季節が一周、巡った。
リーゼは驚くほどの速さで子爵令嬢になっていった。
家庭教師は賢さに舌を巻き、ダンスの師は賞賛の言葉を惜しまなかった。
覚えが早いのは、頭がよいからだけではない。一度与えられた居場所を二度と失うまいと、必死だったからだ。
私はその健気さをちゃんと見ていた。
ある日の午後、刺繍を教えていたときのこと。
リーゼがふいに手を止めて、私を見上げた。
「お義母様。……どうして、わたしを置いてくださったのですか」
いつか訊かれると思っていた。
私は針を進めながら少し考えて、答えることにした。私の本当の本音をだ。
「私ね、リーゼ。子どもが、できにくい身体なの」
彼女の榛色の目が丸くなった。
「できにくいだけで、子供を産む機能には問題ないのよ。でも結婚から七年、ジェラルド様はあなたのお母様を探すことに必死で、子作りに協力的じゃなかった」
別に白い結婚ではなかったが、夫婦で過ごす夜の寝室が数ヶ月に一回のこともあった。
孕みやすい日を選んでも、彼が留守のことが多く、やはり難しかった。
「そ、それは、それなら」
「ええ。私だけの咎ではないと頭ではわかっていても……夜に自分を責めてしまう夜は、何度もあったの。貴族の妻は、跡継ぎを産んでこそ、と言われるものね」
針を布に置いた。
「だから、あの人があなたを連れてきたとき。腹立たしさとは別のところで、私の中の、ずっと空いていた場所が……あなたを欲しがったのよ」
言いながら、自分でもずるい大人だと思った。
これは慈悲ではない。罪のない子を引き取った聖女の話ではないのだ。
子のない貴族夫人が、降って湧いた子を、都合が良いからと冷徹に勘定して手元に置いた。そういう打算の物語でもあるのだ。
「あなたを娘にすれば、私は母になれる。子爵家には跡継ぎができる。あなたには、帰る場所ができる。三方、損のない取引。……私はそう判断して、あなたを選んだの。優しさだけではないのよ」
リーゼはしばらく黙っていた。それから、ぽつりと言った。
「……取引でも、いいです」
小さな手が私の袖を、そっと握った。
「だれかに必要だと思ってもらえたのは。わたし、はじめてだから」
その言葉に、私の冷徹さは少しだけぐらついた。
ずるいのはこの子のほうだったかしら。とても貴族的で良いと思った。
夫のジェラルドは、家の中で少しずつ居場所を失っていった。
私は彼を潰しはしなかった。潰してしまえば、慰謝料も、家の体面も、結局はリーゼと私に跳ね返る。
だから大きな刃は振るわない。使うのは、針の先ほどの小さな棘だけ。
晩餐の席で、使用人たちはまず私に伺いを立てる。次にリーゼに微笑み、最後に、ついでのように夫へ皿を置く。
誰も無礼は働かないし、女主人の私が許さない。ただ、家の中の序列が音もなく組み変わっていっただけだ。
「今日のお魚、リーゼの好きなように味付けさせましたの。あなたのぶんも、同じで構いませんでしたわよね?」
「あ、ああ。かまわないよ」
私が微笑むと、ジェラルドは曖昧に頷くしかない。
この家の献立も、もう彼のためには決まらない。そういう小さな事実を、私は毎日ひとつずつ、彼の前にそっと無視できない形で置いてやった。
棘は小さくて短い。でもその分、抜けない。
彼は何も言い返せなかった。言い返しても更新した婚姻契約書がある。
家の名誉と体面を盾に取られた男は、ただ自分の屋敷の中で、客のように小さくなっていくしかなかった。
そして、あの人が戻ってきた。
アルヴィス。学生の頃、私が政略に縛られる前、ただ一人、心を交わした人。
濃い灰色の髪に、それより淡い灰の瞳。中背で、痩せた身体。
華やかな美しさではない。けれど、思索に沈むときのあの静かな横顔を、私は学生の頃からずっと美しいと思っていた。
高位貴族の庶子に生まれ、平民の母を持ち、日陰で育った人。その翳りすらも、彼の場合は奥行きある魅力になっていた。
今は学者になっていた彼は、数年前に他国の大学に研究員として招聘されていた。その期限が満了になり、今年、帰国したのだ。
私は彼と文通を始めて、月に幾度か、屋敷の外で会うようになった。
大それたことは何もしない。
郊外の湖の見える店で、お茶を飲む。
長くても一度に二時間まで。同じ馬車での移動もせず、互いに従者のいない二人きりでは決して会わない。
大抵はそのとき互いに読んでいる本の話をする。昔のように他愛なく笑いながら。
それだけの〝恋人ごっこ〟だ。
改訂した婚姻契約書には「伴侶を持つことを認める」とあったけれど、私が求めたのは爛れた情事ではなかった。
ただ、自分の人生を、自分の意思で選び直せるという、その証が欲しかったのだ。
……まあ、夫への当てこすりも、もちろんあるけれど。
