キスをした夜から、俺は自分の唇を意識するようになった。
馬鹿みたいだと思う。
けれど、ふとした瞬間に思い出してしまう。
駅前の灯り。
冬の風。
灯理さんの白い息。
触れた唇の、最初の冷たさ。
そして、離れる頃にはそこに残っていた熱。
あれは、本当に一瞬だった。
触れただけ、と言ってもいいくらいのキスだった。
それなのに、俺の中では何かが変わってしまった。
手を繋いだ時とは違う。
額を寄せた時とも違う。
唇に触れた。
その事実だけが、何度も胸の奥で静かに鳴る。
あれから灯理さんとは、何度か短いメッセージを交わした。
『ちゃんと寝ましたか』
『少し寝ました』
『少し、は寝たに入りません』
そんなやり取り。
なんでもない言葉のはずなのに、どれも手放せなかった。
重い話をしない日常。
けれど、日常に戻ったふりをすればするほど、あの夜のキスが輪郭を持つ。
普通じゃない普通。
灯理さんは、そう言った。
また、普通じゃない普通をしてください。
その言葉を思い出すたびに、俺はどうしようもなく彼女に会いたくなった。
会いたい。
触れたい。
もう一度キスをしたい。
その先を、考えなかったと言えば嘘になる。
俺は三十歳の男で、好きな人に触れたあとも綺麗な気持ちだけでいられるほど、できてはいない。
大事にしたいと思う。
同じ胸の中で、欲しいとも思う。
その二つは、いつも同じ場所でぶつかっていた。
その週の終わり、灯理さんからメッセージが届いた。
『少しだけ会えますか』
俺は画面を見たまま、しばらく動けなかった。
会いたいと願っていたのに、彼女から言われると息が止まる。
『もちろんです』
そう返すまでに、何度も文字を消した。
待ち合わせは、駅前だった。
前にキスをした場所に近い。
あの夜と同じように、街灯が水面に細く揺れていた。
灯理さんは、改札の近くで待っていた。
マフラーに少しだけ顔を埋めて、手袋をした指先を胸の前で重ねている。
俺を見つけると、小さく手を上げた。
その仕草だけで、胸の奥が苦しくなる。
「待ちましたか」
「少しだけ」
「すみません」
「謝るところじゃないです」
前にも同じことを言われた。
それに気づいて、二人で少しだけ笑った。
けれど、その笑い方は、前よりもずっと近かった。
近いから、怖かった。
「どこか入りますか」
俺が聞くと、灯理さんは駅前の通りを見た。
店の灯りはまだいくつか残っている。
けれど、どこも混んでいた。
金曜の夜だった。
人の声。
車の音。
店の前で立ち止まる人たち。
普通に会いたいと言ったのに、普通に話せる場所が見つからない。
「寒いですね」
灯理さんがぽつりと言った。
「はい」
俺は彼女の手元を見た。
手袋をしているのに、指先が少し固くなっている。
「少し、温まっていきますか」
言ってから、自分で息を止めた。
灯理さんが顔を上げる。
「どこで?」
聞かれて、答えに詰まった。
近くのカフェは混んでいる。
駅の待合室では、人目がありすぎる。
俺の部屋は、ここから歩いて十分もかからない。
でも、それを言っていいのか分からなかった。
言えば、何かが変わる。
変わると分かっていて、口にしそうになった自分がいた。
「……すみません。今のは」
「利月くんの家?」
灯理さんが、俺より先に言った。
胸の奥が、静かに跳ねた。
「だめです」
反射的に言っていた。
灯理さんが少しだけ目を丸くする。
「どうして」
「俺が、ちゃんと考えられなくなるからです」
言った瞬間、頬が熱くなった。
あまりにも正直すぎた。
灯理さんは目を伏せた。
マフラーの端を、指先で少しだけ握る。
「考えなくてもいいのに」
小さな声だった。
その一言で、冬の空気が変わった。
俺は、しばらく何も言えなかった。
「灯理さん」
「はい」
「意味、分かって言ってますか」
彼女は逃げなかった。
怖そうな顔をしているのに、目を逸らさなかった。
「分かってます」
声は震えていた。
でも、嘘ではなかった。
「行きたいです」
その言葉を聞いた瞬間、俺の中の理性が、音もなく一歩後ろへ下がった。
それでも、最後にもう一度だけ確認した。
「本当に、嫌になったらすぐ言ってください」
灯理さんは、小さく頷いた。
「はい」
「俺も、止まるようにします」
「止まるように?」
「止まれないかもしれないと思ってるから、今言ってます」
灯理さんの目が揺れた。
その揺れを見て、俺は自分がもう十分に危ない場所へ踏み込んでいることを知った。
俺の部屋までの道を、二人で歩いた。
会話は少なかった。
手は繋がなかった。
繋げなかった。
繋いだら、そのままどこか戻れなくなる気がした。
アパートの階段を上がる音が、やけに大きく聞こえた。
鍵を開ける手が少し震える。
灯理さんには見えないようにしたつもりだった。
でも、きっと見えていたと思う。
「どうぞ」
