灯理さんからの返事は、夜になっても来なかった。
それは、当然だと思った。
俺が急に重い話をした。
先生を続けられるか分からなくなる時がある。
そんなことを、彼女に言った。
灯理さんは、かつて子どもに関わる仕事をしていた人だ。
詳しく聞いたわけではない。
でも、彼女がそこを大事にしていたことは分かっていた。
楽しかったです。
そう返ってきた言葉の奥に、まだ触れてはいけないものがあることも。
それなのに俺は、自分の迷いを渡してしまった。
渡したかったのだと思う。
彼女にだけは、隠したくなかった。
そう思うこと自体が、もう俺の身勝手だった。
翌朝、職員室に入ると、佐伯が机に座ってプリントを揃えていた。
「おはよう」
「おはよう」
返事だけは普通だった。
けれど、佐伯は俺を見るなり、少し眉を上げた。
「寝てない?」
「寝た」
「浅い顔してる」
「顔に深さがあるのか」
「あるある。お前、今日、水たまりくらい浅い」
「朝から失礼だな」
「親友の観察」
観察。
その言葉が、昨日の授業の続きみたいに耳に残った。
先生は見る仕事。
佐伯はその言葉を茶化しながら、俺よりずっと自然に人を見ている。
それが時々、腹立たしい。
「灯理さんに言った?」
佐伯が、プリントから目を離さずに聞いた。
「何を」
「先生続けられるか分からないってやつ」
俺は黙った。
佐伯は、それだけで察したようにため息をつく。
「言ったんだ」
「言った」
「重」
「分かってる」
「いや、悪いとは言ってない」
佐伯はプリントを揃える手を止めた。
「でも、灯理さんには刺さるだろうな」
胸が少しだけ痛んだ。
「分かってる」
「分かってるなら、なんで言ったんだよ」
「隠したくなかった」
佐伯は少しだけ目を細めた。
「それ、恋人っぽいこと言ってるつもり?」
「茶化すな」
「茶化してない」
佐伯の声が少し低くなった。
「隠さないのは大事だけど、渡された側が受け取れる状態かは別だろ」
何も言い返せなかった。
正しい。
俺は、灯理さんに隠したくないと思った。
でも、彼女が受け取れるかどうかまでは考えきれていなかった。
「……分かってる」
「そればっかりだな」
佐伯は軽く笑った。
「でもまあ、言ったなら逃げるなよ」
「逃げない」
「ほんとか?」
「逃げないようにする」
佐伯は一瞬黙って、それから少しだけ笑った。
「そこは正直だな」
逃げない、と言い切れない自分が情けない。
でも、逃げないと言い切れるほど、俺は強くなかった。
それでも、逃げないようにしたいとは思っている。
今の俺に言えるのは、それだけだった。
午前中、陽斗はいつもより少し静かだった。
授業中に手を挙げないわけではない。
友達と話さないわけでもない。
忘れ物をしたわけでもない。
ただ、ふとした時に、遠くを見る。
黒板の少し先。
窓の向こう。
ノートの端。
十一歳の子どもが、考えなくてもいいことまで考えている顔だった。
俺はそれを見て、胸の奥が重くなった。
俺と灯理さんのことが、陽斗の毎日に影を落としている。
そう思いたくなかった。
でも、思わないふりをする方がずるい。
休み時間、陽斗は図書室にいた。
棚の前で、背表紙を眺めている。
「恐竜博士、次は何を探してる」
声をかけると、陽斗は少し驚いた顔をした。
「先生」
「驚きすぎだろ」
「気配なかった」
「職業柄」
「忍者?」
「先生」
陽斗は少し笑った。
その笑い方を見て、俺は少し安心する。
「何か探してるのか」
「別に」
「別に、で図書室に来るタイプだったか」
「来るよ」
「そうか」
陽斗はしばらく背表紙を眺めていた。
やがて、小さな声で言った。
「お母さん、昨日ちょっと考えてた」
心臓が小さく鳴った。
「そうか」
「先生、何か言った?」
子どもに隠し事をするのは難しい。
けれど、全部を渡すわけにもいかない。
「少し、先生の仕事の話をした」
「辞める話?」
「辞めると決めたわけじゃない」
昨日と同じことを言う。
