白霧ペンションの七日間

少女の声が消えてから、どれほどの時間が過ぎたのだろう。

部屋の中は、重苦しい静寂に包まれていた。

誰一人、言葉を発しない。

美咲はドアを見つめたまま、呼吸を整えようとする。しかし鼓動は速くなる一方だった。

ドアの向こうから聞こえた、あの幼い声。

「……ひとり、たりない。」

確かに聞こえた。

夢ではない。

聞き間違いでもない。

結衣が毛布を握りしめながら震える声で言った。

「ねぇ……今の、子どもの声だったよね?」

奈々は青ざめた顔でゆっくりとうなずく。

「うん……。」

健太だけは黙ったまま、ドアをじっと見つめていた。

やがて静かに立ち上がる。

「開ける。」

「えっ!?」

三人が同時に声を上げる。

「危ないよ!」

結衣が腕をつかむ。

しかし健太は首を横に振った。

「このまま朝まで怯えてても何も分からない。」

「でも……。」

「誰かがいるなら確かめる。」

健太は深く息を吸うと、ゆっくり鍵へ手を伸ばした。

カチャ。

静かな音が部屋に響く。

ドアノブを握る手に力が入る。

「せーの……。」

ギィ……

ゆっくりとドアが開く。

四人は息を止めた。

廊下には――

誰もいなかった。



薄暗い廊下には、柱時計だけが静かに立っている。

先ほど止まったはずの時計は、いつの間にか再び動き始めていた。

カチ。

カチ。

カチ。

「……動いてる。」

美咲は思わずつぶやく。

十分ほど前まで止まっていたはずなのに、今は何事もなかったように時を刻んでいる。

「さっき本当に止まってたよね?」

奈々が尋ねる。

「見間違いじゃないよ。」

結衣は即座に答えた。

「私も見た。」

健太は床を見回した。

足跡はない。

雨で濡れた跡もない。

誰かが立っていた形跡はまったく残っていなかった。

「八人も歩いていたのに……。」

美咲は廊下の奥を見つめる。

東側へ続く廊下は闇に包まれている。

昼間でも薄暗かった場所が、夜になるとまるで別世界のようだった。

「追ってみる。」

健太が歩き出す。

「本気?」

「さっきの足音は東側へ行った。」

「危ないって!」

結衣が止めようとする。

しかし美咲は小さく言った。

「……私も行く。」

健太が振り返る。

「美咲。」

「このままじゃ眠れない。」

奈々もゆっくり立ち上がった。

「四人一緒なら。」

結衣はため息をつきながら苦笑した。

「もう……仕方ないな。」

四人はスマートフォンのライトを点灯させる。

白い光が古い木の廊下を照らした。



東館へ向かう廊下は、本館とは雰囲気が違っていた。

壁紙は色あせ、天井には細かなひびが走っている。

窓から吹き込む風で、古いカーテンがゆっくり揺れた。

ヒュウ……

「寒い……。」

奈々が腕をさする。

「暖房、入ってないのかな。」

「この先、使ってないんじゃない?」

健太が答える。

確かに昼間、この辺りには宿泊客の姿がなかった。

修一も真理子も、この廊下について一度も説明していない。

まるで存在を隠しているようだった。

廊下を進むにつれ、空気が重くなる。

スマートフォンの画面を見ると、時刻は午後十時十八分。

その瞬間だった。

パチッ。

美咲のスマートフォンのライトが突然消えた。

「えっ!?」

慌てて電源ボタンを押す。

しかし画面は真っ黒だった。

「バッテリー切れ?」

健太が尋ねる。

「違う。」

美咲は首を振る。

「さっき九十%あった。」

「そんなはず……。」

結衣もスマートフォンを見る。

「あれ?」

こちらも画面が暗くなっていた。

奈々も。

健太も。

四人全員のスマートフォンが、同じタイミングで電源を失った。

