白霧ペンションの七日間

「……彩花?」

美咲の声に、ロビーにいた全員が振り返った。

「どうした?」

修一が不思議そうな顔をする。

美咲は慌てて掲示板を指さした。

「そこ……。」

宿泊者名簿。

一番下。

確かに見たはずだった。

佐伯 彩花

そう書かれていた。

しかし今は——

何もない。

宿泊客の名前が七人分並んでいるだけだった。

「……。」

美咲は何度も目をこする。

見間違いだったのか。

疲労で幻を見たのか。

「美咲?」

結衣が心配そうに肩へ手を置く。

「顔色悪いよ。」

「う、うん……。」

(言わない方がいい。)

そう判断した。

今ここで「彩花の名前が見えた」と話せば、不安を煽るだけだ。

しかも証拠はない。



夕食の時間になっても、食堂には重苦しい空気が漂っていた。

宿泊客は誰も笑わない。

食器が触れ合う音だけが響いている。

修一が無理に笑顔を作る。

「道路は明日もう一度確認します。」

誰も返事をしない。

「必ず連絡は取れます。」

それでも沈黙。

美咲は料理へ目を落とした。

シチュー。

パン。

温野菜。

昨日と同じように丁寧に作られている。

だが、一つだけ違和感があった。

「健太。」

小さく話しかける。

「スプーン。」

「え?」

「一本多い。」

健太も数える。

一。

二。

三。

四。

五。

六。

七。

八。

食卓には八本のスプーンが置かれていた。

宿泊客とペンション側を合わせても、今ここにいる人数とは合わない。

健太は何も言わず、一番端のスプーンを自分の横へ寄せた。

その様子を、美咲は見逃さなかった。



食事の後。

四人は部屋へ戻る。

ドアを閉めるなり健太が小声で言った。

「地下のことは誰にも話すな。」

「どうして?」

奈々が尋ねる。

「まだ信用できない。」

健太は窓の外を確認してから続けた。

「地下道を知っている人間が、この宿にいる。」

全員が黙る。

「もし犯人が宿の中にいるなら、俺たちが地下を見つけたことを知られるのは危険だ。」

結衣も頷く。

「確かに……。」

美咲はポケットからペンダントを取り出した。

地下祭壇で拾ったものだ。

銀色の小さなペンダント。

裏には、

Ayaka

と刻まれている。

「これも秘密。」

健太が言う。

「警察に渡せるまで誰にも見せない。」

美咲は静かに頷いた。



その夜。

午後十一時。

四人は交代で見張りをすることに決めた。

最初は健太。

次は美咲。

その次が奈々。

最後が結衣。

「二時間ずつ。」

「了解。」

外は相変わらず激しい雨だった。



午前零時過ぎ。

健太が美咲を起こす。

「交代。」

「うん。」

健太は小声で言った。

「異常なし。」

美咲は窓際へ座る。

懐中電灯を消し、暗闇へ目を慣らす。

雨。

風。

揺れる木々。

ただ、それだけ。

(考えすぎなのかな。)

そう思い始めた時だった。

玄関の方で、

ガチャ。

鍵を開ける音がした。

美咲は時計を見る。

午前零時二十七分。

こんな時間に外へ出る人間がいるはずがない。

そっとカーテンの隙間から玄関を見る。

一人の人影が、静かに外へ出て行った。

レインコート。

フードを深くかぶり、顔は見えない。

足取りは迷いがなく、まっすぐ裏山へ向かっていく。

(地下道……。)

美咲は心臓が高鳴るのを感じた。

地下道の出口は裏山にあった。

あの人物は、その場所を知っているように見えた。

(追うべき?)

