白霧ペンションの七日間

朝は、重苦しい静寂とともに始まった。

昨夜の出来事を思い返しながら、美咲はゆっくりと目を開けた。

窓の外では、霧が山々を覆い尽くし、空は厚い雨雲に閉ざされている。昨夜から降り続く雨は勢いを増し、窓ガラスを絶え間なく叩いていた。

「……朝、か。」

ベッドの上で体を起こすと、向かいのベッドでは結衣がぼんやりと天井を見つめていた。

「眠れた?」

美咲が尋ねると、結衣は小さく首を振る。

「ほとんど寝てない……。」

その声には、普段の明るさがなかった。

奈々もすでに起きており、カーテンを少しだけ開けて外を見ていた。

「まだ雨……。」

「すごい降ってるね。」

昨夜、廊下に響いた足音。

時計が止まったような奇妙な静寂。

そして、誰かが歩いていた気配。

三人とも口には出さなかったが、同じことを考えていた。

あれは夢ではない。

その時だった。

廊下から慌ただしい足音が聞こえてきた。

「誰か来た。」

ドアの向こうで複数の声が重なる。

「開かない!」

「高橋さん!」

「高橋さん、返事してください!」

美咲たちは顔を見合わせると、急いで部屋を飛び出した。

廊下には宿泊客やオーナー夫妻、従業員の木島が集まっていた。

会社員風の男性、高橋誠が泊まっていた部屋の前だった。

オーナー・佐伯修一がドアノブを何度も回している。

「高橋さん!聞こえますか!」

返事はない。

静まり返った部屋の向こうからは、物音一つ聞こえなかった。

「昨日の夜、朝食は七時だって約束してたのに……。」

宿泊客の一人である中年女性が、不安そうにつぶやく。

木島が耳をドアに当てた。

「中は静かです。」

「鍵は?」

「内側から掛かっています。」

修一は険しい表情になる。

「……壊します。」

工具箱を持ってきた木島がバールを差し込み、慎重に力を入れる。

ギシッ。

鈍い音を立てながら、古いドアがゆっくりと開いた。

全員が息をのむ。

部屋の中には——誰もいなかった。

ベッドは整えられたまま。

スーツケースは開いた状態で置かれ、着替えも財布もそのまま残されている。

机の上にはスマートフォンまで置かれていた。

まるで、ほんの少し席を外しただけのようだった。

しかし、人影はどこにもない。

「そんな……。」

結衣が小さく声を漏らす。

修一はすぐに部屋を調べ始めた。

クローゼット。

浴室。

トイレ。

ベッドの下。

どこにも高橋の姿はない。

「窓は?」

美咲がつぶやく。

木島が窓を確認する。

「補助錠が掛かったままです。」

ガチャ。

びくともしない。

「外へ出られるはずがありません。」

窓の外を見下ろした美咲は思わず息をのんだ。

そこには切り立った崖が広がっていた。

もし飛び降りれば助からない高さだ。

だが、崖には足跡も、何かが落ちた形跡もない。

「密室……。」

健太が低くつぶやく。

その言葉に、誰も反論できなかった。

部屋は完全な密室だった。

それなのに、高橋誠だけが忽然と姿を消していたのである。

高橋誠が姿を消した部屋には、重苦しい沈黙だけが流れていた。

誰も口を開こうとしない。

部屋の時計が「コチ、コチ」と規則正しく時を刻む音だけが、不気味なほど大きく響いている。

美咲は改めて室内を見回した。

ベッドの上にはきちんと畳まれたパジャマ。

机には読みかけの文庫本と湯飲み。

スーツケースは半分ほど開き、中には着替えや洗面道具が几帳面に収められている。

財布も免許証も、スマートフォンも置きっぱなしだった。

まるで、ほんの数分で戻るつもりだったような生活の跡が、そのまま残されている。

「こんなの……おかしいよ。」

結衣が震える声で言った。

「自分から出て行くなら、スマホくらい持っていくよね。」

「財布も。」

奈々も青ざめた顔でうなずく。

「荷物まで全部置いて消えるなんて……。」