「嘘でしょ……。」

闇が、一気に四人を包み込む。

外では雷が鳴り、窓ガラスが震えた。

ゴロゴロ……

その一瞬だけ稲妻が廊下を照らす。

白い光の中で、美咲は見た。

廊下の突き当たりに、小さな人影が立っていた。

白いワンピース。

長い黒髪。

昼間、写真の中で見た少女と同じ姿だった。

「……いる。」

美咲は思わず声を漏らす。

「どこ?」

結衣が尋ねる。

稲妻の光が消える。

闇。

再び雷が光る。

しかし、そこにはもう誰もいなかった。

「気のせい……?」

美咲は自分に言い聞かせる。

だが、胸騒ぎはますます強くなっていく。

その時。

ギィ……

廊下の突き当たりで、古い扉がひとりでに開いた。

暗闇の向こうへ続く細い階段が、静かに姿を現す。

健太が息をのんだ。

「地下……?」

四人は互いに顔を見合わせる。

昼間には存在しなかったはずの扉。

まるで誰かに誘われるように、その入口だけがぽっかりと口を開けていた。

美咲は無意識に一歩を踏み出す。

その瞬間――

地下の暗闇から、小さな少女の笑い声が聞こえた。

「……ふふっ。」

四人の背筋を、氷のような寒気が走った。

「……ふふっ。」

少女の笑い声は、地下へと続く暗い階段の奥から聞こえた。

それは楽しそうな笑いではない。

誰かを誘うような、どこか寂しげで、それでいて耳にまとわりつくような不気味な笑い声だった。

四人はその場から動けなかった。

雨音だけが窓ガラスを激しく打ちつけ、東館の廊下は重苦しい静寂に包まれている。

「聞こえたよね……?」

結衣が小さく尋ねる。

「うん。」

奈々は青ざめたまま答えた。

「私も聞こえた。」

健太は黙って階段を見つめている。

その表情には恐怖と同時に、真実を知りたいという強い意志が浮かんでいた。

「戻ろう。」

結衣が震える声で言った。

「これ以上は危ないよ。」

「でも……。」

美咲は階段から目を離せない。

昼間、東館にこんな階段はなかった。

何度歩いても気づかなかった場所に、突然現れたようにしか思えない。

「ここに、高橋さんがいるかもしれない。」

健太が静かに言う。

その言葉に、全員が息をのんだ。

高橋誠は、密室から姿を消した。

もし誰かが連れ去ったのなら、その行き先は——。

「……行こう。」

美咲は覚悟を決めた。

「でも、絶対に一人にならない。」

三人は無言でうなずいた。



階段は驚くほど急だった。

一段、一段が高く、長い年月で角が丸く削れている。

木製の手すりは湿気を含み、ひんやりと冷たい。

ギシ……

健太が一歩踏み出すたび、階段が低く軋んだ。

美咲は後ろを振り返る。

開いたままの扉が小さく見える。

そこから漏れる廊下の明かりだけが、四人を現実につなぎ止めているようだった。

階段を下りるにつれ、空気が変わる。

湿った土の匂い。

古い木材の匂い。

そして、かすかに漂う鉄のような匂い。

「……何、この匂い。」

奈々が鼻を押さえた。

「錆び?」

健太は首を振る。

「違う気がする。」

誰も口にはしなかった。

だが、美咲の頭には一つの言葉が浮かんでいた。

血。

その考えを打ち消すように、美咲は首を振った。



階段を下りきると、小さな地下通路へ出た。

天井は低く、大人なら少しかがまなければ歩けない。

壁はむき出しのコンクリート。

ところどころに古い電球がぶら下がっているが、当然のように灯りは点いていない。

雨水が染み込んでいるのか、天井から一定の間隔で水滴が落ちていた。

ポタ……

ポタ……

その音だけが地下に響く。

「昔の貯蔵庫かな。」

健太が周囲を見回す。