頭の中で警鐘が鳴る。

危険だ。

一人では絶対に危険だ。

それでも——。

真実を知るチャンスかもしれない。

美咲は眠っている三人を見つめる。

起こすべきか。

それとも、自分一人で確かめるべきか。

その時だった。

部屋のドアの下から、一枚の紙が静かに滑り込んできた。

音もなく。

まるで誰かが廊下から差し入れたように。

美咲はゆっくり紙を拾い上げる。

そこには、ワープロで印字された文字が並んでいた。

「午前一時。旧診療所へ来い。

高橋を生かしたければ、一人で。」

差出人の名前はなかった。

インクはまだ新しく、紙も乾いている。

つまり、このメッセージはたった今、誰かがドアの外から入れたものだった。

美咲はドアへ耳を当てる。

廊下には、もう誰の気配もなかった。

だが、部屋の前の床には、雨に濡れた靴跡が一つだけ残されていた。

それは地下で見たものと同じ、登山靴の靴跡だった。

美咲はメモを握りしめたまま、しばらく動けなかった。

「午前一時。旧診療所へ来い。
高橋を生かしたければ、一人で。」

時計を見る。

午前零時三十分。

約三十分後。

(どうする……。)

一人で行けば危険なのは分かっている。

だが、高橋が本当に生きているなら。

助けられる機会を逃したくはなかった。

美咲は健太の寝顔を見た。

規則正しい寝息を立てている。

「……ごめん。」

小さく肩を揺する。

健太はすぐに目を開けた。

「何かあった?」

美咲は返事の代わりにメモを差し出した。

健太の表情が一変する。

何度も文章を読み返し、小さく息を吐いた。

「やっぱり来たか。」

「予想してたの?」

「地下道を見つけた時点で、犯人は俺たちを警戒している。」

健太は声を潜める。

「でも、この手紙は逆にチャンスだ。」

「え?」

「犯人が必ず現れる。」



健太は机の上に館内のパンフレットを広げた。

ペンションの見取り図だ。

「旧診療所へ行くには三つのルートがある。」

彼は鉛筆で線を引いた。

一つ目は正面階段。

二つ目は東館。

そして三つ目は、地下道。

「犯人は地下を知っている。」

「うん。」

「だから俺たちは地下を使わない。」

美咲は頷いた。

「待ち伏せされる。」

「その通り。」

健太は続ける。

「俺は少し遅れて後を追う。」

「でも『一人で来い』って……。」

「だからだ。」

健太は静かに笑う。

「犯人は『一人』しか見ていないと思わせたい。」

「……。」

「俺は別ルートから旧診療所へ入る。」

その作戦に、美咲は少しだけ安心した。



「二人だけで行くの?」

奈々が目を覚ましていた。

「起きてたの?」

「途中から。」

結衣も身体を起こす。

「私たちも行く。」

健太は首を横に振った。

「駄目だ。」

「どうして?」

「四人で動けば目立つ。」

「でも……。」

「もし俺たちが戻らなかったら、修一さんに地下道のことを話してくれ。」

部屋が静まり返る。

その言葉には覚悟がにじんでいた。



午前零時五十五分。

美咲は一人で部屋を出た。

廊下は真っ暗だった。

柱時計だけが静かに時を刻んでいる。

カチ。

カチ。

カチ。

美咲は足音を立てないよう慎重に歩いた。

ロビーを抜ける。

誰もいない。

外は激しい雨。

玄関の鍵は開いていた。

(さっき誰かが出ていった。)

美咲はそのことを思い出す。

外へ出ると、雨粒が容赦なく身体を打った。

懐中電灯を点ける。

細い山道を進み、裏山へ向かう。

周囲は雨音だけ。

誰もいない。

だが数分歩いたところで、美咲は違和感を覚えた。

誰かに見られている。

振り返る。

誰もいない。

木々が揺れているだけ。

(気のせい……?)

歩き出そうとした、その時。

ガサッ。

右側の茂みが揺れた。

「誰?」

返事はない。

ライトを向ける。

何もいない。

美咲はゆっくり近づいた。

そこには折れた枝と、新しい靴跡だけが残されていた。

しかも、その靴跡は美咲の進行方向とは逆へ続いている。

(誰かが隠れていた。)

そう確信した。



一方その頃。

健太は東館から地下へ降りていた。

旧診療所へ続く隠し通路。

懐中電灯を消し、暗闇の中を慎重に進む。

すると床に小さな紙片が落ちていることに気づく。

拾い上げる。

そこには印刷された数字だけが並んでいた。

「8」

裏返す。

「次は君だ」

健太は眉をひそめる。

(脅しか。)

