その手を、もう離さない


昼休み。

いつものように踊り場へ向かう。

付き合う前から何度も通った場所だ。

初めてまともに話した日も。

雨の日ルールが生まれた日も。

告白した日も。

思い返せば、大事な記憶は全部ここにある。

扉を開くと、翡翠はすでに来ていた。

窓際に腰掛けながら本を読んでいる。

柔らかな光が横顔を照らしていた。

その姿を見た瞬間、美都は少しだけ笑う。

やっぱり安心する。

会えただけで嬉しいと思う自分が、最近は少し可笑しかった。

「美都」

名前を呼ばれる。

最近はそれが当たり前になってきた。

最初は心臓が止まりそうだったのに、人間というのは慣れる生き物らしい。

もちろん、完全に慣れたわけではない。

今でも胸は少しだけ騒ぐ。

けれど以前ほど取り乱さなくなった。

その代わり、別の問題が生まれていた。

今度は自分が呼びたくなっているのだ。

翡翠、と。

ただ名前を呼ぶだけなのに妙に照れくさくて、結局一度も呼べていない。