「でも、何で隠してたんだろう。」

美咲も疑問だった。

これほど広い地下施設があるなら、宿泊客に説明があってもおかしくない。

それなのに修一も真理子も、一度も地下の存在を口にしなかった。

通路の壁には、古びた木製の扉がいくつも並んでいる。

一つ目。

鍵が掛かっている。

二つ目。

こちらも開かない。

三つ目。

健太がゆっくりノブを回した。

ギィ……

扉は驚くほどあっさり開いた。



部屋の中は物置になっていた。

壊れた椅子。

古いスキー板。

使われなくなったランタン。

ほこりをかぶった旅行カバン。

そして、壁際には木箱が積み重ねられている。

「何もないか……。」

そう思った時だった。

美咲の視線が、机の上の額縁に止まった。

古い写真だった。

白黒写真。

そこには、このペンションの前で並ぶ八人の姿が写っている。

「また八人……。」

結衣が呟く。

写真の中央には、若い頃の修一と真理子。

その隣には宿泊客らしき五人。

そして、一番前に座る少女。

白いワンピース姿で、穏やかに笑っている。

「この子……。」

昼間見た写真と同じ少女だった。

しかし、写真の裏には手書きでこう書かれていた。

『昭和六十一年 佐伯彩花 十二歳』

「彩花……。」

美咲はその名前を小さく読み上げた。

「この子の名前?」

奈々が写真をのぞき込む。

その瞬間だった。

廊下から、

コツ……。

誰かが歩く音が聞こえた。

四人は一斉に振り向く。

コツ……

コツ……

地下通路を、ゆっくりこちらへ近づいてくる足音。

さっきまで誰もいなかったはずなのに。

健太は息を潜め、部屋の灯り代わりにしていた懐中電灯を消した。

足音は止まらない。

コツ……

コツ……

やがて部屋の入口で止まる。

ドアの向こうに、人の気配。

誰かが立っている。

美咲は呼吸すら忘れていた。

ゆっくりと、影が部屋の中へ伸びてくる。

そして——

「誰かいるのか?」

低い男の声が響いた。

その声に、美咲は目を見開く。

この声は——

従業員の木島だった。

しかし、その声には昼間の穏やかさはなく、何かを必死に探しているような焦りが滲んでいた。

四人は物陰に身を潜めたまま、息を殺す。

木島は部屋へ一歩、また一歩と近づいてくる。

その右手には、懐中電灯ではなく——

一本の古びた斧が握られていた。

地下室の空気が張りつめる。

美咲は物置に積まれた木箱の陰で身を縮め、口元を押さえた。

自分の鼓動が耳のすぐそばで鳴っているように感じる。

ドクン。

ドクン。

息を大きく吸えば、その音で見つかってしまいそうだった。

健太は美咲たちの前にしゃがみ込み、静かに「動くな」と手で合図する。

結衣は恐怖で肩を震わせ、奈々は目を固く閉じていた。

その時だった。

ギィ……。

木製の扉がゆっくりと開いた。

暗闇の中へ懐中電灯の光が差し込む。

細い光の筋が床をなぞり、古い家具や木箱を照らしていく。

そして最後に、四人が隠れる木箱のすぐ手前で止まった。

「……おかしい。」

木島が低くつぶやく。

「確かに誰かいたはずなんだ。」

その声は昼間とは別人のようだった。

穏やかな青年ではなく、何かに追い詰められた人間の声。

右手には古びた斧。

左手には懐中電灯。

その姿を見た結衣が小さく息を呑む。

美咲は慌てて結衣の手を握った。

ほんの少しでも物音を立てれば終わりだ。

木島は一歩ずつ部屋の奥へ進む。

床板がゆっくりと鳴る。

ギシ……

ギシ……

光は木箱のすぐ横まで近づいてきた。

あと数歩。

あと数歩で見つかる。

美咲は覚悟を決めた、その時だった。

ガタン!