その時。

地下の奥から小さく話し声が聞こえた。

男が二人。

「時間だ。」

「女の子は来る。」

「もう一人は?」

「始末する。」

健太の表情が凍りつく。

(俺のことを知っている……。)

つまり犯人は、美咲だけでなく、健太が動くことまで予測していた。

作戦は最初から読まれていたのだ。

健太は壁際へ身を寄せ、慎重に息を潜める。

男たちのライトがゆっくり近づいてくる。

逃げるか。

隠れるか。

それとも——。

その時、地下通路のさらに奥から、別の足音が聞こえた。

コツ……。

コツ……。

男たちも動きを止める。

「誰だ?」

「おい……誰かいるぞ。」

二人の声に、わずかな動揺が走る。

健太も耳を澄ませた。

足音は一人分。

一定の速さで近づいてくる。

やがて暗闇の中に、一人の人影が浮かび上がった。

レインコート姿。

フードを深くかぶり、顔は見えない。

男たちはその人物を見るなり、小さく息をのむ。

そして、驚くべき言葉を口にした。

「……あなたが、来るなんて。」

その一言で、健太は確信する。

犯人は一人ではない。

そして、その人物は男たちよりも上の立場にいる――。

「……あなたが、来るなんて。」

男の声は震えていた。

健太は岩壁の陰で身を低くしたまま、息を殺す。

懐中電灯の光が地下通路を横切る。

現れたレインコート姿の人物は何も答えない。

ゆっくりと二人の男の前まで歩いていく。

「予定が変わった。」

低い声だった。

男か女か判別できないほど抑えられた声。

機械で変えているようにも聞こえる。

「高校生たちが地下へ入った。」

「申し訳ありません。」

「想定外でした。」

二人は頭を下げる。

健太は眉をひそめた。

(上下関係がある。)

少なくとも、この二人は命令を受ける立場だ。

レインコートの人物が短く言う。

「証拠を回収しろ。」

「はい。」

「高橋は。」

一瞬の沈黙。

「まだ生きています。」

「余計なことは話していないか。」

「……おそらく。」

「おそらく?」

その声だけで、二人は肩を震わせた。

「確認します。」

「急げ。」

レインコートの人物は踵を返し、地下のさらに奥へ歩き去る。

足音が完全に聞こえなくなってから、二人の男がようやく息を吐いた。

「怖ぇ……。」

「失敗したら俺たちも終わりだ。」

「急ぐぞ。」

二人は監禁部屋の方へ走り去った。

健太はしばらく動かなかった。

今の会話だけで分かったことがある。

犯人グループは少なくとも三人以上。

そして、その頂点にいる人物がいる。



一方、美咲は旧診療所の入口へたどり着いていた。

時計は午前一時ちょうど。

周囲には誰もいない。

「高橋さん?」

返事はない。

雨だけが静かに降り続いている。

その時だった。

診療所の玄関に、白い封筒が置かれていることに気付いた。

恐る恐る手に取る。

中には写真が一枚。

写っていたのは、二十年前の集合写真だった。

昼間に廊下で見たものとは別の写真。

開業十周年の記念写真。

美咲は人数を数える。

一人。

二人。

三人。

四人。

五人。

六人。

七人。

――七人しかいない。

「あれ……?」

昼間に見た写真は八人いた。

少女・彩花も写っていた。

だが、この写真には彩花の姿がない。

裏返す。

鉛筆で短く書かれていた。

「本物を探せ。」

美咲の背筋が冷たくなる。

(写真が二種類ある……。)

どちらかが偽物なのか。

それとも、どちらも本物なのか。



その頃、ペンションでは——。

結衣と奈々がロビーで修一と向かい合っていた。

「まだ戻らないんです。」

結衣の声は震えていた。

修一は時計を見る。

午前一時十五分。

「健太君も?」

「はい。」

真理子が不安そうに言う。

「館内を探しましょう。」

その時だった。

宿泊客の一人、藤崎悟が立ち上がった。

五十代半ばの出版社勤務を名乗る男だ。

これまで目立たない存在だったが、落ち着いた口調で言った。

「待ってください。」

全員が藤崎を見る。

「慌てて探すと危険です。」

「でも。」

「犯人がいるなら、人数を分散させるべきではありません。」

理にかなっている。

修一もうなずいた。

「確かに。」

しかし奈々は違和感を覚えた。

(どうして”犯人”って言ったんだろう。)