健太は窓辺へ歩み寄ると、外をじっと見下ろした。

窓の向こうには灰色の空と、霧に包まれた深い谷が広がっている。

崖はほぼ垂直で、人が降りられるような場所ではない。

「足跡もない……。」

昨夜から降り続く雨なら、誰かが外へ出れば必ず地面に跡が残るはずだ。

しかし、窓の真下のぬかるんだ土には何一つ痕跡がなかった。

修一は静かに窓を閉めると、大きく息を吐いた。

「皆さん、一度ロビーへ集まってください。」

その声には、宿の主人としての落ち着きがあった。

だが、美咲にはわかった。

その手が、わずかに震えていることに。



ロビーには宿泊客全員が集められた。

窓の外では風がうなり、雨粒がガラスを激しく叩いている。

修一は固定電話の前に立ち、ゆっくりと受話器を持ち上げた。

「まず警察へ連絡します。」

誰もがその一言に希望を託した。

しかし——

プツッ……

ザーッ……

受話器から返ってきたのは、耳障りな雑音だけだった。

修一は受話器を置き、もう一度ダイヤルを回す。

同じだった。

三度目。

四度目。

結果は変わらない。

ザーッ……

ザーッ……

まるで、誰かが電話線の向こうで息を潜めているような、不気味な雑音だけが流れている。

「……つながらない。」

修一の顔から笑みが消えた。

「故障でしょうか。」

真理子が小さく言う。

「昨夜の雨で電話線が切れたのかもしれません。」

その言葉を聞いても、誰一人安心できなかった。

美咲は自分のスマートフォンを取り出す。

画面の左上には、無情にも「圏外」の二文字。

「やっぱり……。」

結衣も。

奈々も。

健太も。

宿泊客たちも次々にスマートフォンを確認する。

全員が圏外だった。

「昨日は気にもしてなかったのに……。」

結衣が唇をかむ。

「山だから仕方ないって思ってた。」

だが、今は違う。

助けを呼べない。

その現実が、一気に重くのしかかってきた。



その時だった。

ゴォォォォン……

外から大型エンジンの音が響いてきた。

「車だ!」

宿泊客の一人が叫ぶ。

全員が一斉に窓へ駆け寄った。

霧の中から、一台の軽トラックがゆっくりと姿を現す。

管理用の車だった。

運転席から飛び降りたのは従業員の木島。

しかし、その表情を見た瞬間、美咲の胸は嫌な予感で締め付けられた。

木島の顔は血の気を失い、全身ずぶ濡れだった。

修一が駆け寄る。

「どうだった?」

木島は息を整える暇もなく、ゆっくりと首を横へ振った。

「駄目です……。」

その一言だけで、誰もが察した。

「県道が土砂崩れです。」

ロビーが静まり返る。

「山肌が崩れて道路を全部ふさいでいました。それだけじゃありません……。」

木島は苦しそうに続けた。

「橋まで流されています。」

誰かが息をのむ音が聞こえた。

「復旧は?」

修一が静かに尋ねる。

「役場の人が向こう側にいました。」

木島は唇を震わせながら答えた。

「早くても三日……でも、この雨じゃ一週間以上かかるかもしれないと言っていました。」

その瞬間、部屋の空気が一変した。

三日。

いや、それ以上。

この山奥のペンションから出られない。

誰も助けに来られない。

電話もつながらない。

警察も来られない。

宿泊客の一人が、ソファへ力なく座り込んだ。

「……閉じ込められた。」

その小さなつぶやきは、ロビー中に広がるように響いた。

美咲は窓の外を見つめる。

灰色の雨が、山をすべて飲み込もうとしている。

まるで、このペンションだけが世界から切り離されてしまったかのようだった。

そして、美咲は気づいてしまう。

高橋誠が姿を消したのは――まさに、この「誰も出られなくなった日」の朝だったことに。

「……とにかく、皆さん。」

オーナーの佐伯修一は深く息を吸い込み、できるだけ穏やかな声を作った。

