客間のひとつにリーゼを連れていった。
暖炉に火を入れさせ、温かい蜂蜜入りのミルクと、焼きたての菓子を運ばせる。
彼女は皿の前で、しばらく手をつけられずにいた。食べていいのか、確かめるように私を見る。
「どうぞ。あなたのために用意させたものよ」
私が頷くと、リーゼはようやく菓子に手を伸ばした。小さな口で、こぼさないよう行儀よく食べる。
その所作の正しさに私は内心で感心した。誰かが根気よく教えたのだ。貧しい場所で、それでも品位を保てるように。
シスターとなった友人なのは間違いない。
「リーゼ。あなた、聖アグネス孤児院から来たそうだけど」
先ほど雑に夫が言っていた。
「はい。お母さんが亡くなってから、ずっとそこに。シスター・スノーフレークが、わたしを育ててくださいました」
その名を聞いた瞬間、胸の奥が小さく疼いた。
スノーフレーク! 学生時代、いちばん気高く、いちばん不器用だった私の友。
潔癖すぎて婚約者から婚約破棄されたのをきっかけに、貴族の娘の身分を捨てて修道院に入った、あの人。
ああ。やはり、この子はあなたが育てたのね。
それだけで、私の警戒は半分ほど解けた。スノーフレークの手で育った子に、悪い性根の子はいない。
それは私の彼女への信頼だった。
「シスター・スノーフレークは、お元気?」
「……ご存じなのですか?」
「ええ。古い友人なの。厳しいけど、真面目で、暖かい人でしょう?」
「は、はい! その通りです!」
リーゼの目が初めて、怯え以外の色を持った。驚きと、ほんの少しの安堵。
この見知らぬ豪奢な屋敷に、自分の知る世界と地続きの糸が一本だけ通っていた。そうと知って安心を覚えた顔だ。
私はリーゼが二つ目の菓子を食べ終わり、ミルクを半分飲み進めた頃合いを計って、本題に入った。
「リーゼ。これから話すことを、よく聞いてほしいの。あなたは賢い子だから、きっとわかると思って話します」
私がそう言うと、彼女は背筋を伸ばし、まっすぐ私を見た。
うん。私があなたを子供だけど子供扱いしてないこと、理解してるのね。
「あなたのお父様のジェラルド様は、とても困ったことをなさいました。あなたを連れてきたこと、ではなくて。あなたは何も悪くないのだけどね」
「……でも、お父様は、わたしを娘だと」
「ええ。そこが問題なの」
私はできるだけ平易な言葉を選んだが、事実を薄めることはしなかった。この子の理解力なら、受け止められると踏んだから。
「貴族の結婚はね、二人だけの約束ではないの。家と家との、大きな約束。私とジェラルド様の結婚には、私の実家——伯爵家と、私の母方の公爵家が、後ろ盾として関わっている。約束には、書き付けがあるの。守らなければならない決まりが」
「決まり……」
「そのひとつに、『私が産んだ以外の子を、勝手にこの家の跡継ぎにしてはならない』というものがあるのね。とても大切な決まりよ。ジェラルド様は今日、それを破った。これがすごく、まずいことなの」
リーゼの顔から血の気が引いていくのがわかった。
賢いがゆえに、自分に何が起きているのか輪郭を掴んでしまったのだ。
「それって……わたしのせいで、お父様が……」
「いいえ」
私は、はっきりと否定した。
「あなたのせいじゃないわ。決めたのは、大人のジェラルド様。あなたは馬車に乗せられて、連れてこられただけ。罪を犯せるのは、選べる人だけよ。あなたには選ぶ余地さえ与えられなかった。だから、あなたに罪はない」
言いながら、私は思った。
今この場でこの子を安心させきるのは、たぶん無理だ。賢い子だからこそ、自分のいる場所がどれほど薄い氷の上なのか、もう見えてしまっているのね。
案の定、リーゼの小さな手は膝の上で固く握られていた。安堵とは程遠い顔だ。
可哀想に、と思う。けれど嘘で覆って楽にしてやるより、本当のことを渡すほうがこの子には誠実だと信じた。少なくともスノーフレークなら、きっとそうする。
「リーゼ。不安にさせてしまったわね。でも、ひとつ約束します」
私は身をかがめ、彼女の握りしめた手に、自分の手をそっと重ねた。
「この件で、あなたが傷つかないように、私が守ります。後始末をするのは大人の仕事だもの。子供のあなたが背負うものではないの」
それから私は卓上のベルを鳴らし、侍女に筆記具を持ってこさせた。
リーゼの見ている前で、便箋を広げる。
「今から、私の実家に手紙を書きます。事の次第を、正直に」
「……どんなお手紙、書くのですか?」
「悪いのはリーゼではなく、約束を破ったジェラルド様であると、はっきり書いておくわ。そうすれば、私の実家の者たちも、あなたを責めたりはしない」
ペン先が上等な紙の上を滑る。
私は書いた。連れてこられた子供に罪はないこと。すべての非は、婚前の取り決めを一方的に破った夫にあること。
どうか、子供を巻き込まぬよう取り計らってほしいこと……
もっとも、この手紙が伯爵家に、そして母方の実家である公爵家に届いたとき、何が動き出すのか。リーゼにはまだ想像もつかないだろう。
「悪いのは夫」と明記するということは、すなわち、上位の二つの貴族家が、揃って一人の子爵を見下ろすということだ。
私はペンを止め、最後の一文を、ことさら丁寧に綴った。
——リーゼという娘は、私が責任をもって預かります。どうぞ、ご安心くださいませ。
安心するのは、私の家族だ。