誰も「事件」だとは言っている。

だが、この場で犯人がいるとは断定していない。

それなのに藤崎は、ごく自然にその言葉を使った。

奈々は何気なく宿泊名簿へ目を向ける。

そこに書かれた名前。

藤崎 悟

ふと、地下で見つけた監視日誌を思い出した。

「八名確認」。

「一名消失」。

あの日誌には宿泊客の名前は書かれていなかった。

しかし、一つだけ気になることがある。

夕方、チェックインした時。

藤崎は自分で宿帳を書かなかった。

修一が「あらかじめ予約表から転記しておきました」と言っていた。

(本当に予約していたの……?)

奈々は初めて、藤崎という男に疑いの目を向けた。



地下通路。

健太は監禁部屋へ戻ってきた。

扉は開いたまま。

誰もいない。

だが、ベッドの上に新しい紙切れが置かれていた。

さっきまではなかったものだ。

健太は慎重に拾う。

そこには一文だけ印字されていた。

「仲間を疑え。」

健太は紙を見つめる。

これは脅しか。

それとも忠告か。

その瞬間、美咲から預かっていたペンダントがポケットの中で指先に触れた。

Ayaka。

地下祭壇。

二種類の集合写真。

そして「本物を探せ」という言葉。

すべてが一つの方向を指している気がした。

(二十年前の事件は、俺たちが聞かされている話とは違う。)

健太は静かに拳を握る。

「真実は、まだ隠されている。」

その頃、美咲は診療所の裏口で、誰かの気配を感じて振り返っていた。

暗闇の中、レインコート姿の人物が立っている。

しかしその人物は逃げることも襲いかかることもせず、ただ一言だけ告げた。

「……信じる相手を間違えるな。」

言い終えると、その人物は森の闇へ静かに消えていった。

美咲は追いかけようとしたが、その足は止まった。

相手は自分を誘い込もうとしているのか。

それとも、本当に警告してくれたのか。

答えはまだ、霧の中だった。

雨は弱まるどころか、夜明けが近づくにつれてさらに激しさを増していた。

美咲は診療所の裏口からペンションへ戻る山道を急いでいた。

レインコート姿の人物が残した言葉が、頭の中で何度も繰り返される。

「信じる相手を間違えるな。」

(あれは脅し? それとも警告……?)

