはずがない。
そっとカーテンの隙間から玄関を見る。
一人の人影が、静かに外へ出て行った。
レインコート。
フードを深くかぶり、顔は見えない。
足取りは迷いがなく、まっすぐ裏山へ向かっていく。
(地下道……。)
美咲は心臓が高鳴るのを感じた。
地下道の出口は裏山にあった。
あの人物は、その場所を知っているように見えた。
(追うべき?)
頭の中で警鐘が鳴る。
危険だ。
一人では絶対に危険だ。
それでも——。
真実を知るチャンスかもしれない。
美咲は眠っている三人を見つめる。
起こすべきか。
それとも、自分一人で確かめるべきか。
その時だった。
部屋のドアの下から、一枚の紙が静かに滑り込んできた。
音もなく。
まるで誰かが廊下から差し入れたように。
美咲はゆっくり紙を拾い上げる。
そこには、ワープロで印字された文字が並んでいた。
「午前一時。旧診療所へ来い。
高橋を生かしたければ、一人で。」
差出人の名前はなかった。
インクはまだ新しく、紙も乾いている。
つまり、このメッセージはたった今、誰かがドアの外から入れたものだった。
美咲はドアへ耳を当てる。
廊下には、もう誰の気配もなかった。
だが、部屋の前の床には、雨に濡れた靴跡が一つだけ残されていた。
それは地下で見たものと同じ、登山靴の靴跡だった。
美咲はメモを握りしめたまま、しばらく動けなかった。
「午前一時。旧診療所へ来い。
高橋を生かしたければ、一人で。」
時計を見る。
午前零時三十分。
約三十分後。
(どうする……。)
一人で行けば危険なのは分かっている。
だが、高橋が本当に生きているなら。
助けられる機会を逃したくはなかった。
美咲は健太の寝顔を見た。
規則正しい寝息を立てている。
「……ごめん。」
小さく肩を揺する。
健太はすぐに目を開けた。
「何かあった?」
美咲は返事の代わりにメモを差し出した。
健太の表情が一変する。
何度も文章を読み返し、小さく息を吐いた。
「やっぱり来たか。」
「予想してたの?」
「地下道を見つけた時点で、犯人は俺たちを警戒している。」
健太は声を潜める。
「でも、この手紙は逆にチャンスだ。」
「え?」
「犯人が必ず現れる。」
⸻
健太は机の上に館内のパンフレットを広げた。
ペンションの見取り図だ。
「旧診療所へ行くには三つのルートがある。」
彼は鉛筆で線を引いた。
一つ目は正面階段。
二つ目は東館。
そして三つ目は、地下道。
「犯人は地下を知っている。」
「うん。」
「だから俺たちは地下を使わない。」
美咲は頷いた。
「待ち伏せされる。」
「その通り。」
健太は続ける。
「俺は少し遅れて後を追う。」
「でも『一人で来い』って……。」
「だからだ。」
健太は静かに笑う。
「犯人は『一人』しか見ていないと思わせたい。」
「……。」
「俺は別ルートから旧診療所へ入る。」
その作戦に、美咲は少しだけ安心した。
⸻
「二人だけで行くの?」
奈々が目を覚ましていた。
「起きてたの?」
「途中から。」
結衣も身体を起こす。
「私たちも行く。」
健太は首を横に振った。
「駄目だ。」
「どうして?」
「四人で動けば目立つ。」
「でも……。」
「もし俺たちが戻らなかったら、修一さんに地下道のことを話してくれ。」
部屋が静まり返る。
その言葉には覚悟がにじんでいた。
⸻
午前零時五十五分。
美咲は一人で部屋を出た。
廊下は真っ暗だった。
柱時計だけが静かに時を刻んでいる。
カチ。
カチ。
カチ。
美咲は足音を立てないよう慎重に歩いた。
ロビーを抜ける。
誰もいない。
外は激しい雨。
玄関の鍵は開いていた。
(さっき誰かが出ていった。)
美咲はそのことを思い出す。
外へ出ると、雨粒が容赦なく身体を打った。
懐中電灯を点ける。
細い山道を進み、裏山へ向かう。
周囲は雨音だけ。
誰もいない。
だが数分歩いたところで、美咲は違和感を覚えた。
誰かに見られている。
振り返る。
誰もいない。
木々が揺れているだけ。
(気のせい……?)