地下通路の奥で何かが倒れる音が響いた。

木島がはっと振り返る。

「誰だ!」

怒鳴り声とともに部屋を飛び出していく。

足音が遠ざかる。

タッ、タッ、タッ……

やがて地下通路は静寂に包まれた。

誰も動かない。

一分ほど経ってから、健太がようやく小さく息を吐いた。

「……助かった。」

結衣はその場に座り込み、大きく肩で息をする。

「もう無理……。」

奈々も青ざめたままだった。

「どうして木島さんが斧なんか持ってるの?」

誰も答えられない。

ただ一つだけ分かることがあった。

木島は何かを隠している。



「さっきの音……。」

美咲がぽつりと言う。

「あれ、誰が鳴らしたんだろう。」

健太も首をかしげた。

「自然に倒れたとは思えない。」

地下は風もない。

棚の上の道具が勝手に落ちるとは考えにくかった。

「誰かが助けてくれた……?」

結衣が恐る恐る言う。

その言葉に四人は顔を見合わせた。

まさか。

そんなことがあるはずがない。

だが、あまりにもタイミングが良すぎた。

もしあの音がなければ、木島は間違いなく木箱の裏を調べていただろう。



健太は写真をポケットへしまった。

「この『佐伯彩花』って子。」

「重要な手掛かりだよね。」

美咲が頷く。

「オーナーと同じ佐伯って名字。」

「娘なのかな。」

「でも二十年前の写真なら、今は三十代くらいになってるよね。」

奈々が計算する。

「それなのに写真では十二歳のまま……。」

誰もその続きを口にできなかった。

もし少女が事故か事件で亡くなっていたとしたら。

その時、通路の奥からかすかな風が吹いた。

地下なのに。

冷たい風が頬を撫でていく。

「……風?」

美咲は懐中電灯を向けた。

通路の一番奥。

壁だと思っていた場所が、わずかに開いている。

「隠し扉?」

健太が近づく。

押してみると、石造りの壁がゆっくり動いた。

ゴゴゴ……

重たい音を立てながら開いていく。

その向こうには、さらに古い通路が続いていた。

床は石畳。

壁には古いランプが並び、湿った空気が流れている。

「まだ奥がある……。」

美咲は思わず息を呑んだ。

この地下は、物置だけではなかった。



通路を数十メートル進むと、小さな部屋へ出た。

中央には古い木製の机。

その上には厚く埃をかぶったノートが置かれている。

「日記……?」

表紙には、薄れた文字。

『彩花』

四人は顔を見合わせた。

「本人の?」

健太がゆっくりページを開く。

最初のページには、子どもらしい丸い字でこう書かれていた。

七月二十日

今日もお父さんとお母さんは忙しそうでした。
お客さんがたくさん来て、私は一人で遊びました。
でも、夜になるとまた「あの子」が来ました。

「あの子?」

美咲が眉をひそめる。

ページをめくる。

七月二十三日

あの子は「八人になると帰れないよ」と言いました。
最初は冗談だと思いました。

四人は息を呑む。

さらにページをめくろうとした、その瞬間。

バタン!

部屋の扉が突然閉まった。

「きゃっ!」

結衣が悲鳴を上げる。

健太が駆け寄ってドアノブを回す。

ガチャ!

ガチャ!