「不安なお気持ちはよく分かります。しかし、道路は必ず復旧します。それまでは、このペンションで安全に過ごしていただくしかありません。」

その言葉に返事をする者はいなかった。

ロビーには、雨が窓を叩く音だけが響いている。

宿泊客の一人、五十代ほどの男性が腕を組み、低い声で尋ねた。

「その高橋さんは、どこへ行ったんです?」

修一はゆっくり首を横に振った。

「分かりません。」

「分からないじゃ困るでしょう。」

「密室だったんですよ?」

「警察も来られないんでしょう?」

質問が次々と飛ぶ。

修一は一つ一つ丁寧に答えようとしていたが、その表情には焦りが隠しきれなかった。

その横で真理子は、何かを考え込むように床を見つめている。

木島も俯いたまま、一言も話さない。

「……もしかして。」

ぽつりと奈々が呟いた。

「事件なんじゃない?」

その一言で空気が凍った。

誰も否定できなかった。



「朝食をご用意します。」

真理子が静かに言った。

「こんな時だからこそ、食べてください。」

食堂へ移動すると、テーブルには湯気の立つ料理が並んでいた。

焼きたてのパン。

スクランブルエッグ。

ベーコン。

色鮮やかなサラダ。

手作りらしい野菜スープ。

普段なら思わず笑顔になりそうな朝食だった。

だが、その香りさえ今日は重苦しく感じられる。

誰も席に着こうとしない。

「冷めてしまいますよ。」

真理子は笑顔を見せる。

しかし、その笑顔はどこかぎこちなく、美咲の胸に小さな違和感を残した。

四人は並んで席に座る。

健太はパンを手に取ったまま動かない。

結衣もスープを見つめているだけだった。

「食欲ないね……。」

「うん。」

そんな時だった。

美咲の視線が、食卓の中央へ向いた。

皿。

ナイフ。

フォーク。

コップ。

どれも綺麗に並べられている。

一つ。

二つ。

三つ。

四つ。

五つ。

六つ。

七つ。

八つ。

「……あれ?」

思わず声が漏れた。

「どうした?」

健太が振り返る。

「お皿……。」

美咲はゆっくり数え直した。

間違いない。

八人分ある。

だが、高橋誠はもういない。

現在この食堂にいる人数より、一組だけ多い。

「一枚、多くありませんか?」

静かな食堂に、美咲の声だけが響いた。

真理子の手が止まる。

ほんの一瞬。

皿を持つ指先が小さく震えた。

「え?」

「高橋さんはいないのに……。」

真理子は食卓を見つめる。

そして慌てたように笑った。

「あら、本当。」

一枚の皿を手に取る。

「癖なんです。」

苦笑しながら皿を下げる。

「いつも人数分を並べてしまって。」

そう言って厨房へ戻っていく。

だが、美咲は見逃さなかった。

皿を持つ真理子の手は、まだ震えていた。



食事は終始無言だった。

パンを口に運ぶ音だけが聞こえる。

スープの湯気が静かに立ちのぼる。

誰も笑わない。

誰も雑談をしない。

昨日までとはまるで別の宿のようだった。

健太が小さく言う。

「……偶然かな。」

「何が?」

「皿。」

美咲は答えなかった。

偶然。

そう思いたかった。

しかし、昨夜から起きている出来事は、一つ一つが偶然では片づけられない。

密室。

失踪。

電話の不通。

土砂崩れ。

そして、余分な一枚の皿。

まるで何かが、「八人」という数にこだわっているかのようだった。



昼を過ぎても雨は弱まる気配がなかった。

窓の外は白い霧に覆われ、庭の木々さえ霞んで見える。

「部屋にいても気が滅入るだけだね。」

結衣が立ち上がる。

「少し館内を歩かない?」

奈々も頷く。

「何か気分転換になるかもしれない。」

健太は苦笑した。

「探検ってこと?」

「そう。」

四人はロビーを後にし、静まり返った廊下を歩き始めた。

古い木造の床は、一歩進むたびに小さく軋む。