扉を開けて言うと、灯理さんは小さく頭を下げて中に入った。
その瞬間、部屋の空気が変わった。
灯理さんが俺の部屋にいる。
その事実だけで、いつもなら何も感じないものが急に意味を持った。
本棚。
机。
椅子に掛けたカーディガン。
洗い忘れたマグカップ。
整えたはずのベッド。
全部が、自分の内側を見られているようで落ち着かなかった。
「すみません。片づいてなくて」
「片づいてます」
灯理さんは靴をそろえて、部屋を見回した。
「利月くんらしいです」
「俺らしい?」
「静かです」
そう言って、彼女は本棚の前で立ち止まった。
教育書と小説が半分ずつ並んでいる背表紙を、灯理さんの目がゆっくり追う。
職員室で見る登坂先生でもない。
陽斗が知っている先生でもない。
ここにいるのは、ひとりで帰ってきて、ひとりで眠って、ひとりで朝を迎える男だった。
その場所に、灯理さんがいる。
そう思った瞬間、手を伸ばしたい衝動が強くなった。
「お茶、いれます」
「大丈夫です」
「でも」
「座ってください」
灯理さんにそう言われて、俺は動きを止めた。
自分の部屋なのに、彼女の方が落ち着いて見えた。
いや、違う。
落ち着いて見せているだけだ。
灯理さんの指先は、まだ少し震えていた。
「寒いですか」
「少し」
俺は暖房の温度を上げた。
その間にも、灯理さんは部屋の中をゆっくり見ていた。
俺の生活。
俺のひとりの時間。
俺が誰にも見せずにいた場所。
そこに彼女を入れている。
そのことが、ひどく現実だった。
「利月くん」
呼ばれて振り向くと、灯理さんはベッドの端には座らず、少し離れた床に視線を落としていた。
「はい」
「緊張してますか」
「しています」
正直に答えると、灯理さんは小さく笑った。
「利月くんでも?」
「俺でも、です」
そう言うと、彼女の目が少しだけ柔らかくなった。
前にも、同じようなことを言った。
俺でも、です。
あの言葉が、二人の間に小さく残っている。
灯理さんは、ゆっくりソファの端に座った。
俺は少し距離をあけて隣に座る。
部屋の中に、暖房の音だけが残った。
「変な感じです」
灯理さんが言った。
「何がですか」
「利月くんの部屋にいること」
「俺もです」
「私、来たいって言ったのに」
「はい」
「でも、来たら怖いです」
胸の奥が鳴った。
「帰りますか」
そう聞くと、灯理さんは首を横に振った。
「帰りたくないです」
その言葉で、部屋の空気がまた少し変わった。
俺は、右手を握った。
触れたい。
けれど、すぐには触れなかった。
「灯理さん」
「はい」
「手を繋いでもいいですか」
灯理さんは、少しだけ目を伏せてから頷いた。
「はい」
俺は彼女の手に触れた。
手袋を外した指先は、まだ冷たかった。
その手を包むと、灯理さんが小さく息を吐いた。
ただ手を繋いでいるだけなのに、距離が一気になくなる。
ここは駅前ではない。
カフェでもない。
俺の部屋だ。
誰も入ってこない。
誰の目もない。
その事実が、頭の奥を鈍く熱くした。
「灯理さん」
名前を呼ぶ声が、自分でも低く聞こえた。
彼女が顔を上げる。
「キスしてもいいですか」
灯理さんの目が揺れた。
けれど、逃げなかった。
前よりも少しだけ早く、小さく頷く。
「はい」
俺は、彼女の手を離さないまま顔を近づけた。
唇が触れる。
一度目は、短く。
二度目は、少し長く。
三度目は、灯理さんの指が俺のシャツをつかんだから、止まれなかった。
彼女の手が、胸元にある。
それだけで、呼吸が乱れる。
キスが深くなる。
優しくしなければと思うのに、優しいだけではいられなくなっていく。
灯理さんの背中に回した手に、少し力が入った。
身体が近づく。
近すぎるくらいに。
彼女の息が、俺の唇に触れる。
「……灯理さん」
名前を呼んだ声は、もう先生の声ではなかった。
自分でも分かった。
余裕がなかった。
灯理さんの指が、俺のシャツのボタンに触れた。
偶然ではない。
一つだけ外れた襟元に、彼女の指先が迷うように触れる。
その瞬間、理性が足元を滑らせた。
「それ以上されたら」
声が掠れた。
灯理さんが俺を見る。
「されたら?」
そんなふうに聞かないでほしかった。
けれど、その声は震えていた。
彼女も、怖いのだ。
怖いのに、俺から離れない。
「ちゃんと考えられなくなります」
そう言うと、灯理さんは目を伏せた。
それでも、指は離れなかった。
「考えなくてもいいのに」
小さな声だった。
駅前でも、彼女は同じことを言った。
その時、俺は踏みとどまった。
でも、今は部屋の中だった。
俺の部屋で。
俺のベッドが、すぐそこにあった。
その言葉で、俺の中の何かが本当に崩れた。
俺は灯理さんを引き寄せた。
さっきより強く。
彼女の身体が俺の胸に触れる。
灯理さんが小さく息を飲む。
それでも逃げない。
俺のシャツをつかんだまま、こちらを見上げている。