歩き出そうとした、その時。
ガサッ。
右側の茂みが揺れた。
「誰?」
返事はない。
ライトを向ける。
何もいない。
美咲はゆっくり近づいた。
そこには折れた枝と、新しい靴跡だけが残されていた。
しかも、その靴跡は美咲の進行方向とは逆へ続いている。
(誰かが隠れていた。)
そう確信した。
⸻
一方その頃。
健太は東館から地下へ降りていた。
旧診療所へ続く隠し通路。
懐中電灯を消し、暗闇の中を慎重に進む。
すると床に小さな紙片が落ちていることに気づく。
拾い上げる。
そこには印刷された数字だけが並んでいた。
「8」
裏返す。
「次は君だ」
健太は眉をひそめる。
(脅しか。)
その時。
地下の奥から小さく話し声が聞こえた。
男が二人。
「時間だ。」
「女の子は来る。」
「もう一人は?」
「始末する。」
健太の表情が凍りつく。
(俺のことを知っている……。)
つまり犯人は、美咲だけでなく、健太が動くことまで予測していた。
作戦は最初から読まれていたのだ。
健太は壁際へ身を寄せ、慎重に息を潜める。
男たちのライトがゆっくり近づいてくる。
逃げるか。
隠れるか。
それとも——。
その時、地下通路のさらに奥から、別の足音が聞こえた。
コツ……。
コツ……。
男たちも動きを止める。
「誰だ?」
「おい……誰かいるぞ。」
二人の声に、わずかな動揺が走る。
健太も耳を澄ませた。
足音は一人分。
一定の速さで近づいてくる。
やがて暗闇の中に、一人の人影が浮かび上がった。
レインコート姿。
フードを深くかぶり、顔は見えない。
男たちはその人物を見るなり、小さく息をのむ。
そして、驚くべき言葉を口にした。
「……あなたが、来るなんて。」
その一言で、健太は確信する。
犯人は一人ではない。
そして、その人物は男たちよりも上の立場にいる――。
「……あなたが、来るなんて。」
男の声は震えていた。
健太は岩壁の陰で身を低くしたまま、息を殺す。
懐中電灯の光が地下通路を横切る。
現れたレインコート姿の人物は何も答えない。
ゆっくりと二人の男の前まで歩いていく。
「予定が変わった。」
低い声だった。
男か女か判別できないほど抑えられた声。
機械で変えているようにも聞こえる。
「高校生たちが地下へ入った。」
「申し訳ありません。」
「想定外でした。」
二人は頭を下げる。
健太は眉をひそめた。
(上下関係がある。)
少なくとも、この二人は命令を受ける立場だ。
レインコートの人物が短く言う。
「証拠を回収しろ。」
「はい。」
「高橋は。」
一瞬の沈黙。
「まだ生きています。」
「余計なことは話していないか。」
「……おそらく。」
「おそらく?」
その声だけで、二人は肩を震わせた。
「確認します。」
「急げ。」
レインコートの人物は踵を返し、地下のさらに奥へ歩き去る。
足音が完全に聞こえなくなってから、二人の男がようやく息を吐いた。
「怖ぇ……。」
「失敗したら俺たちも終わりだ。」
「急ぐぞ。」
二人は監禁部屋の方へ走り去った。
健太はしばらく動かなかった。
今の会話だけで分かったことがある。
犯人グループは少なくとも三人以上。
そして、その頂点にいる人物がいる。
⸻
一方、美咲は旧診療所の入口へたどり着いていた。
時計は午前一時ちょうど。
周囲には誰もいない。
「高橋さん?」
返事はない。
雨だけが静かに降り続いている。
その時だった。
診療所の玄関に、白い封筒が置かれていることに気付いた。
恐る恐る手に取る。
中には写真が一枚。
写っていたのは、二十年前の集合写真だった。
昼間に廊下で見たものとは別の写真。
開業十周年の記念写真。
美咲は人数を数える。
一人。
二人。
三人。
四人。
五人。
六人。
七人。
――七人しかいない。
「あれ……?」
昼間に見た写真は八人いた。
少女・彩花も写っていた。
だが、この写真には彩花の姿がない。
裏返す。
鉛筆で短く書かれていた。
「本物を探せ。」
美咲の背筋が冷たくなる。
(写真が二種類ある……。)
どちらかが偽物なのか。
それとも、どちらも本物なのか。
⸻
その頃、ペンションでは——。