「開かない!」

鍵などなかったはずなのに、びくともしない。

その時だった。

部屋の奥から、小さな少女の声が聞こえた。

「続きを読んで……。」

四人はゆっくり振り返る。

誰もいないはずの部屋の隅。

そこには――

白いワンピース姿の少女が、静かに立っていた。

昼間、写真で見た少女とまったく同じ笑顔で。

そして少女は、ゆっくりと口を開いた。

「わたしが、彩花。」

少女の声は驚くほど穏やかだった。

十二歳くらいに見える少女は、白いワンピースの裾を両手で軽くつまみ、静かに四人を見つめている。

肩まで伸びた黒髪。

透き通るように白い肌。

そして写真で見たものとまったく同じ、どこか悲しげな笑顔。

部屋の中は静まり返っていた。

誰も言葉を発せない。

美咲は目をこすった。

幻覚ではないかと思った。

しかし、何度見ても少女はそこにいる。

「……美咲。」

健太が小声で呼ぶ。

「見えてる?」

「うん。」

「俺も。」

奈々も結衣も、ゆっくりとうなずいた。

四人全員が同じ少女を見ていた。

幻覚ではない。

「あなた……本当に彩花なの?」

美咲は震える声で尋ねた。

少女はゆっくりとうなずいた。

「ずっと、待ってた。」

「私たちを?」

「うん。」

少女は微笑む。

「来てくれる人を。」

その笑顔は優しかった。

けれど、その瞳の奥には二十年という長い孤独が沈んでいるようだった。



「高橋さんは?」

健太が一歩前へ出る。

「どこにいるんだ。」

彩花は答えない。

少しだけ視線を伏せる。

「帰れなくなった。」

その一言に、四人は息をのんだ。

「帰れないって……。」

美咲が問い返す。

「どういう意味?」

彩花は小さく首を振った。

「ここは、八人になると終わるの。」

部屋の空気が一気に冷え込む。

「終わる?」

「一人いなくなる。」

少女は感情のない声で続けた。

「だから、いつも七人じゃないといけない。」

結衣は震えながら後ずさる。

「何を言ってるの……。」

彩花は悲しそうに笑った。

「わたしも最初は信じなかった。」



突然。

廊下の向こうから物音がした。

ゴン……。

誰かが壁に何かをぶつけたような音。

健太が振り返る。

「木島?」

返事はない。

代わりに、

ギシ……。

ギシ……。

誰かが歩いてくる。

一歩。

また一歩。

地下通路に足音が響く。

「隠れて。」

彩花が小さく言った。

「早く。」

「え?」

「お父さんたちじゃない。」

少女の表情が初めて強張る。

「もっと悪い人。」

四人は顔を見合わせた。

もっと悪い人?

どういう意味だ。

しかし、彩花の切羽詰まった表情に迷う時間はなかった。

健太は机を動かし、全員を壁際へ押しやる。

その直後だった。

ギィ……。

閉まっていた扉が、ひとりでにゆっくり開いた。

誰も触れていない。

暗い通路から、一人の男が姿を現す。

「……高橋さん!」

美咲が思わず叫ぶ。

会社員の高橋誠だった。

しかし様子がおかしい。

服は泥だらけ。

顔は青白く、焦点の合わない目でふらふらと歩いている。

「高橋さん!」

健太が駆け寄ろうとした。

その瞬間。

彩花が叫ぶ。

「近づいちゃダメ!」

健太は足を止めた。

高橋はゆっくり顔を上げる。

その瞳には、生気がなかった。

「……帰れない。」

ぼそり、と呟く。

「高橋さん?」

「八人目は……。」

高橋の首がぎこちなく傾く。

「帰れない。」

その声は本人のものではなかった。

まるで別の誰かが口を借りて話しているようだった。

次の瞬間。

高橋は突然、美咲たちへ向かって全力で走り出した。

「逃げろ!」

健太が叫ぶ。

四人は一斉に部屋を飛び出した。

地下通路を夢中で駆ける。

背後から、高橋の足音が追ってくる。

タッ!

タッ!

タッ!

「こっち!」

彩花の声が地下に響く。

少女は通路の分かれ道を指差していた。

「左!」

健太は迷わず左へ曲がる。

その直後。

ドォン!