自分でも頼りないと思う。
陽斗は棚から一冊の本を抜きかけて、また戻した。
「お母さん、先生だった頃の話、あんまりしない」
「そうなのか」
「うん」
「陽斗は聞きたい?」
陽斗は少し考えた。
「聞きたいけど、変な顔するから聞きにくい」
胸が痛んだ。
灯理さんは、陽斗の前でもその顔を隠しきれていないのだ。
母親でいようとしても、過去の痛みはふいにこぼれる。
そして陽斗は、それを拾ってしまう。
「お母さんが話したくなった時に、聞けばいいと思う」
俺が言うと、陽斗は少しだけ俺を見た。
「先生も?」
「俺も?」
「先生も、お母さんが話したくなった時まで待てる?」
その問いは、思っていたより深く刺さった。
待てるのか。
俺は、灯理さんの痛みを知りたいと思っている。
それは彼女を大事にしたいからだ。
でも、その奥には、自分が安心したいという気持ちもある。
知れば、正しく扱えるかもしれない。
知れば、傷つけずに済むかもしれない。
知れば、佐伯よりも近い場所に行けるかもしれない。
そんな、情けない気持ちもある。
「待ちたいと思ってる」
俺は正直に答えた。
陽斗は、じっと俺を見た。
「思ってる、か」
「今の俺には、それが一番正直な言い方だ」
陽斗は少しだけ口元をゆるめた。
「大人って、やっぱりめんどくさいね」
「そうだな」
「でも、嘘よりいい」
その言葉に、俺は何も返せなかった。
陽斗は別の棚へ歩いていく。
その小さな背中を見ながら、俺は思った。
この子に、どれだけ見られているのだろう。
そして、どれだけ背負わせてしまっているのだろう。
昼休みの終わり頃、職員室に戻ると、事務の先生から声をかけられた。
「登坂先生、陽斗くんのお母さんが書類を持って来られるそうです」
一瞬、息が止まった。
「灯理さんが」
名前を出しそうになって、飲み込む。
「午後に少し寄られるみたいです」
「分かりました」
平静を装って答えたつもりだった。
でも、佐伯がこちらを見た。
気づかれた。
まただ。
佐伯は何も言わず、ただ少しだけ眉を上げた。
その顔が腹立たしい。
午後、灯理さんは学校に来た。
俺は直接会わなかった。
会えなかった、という方が正しい。
学年の打ち合わせが入り、職員室を離れていた。
戻った時には、灯理さんはもう帰ったあとだった。
机の上に、提出された書類が置かれていた。
その字を見ただけで、胸が少しざわつく。
灯理さんの字。
丁寧で、少しだけ力が入っている。
会えなかった。
それだけのことなのに、残念に思っている自分がいた。
同時に、ほっとしている自分もいた。
昨日の今日で、どんな顔をすればいいのか分からなかったから。
「登坂」
佐伯が声をかけてきた。
「灯理さん、来たよ」
「知ってる」
「会えなかったな」
「打ち合わせだった」
「残念?」
「仕事中だ」
「答えになってない」
俺は書類に視線を落とした。
佐伯は近くの椅子に腰掛ける。
「少し話した」
手が止まった。
「陽斗のことか」
「それも」
「それ以外は」
佐伯はしばらく黙った。
その沈黙が、嫌だった。
「言っていいことと、言わない方がいいことがある」
胸の奥が冷える。
「俺に関係あることか」
「ある」
「なら言え」
「灯理さんの気持ちは、灯理さんが言うべきだろ」
正しい。
でも、腹が立った。
佐伯はいつも、俺が欲しいものを少し先に見ている。
灯理さんの言葉も。
灯理さんの表情も。
灯理さんの揺れも。
そして俺は、それを佐伯の口から聞くしかない時がある。
「灯理さん、泣いたのか」
聞いてしまった。
佐伯は少しだけ目を伏せた。
「泣いてはない」
「じゃあ、どういう顔だった」
「痛そうな顔」
胸が締めつけられた。
痛そうな顔。
昨日、俺が言った言葉のせいだ。
「先生の話が痛いって、言ってた」
佐伯が静かに言った。
息が止まった。
「先生の話が」
「うん」
「俺が、先生だからか」
「それだけじゃないと思う」
佐伯は、窓の方を見た。