考えても答えは出ない。

だが一つだけ確かなことがあった。

犯人は、自分たちの行動を把握している。

しかも、その動きを逐一監視しているかのようだった。



午前一時四十分。

ペンションのロビーへ戻ると、健太もほぼ同時に裏口から入ってきた。

二人は一瞬だけ目を合わせる。

「無事だったか。」

「うん。」

それだけを言い合い、何も知らないふりをしてロビーへ入る。

そこには修一、真理子、結衣、奈々、そして宿泊客二人──藤崎悟と、無口な老人・坂本義雄が集まっていた。

修一は険しい表情で腕を組んでいる。

「どこへ行っていたんだ。」

健太は一拍置いてから答えた。

「眠れなかったので、館内を歩いていました。」

「二人で?」

「途中で偶然会いました。」

修一は黙ったまま二人を見つめていた。

やがて静かに言う。

「今は全員、同じ部屋で休んでください。」

「え?」

「これ以上、一人で行動するのは危険です。」

もっともな判断だった。

誰も反対しない。



しかし、その直後。

「一つ、いいですか。」

口を開いたのは藤崎だった。

眼鏡を押し上げながら、穏やかな口調で尋ねる。

「健太君。」

「はい。」

「君の靴、泥が付いているね。」

ロビーの空気が凍った。

健太は足元を見た。

登山靴には確かに赤茶けた泥が付着している。

地下通路で付いた泥だ。

「裏山へ行ったのかい?」

「……。」

健太は答えない。

「この雨なら、館内を歩いただけではそんな泥は付かない。」

藤崎の視線は鋭かった。

まるで最初から知っていたかのように。

「何か隠していることがあるんじゃないかな。」

修一も健太を見る。

「本当なのか?」

美咲は胸が締めつけられた。

ここで地下道の存在を話すべきか。

しかし話せば、犯人にも知られてしまう。

その時だった。

「待ってください。」

奈々が一歩前へ出た。

「健太君だけじゃありません。」

全員の視線が奈々へ向く。

「藤崎さん。」

「何かな?」

「あなたの靴にも同じ泥が付いています。」

静寂が落ちた。

藤崎はゆっくりと自分の足元を見た。

確かに革靴の縁には、赤茶色の泥がこびり付いている。

「偶然ですよ。」

藤崎は笑う。

「昼間、外を歩きましたから。」

奈々は首を振った。

「昼間の庭の土は黒土でした。」

誰も言葉を発しない。

「この赤い泥は裏山だけです。」

美咲も思い出した。

地下道の出口周辺は、鉄分を多く含んだ赤い土だった。

昼間に庭を歩いただけでは付かない。

つまり──

藤崎も裏山へ行っていた。



「どういうことですか?」

修一が低い声で尋ねる。

藤崎は少し困ったように笑った。

「実は……。」

一度言葉を切る。

「私は昔、この辺りを旅行したことがあるんです。」

「え?」

「懐かしくなって、夕方少し歩いてみました。」

健太は内心で首を振る。

(嘘だ。)

夕方は豪雨だった。

修一自身が「危険だから外へ出ないでください」と何度も注意していた。

その状況で一人だけ散歩をするだろうか。

「それに。」

奈々が続ける。

「あなたのレインコート。」

「何です?」

「濡れていません。」

藤崎の笑顔が止まる。

外へ出たなら、肩までびしょ濡れになっているはずだ。

しかし彼のレインコートは乾いていた。

「……。」

数秒の沈黙。

やがて藤崎は肩をすくめ、小さく笑った。

「女子高生に尋問されるとは思わなかった。」

冗談めかした口調だったが、その目は笑っていない。



その時、突然──

ガタンッ!

