それから五年の月日が経った。
私はチームリーダーに昇進した。
それでも、私の下には相変わらず神崎くんがいる。
「比留間リーダー、月次まとめました。それから、こちらが先月取引のあった顧客リストで、こちらが3ヶ月以上アプローチしていない顧客リストです」
「ありがとう。相変わらず早いね」
「はい。比留間リーダーに育てていただきましたから」
「神崎くんの実力だと思うよ?」
「いえ、比留間リーダーがいなければ今の僕はありません」
神崎くんはニコニコ笑っている。
忠犬のようにしっぽがあれば、振っているだろう。
「それと、今日は洋食屋ですか?」
「え?」
「昨日はラーメンでしたし、一昨日は定食だったので、そろそろ洋食屋かと」
そこに、同期の高橋くんが現れる。
「おう、比留間。今日同期で定食屋行くけど、お前も来る?」
「誰がいるの?」
「田中と鈴木」
「男ばっかりじゃない。今日はパス」
私はサクッと断った。
「だから比留間を呼んでんじゃん」
それでも、高橋は怯まない。
多分、田中から私を誘うように言われているのだろう。
このところ、なにかに付けこれが続いてる。
神崎くんは自然に割って入る。
「先輩、洋食屋混んじゃいますから行きませんか?」
私は神崎くんの助け舟に文字通り助けられた。
「そうね。高橋くん、別の機会で誘って。神崎くん、行こ」
「はい」
オフィスを出たところで、神崎くんに耳打ちをする。
「……最近、田中くんがちょっとしつこいの。助かった」
「はい!」
神崎くんが笑顔になった。
私には、神崎くんにしっぽが生えているように見えた。
――忠犬じゃなくて番犬かな?
洋食屋では、いつもと同じ注文を神崎くんがオーダーしてくれる。
注文が終わって落ち着いたとき、神崎くんの表情が変わる。
「比留間リーダー」
「……なんでしょうか?」
つい、私もかしこまってしまう。
「あの、お伝えしないといけないことがあります」
「……はい」
「以前お伝えしたとおり、僕の実家は会社を経営しています」
「はい……」
嫌な予感。
たしかに聞いた。
私がリーダーになった頃に。
そしてその時、私は思った。
それなら、彼はきっといずれ……。
「会社を継ぐため、退職することに決めました」
――やっぱり。
彼は真っ直ぐな目でこちらを見ていた。
今までなら、この目を可愛いと思っていた。
でも今日は……。
「そう。寂しくなるわ。でも、頑張って」
こう言ったのは、元教育係であり、そして上司としての強がり。
「……はい」
神崎くんは少し寂しそうな顔をした。
私だって寂しい。
それは、長く一緒に働けば当然だ。
「退職願は、退職希望日の1か月前には出してね」
「……あの……」
「ん?」
「新入社員で入社したときから、ずっと育てていただき、ありがとうございました」
「うん。こちらこそ、ついてきてくれてありがとう」
「比留間リーダーと、ずっと一緒に仕事していきたかったです」
神崎くんのその言葉は、思っていた以上に嬉しかった。
でも、勘違いしちゃいけない。
これは、上司としての私に向けられた言葉。
「……でも、最初から会社を継ぐつもりだったでしょ?」
私は、動じた素振りを見せないように、笑ってみせた。
「え?」
神崎くんは意外そうな表情をする。
「実家が会社経営って聞いてから、ずっとそうかなって思ってた」
「そう……だったんですね」
「うん。だから、そのうちこんな日が来るかなって覚悟してた」
「……比留間リーダーは……」
一度、言葉が止まる。
彼の表情がまた少しだけ寂しそうになる。
「僕がいなくなっても……それほど気にされないですよね」
「え?」
私は思わず聞き返した。
神崎くんは少しだけ笑った。
でも、いつもの笑顔じゃない。
何かに納得してしまったような顔だった。
「いえ……すみません。変なことを言いました」
そこに、注文したパスタが届いた。
「やっぱり、ここのパスタは美味しいですね。そういえば、先日、やっと妹にこの店を紹介できました。すごく喜んでいて、僕まで嬉しくなっちゃいました」
いつもの神崎くんに戻った。
ホッとしてしまった自分がいた。
――何だったんだろう?