「戻れないんだろうな。たぶん」
その言葉は、刃物のように静かだった。
戻れない。
俺は、その一言を頭の中で繰り返した。
灯理さんが戻れない場所。
教室。
子どもたちの声。
先生だった自分。
俺が今も立っている場所。
「俺は」
声がかすれた。
「彼女を傷つけたのか」
佐伯はすぐには答えなかった。
その沈黙が答えに近かった。
「傷ついてはいると思う」
「そうか」
「でも、登坂が悪いって話でもない」
「悪いだろ」
「そうやって全部自分のせいにするのやめろ」
佐伯の声が少し強くなる。
「灯理さんの痛みは、登坂が作ったものじゃない」
「でも、触れた」
「触れたな」
佐伯はあっさり認めた。
「だから、ちゃんと触れろ」
「どういう意味だ」
「触れてしまったなら、見なかったことにするなってこと」
言葉が胸に残る。
触れてしまったなら、見なかったことにするな。
「灯理さん、俺には言ったよ」
佐伯は続けた。
「ずるいって思ったって」
全身が固まった。
「何を」
聞かなくても分かっていた。
でも、聞かずにはいられなかった。
佐伯は、俺を見た。
「お前が先生を辞めたいかもしれないって言ったこと」
呼吸が浅くなる。
ずるい。
やはり、その言葉だった。
昨日、誰もいない教室で思ったこと。
いつか言われるかもしれない。
それがもう、佐伯の前では言葉になっていた。
「私は戻れないのに、って」
佐伯は静かに言った。
俺は、机の上の灯理さんの書類を見た。
文字が滲んで見えた。
「俺は」
声が出にくかった。
「何て言えばいい」
「俺に聞くな」
「佐伯」
「お前が聞けよ、本人に」
正しい。
また、正しい。
分かっている。
でも、正しいことほど難しい。
「今すぐ聞くなよ」
佐伯は釘を刺すように言った。
「灯理さん、まだ言葉にできるところまで来てない」
「じゃあ、どうすれば」
「待て」
「待つだけか」
「待つだけじゃない」
佐伯は少しだけ厳しい顔をした。
「お前が自分の先生としての迷いを、ちゃんと自分で持ってろ」
「自分で」
「灯理さんの痛みに寄りかかるな。灯理さんに許してもらおうとするな。灯理さんが苦しいって言った時に、お前が崩れたら面倒くさい」
面倒くさい。
その雑な言い方に、少しだけ救われる。
でも、内容は重かった。
灯理さんの痛みに寄りかかるな。
許してもらおうとするな。
俺は、彼女に分かってほしかった。
でも、それはもしかしたら、彼女に許してほしかったのかもしれない。
先生を続けられるか分からない俺を。
今の場所から降りたいと思う俺を。
子どもたちが好きなのに、苦しくなっている俺を。
でも灯理さんは、その場所に戻れない。
俺の苦しさを受け止める前に、彼女自身の傷が鳴る。
それを、俺は見落としていた。
「灯理さん、俺だったら楽だって分かってると思う」
佐伯が急に言った。
俺は顔を上げた。
「何の話だ」
「俺の前だと、灯理さんは言える。ずるいことも、弱いことも」
胸の奥が、嫌な音を立てた。
「それを俺に言う必要があるのか」
「ある」
佐伯はまっすぐ俺を見た。
「お前がそこから目を逸らすなら、俺は引かない」
言葉が止まった。
佐伯は、いつもの軽さをほとんど消していた。
「灯理さんは、お前に言いたいんだと思う」
「俺に?」
「うん」
「でも、佐伯に言ってる」
「俺が安全だからだよ」
安全。
その言葉が、鋭く胸に刺さる。
灯理さんにとって、佐伯は安全なのだ。
笑える相手。
目を見て話せる相手。
弱さをこぼせる相手。
俺の前では、息を止める。
それを、俺は嬉しいと思ったことがある。
緊張されることすら、譲りたくないと。
でも今は、その緊張の奥に痛みがあることを思い知らされていた。
「灯理さんが、本当に見てほしい相手が俺ならよかったんだけどな」
佐伯が、軽く笑う。
その笑いは、軽くなかった。
「でも、たぶん違う」
「佐伯」
「勘違いすんなよ。俺、まだ完全に引いたわけじゃない」
その言葉は、昨日も聞いた。