結衣と奈々がロビーで修一と向かい合っていた。
「まだ戻らないんです。」
結衣の声は震えていた。
修一は時計を見る。
午前一時十五分。
「健太君も?」
「はい。」
真理子が不安そうに言う。
「館内を探しましょう。」
その時だった。
宿泊客の一人、藤崎悟が立ち上がった。
五十代半ばの出版社勤務を名乗る男だ。
これまで目立たない存在だったが、落ち着いた口調で言った。
「待ってください。」
全員が藤崎を見る。
「慌てて探すと危険です。」
「でも。」
「犯人がいるなら、人数を分散させるべきではありません。」
理にかなっている。
修一もうなずいた。
「確かに。」
しかし奈々は違和感を覚えた。
(どうして”犯人”って言ったんだろう。)
誰も「事件」だとは言っている。
だが、この場で犯人がいるとは断定していない。
それなのに藤崎は、ごく自然にその言葉を使った。
奈々は何気なく宿泊名簿へ目を向ける。
そこに書かれた名前。
藤崎 悟
ふと、地下で見つけた監視日誌を思い出した。
「八名確認」。
「一名消失」。
あの日誌には宿泊客の名前は書かれていなかった。
しかし、一つだけ気になることがある。
夕方、チェックインした時。
藤崎は自分で宿帳を書かなかった。
修一が「あらかじめ予約表から転記しておきました」と言っていた。
(本当に予約していたの……?)
奈々は初めて、藤崎という男に疑いの目を向けた。
⸻
地下通路。
健太は監禁部屋へ戻ってきた。
扉は開いたまま。
誰もいない。
だが、ベッドの上に新しい紙切れが置かれていた。
さっきまではなかったものだ。
健太は慎重に拾う。
そこには一文だけ印字されていた。
「仲間を疑え。」
健太は紙を見つめる。
これは脅しか。
それとも忠告か。
その瞬間、美咲から預かっていたペンダントがポケットの中で指先に触れた。
Ayaka。
地下祭壇。
二種類の集合写真。
そして「本物を探せ」という言葉。
すべてが一つの方向を指している気がした。
(二十年前の事件は、俺たちが聞かされている話とは違う。)
健太は静かに拳を握る。
「真実は、まだ隠されている。」
その頃、美咲は診療所の裏口で、誰かの気配を感じて振り返っていた。
暗闇の中、レインコート姿の人物が立っている。
しかしその人物は逃げることも襲いかかることもせず、ただ一言だけ告げた。
「……信じる相手を間違えるな。」
言い終えると、その人物は森の闇へ静かに消えていった。
美咲は追いかけようとしたが、その足は止まった。
相手は自分を誘い込もうとしているのか。
それとも、本当に警告してくれたのか。
答えはまだ、霧の中だった。
雨は弱まるどころか、夜明けが近づくにつれてさらに激しさを増していた。
美咲は診療所の裏口からペンションへ戻る山道を急いでいた。
レインコート姿の人物が残した言葉が、頭の中で何度も繰り返される。
「信じる相手を間違えるな。」
(あれは脅し? それとも警告……?)
考えても答えは出ない。
だが一つだけ確かなことがあった。
犯人は、自分たちの行動を把握している。
しかも、その動きを逐一監視しているかのようだった。
⸻
午前一時四十分。
ペンションのロビーへ戻ると、健太もほぼ同時に裏口から入ってきた。
二人は一瞬だけ目を合わせる。
「無事だったか。」
「うん。」
それだけを言い合い、何も知らないふりをしてロビーへ入る。
そこには修一、真理子、結衣、奈々、そして宿泊客二人──藤崎悟と、無口な老人・坂本義雄が集まっていた。
修一は険しい表情で腕を組んでいる。
「どこへ行っていたんだ。」
健太は一拍置いてから答えた。
「眠れなかったので、館内を歩いていました。」
「二人で?」
「途中で偶然会いました。」
修一は黙ったまま二人を見つめていた。
やがて静かに言う。
「今は全員、同じ部屋で休んでください。」
「え?」
「これ以上、一人で行動するのは危険です。」
もっともな判断だった。
誰も反対しない。
⸻
しかし、その直後。
「一つ、いいですか。」
口を開いたのは藤崎だった。
眼鏡を押し上げながら、穏やかな口調で尋ねる。
「健太君。」
「はい。」
「君の靴、泥が付いているね。」