ジェラルド、……あなたではない。
暖炉に火を入れさせ、温かい蜂蜜入りのミルクと、焼きたての菓子を運ばせる。
彼女は皿の前で、しばらく手をつけられずにいた。食べていいのか、確かめるように私を見る。
「どうぞ。あなたのために用意させたものよ」
私が頷くと、リーゼはようやく菓子に手を伸ばした。小さな口で、こぼさないよう行儀よく食べる。
その所作の正しさに私は内心で感心した。誰かが根気よく教えたのだ。貧しい場所で、それでも品位を保てるように。
シスターとなった友人なのは間違いない。
「リーゼ。あなた、聖アグネス孤児院から来たそうだけど」
先ほど雑に夫が言っていた。
「はい。お母さんが亡くなってから、ずっとそこに。シスター・スノーフレークが、わたしを育ててくださいました」
その名を聞いた瞬間、胸の奥が小さく疼いた。
スノーフレーク! 学生時代、いちばん気高く、いちばん不器用だった私の友。
潔癖すぎて婚約者から婚約破棄されたのをきっかけに、貴族の娘の身分を捨てて修道院に入った、あの人。
ああ。やはり、この子はあなたが育てたのね。
それだけで、私の警戒は半分ほど解けた。スノーフレークの手で育った子に、悪い性根の子はいない。
それは私の彼女への信頼だった。
「シスター・スノーフレークは、お元気?」
「……ご存じなのですか?」
「ええ。古い友人なの。厳しいけど、真面目で、暖かい人でしょう?」
「は、はい! その通りです!」
リーゼの目が初めて、怯え以外の色を持った。驚きと、ほんの少しの安堵。
この見知らぬ豪奢な屋敷に、自分の知る世界と地続きの糸が一本だけ通っていた。そうと知って安心を覚えた顔だ。
私はリーゼが二つ目の菓子を食べ終わり、ミルクを半分飲み進めた頃合いを計って、本題に入った。
「リーゼ。これから話すことを、よく聞いてほしいの。あなたは賢い子だから、きっとわかると思って話します」
私がそう言うと、彼女は背筋を伸ばし、まっすぐ私を見た。
うん。私があなたを子供だけど子供扱いしてないこと、理解してるのね。
「あなたのお父様のジェラルド様は、とても困ったことをなさいました。あなたを連れてきたこと、ではなくて。あなたは何も悪くないのだけどね」
「……でも、お父様は、わたしを娘だと」
「ええ。そこが問題なの」
私はできるだけ平易な言葉を選んだが、事実を薄めることはしなかった。この子の理解力なら、受け止められると踏んだから。
「貴族の結婚はね、二人だけの約束ではないの。家と家との、大きな約束。私とジェラルド様の結婚には、私の実家——伯爵家と、私の母方の公爵家が、後ろ盾として関わっている。約束には、書き付けがあるの。守らなければならない決まりが」
「決まり……」
「そのひとつに、『私が産んだ以外の子を、勝手にこの家の跡継ぎにしてはならない』というものがあるのね。とても大切な決まりよ。ジェラルド様は今日、それを破った。これがすごく、まずいことなの」
リーゼの顔から血の気が引いていくのがわかった。
賢いがゆえに、自分に何が起きているのか輪郭を掴んでしまったのだ。
「それって……わたしのせいで、お父様が……」
「いいえ」
私は、はっきりと否定した。
「あなたのせいじゃないわ。決めたのは、大人のジェラルド様。あなたは馬車に乗せられて、連れてこられただけ。罪を犯せるのは、選べる人だけよ。あなたには選ぶ余地さえ与えられなかった。だから、あなたに罪はない」
言いながら、私は思った。
今この場でこの子を安心させきるのは、たぶん無理だ。賢い子だからこそ、自分のいる場所がどれほど薄い氷の上なのか、もう見えてしまっているのね。
案の定、リーゼの小さな手は膝の上で固く握られていた。安堵とは程遠い顔だ。
可哀想に、と思う。けれど嘘で覆って楽にしてやるより、本当のことを渡すほうがこの子には誠実だと信じた。少なくともスノーフレークなら、きっとそうする。
「リーゼ。不安にさせてしまったわね。でも、ひとつ約束します」
私は身をかがめ、彼女の握りしめた手に、自分の手をそっと重ねた。
「この件で、あなたが傷つかないように、私が守ります。後始末をするのは大人の仕事だもの。子供のあなたが背負うものではないの」
それから私は卓上のベルを鳴らし、侍女に筆記具を持ってこさせた。
リーゼの見ている前で、便箋を広げる。
「今から、私の実家に手紙を書きます。事の次第を、正直に」
「……どんなお手紙、書くのですか?」
「悪いのはリーゼではなく、約束を破ったジェラルド様であると、はっきり書いておくわ。そうすれば、私の実家の者たちも、あなたを責めたりはしない」
ペン先が上等な紙の上を滑る。
私は書いた。連れてこられた子供に罪はないこと。すべての非は、婚前の取り決めを一方的に破った夫にあること。
どうか、子供を巻き込まぬよう取り計らってほしいこと……
もっとも、この手紙が伯爵家に、そして母方の実家である公爵家に届いたとき、何が動き出すのか。リーゼにはまだ想像もつかないだろう。
「悪いのは夫」と明記するということは、すなわち、上位の二つの貴族家が、揃って一人の子爵を見下ろすということだ。
私はペンを止め、最後の一文を、ことさら丁寧に綴った。
——リーゼという娘は、私が責任をもって預かります。どうぞ、ご安心くださいませ。
安心するのは、私の家族だ。
ジェラルド、……あなたではない。