でも今日は、もっと重く聞こえた。
「ただ、今は陽斗優先」
「分かってる」
「それと、灯理さんが壊れそうなら、俺は助ける」
「それも分かってる」
「お前が嫌でも」
「……分かってる」
佐伯は少しだけ笑った。
「分かってるばっかりだな」
「それしか言えない」
「じゃあ、ちゃんとしろ」
またそれだ。
ちゃんとしろ。
簡単に言うなと思う。
でも、たぶん、今の俺に必要な言葉だった。
放課後、陽斗が帰ったあと、俺は一人で教室に残った。
窓の外では、校庭に残った子どもたちがボールを追いかけている。
笑い声が聞こえる。
子どもたちの声は、やはり好きだった。
好きだ。
間違いなく。
けれど、その声が遠くなる日がある。
書類。
会議。
保護者対応。
行事。
調整。
責任。
子どもたちに返したいものがあるのに、返す前に削られていく。
自分の中から、余白がなくなる。
笑顔で教室に立っていても、心の奥では息が切れている。
それでも、灯理さんから見れば、俺はそこに立っている人だ。
彼女が戻れない場所に。
俺は、立っている。
その事実だけで、彼女を傷つけることがあるのだと、ようやく知った。
スマホを開いた。
灯理さんとのトーク画面。
最後のやりとりは、昨日のままだ。
今は、うまく返せないです。
でも、聞きたいです。ちゃんと。
その言葉の奥に、彼女はどれだけのものを飲み込んでいたのだろう。
先生の話が痛い。
佐伯から聞いたその言葉を、俺は彼女に直接聞いたわけではない。
だから、今すぐ触れてはいけない。
それでも、何も送らないことが正しいのか分からなかった。
俺はしばらく画面を見つめた。
打っては消す。
昨日はすみません。
違う。
謝れば、彼女はまた気をつかう。
先生の話、無理に聞かなくていいです。
違う。
それは、こちらから距離を取っているように見える。
話したくなったら聞かせてください。
これも、少し違う。
彼女は、話したいのかもしれない。
でも、話したくないのかもしれない。
話したいけど、話したら崩れるのかもしれない。
俺は言葉を選び直した。
そして、短く送った。
昨日の話、受け取ってくれてありがとうございました。
うまく返せなくても大丈夫です。
俺も、自分の言葉をちゃんと持っておきます。
送信。
既読は、すぐにはつかなかった。
それでよかった。
すぐ読まれたら、また返事を急がせてしまう気がした。
俺はスマホを伏せた。
教室の机を整える。
一つずつ、椅子を入れる。
陽斗の席の横で、少しだけ手が止まった。
辞めたら、図書室の本、誰が選ぶの。
その言葉を思い出す。
子どもにとっての俺は、そんな些細な場所にいる。
返却日を覚えている人。
廊下で注意する人。
本を選ぶ人。
少し面倒なことを言う人。
そんなふうに、日常の中にいる。
俺はそれを捨てたいのだろうか。
分からない。
辞めたいのか。
休みたいのか。
逃げたいのか。
続けたいのに、続け方が分からないだけなのか。
まだ、分からない。
けれど、灯理さんの痛みに触れた今、その分からなさを軽く扱うことだけはできなかった。
夕方、職員室へ戻ると、スマホが震えた。
灯理さんからだった。
胸が強く鳴る。
ありがとうございます。
先生の話、少し痛いです。
でも、聞きたい気持ちもあります。
今日はここまででお願いします。
俺は、その文章を何度も読んだ。
先生の話、少し痛いです。
彼女が、初めて直接言ってくれた。
佐伯からではなく。
灯理さん自身の言葉で。
痛い。
そのたった二文字に、俺は何も返せなくなった。
彼女を傷つけたくない。
でも、彼女が痛いと言ってくれたことを、なかったことにしたくない。
俺は、ゆっくり返事を打った。
言ってくれてありがとうございます。
今日はここまでにします。
その言葉を、大事にします。
送ったあと、しばらく画面を見ていた。
返事はなかった。
それでいい。
今日はここまで。
彼女がそう言ったのだから。