欲しいと思った。
はっきりと。
大事にしたいという言葉では包みきれないくらい、欲しいと思った。
灯理さんも、それを分かっているようだった。
彼女が、ほんの少し身体の向きを変えた。
その先に、俺のベッドがあった。
俺が押したのではない。
引いたのも、誘ったのも、たぶん彼女の方だった。
それでも、その一歩を見た瞬間、俺は都合よく受け取りそうになった。
いけるかもしれない。
そんな言葉が、頭の奥に浮かんだ。
最低だと思うより先に、身体が熱を持った。
俺は三十歳の男で、綺麗な理性だけでできているわけではない。
好きな人が目の前にいて、触れても拒まれなくて、自分の部屋にいて、こんなふうに誘われて。
先を考えない方が嘘だった。
「灯理さん」
「はい」
「嫌なら、ここで止まります」
灯理さんは首を振った。
「嫌じゃないです」
声が震えていた。
「嫌じゃないの」
その言葉を、俺はまた都合よく受け取りそうになった。
ベッドの端に座った灯理さんの隣に、俺も腰を下ろす。
近い。
膝が触れる。
手が触れる。
呼吸が触れる。
灯理さんの指が、また俺のシャツをつかんだ。
今度は、迷いながらも確かに。
俺はその手を止めなかった。
むしろ、自分の手をその上に重ねた。
灯理さんの指が、少し震えている。
その震えすら、愛おしいと思った。
キスをした。
今度は、優しいだけではなかった。
少し急いでいた。
少し苦しくて、少しだけ余裕がなかった。
灯理さんの身体が、俺のベッドに沈む。
沈んだのは身体だけではなかった。
俺の理性も、その柔らかな沈み方につられるように、少しずつ形を失っていく。
彼女の上に落ちる自分の影を見た。
いつもの俺ではない。
先生でもない。
陽斗の知っている登坂先生でもない。
灯理さんを欲しいと思っている、一人の男だった。
灯理さんは、俺のシャツをつかんだまま、目を閉じていた。
頬が赤い。
唇が少し濡れている。
その顔を見た瞬間、もう一度キスをしたくなった。
した。
止まれなかった。
彼女の髪に触れる。
頬に触れる。
肩に触れる。
シャツの襟元が、いつの間にか少し乱れていた。
俺のものか、彼女のものかも分からない。
部屋の灯りが、やけに眩しかった。
「……灯理さん」
耳元で名前を呼んだ。
その時だった。
灯理さんの目から、涙が落ちた。
ひとつ。
それから、もうひとつ。
声もなく、ぽろぽろと。
俺の動きが止まった。
一瞬で、身体中の熱が別のものに変わった。
「灯理さん?」
彼女は首を振った。
「ごめ、なさい」
声が震えていた。
「違うの」
俺は身体を少し起こした。
けれど、完全には離れなかった。
離れたら、彼女を置いていくような気がした。
でも、近すぎれば、閉じ込めてしまう気もした。
「嫌でしたか」
聞いた瞬間、灯理さんはまた首を振った。
強く。
「嫌じゃないの」
涙が落ちる。
「嫌じゃないのに」
その声が、ひどく幼く聞こえた。
大人の泣き方ではなかった。
説明するための涙でも、責めるための涙でもない。
どうしていいか分からなくなった子どもみたいに、ただ涙だけが落ちていた。
「私が、来たいって言ったのに」
灯理さんはそう言った。
「私が、ここまで来たのに」
胸が痛んだ。
その言葉は、俺に向けられているようで、たぶん彼女自身に向けられていた。
来たいと言った自分。
欲しがった自分。
怖くなった自分。
その全部を、彼女は今、自分で責めている。
「謝らないでください」
俺はゆっくり言った。
「ここまで来たから、最後まで行かなきゃいけないわけじゃないです」
灯理さんの涙が、また落ちた。
「私、欲しかったの」
言った瞬間、彼女の顔がさらに赤くなった。
でも、目を逸らさなかった。
「利月くんに、こんなふうに見られたかった」
息が止まった。
嬉しかった。
その言葉が、どうしようもなく嬉しかった。
同時に、胸が痛かった。
「でも、急に怖くなった」
「はい」
「怖いのに、離れたくなかった」
俺は、彼女の手を取った。
シャツを握りしめていた指を、ほどくのではなく、その上から包む。
「俺も、途中で止まれなくなりそうでした」
声が低くなった。
正直に言うことが、少し怖かった。
「本当に」
灯理さんが涙で濡れた目で俺を見る。
「利月くんでも?」
「俺でも、です」
その言葉に、灯理さんはまた泣いた。
俺は、自分の中の欲が消えたわけではないことを知っていた。
消えていない。
まだ、彼女が欲しい。
でも、だからこそ進めない。
この涙を、許可にしてはいけない。
彼女が自分から来たいと言ったことを、俺の都合のいい理由にしてはいけない。
「今日は、ここまでにします」
俺が言うと、灯理さんが顔を上げた。
「嫌になった?」
「なっていません」
「面倒くさいって思った?」
「思っていません」
「でも、止めるの?」
「止めます」
