「離縁しなさい。エレオノーラ」
一度、ジェラルドとリーゼを退出させた応接間で、祖父は単刀直入にそう言った。
卓上には、祖父が持参した、七年前に三家で取り交わした婚姻の契約書が広げられている。
羊皮紙の上の一条、貞節に関する取り決めを、節くれだった指が軽く叩いた。
「庶子をもうけ、あろうことかその子を嫡子に据えようとした。これだけの背信だ。子爵家には莫大な慰謝料が課される。離縁の大義としては十分だ。あの男を、儂が綺麗に切り離してやろう」
祖父の言葉は正論で王道だった。怒りを私のために代わって燃やしてくれてもいる。ありがたいことだと、心から思った。
けれど、私はすぐには頷かなかった。
「お祖父様。ひとつ、伺っても?」
「申せ」
「もし離縁となれば、慰謝料は子爵家から、我が家へ支払われますわね。それも相当な額に」
「当然だ。この政略結婚への背信に、安い値はつけられぬ」
「では、そのお金は、どこから出るのでしょう」
祖父が眉を寄せたが、私は静かに続けた。
「子爵家の財からですわ。領地から、家の資産から。つまり、これからリーゼが育っていくその家の身代から削られるということなのです」
応接間がしんと静まった。
祖父は小さく顎で私に続きを促した。
「私は、あの子をこの家の娘として、何不自由なく育てると決めました。デビュタントには恥ずかしくない装いを。教育も、後ろ盾も、不足なく。けれど離縁で家を傾ければ、いちばん割を食うのは、罪のないあの子です。慰謝料で痩せた子爵家に残されてどうなります? それでは本末転倒ですわ」
「エレオノーラ」
祖父はしばらく私を見つめていた。
それから、ふっと息を吐いた。感嘆に近い笑いの混じった吐息だった。
「……お前は、母親に似たな。情に流されぬように見えて、思いやりがある」
「いいえ。お祖父様に似たのですわ。損得を最後まで勘定するところが」
祖父は声を立てて笑った。
「よかろう。では、お前はどうしたい。まさか、あの男と元の鞘に収まる、などとは言うまいな」
「まさか」
私は、そこだけははっきりと否定した。
そういえば、先日のお茶会で元鞘の話が出てたわ。最近ではわかりやすく再構築なんて表現もするらしいけど。
「庶子をもうけた男と、今さら夫婦の情を結び直す気は、毛ほどもございません。寝室はとうに別。それは、これからも変わりません」
「ならば、どうする」
私は用意していた答えを口にした。三日かけて、損も得も、すべて勘定し尽くした答えを。
「リーゼのデビュタントまであと五、六年年ほどですわ。それまでは夫婦の形だけは保ちます。子爵家の体面と、あの子の後ろ盾のために。書類の上だけの形だけの夫婦を」
「形だけ、か」
「ええ。そして、その『形』を保つ代わりに、婚姻契約を改めていただきます」
私は卓上の契約書に自分の指を添えた。
指先は貞節条項の、すぐ隣に当てる。
「夫が貞節を破った以上、私にのみ、それを課す道理はもうありません。ですから、新たに一条を加えます。『妻もまた、私的な伴侶を持つことを認める』と」
祖父の白い片眉が上がった。
「……恋人を公に認めさせる、と申すか」
「公にはいたしません。あくまで、家の内の取り決めとして。けれど、契約書に記します。あの男が二度と、私の生き方に口を挟めぬように」
数日後、その改定案を突きつけられた夫は、当然のごとく反発した。
「ば、馬鹿な! 妻に恋人を許すなど、そんなものに署名できるか!」
私は応接間の椅子に深く腰かけたまま、彼を見上げた。
自分が無表情なのがわかる。
「では、離縁いたしましょうか」
ジェラルドの勢いが止まった。
「私のお祖父様は、離縁を望んでおいででした。慰謝料は子爵家の身代を半ばまで削る額になるでしょう。それに加えて——妻の許可なく庶子をもうけ嫡子に据えた不貞の主として、あなたの名は社交界に知れ渡ります。どこの家ももう、あなたを招かなくなる」
そう。この男は最初からボタンをかけ間違えているのだ。
私たちの結婚は七年経過している。
だがリーゼはその年数より多い、今年十歳の少女だ。私たちの結婚の前に彼女が生まれている。それを知らなかったとしても、世間はそんな事情まで汲んではくれないものだ。
「あるいは、今回の提案のように、形だけの夫婦を続け、名誉も家も保ったまま、ただ私の私事にだけ目を瞑る。どちらが、あなたにとって安うございますか?」
夫の喉が、ごくりと鳴った。
彼は賢い男ではない。悪人でもないが、優柔不断なせいで誠実さに欠けていた。
けれど、この期に及んで、どちらが損かくらいはわかったらしい。
署名を拒めば、すべてを失う。
署名すれば、最低限の体面は保たれる。ただ一つ、妻の不貞を黙認するという屈辱だけを呑めば。
ジェラルドは震える手でペンを取った。
羊皮紙に彼の名が記される。私の生き方を二度と縛れないという改訂版の婚姻契約書に、彼自身の手で。
私はその様子を、最後まで静かに眺めていた。
怒りは最初からないから、勝ち誇る気持ちもなかった。
ただ、長く面倒な手続きがようやく一つ片付いた。そういう事務的な満足感だけが慎ましい報酬と言えた。
さあ、これで舞台は整った。
あとは、彼を呼ぶだけだ。
もう何年も、未練を克服できていない、あの人を。
