浮気相手の子を「育てろ」と押しつけられたので、罪のない少女は丁重に育てつつ、夫だけを優雅に制裁することにしました

 手紙を送って三日が過ぎた。

 その三日のあいだ、私は何ひとつ特別なことはしなかった。
 やったのは、リーゼに屋敷を案内し、仕立て屋を呼んで採寸させ、彼女の部屋を整えたことぐらい。
 日当たりのよい、薔薇園を見下ろせる一室を選んだ。執事は客間を推奨したが、私は当主夫妻の子供のための部屋を最初から使わせることにした。
 リーゼは可愛い女の子だが、夫にはあまり似ていない。しかしあの榛色の目と、目の形が夫とまったく同じなため、親子なのは間違いなかったから。

 孤児院の硬い寝台しか知らなかった子が、初めて羽根布団に沈んだ夜、声を殺して泣いていたことを、私は侍女から聞いて知っている。
 でも何も言わなかった。そういう涙は、そっとしておくものだ。

 夫のジェラルドはといえば、その三日間を上機嫌で過ごしていた。
 妻が嫡子の件をすんなり受け入れた。彼はそう解釈したらしい。
 リーゼに新しいドレスを与え、部屋を用意してやる私の姿を見て、「お前も存外、物分かりがいいではないか」などと、満足げに笑っていた。

 私は微笑み返し、否定はしなかった。

 獲物が罠の真ん中で寛いでいるのを、わざわざ教えてやる猟師はいない。




 四日目の朝、表がにわかに騒がしくなった。

 窓から見下ろすと、見覚えのある馬車が、門をくぐってくるところだった。
 黒塗りの車体に、金で縁取られた紋章。剣と月桂樹を組み合わせた、あの意匠。
 ——公爵家の、先触れなしの来訪である。

 ジェラルドが血相を変えて私の部屋に飛び込んできた。

「エ、エレオノーラ! 公爵家の馬車が……なぜ、こんな急に……!」
「あら」

 私は鏡台の前で髪に櫛を入れながら、振り返りもせずに答えた。
 鏡の中で、淡い金の髪が朝の光を弾いている。母譲りの灰青色の瞳。背ばかり高くて、笑わない女。
 社交界では陰で「氷の伯爵令嬢」と呼ばれているそうだ。結構なことだと思う。氷であるから、大抵は今回みたいに取り乱さずにいられる。

「お祖父様が、可愛い孫娘の屋敷を訪ねてくださっただけでしょう。何をそんなに慌てていらっしゃるの?」
「し、しかし」
「それとも」

 私は櫛を置き、ゆっくりと立ち上がった。

「何か、お祖父様に見られて困ることでも、おありなのかしら」

 ジェラルドの顔から、四日分の上機嫌が音もなく剥がれ落ちていった。



 私の母方の祖父、アルブレヒト公爵は、御歳七十を越えて白髪頭になってなお、かくしゃくとした人だった。
 応接間に通された公爵は、私が膝を折って挨拶するより先に、ただ一言、こう言った。

「エレオノーラ。手紙は読んだ」

 端的で、必要最低限でありながら、十分な一言だった。

 公爵の視線が私の傍らに立つリーゼへと移る。
 リーゼは怯えながらも、私が前夜に教えたとおり、ぎこちなく、けれど精一杯の礼をした。
 スカートの裾をつまみ、腰を落とす。頭は過度に下げない。孤児院の子が、たった一晩で覚えた淑女のカーテシーは不恰好だったけど……

 公爵はその所作をじっと見つめ、それから、ふっと相好を崩した。

「……良くできておる。善い」

 たった一言だったけれど、それが意味するところを私は正確に理解した。
 リーゼのカーテシーはマナー講師なら不合格レベルだ。しかし祖父は今、この子を「家の敵」とは見なさない、と決めたのだ。
 罪は子供にはない。私が手紙に書いた通りに、この老公爵は判じてくれた。
 リーゼの背を支えていた私の手に、彼女の安堵が伝わってきた。

 そして祖父の目が、部屋の隅で凍りついている男へと向けられた。

「ジェラルド子爵」

 声の温度がリーゼに対するものとは、明らかに変わった。

「儂の孫娘と縁を結ぶにあたり、貴公が交わした書面を、憶えておいでかな。よもや、忘れたとは言うまいな」
「こ、公爵閣下、それは、その……」
「答えずともよい」

 公爵は、皺の刻まれた手を、ゆるりと上げた。

「貴公が忘れていようと、書面は残っておる。契約書とはそういうものだ。儂はこの後、娘婿の伯爵——エレオノーラの父の元へも訪れ、話をする。三家で交わした約定がいかに扱われたか。その一点について、な」

 ジェラルドはもう言葉を発せなかった。
 ただ、青ざめた顔で、助けを求めるように私を見た。

 七年。七年だ。七年、私を見くびり続けてきたこの男が、初めて、私に縋るような目を向けてきた。

 私は何も言わなかった。助け舟? 出すわけがない。
 その代わり、リーゼの肩にそっと手を添えて、彼女を祖父の前へ半歩だけ進めさせた。

「お祖父様。この子、リーゼと申します。聖アグネス孤児院で、私の旧友のスノーフレークが育てた子です。賢く、心根の優しい子ですわ」
「ほう。あのスノーフレーク嬢の」

 祖父の顔がまた和らいだ。
 学生だった頃、スノーフレークを連れて、何度か祖父の公爵領に滞在したことがある。私の親友として紹介したこともあり、祖父は彼女を丁重に扱ってくれていた。

「では、安心だな。あれの育てた子なら、間違いはあるまい」

 ——ご覧なさい、ジェラルド。

 私は、心の中で静かに語りかけた。

 あなたが考えなしに連れてきたこの子は、今、公爵家にすら歓迎されている。
 傷つくのはこの子ではない。あなただけ。あなた、ただ一人なのよ。

 広間に午後の陽光が差し込んでいた。リーゼの栗色の髪がその光を受けて、柔らかく輝いているのが私は美しいと思った。