声は掠れていた。
けれど、はっきりと言った。
「泣いている灯理さんを越えてまで、進みたくありません」
灯理さんは、唇を噛んだ。
「私が来たいって言ったのに?」
「来てくれたことは、嬉しかったです」
俺は彼女の目を見た。
「本当に、嬉しかったです」
彼女の目が揺れる。
「でも、ここまで来たから最後まで行かなきゃいけないわけじゃない」
灯理さんは、何も言わなかった。
ただ、俺の手を握り返した。
「したくないの?」
小さな声だった。
言ったあと、灯理さんは自分で驚いたように目を伏せた。
俺も息が止まった。
「したいです」
返事は、思っていたより早く出た。
嘘にはしたくなかった。
「でも、今日はしません」
「どうして」
「明日の灯理さんが、今日の灯理さんを責めそうだからです」
彼女は否定しなかった。
その沈黙が、答えだった。
「俺も、たぶん自分を責めます」
「私を?」
「自分をです」
俺は、彼女の指を握った。
「あなたが泣いたところを、見なかったふりをした自分を」
静かな沈黙が落ちた。
暖房の音だけが、部屋に残る。
灯理さんの涙は、まだ完全には止まっていなかった。
俺はゆっくり身体を離し、彼女の隣に座り直した。
ベッドの上で、少しだけ距離をあけて。
近いのに、これ以上は近づかない。
その距離が、苦しかった。
でも、必要だった。
灯理さんは、はだけかけた俺のシャツを見て、少しだけ目を伏せた。
「ごめんなさい」
「謝らないでください」
「でも、乱したの、私だし」
思わず息が詰まった。
こんな時に、そんなことを言わないでほしかった。
また触れたくなる。
また、全部を忘れそうになる。
「灯理さん」
「はい」
「そういうことを言われると、困ります」
灯理さんは涙の残る顔で、少しだけ笑った。
「困らせたかったのかもしれない」
その一言で、胸の奥がまた熱くなる。
俺は目を閉じた。
「本当に、困ります」
「うん」
「でも」
「はい」
「嫌じゃないです」
そう言うと、灯理さんは泣きながら笑った。
「ずるい」
「聞きます」
「今日は、ずるいの私かもしれない」
「それも聞きます」
灯理さんは、少しだけ身体を寄せた。
「帰らないで」
「ここ、俺の部屋です」
そう言ってから、自分でも間の抜けた返しだと思った。
灯理さんが、涙の残る顔で少しだけ笑った。
「そうでした」
「でも、帰りません」
「うん」
「灯理さんを、急かしません」
「うん」
「でも、手は繋いでいます」
灯理さんは、ゆっくり頷いた。
「手だけ」
「はい」
「今日は、手だけ」
「はい」
俺たちは、俺のベッドの端に並んで座った。
灯理さんはまだ少し泣いていた。
俺は、その隣で手だけを繋いでいた。
唇には、まだ彼女の熱が残っている。
腕には、彼女を抱き寄せた感覚が残っている。
シャツには、彼女がつかんだ皺が残っていた。
それを直す気にはなれなかった。
今夜、俺は途中まで理性を失くした。
灯理さんは、それを見た。
そして、泣いた。
怖かったのだと思う。
けれど、嫌だったわけではない。
それが余計に苦しかった。
抱かなかった。
でも、何もなかった夜ではない。
むしろ、何かが確かに始まってしまった夜だった。
灯理さんが自分から俺の部屋に来たこと。
俺がそれを嬉しいと思ったこと。
欲に負けかけたこと。
彼女が少女みたいに泣いたこと。
そして、その涙を越えないと決めたこと。
全部が、手の中で震えていた。
しばらくして、灯理さんが小さく言った。
「帰ります」
胸の奥が、少し沈んだ。
でも、引き止めてはいけないと思った。
「送ります」
「大丈夫です」
「送ります」
今度は、はっきり言った。
灯理さんが俺を見る。
「ここまで来て、何もしないで帰すのに、ひとりでは帰しません」
言ってから、また正直すぎたと思った。
灯理さんは、少しだけ困ったように笑った。
「利月くん、そういうところ」
「はい」
「ずるいです」
「聞きます」
俺は立ち上がり、乱れたシャツの襟元を直した。
灯理さんがそれを見て、少しだけ目を伏せる。
その仕草だけで、また胸の奥が熱くなる。
本当に、困る。
でも、その困り方ごと、大事にしたかった。
部屋を出る前、灯理さんは一度だけ振り返った。
俺の部屋を、静かに見た。
「利月くんの部屋、やっぱり静かですね」
「そうですか」
「はい」
灯理さんは少しだけ笑った。
「でも、今日から少し、違う場所に見えます」
その言葉に、胸が詰まった。
俺にとっても、もう違う場所だった。
灯理さんが来た部屋。
灯理さんが泣いた部屋。
俺が欲に負けかけて、それでも止まった部屋。
その全部が、ここに残る。
硝子の鍵は、開きかけた扉の前で止まっていた。
その扉を開ける日は、いつか来るのかもしれない。
でも、今夜ではない。
今夜は、彼女が自分を責めないように。
俺が彼女の涙を、言い訳にしないように。