俺は、初めて少しだけ分かった気がした。
待つというのは、何もしないことではない。
相手の言葉を、勝手に進めないことだ。
相手の沈黙を、自分の不安で埋めないことだ。
痛いと言われて、すぐに謝って終わらせないことだ。
教室の窓の外は、もう暗くなり始めていた。
冬の空は、暮れるのが早い。
その暗さの中で、校舎の窓だけが明るく浮かんでいる。
俺はその光を見ながら思った。
ここは、灯理さんが戻れない場所なのかもしれない。
そして俺にとっても、いつか戻れなくなる場所なのかもしれない。
だからこそ、今ここにいる自分を、適当に扱ってはいけない。
硝子の鍵は、また手の中で鳴った。
今度の鍵は、戻れない場所の形をしていた。
灯理さんの痛みを開ける鍵であり、
俺自身の迷いを閉じ込めていた鍵でもある。
その鍵を回すには、まだ早い。
でも、手放すことだけは、もうできなかった。
それは、当然だと思った。
俺が急に重い話をした。
先生を続けられるか分からなくなる時がある。
そんなことを、彼女に言った。
灯理さんは、かつて子どもに関わる仕事をしていた人だ。
詳しく聞いたわけではない。
でも、彼女がそこを大事にしていたことは分かっていた。
楽しかったです。
そう返ってきた言葉の奥に、まだ触れてはいけないものがあることも。
それなのに俺は、自分の迷いを渡してしまった。
渡したかったのだと思う。
彼女にだけは、隠したくなかった。
そう思うこと自体が、もう俺の身勝手だった。
翌朝、職員室に入ると、佐伯が机に座ってプリントを揃えていた。
「おはよう」
「おはよう」
返事だけは普通だった。
けれど、佐伯は俺を見るなり、少し眉を上げた。
「寝てない?」
「寝た」
「浅い顔してる」
「顔に深さがあるのか」
「あるある。お前、今日、水たまりくらい浅い」
「朝から失礼だな」
「親友の観察」
観察。
その言葉が、昨日の授業の続きみたいに耳に残った。
先生は見る仕事。
佐伯はその言葉を茶化しながら、俺よりずっと自然に人を見ている。
それが時々、腹立たしい。
「灯理さんに言った?」
佐伯が、プリントから目を離さずに聞いた。
「何を」
「先生続けられるか分からないってやつ」
俺は黙った。
佐伯は、それだけで察したようにため息をつく。
「言ったんだ」
「言った」
「重」
「分かってる」
「いや、悪いとは言ってない」
佐伯はプリントを揃える手を止めた。
「でも、灯理さんには刺さるだろうな」
胸が少しだけ痛んだ。
「分かってる」
「分かってるなら、なんで言ったんだよ」
「隠したくなかった」
佐伯は少しだけ目を細めた。
「それ、恋人っぽいこと言ってるつもり?」
「茶化すな」
「茶化してない」
佐伯の声が少し低くなった。
「隠さないのは大事だけど、渡された側が受け取れる状態かは別だろ」
何も言い返せなかった。
正しい。
俺は、灯理さんに隠したくないと思った。
でも、彼女が受け取れるかどうかまでは考えきれていなかった。
「……分かってる」
「そればっかりだな」
佐伯は軽く笑った。
「でもまあ、言ったなら逃げるなよ」
「逃げない」
「ほんとか?」
「逃げないようにする」
佐伯は一瞬黙って、それから少しだけ笑った。
「そこは正直だな」
逃げない、と言い切れない自分が情けない。
でも、逃げないと言い切れるほど、俺は強くなかった。
それでも、逃げないようにしたいとは思っている。
今の俺に言えるのは、それだけだった。
午前中、陽斗はいつもより少し静かだった。
授業中に手を挙げないわけではない。
友達と話さないわけでもない。
忘れ物をしたわけでもない。
ただ、ふとした時に、遠くを見る。
黒板の少し先。
窓の向こう。
ノートの端。
十一歳の子どもが、考えなくてもいいことまで考えている顔だった。
俺はそれを見て、胸の奥が重くなった。
俺と灯理さんのことが、陽斗の毎日に影を落としている。
そう思いたくなかった。
でも、思わないふりをする方がずるい。
