Bitter Peach─この想いを、恋と呼べないまま─

 実家からは電車でおよそ三十分ほどのところにある甲斐多町(かいたちょう)。大学を卒業する前に、就職先に近いこの町に引っ越してきた柚月(ゆづき)。
 一軒家に住んでいる──というと贅沢をしているように聞こえるけれど、全くそうではない。一人暮らしをするのが不安だったので、ルームメイトを募集してルームシェアをすることにした。祖母が甲斐多町に物件を持っていたので貸してもらえることになり、ルームメイトもすぐに決まった。年上の社会人で、とても頼りになる人だった。

 ──それから約二ヶ月後の六月。
 駅前商店街のなかでひっそりと営業しているバー〝MOON〟は、柚月の行きつけの店になっていた。軽くなら食事もできるので、夕食を兼ねて来たこともある。会社までは家から徒歩なので、仕事帰りに寄るには遠回りになるけれど。

「いらっしゃい。今日は、一人?」
 MOONに入ると、マスターが笑顔で迎えてくれた。六十歳くらいの、落ち着いた男性だ。
「はい」
 短く返事をして席についてから、柚月はカウンターに置いてある小さな招き猫をぼんやり見ていた。

 猫を見るとどうしても、思い出してしまう。
 柚月には二歳年上の直幹(なおき)という恋人がいて、学生時代から三年半ほど付き合っていた。交際のきっかけが猫だったので、甲斐多町の名物が〝ねこさん饅頭〟と聞いて楽しみにしていた。〝紫陽花まつり〟も一緒に楽しむ予定だった。けれど彼は──ひとつの勘違いから、柚月には別れを告げて、去っていってしまった。
 それから柚月は何度か合コンに参加しているけれど、今のところ恋人ができそうな気配はない。

「柚月ちゃん、元気ないな?」
 注文したドリンクを出しながらマスターが聞いた。
「はい……。この町、暮らしやすくて気に入ってたんですけど……」

 柚月が溜め息をついたことで、何を言いたいのかマスターは察してくれたらしい。柚月が直幹にふられたことも、その原因も、すべて話してある。

「いまだに、猫を見たら、直幹を思い出してしまって……。冬木(ふゆき)病院も近いから行くんですけど、ときどき猫いるんですよね」
「おお、いるな。確か、柚月ちゃんと元彼は……怪我した猫を拾ってから、とか言ってたな?」
「はい。それがなくても付き合ってた、とは言ってたけど……でも今は……」
 柚月はふたたび大きくため息をついて、手元のグラスを見つめた。

「なぁ、柚月ちゃん、気晴らしに、紫陽花まつり行ったらどうや?」
 マスターがじっと柚月を見ていた。
「行きたいけど……一人で行ってもなぁ……」
「いやいや、あいつ誘って」
「あいつ? ……田﨑(たざき)さんですか?」

 柚月が聞いたとき、店のドアが開いて一人の男性・田﨑が入ってきた。
「おっ。噂をすれば」
 柚月もよく知っている、甲斐多町の住人だ。

 田﨑は少し顔を歪ませながら入ってきて、柚月の隣に座った。手に持っていたのは、〝スーパー壬生(みぶ)〟のレジ袋だ。
「ったくあいつ、妙に馴れ馴れしい。年が近いからか何か知らねぇけど、スポーツやってんのか、とか聞いてくるし」
「……壬生店長か?」
「そうです。晩酌のアテに何か買おうと思って惣菜見てたら、〝あれがオススメだ〟とか〝これは今日までだから買っとけ〟とか、うるさくて」
 田﨑は盛大にため息をついた。

「でも、美味しいですよね、あそこの惣菜。買ってきてるし」

 レジ袋は店のロゴが印字されている以外は透明なので、中身が見えていた。つまめそうな惣菜が二パックと、和菓子がいくつか転がっているのが見えた。

「今日は家で飲むんじゃないんですか?」
「そのつもりだったけどな……」
「じゃあ、ウチで飲んでくのか? 帰って飲むのか?」
 二人から聞かれ、田﨑は少し困った顔をした。