ただ、手だけを繋いでいた。
馬鹿みたいだと思う。
けれど、ふとした瞬間に思い出してしまう。
駅前の灯り。
冬の風。
灯理さんの白い息。
触れた唇の、最初の冷たさ。
そして、離れる頃にはそこに残っていた熱。
あれは、本当に一瞬だった。
触れただけ、と言ってもいいくらいのキスだった。
それなのに、俺の中では何かが変わってしまった。
手を繋いだ時とは違う。
額を寄せた時とも違う。
唇に触れた。
その事実だけが、何度も胸の奥で静かに鳴る。
あれから灯理さんとは、何度か短いメッセージを交わした。
『ちゃんと寝ましたか』
『少し寝ました』
『少し、は寝たに入りません』
そんなやり取り。
なんでもない言葉のはずなのに、どれも手放せなかった。
重い話をしない日常。
けれど、日常に戻ったふりをすればするほど、あの夜のキスが輪郭を持つ。
普通じゃない普通。
灯理さんは、そう言った。
また、普通じゃない普通をしてください。
その言葉を思い出すたびに、俺はどうしようもなく彼女に会いたくなった。
会いたい。
触れたい。
もう一度キスをしたい。
その先を、考えなかったと言えば嘘になる。
俺は三十歳の男で、好きな人に触れたあとも綺麗な気持ちだけでいられるほど、できてはいない。
大事にしたいと思う。
同じ胸の中で、欲しいとも思う。
その二つは、いつも同じ場所でぶつかっていた。
その週の終わり、灯理さんからメッセージが届いた。
『少しだけ会えますか』
俺は画面を見たまま、しばらく動けなかった。
会いたいと願っていたのに、彼女から言われると息が止まる。
『もちろんです』
そう返すまでに、何度も文字を消した。
待ち合わせは、駅前だった。
前にキスをした場所に近い。
あの夜と同じように、街灯が水面に細く揺れていた。
灯理さんは、改札の近くで待っていた。
マフラーに少しだけ顔を埋めて、手袋をした指先を胸の前で重ねている。
俺を見つけると、小さく手を上げた。
その仕草だけで、胸の奥が苦しくなる。
「待ちましたか」
「少しだけ」
「すみません」
「謝るところじゃないです」
前にも同じことを言われた。
それに気づいて、二人で少しだけ笑った。
けれど、その笑い方は、前よりもずっと近かった。
近いから、怖かった。
「どこか入りますか」
俺が聞くと、灯理さんは駅前の通りを見た。
店の灯りはまだいくつか残っている。
けれど、どこも混んでいた。
金曜の夜だった。
人の声。
車の音。
店の前で立ち止まる人たち。
普通に会いたいと言ったのに、普通に話せる場所が見つからない。
「寒いですね」
灯理さんがぽつりと言った。
「はい」
俺は彼女の手元を見た。
手袋をしているのに、指先が少し固くなっている。
「少し、温まっていきますか」
言ってから、自分で息を止めた。
灯理さんが顔を上げる。
「どこで?」
聞かれて、答えに詰まった。
近くのカフェは混んでいる。
駅の待合室では、人目がありすぎる。
俺の部屋は、ここから歩いて十分もかからない。
でも、それを言っていいのか分からなかった。
言えば、何かが変わる。
変わると分かっていて、口にしそうになった自分がいた。
「……すみません。今のは」
「利月くんの家?」
灯理さんが、俺より先に言った。
胸の奥が、静かに跳ねた。
「だめです」
反射的に言っていた。
灯理さんが少しだけ目を丸くする。
「どうして」
「俺が、ちゃんと考えられなくなるからです」
言った瞬間、頬が熱くなった。
あまりにも正直すぎた。
灯理さんは目を伏せた。
マフラーの端を、指先で少しだけ握る。
「考えなくてもいいのに」
小さな声だった。
その一言で、冬の空気が変わった。
俺は、しばらく何も言えなかった。
「灯理さん」
「はい」
「意味、分かって言ってますか」
彼女は逃げなかった。
怖そうな顔をしているのに、目を逸らさなかった。
「分かってます」
声は震えていた。
でも、嘘ではなかった。
「行きたいです」
その言葉を聞いた瞬間、俺の中の理性が、音もなく一歩後ろへ下がった。
それでも、最後にもう一度だけ確認した。
「本当に、嫌になったらすぐ言ってください」
灯理さんは、小さく頷いた。
「はい」
「俺も、止まるようにします」
「止まるように?」
「止まれないかもしれないと思ってるから、今言ってます」
灯理さんの目が揺れた。
その揺れを見て、俺は自分がもう十分に危ない場所へ踏み込んでいることを知った。
俺の部屋までの道を、二人で歩いた。
会話は少なかった。
手は繋がなかった。
繋げなかった。
繋いだら、そのままどこか戻れなくなる気がした。
アパートの階段を上がる音が、やけに大きく聞こえた。
鍵を開ける手が少し震える。
灯理さんには見えないようにしたつもりだった。
でも、きっと見えていたと思う。
「どうぞ」
扉を開けて言うと、灯理さんは小さく頭を下げて中に入った。