休み時間、陽斗は図書室にいた。
棚の前で、背表紙を眺めている。
「恐竜博士、次は何を探してる」
声をかけると、陽斗は少し驚いた顔をした。
「先生」
「驚きすぎだろ」
「気配なかった」
「職業柄」
「忍者?」
「先生」
陽斗は少し笑った。
その笑い方を見て、俺は少し安心する。
「何か探してるのか」
「別に」
「別に、で図書室に来るタイプだったか」
「来るよ」
「そうか」
陽斗はしばらく背表紙を眺めていた。
やがて、小さな声で言った。
「お母さん、昨日ちょっと考えてた」
心臓が小さく鳴った。
「そうか」
「先生、何か言った?」
子どもに隠し事をするのは難しい。
けれど、全部を渡すわけにもいかない。
「少し、先生の仕事の話をした」
「辞める話?」
「辞めると決めたわけじゃない」
昨日と同じことを言う。
自分でも頼りないと思う。
陽斗は棚から一冊の本を抜きかけて、また戻した。
「お母さん、先生だった頃の話、あんまりしない」
「そうなのか」
「うん」
「陽斗は聞きたい?」
陽斗は少し考えた。
「聞きたいけど、変な顔するから聞きにくい」
胸が痛んだ。
灯理さんは、陽斗の前でもその顔を隠しきれていないのだ。
母親でいようとしても、過去の痛みはふいにこぼれる。
そして陽斗は、それを拾ってしまう。
「お母さんが話したくなった時に、聞けばいいと思う」
俺が言うと、陽斗は少しだけ俺を見た。
「先生も?」
「俺も?」
「先生も、お母さんが話したくなった時まで待てる?」
その問いは、思っていたより深く刺さった。
待てるのか。
俺は、灯理さんの痛みを知りたいと思っている。
それは彼女を大事にしたいからだ。
でも、その奥には、自分が安心したいという気持ちもある。
知れば、正しく扱えるかもしれない。
知れば、傷つけずに済むかもしれない。
知れば、佐伯よりも近い場所に行けるかもしれない。
そんな、情けない気持ちもある。
「待ちたいと思ってる」
俺は正直に答えた。
陽斗は、じっと俺を見た。
「思ってる、か」
「今の俺には、それが一番正直な言い方だ」
陽斗は少しだけ口元をゆるめた。
「大人って、やっぱりめんどくさいね」
「そうだな」
「でも、嘘よりいい」
その言葉に、俺は何も返せなかった。
陽斗は別の棚へ歩いていく。
その小さな背中を見ながら、俺は思った。
この子に、どれだけ見られているのだろう。
そして、どれだけ背負わせてしまっているのだろう。
昼休みの終わり頃、職員室に戻ると、事務の先生から声をかけられた。
「登坂先生、陽斗くんのお母さんが書類を持って来られるそうです」
一瞬、息が止まった。
「灯理さんが」
名前を出しそうになって、飲み込む。
「午後に少し寄られるみたいです」
「分かりました」
平静を装って答えたつもりだった。
でも、佐伯がこちらを見た。
気づかれた。
まただ。
佐伯は何も言わず、ただ少しだけ眉を上げた。
その顔が腹立たしい。
午後、灯理さんは学校に来た。
俺は直接会わなかった。
会えなかった、という方が正しい。
学年の打ち合わせが入り、職員室を離れていた。
戻った時には、灯理さんはもう帰ったあとだった。
机の上に、提出された書類が置かれていた。
その字を見ただけで、胸が少しざわつく。
灯理さんの字。
丁寧で、少しだけ力が入っている。
会えなかった。
それだけのことなのに、残念に思っている自分がいた。
同時に、ほっとしている自分もいた。
昨日の今日で、どんな顔をすればいいのか分からなかったから。
「登坂」
佐伯が声をかけてきた。
「灯理さん、来たよ」
「知ってる」
「会えなかったな」
「打ち合わせだった」
「残念?」
「仕事中だ」
「答えになってない」
俺は書類に視線を落とした。
佐伯は近くの椅子に腰掛ける。
「少し話した」
手が止まった。
「陽斗のことか」
「それも」
「それ以外は」
佐伯はしばらく黙った。
その沈黙が、嫌だった。
「言っていいことと、言わない方がいいことがある」