ギシ……。

ギシ……。

昼間だというのに、館内は薄暗かった。

壁には年代を感じさせる写真がいくつも飾られている。

冬のスキー客。

夏のバーベキュー。

笑顔で並ぶ家族連れ。

どれも、このペンションが長い年月をかけて積み重ねてきた思い出なのだろう。

しかし、その中の一枚が、美咲の足を止めた。

「……これ。」

古びた集合写真。

写真立てのガラスは少しくすみ、端の方は色あせている。

タイトルには、

『開業十周年記念』

と書かれていた。

写真には若い頃の修一と真理子らしき男女、そして宿泊客たちが並んで笑っている。

「なんだ、昔の写真か。」

健太が覗き込む。

だが、美咲は首をかしげた。

「ねえ……。」

写真の一番端。

白いワンピースを着た、小学生くらいの少女がこちらを見つめていた。

周囲の大人たちとは少し離れ、まるでそこだけ別の空間のように立っている。

その笑顔だけが、不思議なほど鮮明だった。

美咲は写真の下にある説明文へ目を移した。

そこには、こう記されていた。

『開業十周年記念 参加者七名』

「……七名?」

美咲はゆっくり人数を数え始めた。

一人。

二人。

三人。

四人。

五人。

六人。

七人。

そして――

「八人いる……。」

その言葉に、三人も息をのんだ。

「……八人、いる。」

美咲のつぶやきは、静まり返った廊下に小さく響いた。

健太が写真に顔を近づける。

「どれどれ……。」

四人は肩を寄せ合い、古びた集合写真を見つめた。

写真には、若き日の佐伯修一と真理子らしき夫婦が中央に立ち、その周囲に宿泊客と思われる男女が笑顔で並んでいる。

誰もが楽しそうに笑っている、ごく普通の記念写真――。

しかし、一番右端だけが違った。

白いワンピースを着た少女。

肩まで伸びた黒髪。

両手を前で揃え、まっすぐこちらを見つめている。

他の人たちが自然な笑顔を浮かべている中、その少女だけは不思議なくらい整った微笑みを浮かべていた。

「説明には七名って書いてあるのに……。」

結衣が指で人数を数える。

「一、二、三……。」

何度数えても結果は変わらない。

八人。

「印刷ミスじゃない?」

奈々が言った。

「昔の写真だし。」

「でも……。」

美咲は少女から目を離せなかった。

他の人物は少し色あせ、輪郭もぼやけている。

なのに少女だけは、つい昨日撮影されたようにはっきり映っている。

その瞳は、写真を見る美咲を見返しているようにさえ思えた。

「気のせい……かな。」

美咲は思わず一歩後ずさる。

その時だった。

「昔の写真ですよ。」

突然、背後から声がした。

「きゃっ!」

四人は一斉に振り返る。

そこに立っていたのは従業員の木島だった。

いつの間に来たのか、足音ひとつ聞こえなかった。

「驚かせてしまいましたね。」

木島は少しだけ笑った。

だが、その笑顔はどこかぎこちなかった。

「この写真……。」

美咲が尋ねる。

「説明には七人って書いてあるのに、八人います。」

木島は写真を見つめ、小さく息を吐いた。

「ああ、その写真ですか。」

少し間を置いてから答える。

「昔からなんです。」

「昔から?」

「色あせると、人影が重なって見えることがあるそうですよ。」

「でも……。」

美咲は首を振った。

「この女の子だけは重なってないです。」

木島の表情が、一瞬だけ曇る。

「……気のせいですよ。」

そう言い残すと、木島は足早に廊下の奥へ消えていった。

その背中は、まるでこれ以上話したくないと言っているようだった。



「絶対、何か知ってる。」

健太が小声で言う。

「うん。」

結衣も頷いた。

「あの反応、おかしかった。」

奈々は写真を見つめたまま呟く。

「この女の子……どこかで見たことある気がする。」

しかし、誰も思い出せない。