その瞬間、部屋の空気が変わった。
灯理さんが俺の部屋にいる。
その事実だけで、いつもなら何も感じないものが急に意味を持った。
本棚。
机。
椅子に掛けたカーディガン。
洗い忘れたマグカップ。
整えたはずのベッド。
全部が、自分の内側を見られているようで落ち着かなかった。
「すみません。片づいてなくて」
「片づいてます」
灯理さんは靴をそろえて、部屋を見回した。
「利月くんらしいです」
「俺らしい?」
「静かです」
そう言って、彼女は本棚の前で立ち止まった。
教育書と小説が半分ずつ並んでいる背表紙を、灯理さんの目がゆっくり追う。
職員室で見る登坂先生でもない。
陽斗が知っている先生でもない。
ここにいるのは、ひとりで帰ってきて、ひとりで眠って、ひとりで朝を迎える男だった。
その場所に、灯理さんがいる。
そう思った瞬間、手を伸ばしたい衝動が強くなった。
「お茶、いれます」
「大丈夫です」
「でも」
「座ってください」
灯理さんにそう言われて、俺は動きを止めた。
自分の部屋なのに、彼女の方が落ち着いて見えた。
いや、違う。
落ち着いて見せているだけだ。
灯理さんの指先は、まだ少し震えていた。
「寒いですか」
「少し」
俺は暖房の温度を上げた。
その間にも、灯理さんは部屋の中をゆっくり見ていた。
俺の生活。
俺のひとりの時間。
俺が誰にも見せずにいた場所。
そこに彼女を入れている。
そのことが、ひどく現実だった。
「利月くん」
呼ばれて振り向くと、灯理さんはベッドの端には座らず、少し離れた床に視線を落としていた。
「はい」
「緊張してますか」
「しています」
正直に答えると、灯理さんは小さく笑った。
「利月くんでも?」
「俺でも、です」
そう言うと、彼女の目が少しだけ柔らかくなった。
前にも、同じようなことを言った。
俺でも、です。
あの言葉が、二人の間に小さく残っている。
灯理さんは、ゆっくりソファの端に座った。
俺は少し距離をあけて隣に座る。
部屋の中に、暖房の音だけが残った。
「変な感じです」
灯理さんが言った。
「何がですか」
「利月くんの部屋にいること」
「俺もです」
「私、来たいって言ったのに」
「はい」
「でも、来たら怖いです」
胸の奥が鳴った。
「帰りますか」
そう聞くと、灯理さんは首を横に振った。
「帰りたくないです」
その言葉で、部屋の空気がまた少し変わった。
俺は、右手を握った。
触れたい。
けれど、すぐには触れなかった。
「灯理さん」
「はい」
「手を繋いでもいいですか」
灯理さんは、少しだけ目を伏せてから頷いた。
「はい」
俺は彼女の手に触れた。
手袋を外した指先は、まだ冷たかった。
その手を包むと、灯理さんが小さく息を吐いた。
ただ手を繋いでいるだけなのに、距離が一気になくなる。
ここは駅前ではない。
カフェでもない。
俺の部屋だ。
誰も入ってこない。
誰の目もない。
その事実が、頭の奥を鈍く熱くした。
「灯理さん」
名前を呼ぶ声が、自分でも低く聞こえた。
彼女が顔を上げる。
「キスしてもいいですか」
灯理さんの目が揺れた。
けれど、逃げなかった。
前よりも少しだけ早く、小さく頷く。
「はい」
俺は、彼女の手を離さないまま顔を近づけた。
唇が触れる。
一度目は、短く。
二度目は、少し長く。
三度目は、灯理さんの指が俺のシャツをつかんだから、止まれなかった。
彼女の手が、胸元にある。
それだけで、呼吸が乱れる。
キスが深くなる。
優しくしなければと思うのに、優しいだけではいられなくなっていく。
灯理さんの背中に回した手に、少し力が入った。
身体が近づく。
近すぎるくらいに。
彼女の息が、俺の唇に触れる。
「……灯理さん」
名前を呼んだ声は、もう先生の声ではなかった。
自分でも分かった。
余裕がなかった。
灯理さんの指が、俺のシャツのボタンに触れた。
偶然ではない。
一つだけ外れた襟元に、彼女の指先が迷うように触れる。
その瞬間、理性が足元を滑らせた。
「それ以上されたら」
声が掠れた。
灯理さんが俺を見る。
「されたら?」
そんなふうに聞かないでほしかった。
けれど、その声は震えていた。
彼女も、怖いのだ。
怖いのに、俺から離れない。
「ちゃんと考えられなくなります」
そう言うと、灯理さんは目を伏せた。
それでも、指は離れなかった。
「考えなくてもいいのに」
小さな声だった。
駅前でも、彼女は同じことを言った。
その時、俺は踏みとどまった。
でも、今は部屋の中だった。
俺の部屋で。
俺のベッドが、すぐそこにあった。
その言葉で、俺の中の何かが本当に崩れた。
俺は灯理さんを引き寄せた。
さっきより強く。
彼女の身体が俺の胸に触れる。
灯理さんが小さく息を飲む。
それでも逃げない。
俺のシャツをつかんだまま、こちらを見上げている。
欲しいと思った。
