愛する君を消す

白さが外側から薄くなった。布団の縁の冷たさが戻ってきた。枕元の時計は朝八時を二分過ぎていた。

上体を起こした。脚が一瞬だけ床の冷たさを思い出した。机の上に、昨夜借りて帰った布張りの本が、置いた角度のまま、置かれていた。指は伸ばさなかった。今は触れる順番ではなかった。

机の前に立った。引き出しの一番上を引いた。紙の袋に入れたお守りが、十一月末から置いてあるそのままの位置にあった。

——これ、夕方、またポケットに入れて行く。

頭の中で確認し、引き出しを閉じた。

***

引き出しの奥の便箋の束を机に置いた。罫線のない白い便箋。万年筆を抜いた。大学に上がる時に買った一本で、ほとんど眠っていた。シャープペンの線では軽すぎる、とだけ自分に説明した。ペン軸を窓に向け、首の細いところを朝の低い光に透かした。インクは半分あった。便箋の厚さと書く順序の長さを頭の中で並べた。半分あれば足りた。窓ガラスの結露がうっすら残っていた。事故までに九時間あった。

椅子に座り、正面の壁をしばらく見ていた。書く順序はいつ並べ直しても同じだった。

桜井詩織様

と書いた。書きながら、手の方が勝手に丁寧になっていた。「様」をこれだけ丁寧に書いたのは、たぶん初めてだった。ペン先が紙の上で止まった。インクの最後のひと粒が紙の上で薄く広がるのが見えた。名前の四文字をしばらく見ていた。

君がこれを読む頃。
僕はもう、君を愛していないかもしれません。

***

何を書くかは並べてあった。順に降ろしていった。手つきの半分は、ゼミの報告書を書くときと同じだった。

ペンが止まる箇所が何度かあった。「彼女が、事故で」の最後の点が紙の上で長く止まった。震えを止めずに、神社で彼女が語ってくれた一節を書き写した。原文の字句に揺れがないよう二度確かめた。

「二つの心」のところで、ペンを一度止めた。

両義のまま並べて書いた。「ふたごころ」と読めば、自分の中の二つに分かれた心のこと。「二人の心」と読めば、僕と彼女の、二つ。どちらが正しい読みか決められない、と書いた。

決められないまま祈ります、と書いてから、嘘だ、と思った。

一枚目を破った。折って脇に置き、新しい一枚を取った。

もし選べるなら、と書いた。書いた直後に、選べる立場にない、と短く付け足した。間の説明は省いた。書かれない一行が、二行のあいだに薄く残ればいいと思った。

三角の印を便箋の余白に入れた。挿入の印。「片想いの君を」の六文字を書きかけてやめた薄い線が、一枚前の便箋にあった。三角は、その薄い線の上に後で重ねる印だった。

ペン軸を二度、机の端で軽く打った。同じ間隔で、同じ高さで。シャープペンのノックを二度押して芯を押し戻す、いつもの癖の言い換えだった。

***

最後の頁の前で、ペンをいったん置いた。窓ガラスに、冬の昼の乾いた葉擦れの音が一度だけ当たった。

図書館の棚の前で初めて指が触れた日のこと、傘の中で君の肩が僕の右半身の少し前にあった日のこと、川沿いのプラネタリウムで君が藍色のドームを見上げた横顔のこと、苔の参道で君が言い伝えを語ってくれた声のこと、クリスマスイブの前日のソファで眠ってしまった君の横顔のこと——ひとつずつ書き残した。「眠ってしまった君の」でペン先が止まった。続きの字は同じ濃さで書けなかった。書き直さなかった。

書いている間、僕はまだ君を()()()()()

***

結びは短くした。これを書き終えたら君のところへ行く。何も言わずに決めてしまったことへの謝罪。それでも君は戻る。いまの僕のこれだけは、ここに置いていく。

いちばん伝えたかった一行は、最初に書き出したときから決まっていた。

僕のことはもう忘れてください。君は、君で、幸せになってください。

そう書いた。短く、平らに。何度か読み返した。書き直さなかった。

最後の便箋の末尾に日付を入れた。西暦の下二桁、月、日。六桁。報告書を書くときの規律のままだった。ペンを置いた。便箋を両手で揃え、角を二度、机の上で打って整えた。封筒には入れなかった。束のままの方が見開きの厚みに馴染む。

***

机の上の布張りの古い本を両手で中央に引き寄せた。両手の親指が、表紙の左下の小さな丸い染みの上に揃って置かれていた。本を寝かせ、親指を背に添えて力を抜いた。本は自分の重みの落ちる通り、ひとりでにある見開きで止まった。何度も開かれた跡が紙の側に刻まれていた。便箋の束を挟んだ。「桜井詩織様」の上の縁が、紙の縁から五ミリほどはみ出すようにした。本を閉じ、机の中央に寝かせた。

——あとは、彼女を救うだけだ。

椅子の背にもたれた。窓の外の光が、もう低くなっていた。腕時計は四時半を回ったところだった。引き出しからお守りを取り出し、コートの内ポケットの右に入れた。家を出た朝と同じ位置に。

玄関で靴を履いた。ドアノブに右手をかけたまま、ひと呼吸置いた。

——行ってきます。

ドアを開けた。