四人は気味の悪さを抱えたまま、さらに館内を歩き始めた。

廊下の突き当たりには、小さな談話室がある。

本棚には推理小説や山岳雑誌、古い旅行ガイドが並び、窓際には年代物のロッキングチェアが置かれていた。

雨の日には宿泊客が読書を楽しむための部屋なのだろう。

「少し休もうか。」

結衣が本棚へ向かう。

美咲も何気なく本を眺め始めた。

その時だった。

棚の一番下。

奥のほうに、革張りの古びたノートが挟まっているのが目に入った。

「……何これ?」

そっと引き抜く。

革はひび割れ、角は擦り切れている。

長い年月、多くの人に触れられてきたことが分かる。

表紙には金色の文字が残っていた。

『宿泊名簿』

「昔のお客さんの記録かな。」

健太が興味深そうに覗き込む。

美咲は慎重にページをめくった。

平成二十四年。

平成二十三年。

平成二十二年。

宿泊日。

名前。

住所。

どのページも整った字で書かれている。

さらにめくる。

平成二十一年。

平成二十年。

平成十九年。

紙は黄ばみ、インクも薄れてきていた。

そして――

二十年前の最後のページで、美咲の指が止まる。

そこだけ、空気が変わったような気がした。

宿泊客の名前が七人分並んでいる。

その一番下だけ。

他とは違う赤いインクで、乱暴に書き足された文字。

『八人目は帰れない』

「……え?」

心臓が大きく跳ねた。

ページを持つ指先が震える。

「美咲?」

結衣が不安そうに覗き込む。

「これ……。」

三人の顔色が一瞬で変わった。

赤い文字は、まるで昨日書かれたばかりのように鮮やかだった。

その時。

「何を見ているんですか?」

静かな女性の声が背後から響いた。

四人の肩が大きく震える。

ゆっくり振り返ると、そこには佐伯真理子が立っていた。

いつもの柔らかな笑顔。

エプロン姿のまま、静かにこちらを見つめている。

「す、すみません。」

美咲は慌てて宿泊名簿を閉じた。

真理子は何も言わず、美咲の手から名簿を受け取る。

表紙を優しくなでるように撫でると、本棚の一番奥へ戻した。

「古い物ですから。」

穏やかな声だった。

「あまり見ないほうがいいですよ。」

その口元には笑みが浮かんでいる。

しかし――

その目だけは、まったく笑っていなかった。

まるで四人を試すように、静かに見つめ続けていた。

美咲の背中を、冷たい汗が一筋流れ落ちる。

談話室を出てからも、美咲たち四人はしばらく無言のままだった。

誰も口を開こうとしない。

廊下を歩く足音だけが、古い床を静かに鳴らしている。

ギシ……。

ギシ……。

窓の外では、雨が勢いを増していた。

山全体が灰色の霧に包まれ、昼間だというのに夕方のような薄暗さだった。

「……さっきの。」

最初に口を開いたのは結衣だった。

「あの名簿。」

「うん。」

美咲は頷く。

「『八人目は帰れない』って書いてあったよね。」

「見間違いじゃないよね?」

奈々が不安そうに尋ねる。

「見間違いじゃない。」

健太は即座に答えた。

「あれは間違いなく書いてあった。」

四人はロビーのソファに腰を下ろした。

薪ストーブには火が入っていたが、不思議と暖かさを感じない。

修一と真理子は厨房で夕食の準備をしているようだった。

木島の姿は見えない。

「高橋さんが消えたことと関係あるのかな。」

結衣がつぶやく。

「偶然とは思えない。」

健太は腕を組む。

「まず密室で人が消えるなんてあり得ない。」

「それに、写真。」

奈々が続ける。

「説明では七人なのに八人いた。」

「名簿にも八人目。」

「朝食のお皿も八人分。」

美咲は静かに言った。

「全部『八』なんだ。」

その数字だけが、このペンションの中で何度も何度も現れている。

偶然とは思えなかった。



夕食の時間になった。

食堂には静かなクラシック音楽が流れている。