本当はね、もう私たちは学生の頃にちゃんと互いに納得して切れていた。ただの友人相手に、強引な頼みごとをしてしまった。
でもアルヴィスも私の状況を理解して、このおままごとに付き合ってくれた。彼自身は父の本妻の子供に遠慮して、結婚をしない選択をしていたから、余興を楽しむ感覚もあったみたい。
時にはリーゼも連れていった。
アルヴィスは、彼女を適度に子供扱い、適度に大人扱いして、優しく星の話や、遠い異国の話を聞かせた。
リーゼは湖のほとりで、それらの話に声を立てて笑った。あの、声を殺して泣いていた子がだ。
その横顔を見ながら、私は思った。
——これでいい。
誰も何も損なわせず、潰さずに、ただ不実な夫ひとりを家の隅に静かに据え置いて。
私とリーゼは、陽の当たる場所でこうして笑っている。
貴族の報復とは、本来、こういうものだ。
血を流すのではない。相手の世界をゆっくりと、自分の都合のいい形に組み替えていく。
そして、相手にそれを、指をくわえて見ているしかない状況に甘んじさせる。
もちろん、やりすぎは禁物だ。
ねずみだって、猫を噛むことはあるから。
子爵家の薔薇園に、今年も花が咲いた。
リーゼが、その一輪を手折って私の髪に挿してくれた。
白い薔薇の芳しさに私の表情が緩む。
ふと屋敷のほうを見ると、ジェラルドがひとり、お茶を飲みながら私たちを見ていた。
彼がリーゼをこの家に連れて来て「育てろ」と言った後、私は丁寧に、難しい話もきちんと噛み砕いてリーゼに説明した。
正しく理解したリーゼは、夫には懐かなかった。
当然のことだ。普段から彼女の日常生活を整えているのは、この私。夫は食事の時間ぐらいしか接点がない。
最初、みすぼらしくても可愛かったリーゼは、子爵令嬢として整えたらさらに美しく愛らしい少女となった。
夫に似ているのは目だけ。この美しさは彼女の母親から受け継いだものだ。
こんなに綺麗な娘に、慕われもせず距離を置かれてるなんて。まあ、可哀想。
夫は初手を間違えたのだ。
リーゼを子爵令嬢として育てると宣言するのはいい。当主は彼だから決定には多少揉めても、私も渋々従うことになったろう。
でも、せめて彼女を託す相手は私ではなく、自分で侍女を手配ぐらいするべきだったのよ。
そうしたら今ごろ、薔薇の一輪はあなたのものだったかもね。
リーゼは驚くほどの速さで子爵令嬢になっていった。
家庭教師は賢さに舌を巻き、ダンスの師は賞賛の言葉を惜しまなかった。
覚えが早いのは、頭がよいからだけではない。一度与えられた居場所を二度と失うまいと、必死だったからだ。
私はその健気さをちゃんと見ていた。
ある日の午後、刺繍を教えていたときのこと。
リーゼがふいに手を止めて、私を見上げた。
「お義母様。……どうして、わたしを置いてくださったのですか」
いつか訊かれると思っていた。
私は針を進めながら少し考えて、答えることにした。私の本当の本音をだ。
「私ね、リーゼ。子どもが、できにくい身体なの」
彼女の榛色の目が丸くなった。
「できにくいだけで、子供を産む機能には問題ないのよ。でも結婚から七年、ジェラルド様はあなたのお母様を探すことに必死で、子作りに協力的じゃなかった」
別に白い結婚ではなかったが、夫婦で過ごす夜の寝室が数ヶ月に一回のこともあった。
孕みやすい日を選んでも、彼が留守のことが多く、やはり難しかった。
「そ、それは、それなら」
「ええ。私だけの咎ではないと頭ではわかっていても……夜に自分を責めてしまう夜は、何度もあったの。貴族の妻は、跡継ぎを産んでこそ、と言われるものね」
針を布に置いた。
「だから、あの人があなたを連れてきたとき。腹立たしさとは別のところで、私の中の、ずっと空いていた場所が……あなたを欲しがったのよ」
言いながら、自分でもずるい大人だと思った。
これは慈悲ではない。罪のない子を引き取った聖女の話ではないのだ。
子のない貴族夫人が、降って湧いた子を、都合が良いからと冷徹に勘定して手元に置いた。そういう打算の物語でもあるのだ。
「あなたを娘にすれば、私は母になれる。子爵家には跡継ぎができる。あなたには、帰る場所ができる。三方、損のない取引。……私はそう判断して、あなたを選んだの。優しさだけではないのよ」
リーゼはしばらく黙っていた。それから、ぽつりと言った。
「……取引でも、いいです」
小さな手が私の袖を、そっと握った。
「だれかに必要だと思ってもらえたのは。わたし、はじめてだから」
その言葉に、私の冷徹さは少しだけぐらついた。
ずるいのはこの子のほうだったかしら。とても貴族的で良いと思った。
夫のジェラルドは、家の中で少しずつ居場所を失っていった。
