Bitter Peach─この想いを、恋と呼べないまま─

 四月下旬からの連休の間に、柚月はなんとか失恋から立ち直ることができた。直幹からもらった大学の卒業祝いのシャボンフラワーは、使おうか捨てようか悩んでいると、輝生が〝良い匂いするから芳香剤代わりに店で使う〟と言って使いやすい大きさに分けて持っていった。クローゼットには直幹からもらったプレゼントがいくつか残っていたけれど、持っているのも嫌だったので思いきって捨てた。お揃いのアクセサリーもあったけれど、それもたいして高額ではないと知っていたので思いきって捨てた。
「おはようございます!」
 久々に出勤した五月初旬の朝、席に着くと隣の席の先輩が笑いながら柚月を見ていた。
「え……何かおかしいですか?」
「ううん、朝から元気良いな。良いことあったん?」
 先輩は聞いてはきたけれど、柚月の答えは求めていなかったらしい。柚月がパソコンの電源を入れて立ち上がるのを待っている間に、先輩はどこかへ行ってしまった。
「北原さーん」
「はいっ」
 遠くから呼ばれて思わず立ち上がった。声の主は先輩ではなく、マーケティング部の部長だった。彼はアラフォーの働き盛りで、綺麗な奥さんと育ち盛りの子供がいるらしい。
 部長は笑顔で歩いてきて、柚月の隣で止まった。
「立たんで良いから座り。どう? 仕事慣れた?」
「はい、なんとか」
「分からんことあったら、なんでも聞いてな。みんなちゃんと教えてくれるから」
「はい」
「あのな、入社して研修とか、他の部署の人らは忙しかったりで遅くなったんやけど、歓迎会すんねん」
 そういえば歓迎会がまだだったな、と話を聞いていた周りの人たちもぽつりと言った。
「予定大丈夫? あかん日ない?」
「いつでも大丈夫です」
「……あんまり言うたらセクハラて言われるけど、週末は彼氏とデートやからあかん、とかない?」
 部長は少し声を小さくして聞いた。席に戻ってきた先輩が柚月を見ながら、気ぃ遣わんで良いで、と笑った。
「ないです。いつでも行きます!」
 今のところ候補はこの日とこの日と、と言ってから、部長は自分の席に戻っていった。
「北原さん、彼氏とはどうなん? 連休中に会えたん?」
 先輩はパソコンの画面を見たまま、手はカチャカチャとキーボードの上で動かしていた。柚月もブラインドタッチはできるけれど、今はそこまで求められる仕事はないし、フォーマットを覚える時期なので、あちこちしっかり見ながら作業している。
「会えたのは会えたんですけど──」
「ん? どうしたん?」
「……ふられました」
「ええっ?」
 昼の休憩時間になってから、柚月は女性の同僚たちに囲まれて失恋の話をしていた。男性とルームシェアしている事実は伏せて、彼氏の機嫌を悪くして怒られて別れた、とだけ簡単に話した。
「まぁ、しゃーないな。まだ若いし、これからこれから」
「はい……。でも、やっぱり、三年半も付き合って別れるって、ダメージ大きいです……」
 直幹が怒る顔を見るのは本当に嫌だったし、泣き腫らした目蓋がもとに戻るまでも時間がかかってしまった。落ち着いてから連休中に一人でMOONに行って、輝生とのルームシェアが直幹にバレてフラれた、とマスターに話した。
 柚月が彼氏にフラれたことは、なぜか事務所内に広まってしまったらしい。女性たちは〝○○部の△△君は格好良い〟だとか、男性たちは〝俺は次男だ〟とか、性別関わらず〝□□君は彼女募集中〟だとか言っていたけれど、柚月はそのどれも全く気にならなかった。
 恋人はほしいけれど輝生の影がちらつくし、そもそも社内恋愛するつもりが全くなかったからだ。
「北原さん、ここ良い?」
「はい。どうぞ」
 柚月たち新入社員の歓迎会で、柚月の隣に座りに来た男性がいた。彼は三十歳くらいで、社内でもモテているほうだと思う。
「北原さん──彼氏にフラれたって聞いたんやけど」
「そうです……」
「あっ、ごめん、嫌なこと聞いた?」
「いえ……大丈夫です」
 既に直幹のことは吹っ切れているし、思い出しても涙は出てこない。
「理由は聞いて良いんかな?」
「理由……」
「嫌やったら良いで。変なこと聞いて嫌われんのも嫌やし」
 ははは、と彼は笑いながら、持ってきたビールを飲んだ。グラスを置いてから、真剣な顔をしていた。
「北原さんと仲良くなりたくて──」
 彼は柚月と違う部署だったけれど、関わることは多かったのでいつも面倒をみてくれていた。だから既に仲良くなりつつはあったので、彼が言っているのはきっと、恋人として、だ。
「今度さぁ、デートせぇへん?」
「……それは、ごめんなさい、無理です」
「えー、なんで? 俺のこと嫌い?」
「いえ、嫌いではないんですけど……。私──社内恋愛はしないことに決めてて」
「なんで? ……気になるから?」
「それもあるけど、もし別れたら気まずいじゃないですか」
 柚月は大学生になってからは直幹だけだったけれど、高校のときは何人かと付き合っていた。学年が違う相手のときはまだ良かったけれど、同級生・特にクラスメイトと付き合ったときは彼の行動がいちいち気になって勉強どころではなかったし、別れたあとしばらくは顔を見るのも嫌なくらいだった。卒業してからは会わなくなったけれど、同僚とはそう簡単に離れる機会はない。
「ふぅん……。でもそれやったら、出会いないやろ?」
「そうですけど……」
「大丈夫よ、北原さん若いし可愛いし、すぐ彼氏できるって」
 柚月が困っていると、先輩が近くに来て助けてくれた。柚月にデートを断られた男性は、くそぉ、と言いながら、他の男性たちのところへ行ってしまった。
「北原さん、ほんまに社内恋愛は嫌なん?」
「はい。友達が社内恋愛してるんですけど、女の人に話しかけられてるの見る度にモヤモヤする、って言ってて」
「それはあるやろなぁ。あっ──こないだは聞かんかったけどさぁ、もしかして彼氏にフラれたのって、男とルームシェアしてるのバレたん?」
 先輩は周りを気にしながら、小さい声で聞いた。
「……そうです」
「あちゃー」
「だから……同棲できるなら良いんですけど、無理やったら、許してくれる人じゃないと……。そんな人、いないですよね」
「おらんな……。その人とはさぁ、どんな感じなん?」
「何もないですよ。最初に比べたら話すようになったけど、そんな話、一切ないです」