昨日は「落ち着く宿だね」と話していたその音楽も、今日はどこか不気味に聞こえた。

修一は明るく振る舞おうとしていた。

「雨は夜には弱くなるそうですよ。」

誰も返事をしない。

真理子も笑顔で料理を運んでくる。

ビーフシチュー。

サラダ。

グラタン。

どれも香りは素晴らしい。

それでも食欲は湧かなかった。

「いただきます。」

小さな声だけが聞こえる。

スプーンが皿に当たる音。

ナイフで肉を切る音。

それだけが食堂に響いていた。

その時、美咲はあることに気づいた。

厨房の奥。

閉じられた扉の向こうから、誰かの話し声が聞こえた気がした。

「……ねえ。」

結衣に小声で話しかける。

「聞こえる?」

結衣は耳を澄ませる。

「……何も。」

やはり気のせいだったのだろうか。

だが、美咲には確かに聞こえた。

低い声。

誰かと誰かが、ひそひそと話しているような声。

この宿には、今いる人数以外にも誰かいるのではないか。

そんな考えが頭をよぎった。



午後十時。

部屋へ戻った四人は、誰一人眠ろうとはしなかった。

ベッドの上に座り、時計を見つめている。

昨夜と同じ時刻だった。

「今日は聞こえないといいね。」

奈々が無理に笑う。

しかし、その笑顔はすぐに消えた。

時計の針がゆっくり進む。

九時五十七分。

五十八分。

五十九分。

誰も言葉を発しない。

やがて——

午後十時。

廊下の柱時計が鳴り始めた。

――ゴーン。

一回。

――ゴーン。

二回。

重い音が館内へ響いていく。

三回。

四回。

五回。

六回。

七回。

八回。

九回。

そして——

十回目。

ゴーン……。

最後の鐘が鳴り終わった瞬間だった。

カチッ。

時計の針が動きを止めた。

「また……。」

結衣が小さく声を漏らす。

秒針は十時ちょうどを指したまま、ぴくりとも動かない。

部屋の空気が急に冷たくなったような気がした。

風の音さえ消える。

静寂。

その静寂を破るように——

ギシ。

廊下のどこかで床が鳴った。

四人は一斉に顔を上げる。

ギシ。

また一歩。

ギシ。

さらに一歩。

昨夜と同じ足音だった。

「……誰?」

奈々が震える声でつぶやく。

足音はゆっくり近づいてくる。

一歩。

また一歩。

美咲は息を殺しながら耳を澄ませた。

「数えて。」

健太が小さく言う。

美咲は頷いた。

一。

二。

三。

四。

五。

六。

七。

八。

「……八人。」

美咲の声はかすれていた。

「八人いる。」

しかし、この宿にはもう八人もいない。

高橋誠は姿を消している。

今この建物にいる人数とは、どうしても一致しない。

それでも足音は、確かに八人分だった。

しかも、その足音は部屋の前でぴたりと止まった。

沈黙。

誰も動けない。

コン……。

突然、ドアが小さく叩かれた。

全員が息を呑む。

コン。

コン。

ゆっくり三回。

誰も返事をしない。

ドアノブが——

カチャ……。

静かに回された。

鍵が掛かっている。

それでも何度も、ゆっくりと回され続ける。

カチャ……。

カチャ……。

カチャ……。

そして、不意に動きが止まった。

廊下に再び静寂が戻る。

「……行った?」

結衣がささやく。

その瞬間だった。

ドアの向こうから、小さな少女の声が聞こえた。

「……ひとり、たりない。」

四人は凍りついた。

次の瞬間、廊下を駆け去る八人分の足音が一斉に響き渡った。

ギシッ!

ギシッ!

ギシッ!

その音は東側の廊下へ消えていき、やがて何事もなかったかのように静寂だけが残る。

美咲は震える手でドアノブに触れた。

開けるべきなのか。

それとも、このまま朝まで待つべきなのか。

誰も答えを出せないまま、長い夜だけが静かに更けていった。