「つい足がこっちに……」
 田﨑は壬生店長の愚痴を言いたくて、MOONに足が向いてしまったらしい。

 買ってきた惣菜は明日にまわそうかと呟くと、マスターが言った。
「それ、温めてやろうか?」
「良いんですか?」
「ほかにお客さんいないから特別な。おまえ、いま帰っても一人やろ? ここやったら柚月ちゃんいるし」
「いや……柚月は別に……」
 もともと一人で飲むつもりだったので関係ない、と言いながら、田﨑は惣菜をマスターに渡した。

 マスターがキッチンへ行っている間、二人だけになった。
「今日も駄目だったのか?」
 柚月が直幹にふられて合コンで失敗続きなことは、田﨑も知っている。
「……そうです。趣味とか仕事は聞いてくれるけど、家の話をしたら……ルームシェアは嫌みたいで」
「──なるほど」

 柚月はため息をついた。
 田﨑は短く返事をしてポケットから煙草を取り出し、ライターで火をつけた。柚月とは違う方向に吐いた煙が細く揺れていた。

「壬生店長とかどうだ? 鬱陶しいけど良い奴だとは思うぞ」
「え? ……いや、そうですけど、ちょっと……私の好みじゃないです……」
「冬木院長は?」
「……あの、そもそも年齢が上すぎます」
 柚月はまだ二十二歳、冬木院長は三十代後半だ。嫌いではないけれど、いつも淡々と話されるのでプライベートが想像できないし、壬生店長と同じく柚月の好みでもない。

「ほら、温まったぞ。それと、ビールが合うよな。いつものやつ」
「……ありがとうございます」
 田﨑は温められた惣菜とビールを受け取りながら、勝手にビールが出てきたことに少しだけ不満そうにしていた。けれど確かに彼はいつも同じものを飲んでいるので、マスターが勝手に出して良かったとは思う。

「あとそれ、珍しいな? おまえが和菓子って」
「これですか? なんか、そこらじゅうに紫陽花まつりのポスター貼ってるじゃないですか? ねこさん饅頭って書いてるの見てたら、和菓子食べたくなって」

 田﨑が甘いお酒を飲んでいるのは見たことがないけれど、甘いものは好きだ、と聞いたことがある。

「紫陽花まつり──柚月ちゃんと行ってやれ」
「え?」
「いや、俺は別にまつりは……」

 柚月は田﨑と年齢は近い。
 彼からは名前で呼ばれているけれど、ただそれだけだ。

「良いです、別に、行かなくても……」
「運が良かったら出来立てのねこさん饅頭も買えるし、紫陽花の品評会もするらしいぞ。知ってるか? 評価の基準」
 聞きながら、マスターは少し笑った。
「……なんですか? 見た目、とかじゃないんですか?」
「デカさだ」
「え……なにそれ」

 甲斐多町で売られている多くの物がなぜか少しずつ大きくなっていく、とマスターは笑う。

「そういえば、壬生のコロッケもデカかったな……」
「ねこさん饅頭も大きくなってたりしてな」

 饅頭という単語に、田﨑の表情が少しだけ和らいだ。

「柚月──紫陽花まつり、つきあえ」
「……えええ? ねこさん饅頭目当てですか?」
「おまえも好きだろ、甘いもの」
「そうですけど……なんで私なんですか?」
「一人で行くの寂しかったんじゃないのか?」

 田﨑の質問に、柚月は何も答えられなかった。
 確かに一人で行くのは寂しいけれど、柚月には〝友人を誘う〟という選択肢もある。第一、彼と二人で行くと恋人だと勘違いされるのでは、という不安が柚月の脳裏に浮かぶ。そんなことを考えると、彼の隣に座っているのが落ち着かなくなってしまう。

 田﨑はふたたび煙草に火をつけた。
 いくら彼が甘いもの好きでも、ねこさん饅頭が目的とは思えないし、紫陽花に興味があるようにも見えない。
 彼が何を主目的で紫陽花まつりに行きたいのか、柚月には分からなかった。