愛する君を消す

部屋に戻ったのは午後三時過ぎだった。鳩尾(みぞおち)のあたりに温度のない水溜まりがあった。何も書かなかった。書いても消える。身体が覚えていた。今夜のことを頭の中だけで並べた。順番はいつ並べ直しても同じだった。

***

夜の九時を過ぎていた。机の引き出しを開けた。お守りは十一月末から置いてあるそのままの位置にあった。紙の袋ごと手のひらに乗せた。コートを羽織り、内ポケットの右に入れた。家を出た朝と同じ位置に。

玄関で靴を履きながら、廊下の先の布張りの本を視界の端で確かめた。指は伸ばさなかった。今夜はまだ触れる順番ではなかった。

駅で降り、坂の手前から先の街灯はいくつか切れていた。塀の上の紫陽花は、茶色の縁取りの中まで乾いていた。冬枯れの枝の細い影が、街灯のないところでは判別できなかった。

——彼女はここで、青がきれいですね、と言った。

思い出してから、頭を一度振った。今夜は思い出すための夜ではなかった。

鳥居の前で、夏祭りの夜と同じ角度で、一度目より深く頭を下げた。砂利の参道は夜の色をしていた。月はなかった。手水鉢の縁の苔の冷たさだけが一度目と同じだった。境内は暗い砂利の色でひらけ、明かりも人もいなかった。冬の夜の細い乾いた音だけが参道の外側で続いていた。

拝殿の前に立った。賽銭箱には何も入れなかった。鈴緒(すずお)にも手を伸ばさなかった。言い伝えに作法は書かれていなかった。ただあの一節だけが、紙の上で乾いた声をしていた。

——愛する者を運命から取り戻すには、二つの心から、その者の面影を消し去るしかない。

心の中で一度、置いた。両膝を砂利の上にゆっくり降ろした。額は地面につけなかった。今夜は捧げる側だった。下げきらない角度の方が、差し出すものの輪郭をこちらに残してくれた。内ポケットから両手でお守りを取り出した。胸の前で握り直した。指の腹に布の角が当たった。親指の腹で刺繍の字をなぞった。凹凸はもう、指の腹に返ってこなかった。なぞった気がするだけだった。息は白く出るそばから、白さが薄くなった。鳥居の向こうから風が下りてきた。首の後ろから入って、背中の内側で止まらなかった。湿った雪が、重く落ちはじめていた。袖の上で一粒、すぐに溶けた。

目を閉じた。瞼の裏に、ひとつずつ浮かんできた。

民俗学の棚の、上から二段目の本の背に触れた指の側面の、冷たさのすぐ隣のわずかなあたたかさ。夏祭りの夜、麓へくだる坂で半歩うしろから合わさってきた手のひらの、深く組まないまま触れていた指の付け根のかすかな湿り。

それ以上は増やさなかった。増やせば捧げるのに惜しくなった。二つで止めた。

心の中で息を整えた。言葉が口から出るまで、たぶんひと呼吸より長い時間があった。

——これを捨てます。
——愛する君を()()()()
——だから、戻してください。

砂利の上の両膝の冷たさがふいに遠くなった。

***

何かが鳩尾の底から細い線で夜の空気の方へ抜けていった。抜けながら、抜けきっていない感触があった。線の途中で何かが途切れずに、底のほうに小さな塊のまま残っていた。残ったぶんは抜けたぶんよりも重かった。左の鎖骨の下に針先ほどの熱が一点残った。指で押さえれば消えるはずだ、と思って指は動かさなかった。両手で握ったお守りは、布のままそこにあった。

——救えれば、わかる。

言い伝えには、捧げ切れたかどうかの確かめ方は書かれていなかった。

視界の端がぐらりと傾いた。耳鳴り。瞼の裏で白い光が強くなった。砂利の冷たさが両膝から遠のいていった。

——戻る。あの朝に。

——愛する君を救い出す。