ロビーの空気が凍った。
健太は足元を見た。
登山靴には確かに赤茶けた泥が付着している。
地下通路で付いた泥だ。
「裏山へ行ったのかい?」
「……。」
健太は答えない。
「この雨なら、館内を歩いただけではそんな泥は付かない。」
藤崎の視線は鋭かった。
まるで最初から知っていたかのように。
「何か隠していることがあるんじゃないかな。」
修一も健太を見る。
「本当なのか?」
美咲は胸が締めつけられた。
ここで地下道の存在を話すべきか。
しかし話せば、犯人にも知られてしまう。
その時だった。
「待ってください。」
奈々が一歩前へ出た。
「健太君だけじゃありません。」
全員の視線が奈々へ向く。
「藤崎さん。」
「何かな?」
「あなたの靴にも同じ泥が付いています。」
静寂が落ちた。
藤崎はゆっくりと自分の足元を見た。
確かに革靴の縁には、赤茶色の泥がこびり付いている。
「偶然ですよ。」
藤崎は笑う。
「昼間、外を歩きましたから。」
奈々は首を振った。
「昼間の庭の土は黒土でした。」
誰も言葉を発しない。
「この赤い泥は裏山だけです。」
美咲も思い出した。
地下道の出口周辺は、鉄分を多く含んだ赤い土だった。
昼間に庭を歩いただけでは付かない。
つまり──
藤崎も裏山へ行っていた。
⸻
「どういうことですか?」
修一が低い声で尋ねる。
藤崎は少し困ったように笑った。
「実は……。」
一度言葉を切る。
「私は昔、この辺りを旅行したことがあるんです。」
「え?」
「懐かしくなって、夕方少し歩いてみました。」
健太は内心で首を振る。
(嘘だ。)
夕方は豪雨だった。
修一自身が「危険だから外へ出ないでください」と何度も注意していた。
その状況で一人だけ散歩をするだろうか。
「それに。」
奈々が続ける。
「あなたのレインコート。」
「何です?」
「濡れていません。」
藤崎の笑顔が止まる。
外へ出たなら、肩までびしょ濡れになっているはずだ。
しかし彼のレインコートは乾いていた。
「……。」
数秒の沈黙。
やがて藤崎は肩をすくめ、小さく笑った。
「女子高生に尋問されるとは思わなかった。」
冗談めかした口調だったが、その目は笑っていない。
⸻
その時、突然──
ガタンッ!
食堂の方から大きな物音が響いた。
全員が振り返る。
真理子が悲鳴を上げる。
「誰かいる!」
健太は真っ先に食堂へ駆け込んだ。
照明を点ける。
誰もいない。
だが、窓が大きく開いている。
吹き込んだ風でカーテンが激しく揺れていた。
床には一枚の紙が落ちている。
健太は拾い上げる。
そこには赤いインクで一文だけ書かれていた。
『七人目も消える』
ロビーへ戻ると、全員の顔色が変わっていた。
「七人目……?」
結衣が震える声でつぶやく。
その瞬間だった。
「坂本さんは?」
修一が辺りを見回す。
老人・坂本義雄の姿がない。
つい数秒前までロビーにいたはずなのに。
全員で館内を探す。
食堂。
談話室。
客室。
浴場。
どこにもいない。
そして最後に開けた地下倉庫の扉の前で、美咲は足を止めた。
床には一本の杖が転がっている。
坂本がいつも手放さなかった木製の杖だ。
その先には、水滴が点々と奥へ続いていた。
まるで誰かが、雨に濡れたまま地下へ引きずられていったように──。
ロビーに重苦しい沈黙が落ちた。
坂本義雄の杖だけが、地下倉庫の入口に転がっている。
「坂本さん!」
修一が叫ぶ。
返事はない。
健太はしゃがみ込み、杖を手に取った。
まだ湿っている。
「最近落としたものだ。」
美咲も床へライトを向ける。
地下倉庫へ続くコンクリートの床には、水滴が一直線に続いていた。
その横には、泥の付いた靴跡。
しかも二種類。
「一人じゃない……。」
健太が静かに言う。
「誰かと一緒に地下へ降りた。」
「連れ去られたんじゃ……。」
結衣が青ざめる。
健太は首を横に振った。
「いや。」
「え?」
「見て。」
ライトを近づける。
靴跡は乱れていない。
争った跡もない。
杖だけが不自然に落ちている。
「坂本さんは、自分の意思で歩いている。」
「でも杖は?」
「置いていった。」