食堂の方から大きな物音が響いた。

全員が振り返る。

真理子が悲鳴を上げる。

「誰かいる!」

健太は真っ先に食堂へ駆け込んだ。

照明を点ける。

誰もいない。

だが、窓が大きく開いている。

吹き込んだ風でカーテンが激しく揺れていた。

床には一枚の紙が落ちている。

健太は拾い上げる。

そこには赤いインクで一文だけ書かれていた。

『七人目も消える』

ロビーへ戻ると、全員の顔色が変わっていた。

「七人目……?」

結衣が震える声でつぶやく。

その瞬間だった。

「坂本さんは?」

修一が辺りを見回す。

老人・坂本義雄の姿がない。

つい数秒前までロビーにいたはずなのに。

全員で館内を探す。

食堂。

談話室。

客室。

浴場。

どこにもいない。

そして最後に開けた地下倉庫の扉の前で、美咲は足を止めた。

床には一本の杖が転がっている。

坂本がいつも手放さなかった木製の杖だ。

その先には、水滴が点々と奥へ続いていた。

まるで誰かが、雨に濡れたまま地下へ引きずられていったように──。

ロビーに重苦しい沈黙が落ちた。

坂本義雄の杖だけが、地下倉庫の入口に転がっている。

「坂本さん!」

修一が叫ぶ。

返事はない。

健太はしゃがみ込み、杖を手に取った。

まだ湿っている。

「最近落としたものだ。」

美咲も床へライトを向ける。

地下倉庫へ続くコンクリートの床には、水滴が一直線に続いていた。

その横には、泥の付いた靴跡。

しかも二種類。

「一人じゃない……。」

健太が静かに言う。

「誰かと一緒に地下へ降りた。」

「連れ去られたんじゃ……。」

結衣が青ざめる。

健太は首を横に振った。

「いや。」

「え?」

「見て。」

ライトを近づける。

靴跡は乱れていない。

争った跡もない。

杖だけが不自然に落ちている。

「坂本さんは、自分の意思で歩いている。」

「でも杖は?」

「置いていった。」

その一言に全員が驚いた。

坂本は足が悪く、杖なしではほとんど歩けない。

そんな人物が、自ら杖を手放す理由とは何なのか。



「追いましょう。」

美咲が言う。

「危険だ。」

修一は反対した。

「相手が複数なら……。」

「でも、このままじゃ坂本さんが。」

沈黙が流れる。

その時、意外な人物が口を開いた。

「私も行きます。」

真理子だった。

「あなた?」

修一が目を見開く。

「地下のことは、あなたより私の方が知っています。」

ロビーの空気が張り詰める。

「どういう意味だ?」

修一が尋ねる。

真理子は静かに息を吸った。

「……このペンションになる前、この建物は診療所でした。」

「それは知ってる。」

「ええ。」

真理子は続ける。

「私の父が、その診療所で働いていたんです。」

美咲たちは顔を見合わせた。

「昔、父から地下通路の話を聞いたことがあります。」

「地下道があることを知っていたの?」

「存在だけです。」

「どうして今まで黙っていたんですか?」

美咲の問いに、真理子は苦しそうな表情を浮かべる。

「話すべきじゃないと思っていました。」

「なぜ?」

「……あそこでは、人が亡くなったからです。」

誰も声を出せなかった。



十分後。

地下倉庫の奥。

隠し扉を開け、美咲たちは再び地下通路へ入った。

先頭は健太。

その後ろに美咲。

奈々、結衣。

真理子。

最後尾を修一が歩く。

「一本道じゃない。」

真理子が壁を照らす。

「この先で三つに分かれます。」

「知ってるんですね。」

健太が振り返る。

「昔、一度だけ来たことがあります。」

「誰と?」

「父と。」

それ以上は話さなかった。



分岐点へ着く。

右。

左。

そして正面。

床を見ると、それぞれに異なる足跡が残っていた。

健太はしゃがみ込む。

「右は古い。」

「左も。」

「新しいのは……。」

全員が正面を見る。

泥がまだ乾いていない。

「こっちだ。」

進み始める。

数分後。

通路の先に、ぼんやりと灯りが見えた。

ランタンの光だ。

「止まって。」

健太が手を上げる。

全員が身を伏せる。

灯りの向こうで、誰かが話している。

老人の声。

「もう終わりにしよう。」

坂本だった。

生きている。

その向かいには、もう一人。

椅子に腰掛けた人物の後ろ姿が見える。

レインコートではない。

黒いスーツ姿。

「今さら遅い。」

低い声。

「二十年前に終わらせるべきだった。」

美咲は息をのむ。

(二十年前……。)

やはり今回の事件は、過去とつながっている。

坂本は苦しそうに言った。

「彩花は何も知らなかった。」

その名前が出た瞬間、部屋の空気が凍りつく。

黒いスーツの人物はゆっくり立ち上がった。

「だからこそ、都合が良かった。」

美咲の胸が強く締めつけられる。

(どういう意味……?)

その瞬間。

パキッ。

奈々の足元で、小枝が折れた。

しまった。

全員が顔を上げる。

部屋の中の人物も、こちらを振り向いた。

「誰だ!」

鋭い声が響く。

健太が叫ぶ。

「逃げろ!」

その直後、ランタンの火が消された。

地下通路は一瞬で闇に包まれる。

足音が四方八方へ散る。

誰が敵で、誰が味方なのか。

誰が逃げて、誰が追ってきているのか。

暗闇では何も分からない。

美咲は必死に壁を伝って走る。

その時、誰かが腕をつかんだ。

「きゃっ!」

叫びそうになった瞬間、小さな声が耳元でささやく。

「静かに。」

聞き覚えのある声だった。

「高橋……さん?」

「助けに来るなと言ったはずだ。」

美咲は暗闇の中で目を見開く。

高橋は確かに生きていた。

しかも、監禁されているようには思えない。

彼は美咲の手に、何か小さなものを握らせた。

「これを健太君に。」

「え?」

「時間がない。」

足音が近づく。

高橋は闇の中へ姿を消した。

美咲は手の中を開く。

そこには古びた真鍮の鍵と、小さく折り畳まれた紙片があった。

紙には、たった一行だけ。

「犯人は”八人目”ではない。」

その意味を理解する間もなく、通路の奥から再び懐中電灯の光が迫ってくる。

「いたぞ!」

男たちの叫び声が地下に響いた。

美咲は鍵を強く握りしめ、健太たちのいる方向へ走り出した。