乾杯はふたりだけの秘密

 暖簾をくぐって外へ出ると、十二月の夜風が鋭く頬に触れ、結衣は思わず肩を竦めた。白い息を散らす風が、酔いで火照った体の熱を一瞬で奪った。
「寒くない? 大丈夫?」
 結衣は新田の顔を覗き込み、体調を気遣いながら歩幅を詰めて歩いた。
「はい、大丈夫です。何か、すみません」
「別に忘年会は強制じゃないんだし、体調悪いならやめとけばよかったのに」
 断らない性格の新田に、忠告の意味も込めて言ったつもりだった。
「でも……」
「でも何?」
「先輩が行くから」
「はあ?」
「またいつもみたいに飲み過ぎたらと思って」
 新田が僅かに眉をひそめたのを目にして、結衣は苛立ちを覚えた。
「いや、だからさあ、前にも言ったよね?」
 つい口調を強めてしまう。
「でも、今日はのんべえ会じゃないんで。……営業チームには佐々木先輩がいるから」
「え?」 
 それが飲み過ぎることと何の繋がりがあるのか理解できず、結衣は考えを巡らせた。
「もし何かあったら困るんで」
「え、それってもしかして、前にまさやんとなかじーが話したこと気にしてる?」
「はい、そうです」
「やだぁ、大丈夫だよ。そんなこと気にしてたの? だってそれ、かなり前の話だよ。二年……いや、もっと前だと思う」
 予想外の理由に驚き、結衣は大袈裟だと言わんばかりに軽く笑ってみせた。けれど、新田は全く表情を緩めない。
「先輩、何でそんな軽く言うんですか? 絶対に大丈夫なんて保証、どこにもないじゃないですか」
 口調は丁寧でも、新田が感情を荒げているのがはっきりと見てとれた。初めて向けられた鋭い視線と強い口調に動揺し、結衣は言葉を失った。
 しばらく沈黙が流れ、やがて駅に到着した。
「だって先輩、俺を家に入れてるじゃないですか」
 ホームで不意に新田から発せられた言葉は、さっきの続きだとわかる。
「いや、それは……」
 返す言葉が見つからない。
「俺が嫌なんです、心配なんです。……それだけの理由です」
 一瞬、呼吸を忘れた。それだけの理由で、もう充分だった。まるで、嫉妬している恋人のセリフだ。
 その時、電車が到着するアナウンスとメロディが流れ、強制的に会話が終了した。

 胸の奥にざわつきを残したまま電車に乗り込むと、いつものように空いた座席へと促された。結衣が黙ってそれに従うと、新田は目も合わせないまま隣に腰を下ろした。
 体調のせいなのか機嫌を損ねたのか、新田は腕組みをして目を閉じたまま無言を貫いている。それでも、無視をされていたわけではなかったようで、到着のアナウンスが流れると目配せをしてきた。
 電車を降り、階段を上る新田の足取りはしっかりとしているように思えるが、息遣いや表情を見る限り、かなり辛そうだ。
「ありがとうございました」
 地下鉄の出口を出てすぐの信号で新田が頭を下げた。
「ああ、今日は家まで送るよ。病人だからね」
「それはどういう感情ですか? 木村先輩に頼まれたからですか?」
 思いがけない問いかけに、何と答えていいのかわからない。
「え、どういうこと?」
「それ、マジで俺のこと心配してくれてますか?」
「そりゃそうでしょ。じゃなきゃ、送るなんて言わないよ」
 突然何を言い出すのかと、結衣は困惑していた。
「じゃあ看病してくださいよ。俺んちで」
「え?」
「無理なら、そんな優しさいらないです。お疲れ様でした」
 新田の冷たい視線が、結衣の胸を締め付ける。
「待って!」
 咄嗟に彼のコートの袖を掴んでいた。
「うち、来る?」
「え?」
「人の家だと勝手がわからないから」
 口火を切ったわりに、新田の目には戸惑いが滲んでいる。
「いいんですか?」
 結衣は小さく頷くと、掴んでいたコートを離した。
 信号待ちの間、一言も喋らない新田との間には気まずい沈黙が流れていた。何を話せばいいのか、彼が何を考えているのかも全くわからなかった。
 信号が青に変わり、流れに沿って横断歩道を進む。
「ちょっとコンビニ寄ってもいい?」
 沈黙の中で言葉を探した末に、結衣はそう切り出してコンビニ前で足を止めた。
「はい」
「ごめんね。すぐだからちょっと待っててくれる?」
「はい、外で待ってます」
 結衣はひとりでコンビニに入ると、スポーツドリンクと、食べやすそうなプリンやゼリーをいくつか選んでカゴに入れ、素早く会計を済ませた。
「お待たせ」
「いえ。早かったですね」
 新田はそう言っただけで、また口を閉ざした。