いや、そんなことを気にするより、神崎くんが抜けた後のことを考えなくちゃ……。
パスタを食べながら、少し不安になった。
洋食屋から戻ってお手洗いに行くと、いつもどおり茉乃がいた。
「相変わらず、後輩くんと仲いいね」
「そうね。うちのチームで一番長いしね」
私は当たり前のことのように返した。
でも、茉乃はそれに納得してくれない。
「ねぇ、そろそろ無理があるんじゃない? 長さだけの問題じゃなくない?」
でも、これはいつものやり取りだった。
毎回、茉乃は何を言ってるんだか。
「だって、3歳年下だよ?」
「愛があれば年齢は関係ない!」
「……シスコンだし」
「それは……ちょっとアレだけど」
「ね。だから、神崎くんとはそういうのじゃないの」
いつもの茉乃なら、ここで終わってる。
でも、今日は違った。
「もう! 私たちももう30だよ? 素直にならないと後悔するかもよ」
私は少し驚いて、目を瞬かせた。
「……別に、強がってなんかないよ」
私は茉乃に笑ってみせた。
茉乃はそんな私の笑顔に納得した様子はないまま、私をおいて、お手洗いを出ていってしまった。
本当に強がってなんかいない。
私の下からいなくなる覚悟はしていたし、彼にとって必要な次へのステップだから。
ただ、いつも当たり前に隣にいると思っていた人がいなくなるのは、寂しくて当然だ。
茉乃がどうしていつもと違ったのか、私には分からなかった。
神崎くんの退職のことは茉乃はまだ知らないはず。
それとも、神崎くんの退職を聞いた動揺を、茉乃には見抜かれてしまったのか……。
私はため息をついて、壁にもたれ掛かった。
それから数日後。
「先輩、映画観に行きませんか?」
「はい?」
神崎くんの急な映画へのお誘いに、つい、声が裏返った。
「妹が書いた小説が映画になったんです。だから先輩にも観ていただきたくて」
「小説? 妹さん、作家さんなの?」
「いえ……正確には違うんですけど、たまたまネットで公開した小説がバズったみたいで」
「へぇ。すごいね」
「妹からチケットをもらったので、一緒に行っていただけたら助かります」
神崎くんの表情は、お散歩に行きたくてリードを咥えてきた犬のようだった。
「友達と見に行かないの?」
「それも考えたんですが……恋愛物なので、男友達とは観に行きにくくて」
「妹さんと行けば?」
「……それが、実話を元に書いているみたいで……さすがに兄と観るのは恥ずかしいそうです」
「それはそうね」
少し考える……ふりをする。
「いいよ。その映画、私も観てみたい」
その返事に、神崎くんの表情は明るくなる。
しっぽが振れているように見える。
お散歩に行けることになった犬みたい。
「今週末から始まるみたいなんですが、いつなら空いてますか?」
「それなら、今週末に観ようか?」
私はチームリーダーに昇進した。
それでも、私の下には相変わらず神崎くんがいる。
「比留間リーダー、月次まとめました。それから、こちらが先月取引のあった顧客リストで、こちらが3ヶ月以上アプローチしていない顧客リストです」
「ありがとう。相変わらず早いね」
「はい。比留間リーダーに育てていただきましたから」
「神崎くんの実力だと思うよ?」
「いえ、比留間リーダーがいなければ今の僕はありません」
神崎くんはニコニコ笑っている。
忠犬のようにしっぽがあれば、振っているだろう。
「それと、今日は洋食屋ですか?」
「え?」
「昨日はラーメンでしたし、一昨日は定食だったので、そろそろ洋食屋かと」
そこに、同期の高橋くんが現れる。
「おう、比留間。今日同期で定食屋行くけど、お前も来る?」
「誰がいるの?」
「田中と鈴木」
「男ばっかりじゃない。今日はパス」
私はサクッと断った。
「だから比留間を呼んでんじゃん」
それでも、高橋は怯まない。
多分、田中から私を誘うように言われているのだろう。
このところ、なにかに付けこれが続いてる。
神崎くんは自然に割って入る。
「先輩、洋食屋混んじゃいますから行きませんか?」
私は神崎くんの助け舟に文字通り助けられた。
「そうね。高橋くん、別の機会で誘って。神崎くん、行こ」
「はい」
オフィスを出たところで、神崎くんに耳打ちをする。
「……最近、田中くんがちょっとしつこいの。助かった」
「はい!」
神崎くんが笑顔になった。
私には、神崎くんにしっぽが生えているように見えた。
――忠犬じゃなくて番犬かな?