一度、ジェラルドとリーゼを退出させた応接間で、祖父は単刀直入にそう言った。
卓上には、祖父が持参した、七年前に三家で取り交わした婚姻の契約書が広げられている。
羊皮紙の上の一条、貞節に関する取り決めを、節くれだった指が軽く叩いた。
「庶子をもうけ、あろうことかその子を嫡子に据えようとした。これだけの背信だ。子爵家には莫大な慰謝料が課される。離縁の大義としては十分だ。あの男を、儂が綺麗に切り離してやろう」
祖父の言葉は正論で王道だった。怒りを私のために代わって燃やしてくれてもいる。ありがたいことだと、心から思った。
けれど、私はすぐには頷かなかった。
「お祖父様。ひとつ、伺っても?」
「申せ」
「もし離縁となれば、慰謝料は子爵家から、我が家へ支払われますわね。それも相当な額に」
「当然だ。この政略結婚への背信に、安い値はつけられぬ」
「では、そのお金は、どこから出るのでしょう」
祖父が眉を寄せたが、私は静かに続けた。
「子爵家の財からですわ。領地から、家の資産から。つまり、これからリーゼが育っていくその家の身代から削られるということなのです」
応接間がしんと静まった。
祖父は小さく顎で私に続きを促した。
「私は、あの子をこの家の娘として、何不自由なく育てると決めました。デビュタントには恥ずかしくない装いを。教育も、後ろ盾も、不足なく。けれど離縁で家を傾ければ、いちばん割を食うのは、罪のないあの子です。慰謝料で痩せた子爵家に残されてどうなります? それでは本末転倒ですわ」
「エレオノーラ」
祖父はしばらく私を見つめていた。
それから、ふっと息を吐いた。感嘆に近い笑いの混じった吐息だった。
「……お前は、母親に似たな。情に流されぬように見えて、思いやりがある」
「いいえ。お祖父様に似たのですわ。損得を最後まで勘定するところが」
祖父は声を立てて笑った。
「よかろう。では、お前はどうしたい。まさか、あの男と元の鞘に収まる、などとは言うまいな」
「まさか」
私は、そこだけははっきりと否定した。
そういえば、先日のお茶会で元鞘の話が出てたわ。最近ではわかりやすく再構築なんて表現もするらしいけど。
「庶子をもうけた男と、今さら夫婦の情を結び直す気は、毛ほどもございません。寝室はとうに別。それは、これからも変わりません」
「ならば、どうする」
私は用意していた答えを口にした。三日かけて、損も得も、すべて勘定し尽くした答えを。
「リーゼのデビュタントまであと五、六年年ほどですわ。それまでは夫婦の形だけは保ちます。子爵家の体面と、あの子の後ろ盾のために。書類の上だけの形だけの夫婦を」
「形だけ、か」
「ええ。そして、その『形』を保つ代わりに、婚姻契約を改めていただきます」
私は卓上の契約書に自分の指を添えた。
指先は貞節条項の、すぐ隣に当てる。
「夫が貞節を破った以上、私にのみ、それを課す道理はもうありません。ですから、新たに一条を加えます。『妻もまた、私的な伴侶を持つことを認める』と」
祖父の白い片眉が上がった。
「……恋人を公に認めさせる、と申すか」
「公にはいたしません。あくまで、家の内の取り決めとして。けれど、契約書に記します。あの男が二度と、私の生き方に口を挟めぬように」
数日後、その改定案を突きつけられた夫は、当然のごとく反発した。
「ば、馬鹿な! 妻に恋人を許すなど、そんなものに署名できるか!」
私は応接間の椅子に深く腰かけたまま、彼を見上げた。
自分が無表情なのがわかる。
「では、離縁いたしましょうか」
ジェラルドの勢いが止まった。
「私のお祖父様は、離縁を望んでおいででした。慰謝料は子爵家の身代を半ばまで削る額になるでしょう。それに加えて——妻の許可なく庶子をもうけ嫡子に据えた不貞の主として、あなたの名は社交界に知れ渡ります。どこの家ももう、あなたを招かなくなる」
そう。この男は最初からボタンをかけ間違えているのだ。
私たちの結婚は七年経過している。
だがリーゼはその年数より多い、今年十歳の少女だ。私たちの結婚の前に彼女が生まれている。それを知らなかったとしても、世間はそんな事情まで汲んではくれないものだ。
「あるいは、今回の提案のように、形だけの夫婦を続け、名誉も家も保ったまま、ただ私の私事にだけ目を瞑る。どちらが、あなたにとって安うございますか?」
夫の喉が、ごくりと鳴った。
彼は賢い男ではない。悪人でもないが、優柔不断なせいで誠実さに欠けていた。
けれど、この期に及んで、どちらが損かくらいはわかったらしい。
署名を拒めば、すべてを失う。
署名すれば、最低限の体面は保たれる。ただ一つ、妻の不貞を黙認するという屈辱だけを呑めば。
ジェラルドは震える手でペンを取った。
羊皮紙に彼の名が記される。私の生き方を二度と縛れないという改訂版の婚姻契約書に、彼自身の手で。
私はその様子を、最後まで静かに眺めていた。
怒りは最初からないから、勝ち誇る気持ちもなかった。
ただ、長く面倒な手続きがようやく一つ片付いた。そういう事務的な満足感だけが慎ましい報酬と言えた。
さあ、これで舞台は整った。
あとは、彼を呼ぶだけだ。
もう何年も、未練を克服できていない、あの人を。