その一言に全員が驚いた。
坂本は足が悪く、杖なしではほとんど歩けない。
そんな人物が、自ら杖を手放す理由とは何なのか。
⸻
「追いましょう。」
美咲が言う。
「危険だ。」
修一は反対した。
「相手が複数なら……。」
「でも、このままじゃ坂本さんが。」
沈黙が流れる。
その時、意外な人物が口を開いた。
「私も行きます。」
真理子だった。
「あなた?」
修一が目を見開く。
「地下のことは、あなたより私の方が知っています。」
ロビーの空気が張り詰める。
「どういう意味だ?」
修一が尋ねる。
真理子は静かに息を吸った。
「……このペンションになる前、この建物は診療所でした。」
「それは知ってる。」
「ええ。」
真理子は続ける。
「私の父が、その診療所で働いていたんです。」
美咲たちは顔を見合わせた。
「昔、父から地下通路の話を聞いたことがあります。」
「地下道があることを知っていたの?」
「存在だけです。」
「どうして今まで黙っていたんですか?」
美咲の問いに、真理子は苦しそうな表情を浮かべる。
「話すべきじゃないと思っていました。」
「なぜ?」
「……あそこでは、人が亡くなったからです。」
誰も声を出せなかった。
⸻
十分後。
地下倉庫の奥。
隠し扉を開け、美咲たちは再び地下通路へ入った。
先頭は健太。
その後ろに美咲。
奈々、結衣。
真理子。
最後尾を修一が歩く。
「一本道じゃない。」
真理子が壁を照らす。
「この先で三つに分かれます。」
「知ってるんですね。」
健太が振り返る。
「昔、一度だけ来たことがあります。」
「誰と?」
「父と。」
それ以上は話さなかった。
⸻
分岐点へ着く。
右。
左。
そして正面。
床を見ると、それぞれに異なる足跡が残っていた。
健太はしゃがみ込む。
「右は古い。」
「左も。」
「新しいのは……。」
全員が正面を見る。
泥がまだ乾いていない。
「こっちだ。」
進み始める。
数分後。
通路の先に、ぼんやりと灯りが見えた。
ランタンの光だ。
「止まって。」
健太が手を上げる。
全員が身を伏せる。
灯りの向こうで、誰かが話している。
老人の声。
「もう終わりにしよう。」
坂本だった。
生きている。
その向かいには、もう一人。
椅子に腰掛けた人物の後ろ姿が見える。
レインコートではない。
黒いスーツ姿。
「今さら遅い。」
低い声。
「二十年前に終わらせるべきだった。」
美咲は息をのむ。
(二十年前……。)
やはり今回の事件は、過去とつながっている。
坂本は苦しそうに言った。
「彩花は何も知らなかった。」
その名前が出た瞬間、部屋の空気が凍りつく。
黒いスーツの人物はゆっくり立ち上がった。
「だからこそ、都合が良かった。」
美咲の胸が強く締めつけられる。
(どういう意味……?)
その瞬間。
パキッ。
奈々の足元で、小枝が折れた。
しまった。
全員が顔を上げる。
部屋の中の人物も、こちらを振り向いた。
「誰だ!」
鋭い声が響く。
健太が叫ぶ。
「逃げろ!」
その直後、ランタンの火が消された。
地下通路は一瞬で闇に包まれる。
足音が四方八方へ散る。
誰が敵で、誰が味方なのか。
誰が逃げて、誰が追ってきているのか。
暗闇では何も分からない。
美咲は必死に壁を伝って走る。
その時、誰かが腕をつかんだ。
「きゃっ!」
叫びそうになった瞬間、小さな声が耳元でささやく。
「静かに。」
聞き覚えのある声だった。
「高橋……さん?」
「助けに来るなと言ったはずだ。」
美咲は暗闇の中で目を見開く。
高橋は確かに生きていた。
しかも、監禁されているようには思えない。
彼は美咲の手に、何か小さなものを握らせた。
「これを健太君に。」
「え?」
「時間がない。」
足音が近づく。
高橋は闇の中へ姿を消した。
美咲は手の中を開く。
そこには古びた真鍮の鍵と、小さく折り畳まれた紙片があった。
紙には、たった一行だけ。
「犯人は”八人目”ではない。」
その意味を理解する間もなく、通路の奥から再び懐中電灯の光が迫ってくる。
「いたぞ!」
男たちの叫び声が地下に響いた。
美咲は鍵を強く握りしめ、健太たちのいる方向へ走り出した。