洋食屋では、いつもと同じ注文を神崎くんがオーダーしてくれる。
注文が終わって落ち着いたとき、神崎くんの表情が変わる。
「比留間リーダー」
「……なんでしょうか?」
つい、私もかしこまってしまう。
「あの、お伝えしないといけないことがあります」
「……はい」
「以前お伝えしたとおり、僕の実家は会社を経営しています」
「はい……」
嫌な予感。
たしかに聞いた。
私がリーダーになった頃に。
そしてその時、私は思った。
それなら、彼はきっといずれ……。
「会社を継ぐため、退職することに決めました」
――やっぱり。
彼は真っ直ぐな目でこちらを見ていた。
今までなら、この目を可愛いと思っていた。
でも今日は……。
「そう。寂しくなるわ。でも、頑張って」
こう言ったのは、元教育係であり、そして上司としての強がり。
「……はい」
神崎くんは少し寂しそうな顔をした。
私だって寂しい。
それは、長く一緒に働けば当然だ。
「退職願は、退職希望日の1か月前には出してね」
「……あの……」
「ん?」
「新入社員で入社したときから、ずっと育てていただき、ありがとうございました」
「うん。こちらこそ、ついてきてくれてありがとう」
「比留間リーダーと、ずっと一緒に仕事していきたかったです」
神崎くんのその言葉は、思っていた以上に嬉しかった。
でも、勘違いしちゃいけない。
これは、上司としての私に向けられた言葉。
「……でも、最初から会社を継ぐつもりだったでしょ?」
私は、動じた素振りを見せないように、笑ってみせた。
「え?」
神崎くんは意外そうな表情をする。
「実家が会社経営って聞いてから、ずっとそうかなって思ってた」
「そう……だったんですね」
「うん。だから、そのうちこんな日が来るかなって覚悟してた」
「……比留間リーダーは……」
一度、言葉が止まる。
彼の表情がまた少しだけ寂しそうになる。
「僕がいなくなっても……それほど気にされないですよね」
「え?」
私は思わず聞き返した。
神崎くんは少しだけ笑った。
でも、いつもの笑顔じゃない。
何かに納得してしまったような顔だった。
「いえ……すみません。変なことを言いました」
そこに、注文したパスタが届いた。
「やっぱり、ここのパスタは美味しいですね。そういえば、先日、やっと妹にこの店を紹介できました。すごく喜んでいて、僕まで嬉しくなっちゃいました」
いつもの神崎くんに戻った。
ホッとしてしまった自分がいた。
――何だったんだろう?
いや、そんなことを気にするより、神崎くんが抜けた後のことを考えなくちゃ……。
パスタを食べながら、少し不安になった。
洋食屋から戻ってお手洗いに行くと、いつもどおり茉乃がいた。
「相変わらず、後輩くんと仲いいね」
「そうね。うちのチームで一番長いしね」
私は当たり前のことのように返した。
でも、茉乃はそれに納得してくれない。
「ねぇ、そろそろ無理があるんじゃない? 長さだけの問題じゃなくない?」
でも、これはいつものやり取りだった。
毎回、茉乃は何を言ってるんだか。
「だって、3歳年下だよ?」
「愛があれば年齢は関係ない!」
「……シスコンだし」
「それは……ちょっとアレだけど」
「ね。だから、神崎くんとはそういうのじゃないの」
いつもの茉乃なら、ここで終わってる。
でも、今日は違った。
「もう! 私たちももう30だよ? 素直にならないと後悔するかもよ」
私は少し驚いて、目を瞬かせた。
「……別に、強がってなんかないよ」
私は茉乃に笑ってみせた。
茉乃はそんな私の笑顔に納得した様子はないまま、私をおいて、お手洗いを出ていってしまった。
本当に強がってなんかいない。
私の下からいなくなる覚悟はしていたし、彼にとって必要な次へのステップだから。
ただ、いつも当たり前に隣にいると思っていた人がいなくなるのは、寂しくて当然だ。
茉乃がどうしていつもと違ったのか、私には分からなかった。
神崎くんの退職のことは茉乃はまだ知らないはず。
それとも、神崎くんの退職を聞いた動揺を、茉乃には見抜かれてしまったのか……。
私はため息をついて、壁にもたれ掛かった。
それから数日後。
「先輩、映画観に行きませんか?」
「はい?」
神崎くんの急な映画へのお誘いに、つい、声が裏返った。
「妹が書いた小説が映画になったんです。だから先輩にも観ていただきたくて」
「小説? 妹さん、作家さんなの?」
「いえ……正確には違うんですけど、たまたまネットで公開した小説がバズったみたいで」
「へぇ。すごいね」
「妹からチケットをもらったので、一緒に行っていただけたら助かります」
神崎くんの表情は、お散歩に行きたくてリードを咥えてきた犬のようだった。
「友達と見に行かないの?」
「それも考えたんですが……恋愛物なので、男友達とは観に行きにくくて」
「妹さんと行けば?」
「……それが、実話を元に書いているみたいで……さすがに兄と観るのは恥ずかしいそうです」
「それはそうね」
少し考える……ふりをする。
「いいよ。その映画、私も観てみたい」
その返事に、神崎くんの表情は明るくなる。
しっぽが振れているように見える。
お散歩に行けることになった犬みたい。
「今週末から始まるみたいなんですが、いつなら空いてますか?」
「それなら、今週末に観ようか?」