高橋は勢いよく壁へ激突した。

普通なら止まるはずだった。

だが高橋は痛がる様子もなく、ゆっくりと立ち上がる。

首を不自然な角度に傾けたまま、再び歩き始めた。

「嘘だろ……。」

奈々が泣きそうな声を上げる。

「人間じゃない……。」

彩花は美咲だけを見つめて言った。

「地下の一番奥へ。」

「え?」

「あそこなら、まだ入って来られない。」

四人は息を切らしながら走り続ける。

やがて通路の突き当たりに、小さな鉄の扉が見えてきた。

彩花が静かにつぶやく。

「その部屋に、本当の答えがある。」

美咲が扉に手を掛ける。

冷たい鉄の感触。

ゆっくりと押す。

ギィ……。

扉の向こうに現れたのは、小さな祭壇だった。

中央には、白い花が供えられた一枚の古い写真。

そこに写っていたのは――

笑顔の彩花と、若き日の修一、真理子。

三人は本当の親子のように寄り添っていた。

写真の下には、小さな銘板があった。

佐伯 彩花

享年 十二歳

美咲は言葉を失う。

写真の少女は、二十年前にすでに亡くなっていた。

なのに今、自分たちのすぐ後ろで――

「急いで。」

彩花の声が、静かに響いた。

「もう時間がない。」

その瞬間、地下通路全体に、再び八人分の足音が鳴り始めた。

ギシ……。

ギシ……。

ギシ……。

まるで祭壇を目指して集まってくるように。

美咲たちは、その場で立ち尽くすことしかできなかった。

鉄の扉が閉まると同時に、地下通路に響いていた足音がぴたりと止んだ。

静寂。

四人は息を切らしながら、その場に立ち尽くしていた。

部屋の中央には小さな祭壇。

白い花。

一本だけ灯された蝋燭。

そして、額に収められた写真。

写真の少女は、昼間見た「彩花」と同じ顔だった。

写真の下には、真鍮の小さな銘板が取り付けられている。

佐伯 彩花
昭和六十一年五月十日 生
平成十年八月二十八日 没
享年 十二歳

「……亡くなってる。」

奈々が震える声でつぶやいた。

「じゃあ、さっき会った子は……。」

誰も答えられない。

美咲は写真を見つめた。

少女の笑顔は穏やかだった。

しかし、その目だけはどこか寂しそうに見えた。

その時、健太が祭壇の横にある木箱へ目を向けた。

「これ……。」

箱には古い南京錠が掛かっていたが、錆びて半分壊れている。

健太が慎重に持ち上げると、簡単に外れた。

中には、一冊の分厚い大学ノートが入っていた。

表紙には達筆な字で、

『彩花について』

と書かれている。

「読んでみよう。」

美咲がページを開いた。

最初の数ページは、修一と思われる人物の日記だった。



八月二十一日

彩花はまた東館へ行ったと言う。

「白い服の女の子と遊んだ」と話している。

もちろん、そんな子はいない。

疲れているのだろう。



八月二十三日

彩花は夜になると廊下を歩く足音を怖がる。

宿泊客からも「誰か歩いている」と苦情があった。

しかし、調べても誰もいない。



八月二十七日

彩花が突然、「八人になると帰れない」と言い始めた。

誰から聞いたのか尋ねても答えない。



ページをめくる美咲の指が止まった。

最後のページだけ、筆跡が乱れている。



八月二十八日

彩花がいなくなった。

館中を探した。

地下も森も探した。

見つからない。

どうしてだ。

どうして彩花だけが。



「……ここで終わってる。」

健太が眉をひそめる。

「事故のことが何も書かれてない。」

「それどころか、遺体が見つかったとも書いてない。」

結衣が言った。

「じゃあ、写真の『没』は?」

その疑問に答える者はいなかった。



突然。

コン。

部屋の外で、小さな音がした。

全員が顔を上げる。

コン。

また聞こえる。

誰かが鉄の扉を叩いている。

「木島?」

健太が小さくつぶやく。

しかし返事はない。

コン。

コン。

一定の間隔で叩く音だけが続く。

美咲は息を潜めながら、扉へ近づいた。

耳を当てる。

すると、かすかに話し声が聞こえた。

「……こっちは空だ。」

男の声だった。

もう一人が答える。

「地下を全部探せ。」

美咲は息を呑む。

二人いる。

木島だけではない。

しかも、その声は修一にも木島にも似ていなかった。

「誰……?」

健太の表情が険しくなる。

「宿泊客じゃない。」

外に出られないはずの山。

土砂崩れで孤立したペンション。

それなのに、この地下には正体不明の人間が複数いる。

その事実が、四人の背筋を凍らせた。



その時、美咲は祭壇の裏側に違和感を覚えた。

壁に細い隙間がある。

「健太。」

「どうした?」

「ここ。」

二人で祭壇をゆっくり横へ動かす。

ギギギ……

重たい音を立てて祭壇がずれると、その奥に古い換気口ほどの小さな通路が現れた。

人が一人、かがめば通れそうな幅しかない。

「隠し通路……。」

結衣が息を呑む。

その瞬間、鉄の扉が大きく揺れた。

ドン!

誰かが体当たりしたのだ。

「開けろ!」

男の怒鳴り声。

ドン!

もう一度。

錆びた蝶番が悲鳴を上げる。

「急ごう!」

健太が先に通路へ潜り込む。

続いて奈々、結衣。

最後に美咲が入ろうとした、その時だった。

床に何かが落ちていることに気付いた。

小さな銀色のペンダント。

表には「A」の文字。

裏には小さく刻印があった。

Ayaka

美咲はそれをポケットへ入れる。

次の瞬間、

バキン!

鉄の扉が壊れる音が地下室に響いた。

「いたぞ!」

誰かの叫び声。

美咲は振り返らず、狭い通路へ身を滑り込ませた。

暗闇の向こうからは、複数の懐中電灯の光が追いかけてくる。

そして、美咲は確信する。

このペンションには、「何か」がいる。

それは幽霊なのか、人間なのか。

まだ分からない。

だが一つだけはっきりしている。

高橋誠の失踪は、決して偶然ではない。

四人は、二十年前から続く事件の中心へ足を踏み入れてしまったのだった。