はっきりと。
大事にしたいという言葉では包みきれないくらい、欲しいと思った。
灯理さんも、それを分かっているようだった。
彼女が、ほんの少し身体の向きを変えた。
その先に、俺のベッドがあった。
俺が押したのではない。
引いたのも、誘ったのも、たぶん彼女の方だった。
それでも、その一歩を見た瞬間、俺は都合よく受け取りそうになった。
いけるかもしれない。
そんな言葉が、頭の奥に浮かんだ。
最低だと思うより先に、身体が熱を持った。
俺は三十歳の男で、綺麗な理性だけでできているわけではない。
好きな人が目の前にいて、触れても拒まれなくて、自分の部屋にいて、こんなふうに誘われて。
先を考えない方が嘘だった。
「灯理さん」
「はい」
「嫌なら、ここで止まります」
灯理さんは首を振った。
「嫌じゃないです」
声が震えていた。
「嫌じゃないの」
その言葉を、俺はまた都合よく受け取りそうになった。
ベッドの端に座った灯理さんの隣に、俺も腰を下ろす。
近い。
膝が触れる。
手が触れる。
呼吸が触れる。
灯理さんの指が、また俺のシャツをつかんだ。
今度は、迷いながらも確かに。
俺はその手を止めなかった。
むしろ、自分の手をその上に重ねた。
灯理さんの指が、少し震えている。
その震えすら、愛おしいと思った。
キスをした。
今度は、優しいだけではなかった。
少し急いでいた。
少し苦しくて、少しだけ余裕がなかった。
灯理さんの身体が、俺のベッドに沈む。
沈んだのは身体だけではなかった。
俺の理性も、その柔らかな沈み方につられるように、少しずつ形を失っていく。
彼女の上に落ちる自分の影を見た。
いつもの俺ではない。
先生でもない。
陽斗の知っている登坂先生でもない。
灯理さんを欲しいと思っている、一人の男だった。
灯理さんは、俺のシャツをつかんだまま、目を閉じていた。
頬が赤い。
唇が少し濡れている。
その顔を見た瞬間、もう一度キスをしたくなった。
した。
止まれなかった。
彼女の髪に触れる。
頬に触れる。
肩に触れる。
シャツの襟元が、いつの間にか少し乱れていた。
俺のものか、彼女のものかも分からない。
部屋の灯りが、やけに眩しかった。
「……灯理さん」
耳元で名前を呼んだ。
その時だった。
灯理さんの目から、涙が落ちた。
ひとつ。
それから、もうひとつ。
声もなく、ぽろぽろと。
俺の動きが止まった。
一瞬で、身体中の熱が別のものに変わった。
「灯理さん?」
彼女は首を振った。
「ごめ、なさい」
声が震えていた。
「違うの」
俺は身体を少し起こした。
けれど、完全には離れなかった。
離れたら、彼女を置いていくような気がした。
でも、近すぎれば、閉じ込めてしまう気もした。
「嫌でしたか」
聞いた瞬間、灯理さんはまた首を振った。
強く。
「嫌じゃないの」
涙が落ちる。
「嫌じゃないのに」
その声が、ひどく幼く聞こえた。
大人の泣き方ではなかった。
説明するための涙でも、責めるための涙でもない。
どうしていいか分からなくなった子どもみたいに、ただ涙だけが落ちていた。
「私が、来たいって言ったのに」
灯理さんはそう言った。
「私が、ここまで来たのに」
胸が痛んだ。
その言葉は、俺に向けられているようで、たぶん彼女自身に向けられていた。
来たいと言った自分。
欲しがった自分。
怖くなった自分。
その全部を、彼女は今、自分で責めている。
「謝らないでください」
俺はゆっくり言った。
「ここまで来たから、最後まで行かなきゃいけないわけじゃないです」
灯理さんの涙が、また落ちた。
「私、欲しかったの」
言った瞬間、彼女の顔がさらに赤くなった。
でも、目を逸らさなかった。
「利月くんに、こんなふうに見られたかった」
息が止まった。
嬉しかった。
その言葉が、どうしようもなく嬉しかった。
同時に、胸が痛かった。
「でも、急に怖くなった」
「はい」
「怖いのに、離れたくなかった」
俺は、彼女の手を取った。
シャツを握りしめていた指を、ほどくのではなく、その上から包む。
「俺も、途中で止まれなくなりそうでした」
声が低くなった。
正直に言うことが、少し怖かった。
「本当に」
灯理さんが涙で濡れた目で俺を見る。
「利月くんでも?」
「俺でも、です」
その言葉に、灯理さんはまた泣いた。
俺は、自分の中の欲が消えたわけではないことを知っていた。
消えていない。
まだ、彼女が欲しい。
でも、だからこそ進めない。
この涙を、許可にしてはいけない。
彼女が自分から来たいと言ったことを、俺の都合のいい理由にしてはいけない。
「今日は、ここまでにします」
俺が言うと、灯理さんが顔を上げた。
「嫌になった?」
「なっていません」
「面倒くさいって思った?」
「思っていません」
「でも、止めるの?」
「止めます」
声は掠れていた。
けれど、はっきりと言った。
