Bitter Peach─この想いを、恋と呼べないまま─

「ちっ……しばらく無理か」
「──何がですか? ていうか、服着てくださいよ」
 柚月がリビングでテレビを見ていると、入ってきた輝生が舌打ちをした。彼はそのままキッチンへ行き、冷蔵庫を開けてアイスコーヒーを出した。夕食を終えて柚月は既に入浴を済ませ、輝生も浴室から出てきたところらしい。輝生は柚月に『はいはい』と言ってリビングを出てから、どこかで服を着て戻ってきた。
「雨。梅雨入りしたろ」
「ああ……そうですね」
 テレビではちょうど天気予報が出ていた。毎日ではないけれどほとんど毎日、六月中旬の週間天気予報には傘マークがズラリと並んでいた。柚月が休みの週末も、輝生が休みの平日も、すべて雨だった。
「洗濯物が乾かない」
「……私は頭痛が続きます」
「それ、耳のマッサージしたら良いらしいぞ。あと温めたり。俺は痛くならないからわからないけど」
 輝生はグラスに半分ほど珈琲を入れ、一気に飲み干した。グラスを洗ってから再び冷蔵庫を開け、明日の夕食は何にしようか、と食材を見ていた。
「田﨑さんって、家事スキル高いですよね」
「……そうか? あんたができないだけじゃねーの?」
 言い方に少し腹が立ったけれど、間違ってはいない。
「そうですけど……。おばあちゃんが教えてくれたんですか?」
「いや? あ──まぁ、それもあるかな。ばあちゃんも働いてたから、休みの日は掃除とか洗濯とか手伝い出して、それからかな。料理は高校の頃から作りだして、いまに至る」
「ふぅん……。すごいです」
 本当にそう思った。
 輝生が作ってくれる料理はすべて美味しいし、見た目も悪くない。洗濯はいまだに別にしているけれど長く溜めている気配はないし、着ている服からはいつも良い香りがしていた。柚月は輝生と出会ったときは彼に好印象は無かったけれど、いまは逆に好印象しかなかった。
「褒めても何も出ないぞ」
「別に何も求めてません」
「それなら良いけど」
 何も出ないと言うけれど、輝生は普段から柚月に優しかった。これ以上に何かを求めてしまったら、柚月が何もしていない、と求められてしまう。
「田﨑さん、明日は休みですよね?」
「なにか?」
「また、出かけるんですか?」
「いや──、明日はやめとく」
 わざわざ雨の日に行く必要はない、と呟いてから輝生は洗面所からタオルを持ってきて、濡れた髪を乾かしながら柚月の近くで胡座をかいた。
「どこに行ってるんですか? いつも」
 柚月が聞くと、輝生は髪を乾かす手を止めて柚月のほうを見た。
「どこでも良いだろ。あんたに関係ない」
 そしてまた輝生は、タオルを動かして髪をふいた。
「俺も、どこに行けば良いのかわかってねぇし」
「……なにそれ」
「だからいつも、違うところに行ってる」
「何かあるんですか?」
「さぁな」
 輝生はそれ以上は答えてくれなかったし、柚月も聞くのが怖くなった。しつこく聞くと怒られそうで、そんな彼の姿を想像するだけで背筋が凍ってしまった。
 もしかすると柚月は、輝生のことを好きになってしまったのかも知れない。外見は最初に格好良いと思ったし、背が高いので近くに立つと見上げないと顔は見えなかったけれど、ちょうど目線の高さに彼の顔が入ってくると見つめてしまっていることが増えた。
 食べ物の好みもだいたい同じで、月に何度かは二人でMOONにも行った。ルームシェアしていることで恋人にはフラれてしまったけれど、それも今では良かったと思えていた。柚月の同僚たちはこっそり輝生の店へ偵察に行ったようで〝格好良い!〟とはしゃいでいたし、輝生も同僚たちから慕われていると、飲み会のときの写真から伝わってきた。
 直幹と付き合っていたときはそれで十分幸せだったけれど、輝生と過ごしているうちに、直幹に足らなかった部分が見えるようになった。いつも言葉で気持ちを伝えてくれていた直幹と、何も言わずに黙って行動だけしている輝生。もしも違う誰かと付き合ってルームシェアが知られてフラれて、慰めてくれるのが直幹だったら──。優しい言葉で慰めてくれたかもしれないけれど、余計に心が疲れたかもしれない。
 いつか先輩が言っていた〝五歳上がちょうど良い〟の意味が、今更になってわかった。輝生はおそらくすべての人生経験が直幹よりも豊富で、柚月がこのまま暮らしていくのに何の文句もない相手だった。
「俺そろそろ寝るけど。柚月は?」
「え? あ──、寝ます」
 それなら先に上がれ、と言われ、柚月は慌てて階段を上った。なるべく輝生のほうは見ないようにして、できるだけ平静を装って部屋に入った。ドアを閉めてから、パタン、とベッドに倒れ込んだ。部屋の外から輝生が階段を上ってくる足音が聞こえて、やがて足音は隣の部屋に消えた。
 壁が厚いのか、それとも輝生が静かにしているのか、彼の気配は一切感じなかった。息を潜めて耳を澄ましてみたけれど、何も聞こえない。
 いま彼は何をしているのだろうかと想像してみたけれど、何も浮かばなかった。寝ると言っていたので布団の中かもしれないし、まだ起きて何かしているのかもしれない。いくら柚月が想像したところで正解はわからないし、だからといって聞くわけにもいかない。
(田崎、輝生……二十七歳、格好良い、優しい)
 電気を消して布団に入っても、輝生のことばかり考えてしまった。彼との日々を思い返してみたり、仕事中の様子を想像してみたり、考え出すと止まらなくなって、布団を頭まで被った。
(やばい……どうしよう……)
 輝生は出会ったときから〝無益な付き合いはしない〟と言っていたし、柚月にも特に何もしてこない。ということは彼は柚月には特に何の感情もないことになるけれど、柚月はそうはいかなくなっていた。彼が隣の部屋にいると思うと、眠りたいのに目は覚めてしまった。彼のいろんな表情を想像して、止まらなくなって、今度は頭から布団の中に潜り込んだ。
 柚月は輝生のことを好きだと認めてしまった。胸がきゅぅっと苦しくなって、握られている感覚がした。けれど彼の思いは何もわからないし、休みにどこへ出かけているのかも教えてくれなかった。気になるけれど、輝生は答えるのを拒否しているように見えた。これ以上に踏み込んでくるな、ということだ。
(気になる……でも……)
 さんざん悩んだけれど、柚月はまだ輝生には何も言わないことに決めた。