ネモフィラの中君は何度でも僕を忘れる

雪月は会うたびに、小さなものを縁に渡すようになった。

派手なものではない。

ただ、丁寧に時間をかけて作られたものばかりだった。

梅雨の季節が近づいたある日。

雪月は折り紙で作った白い紫陽花を差し出した。

立体的に何枚も重ねられた花びらが、淡い光を受けて静かに揺れる。

それは小さな写真立てに飾られていた。

「これ……縁さんの部屋に飾ってもらえたらって思って。」

縁はそれを受け取り、少しだけ息をのんだ。

「これ、作ったの?」

「はい。紫陽花って、梅雨の時期にいろんな色になるじゃないですか。でも白が好きで……。」

雪月は少し照れたように笑う。

「白って、落ち着くので。」

縁は何も言わず、その花を見つめたあと、小さく頷いた。

「ありがとう。」

それだけだったが、雪月は嬉しそうに笑った。

会うたびに、少しずつ距離は近くなっていくのに。

縁はそれ以上の言葉をなかなか返せなかった。

「好きです」と、雪月は何度も伝えていた。
そのたびに縁は、少しだけ目を逸らして「ありがとう」とだけ返す。

ある平日の夜。

縁は会社の飲み会帰りで、少し酔った様子だった。

雪月は連絡を受けて迎えに来ていた。

車に乗ると、静かな夜の空気が流れ込む。

会社の独身寮までの道は短い。

車内で、雪月は前を見たままぽつりと呟いた。

「女の子の気持ちって、すぐ変わるんですよ。」

縁は少しだけ眉をひそめる。

「そんなことないだろ。」

雪月は小さく笑った。

「どうかな……。」

信号で車が止まる。

その静けさの中で、縁は初めてしっかりと雪月の方を見た。

「雪月さん。」

「はい。」

短い間。

縁はゆっくりと言葉を選んだ。

「彼女になって欲しいです。」

一瞬、時間が止まったようだった。

雪月は目を見開き、それからすぐに涙を浮かべるように笑った。

「……好きです。」

それだけは、はっきりとした声だった。

縁は小さく頷く。

「ありがとう。」
それ以上は言わず、車は静かに走り出す。

やがて独身寮の前に着くと、縁は車を降りた。

「じゃあ。」

「はい。」

短い別れ。

縁はそのまま寮へ入っていく。

雪月は車の中から、その背中を見送った。

ドアが閉まる音がして、夜の静けさだけが残る。

しばらくしてから、雪月はゆっくりと車を発進させた。

帰り道、窓の外の夜風が少しだけ冷たかった。

それでも胸の奥には、確かな温度が残っていた。

付き合い始めてからの時間は、思っていたよりも穏やかで、あっという間だった。

湯布院では、静かな街並みを二人で歩いた。

湯けむりの立つ温泉街で、雪月は少し嬉しそうに笑いながら言った。

「こういう場所、好きです。」

縁は短く頷く。

「落ち着くな。」

門司港では、海風の中を歩いた。

レトロな街並みと海が重なり、雪月は何度もカメラを構えていた。

「ここも素敵ですね。」

「写真、いっぱい撮るな。」

「思い出、残しておきたくて。」

その言葉に、縁は何も言わずにただ隣を歩いた。

付き合って二ヶ月が過ぎた頃。

二人は豊後高田市の長崎鼻へ向かった。

一面に広がるひまわり畑。

その先には、静かに海が見えていた。

黄色と青の景色の中で、雪月はしばらく言葉を失っていた。

「……すごい。」

風に揺れるひまわりを見つめながら、小さく呟く。

縁はその横で立ち止まる。

ポケットから、小さな箱を取り出した。

雪月が気づいて振り向く。

「雪月さん。」

少しだけ間を置いて、縁は静かに言った。

「家族になりませんか。」

箱を開けると、小さな指輪が光を受けて輝いていた。

雪月は目を見開き、それからゆっくりと涙を浮かべる。

「……お願いします。」

その声は、震えながらもまっすぐだった。

ひまわり畑の風の中で、二人は静かに手を重ねた。

それからそれぞれの家へ挨拶に行き、季節は少しずつ移ろっていく。

十一月。

二人は同じ家で暮らし始めた。

最初は少しだけぎこちなく、それでもすぐに日常になった。

「おはよう」と「いってきます」と「ただいま」が、自然に増えていく生活。

そして十二月。

雪月の誕生日。

縁は博多への小さな旅行を計画していた。

博多駅はクリスマス一色で、イルミネーションが街を包んでいた。

「すごい……きれいですね。」

雪月は目を輝かせながら言う。

屋台の料理も、カフェも、夜のイルミネーションも、すべてが特別に見えた。

「誕生日、おめでとう。」

縁の短い言葉に、雪月は静かに微笑む。

「ありがとうございます。」

その笑顔は、初めて会った日の無人駅の頃よりも、ずっと柔らかくなっていた。

冬の博多の夜は、少しだけ冷たくて、それでも二人の時間だけは温かかった。
年末の空気は、どこか静かで、少しだけ慌ただしかった。

二人は自然と一緒に過ごす時間が増えていた。

大晦日の夜は、何気ない会話をしながら年を越し、翌朝はまだ暗い時間に家を出た。

「寒いですね。」

雪月がコートの襟を少し寄せる。

「もう少しだから。」

縁は短くそう言って、車を走らせた。

向かった先は佐賀関。

海の向こうがうっすらと明るくなり始める頃、二人は防波堤に並んで立っていた。

冷たい風の中、空がゆっくりと色を変えていく。

「……出てきた。」

雪月が小さく呟く。

水平線の向こうから、光が滲むように広がり、やがて朝日が顔を出した。

その光を、二人はただ黙って見ていた。

言葉はいらなかった。

それから初詣も済ませ、少しだけ眠そうな雪月を見ながら、穏やかな正月を過ごした。

夜。

縁の実家に向かう車の中で、雪月は少し緊張していた。

「大丈夫?」

縁がそう聞くと、雪月は小さく頷く。

「はい……少しだけ。」

玄関の扉が開くと、縁の母と姉が温かく迎えてくれた。

「いらっしゃい。」

「初めまして。」

雪月は丁寧に頭を下げる。

「桜庭雪月と申します。今日はお邪魔させていただきます。」

少しぎこちない挨拶に、縁の母は優しく微笑んだ。

「そんなに緊張しなくていいのよ。」

姉も明るく笑う。

「写真で見てたより、可愛いね。」

その言葉に、雪月は少しだけ頬を赤くした。

食卓には、家庭の料理が並んでいた。

温かい煮物、焼き魚、味噌汁。

派手ではないけれど、どれも優しい味がした。

四人で囲む食卓は、少しだけにぎやかで、でも落ち着いていた。

「縁がこんなに誰かを連れてくるのは珍しいのよ。」

母が笑いながら言う。

縁は少しだけ視線をそらす。

雪月はその横で、静かに微笑んでいた。

「素敵な方ですね。」

母の言葉に、雪月は小さく頭を下げる。

「ありがとうございます。」

縁はその横顔を見ながら、ふと気づく。

──この人は、もう自分の家族の中に自然に立っている。

夜が更けるころ、雪月は玄関で深くお辞儀をした。

「今日は本当にありがとうございました。」

「またいつでもおいで。」

母の言葉に、雪月は嬉しそうに笑う。

帰り道の車の中は、静かだった。

でもその静けさは、もう不安ではなかった。

二人の間には、確かに「家族」という言葉が少しずつ形になり始めていた。