「泣いている灯理さんを越えてまで、進みたくありません」
灯理さんは、唇を噛んだ。
「私が来たいって言ったのに?」
「来てくれたことは、嬉しかったです」
俺は彼女の目を見た。
「本当に、嬉しかったです」
彼女の目が揺れる。
「でも、ここまで来たから最後まで行かなきゃいけないわけじゃない」
灯理さんは、何も言わなかった。
ただ、俺の手を握り返した。
「したくないの?」
小さな声だった。
言ったあと、灯理さんは自分で驚いたように目を伏せた。
俺も息が止まった。
「したいです」
返事は、思っていたより早く出た。
嘘にはしたくなかった。
「でも、今日はしません」
「どうして」
「明日の灯理さんが、今日の灯理さんを責めそうだからです」
彼女は否定しなかった。
その沈黙が、答えだった。
「俺も、たぶん自分を責めます」
「私を?」
「自分をです」
俺は、彼女の指を握った。
「あなたが泣いたところを、見なかったふりをした自分を」
静かな沈黙が落ちた。
暖房の音だけが、部屋に残る。
灯理さんの涙は、まだ完全には止まっていなかった。
俺はゆっくり身体を離し、彼女の隣に座り直した。
ベッドの上で、少しだけ距離をあけて。
近いのに、これ以上は近づかない。
その距離が、苦しかった。
でも、必要だった。
灯理さんは、はだけかけた俺のシャツを見て、少しだけ目を伏せた。
「ごめんなさい」
「謝らないでください」
「でも、乱したの、私だし」
思わず息が詰まった。
こんな時に、そんなことを言わないでほしかった。
また触れたくなる。
また、全部を忘れそうになる。
「灯理さん」
「はい」
「そういうことを言われると、困ります」
灯理さんは涙の残る顔で、少しだけ笑った。
「困らせたかったのかもしれない」
その一言で、胸の奥がまた熱くなる。
俺は目を閉じた。
「本当に、困ります」
「うん」
「でも」
「はい」
「嫌じゃないです」
そう言うと、灯理さんは泣きながら笑った。
「ずるい」
「聞きます」
「今日は、ずるいの私かもしれない」
「それも聞きます」
灯理さんは、少しだけ身体を寄せた。
「帰らないで」
「ここ、俺の部屋です」
そう言ってから、自分でも間の抜けた返しだと思った。
灯理さんが、涙の残る顔で少しだけ笑った。
「そうでした」
「でも、帰りません」
「うん」
「灯理さんを、急かしません」
「うん」
「でも、手は繋いでいます」
灯理さんは、ゆっくり頷いた。
「手だけ」
「はい」
「今日は、手だけ」
「はい」
俺たちは、俺のベッドの端に並んで座った。
灯理さんはまだ少し泣いていた。
俺は、その隣で手だけを繋いでいた。
唇には、まだ彼女の熱が残っている。
腕には、彼女を抱き寄せた感覚が残っている。
シャツには、彼女がつかんだ皺が残っていた。
それを直す気にはなれなかった。
今夜、俺は途中まで理性を失くした。
灯理さんは、それを見た。
そして、泣いた。
怖かったのだと思う。
けれど、嫌だったわけではない。
それが余計に苦しかった。
抱かなかった。
でも、何もなかった夜ではない。
むしろ、何かが確かに始まってしまった夜だった。
灯理さんが自分から俺の部屋に来たこと。
俺がそれを嬉しいと思ったこと。
欲に負けかけたこと。
彼女が少女みたいに泣いたこと。
そして、その涙を越えないと決めたこと。
全部が、手の中で震えていた。
しばらくして、灯理さんが小さく言った。
「帰ります」
胸の奥が、少し沈んだ。
でも、引き止めてはいけないと思った。
「送ります」
「大丈夫です」
「送ります」
今度は、はっきり言った。
灯理さんが俺を見る。
「ここまで来て、何もしないで帰すのに、ひとりでは帰しません」
言ってから、また正直すぎたと思った。
灯理さんは、少しだけ困ったように笑った。
「利月くん、そういうところ」
「はい」
「ずるいです」
「聞きます」
俺は立ち上がり、乱れたシャツの襟元を直した。
灯理さんがそれを見て、少しだけ目を伏せる。
その仕草だけで、また胸の奥が熱くなる。
本当に、困る。
でも、その困り方ごと、大事にしたかった。
部屋を出る前、灯理さんは一度だけ振り返った。
俺の部屋を、静かに見た。
「利月くんの部屋、やっぱり静かですね」
「そうですか」
「はい」
灯理さんは少しだけ笑った。
「でも、今日から少し、違う場所に見えます」
その言葉に、胸が詰まった。
俺にとっても、もう違う場所だった。
灯理さんが来た部屋。
灯理さんが泣いた部屋。
俺が欲に負けかけて、それでも止まった部屋。
その全部が、ここに残る。
硝子の鍵は、開きかけた扉の前で止まっていた。
その扉を開ける日は、いつか来るのかもしれない。
でも、今夜ではない。
今夜は、彼女が自分を責めないように。
俺が彼女の涙を、言い訳にしないように。
ただ、手だけを繋いでいた。