私は彼を潰しはしなかった。潰してしまえば、慰謝料も、家の体面も、結局はリーゼと私に跳ね返る。
だから大きな刃は振るわない。使うのは、針の先ほどの小さな棘だけ。
晩餐の席で、使用人たちはまず私に伺いを立てる。次にリーゼに微笑み、最後に、ついでのように夫へ皿を置く。
誰も無礼は働かないし、女主人の私が許さない。ただ、家の中の序列が音もなく組み変わっていっただけだ。
「今日のお魚、リーゼの好きなように味付けさせましたの。あなたのぶんも、同じで構いませんでしたわよね?」
「あ、ああ。かまわないよ」
私が微笑むと、ジェラルドは曖昧に頷くしかない。
この家の献立も、もう彼のためには決まらない。そういう小さな事実を、私は毎日ひとつずつ、彼の前にそっと無視できない形で置いてやった。
棘は小さくて短い。でもその分、抜けない。
彼は何も言い返せなかった。言い返しても更新した婚姻契約書がある。
家の名誉と体面を盾に取られた男は、ただ自分の屋敷の中で、客のように小さくなっていくしかなかった。
そして、あの人が戻ってきた。
アルヴィス。学生の頃、私が政略に縛られる前、ただ一人、心を交わした人。
濃い灰色の髪に、それより淡い灰の瞳。中背で、痩せた身体。
華やかな美しさではない。けれど、思索に沈むときのあの静かな横顔を、私は学生の頃からずっと美しいと思っていた。
高位貴族の庶子に生まれ、平民の母を持ち、日陰で育った人。その翳りすらも、彼の場合は奥行きある魅力になっていた。
今は学者になっていた彼は、数年前に他国の大学に研究員として招聘されていた。その期限が満了になり、今年、帰国したのだ。
私は彼と文通を始めて、月に幾度か、屋敷の外で会うようになった。
大それたことは何もしない。
郊外の湖の見える店で、お茶を飲む。
長くても一度に二時間まで。同じ馬車での移動もせず、互いに従者のいない二人きりでは決して会わない。
大抵はそのとき互いに読んでいる本の話をする。昔のように他愛なく笑いながら。
それだけの〝恋人ごっこ〟だ。
改訂した婚姻契約書には「伴侶を持つことを認める」とあったけれど、私が求めたのは爛れた情事ではなかった。
ただ、自分の人生を、自分の意思で選び直せるという、その証が欲しかったのだ。
……まあ、夫への当てこすりも、もちろんあるけれど。
本当はね、もう私たちは学生の頃にちゃんと互いに納得して切れていた。ただの友人相手に、強引な頼みごとをしてしまった。
でもアルヴィスも私の状況を理解して、このおままごとに付き合ってくれた。彼自身は父の本妻の子供に遠慮して、結婚をしない選択をしていたから、余興を楽しむ感覚もあったみたい。
時にはリーゼも連れていった。
アルヴィスは、彼女を適度に子供扱い、適度に大人扱いして、優しく星の話や、遠い異国の話を聞かせた。
リーゼは湖のほとりで、それらの話に声を立てて笑った。あの、声を殺して泣いていた子がだ。
その横顔を見ながら、私は思った。
——これでいい。
誰も何も損なわせず、潰さずに、ただ不実な夫ひとりを家の隅に静かに据え置いて。
私とリーゼは、陽の当たる場所でこうして笑っている。
貴族の報復とは、本来、こういうものだ。
血を流すのではない。相手の世界をゆっくりと、自分の都合のいい形に組み替えていく。
そして、相手にそれを、指をくわえて見ているしかない状況に甘んじさせる。
もちろん、やりすぎは禁物だ。
ねずみだって、猫を噛むことはあるから。
子爵家の薔薇園に、今年も花が咲いた。
リーゼが、その一輪を手折って私の髪に挿してくれた。
白い薔薇の芳しさに私の表情が緩む。
ふと屋敷のほうを見ると、ジェラルドがひとり、お茶を飲みながら私たちを見ていた。
彼がリーゼをこの家に連れて来て「育てろ」と言った後、私は丁寧に、難しい話もきちんと噛み砕いてリーゼに説明した。
正しく理解したリーゼは、夫には懐かなかった。
当然のことだ。普段から彼女の日常生活を整えているのは、この私。夫は食事の時間ぐらいしか接点がない。
最初、みすぼらしくても可愛かったリーゼは、子爵令嬢として整えたらさらに美しく愛らしい少女となった。
夫に似ているのは目だけ。この美しさは彼女の母親から受け継いだものだ。
こんなに綺麗な娘に、慕われもせず距離を置かれてるなんて。まあ、可哀想。
夫は初手を間違えたのだ。
リーゼを子爵令嬢として育てると宣言するのはいい。当主は彼だから決定には多少揉めても、私も渋々従うことになったろう。
でも、せめて彼女を託す相手は私ではなく、自分で侍女を手配ぐらいするべきだったのよ。
そうしたら今ごろ、薔薇の一輪はあなたのものだったかもね。