胸の奥が冷える。
「俺に関係あることか」
「ある」
「なら言え」
「灯理さんの気持ちは、灯理さんが言うべきだろ」
正しい。
でも、腹が立った。
佐伯はいつも、俺が欲しいものを少し先に見ている。
灯理さんの言葉も。
灯理さんの表情も。
灯理さんの揺れも。
そして俺は、それを佐伯の口から聞くしかない時がある。
「灯理さん、泣いたのか」
聞いてしまった。
佐伯は少しだけ目を伏せた。
「泣いてはない」
「じゃあ、どういう顔だった」
「痛そうな顔」
胸が締めつけられた。
痛そうな顔。
昨日、俺が言った言葉のせいだ。
「先生の話が痛いって、言ってた」
佐伯が静かに言った。
息が止まった。
「先生の話が」
「うん」
「俺が、先生だからか」
「それだけじゃないと思う」
佐伯は、窓の方を見た。
「戻れないんだろうな。たぶん」
その言葉は、刃物のように静かだった。
戻れない。
俺は、その一言を頭の中で繰り返した。
灯理さんが戻れない場所。
教室。
子どもたちの声。
先生だった自分。
俺が今も立っている場所。
「俺は」
声がかすれた。
「彼女を傷つけたのか」
佐伯はすぐには答えなかった。
その沈黙が答えに近かった。
「傷ついてはいると思う」
「そうか」
「でも、登坂が悪いって話でもない」
「悪いだろ」
「そうやって全部自分のせいにするのやめろ」
佐伯の声が少し強くなる。
「灯理さんの痛みは、登坂が作ったものじゃない」
「でも、触れた」
「触れたな」
佐伯はあっさり認めた。
「だから、ちゃんと触れろ」
「どういう意味だ」
「触れてしまったなら、見なかったことにするなってこと」
言葉が胸に残る。
触れてしまったなら、見なかったことにするな。
「灯理さん、俺には言ったよ」
佐伯は続けた。
「ずるいって思ったって」
全身が固まった。
「何を」
聞かなくても分かっていた。
でも、聞かずにはいられなかった。
佐伯は、俺を見た。
「お前が先生を辞めたいかもしれないって言ったこと」
呼吸が浅くなる。
ずるい。
やはり、その言葉だった。
昨日、誰もいない教室で思ったこと。
いつか言われるかもしれない。
それがもう、佐伯の前では言葉になっていた。
「私は戻れないのに、って」
佐伯は静かに言った。
俺は、机の上の灯理さんの書類を見た。
文字が滲んで見えた。
「俺は」
声が出にくかった。
「何て言えばいい」
「俺に聞くな」
「佐伯」
「お前が聞けよ、本人に」
正しい。
また、正しい。
分かっている。
でも、正しいことほど難しい。
「今すぐ聞くなよ」
佐伯は釘を刺すように言った。
「灯理さん、まだ言葉にできるところまで来てない」
「じゃあ、どうすれば」
「待て」
「待つだけか」
「待つだけじゃない」
佐伯は少しだけ厳しい顔をした。
「お前が自分の先生としての迷いを、ちゃんと自分で持ってろ」
「自分で」
「灯理さんの痛みに寄りかかるな。灯理さんに許してもらおうとするな。灯理さんが苦しいって言った時に、お前が崩れたら面倒くさい」
面倒くさい。
その雑な言い方に、少しだけ救われる。
でも、内容は重かった。
灯理さんの痛みに寄りかかるな。
許してもらおうとするな。
俺は、彼女に分かってほしかった。
でも、それはもしかしたら、彼女に許してほしかったのかもしれない。
先生を続けられるか分からない俺を。
今の場所から降りたいと思う俺を。
子どもたちが好きなのに、苦しくなっている俺を。
でも灯理さんは、その場所に戻れない。
俺の苦しさを受け止める前に、彼女自身の傷が鳴る。
それを、俺は見落としていた。
「灯理さん、俺だったら楽だって分かってると思う」
佐伯が急に言った。
俺は顔を上げた。
「何の話だ」
「俺の前だと、灯理さんは言える。ずるいことも、弱いことも」
胸の奥が、嫌な音を立てた。
「それを俺に言う必要があるのか」
「ある」
佐伯はまっすぐ俺を見た。
「お前がそこから目を逸らすなら、俺は引かない」
言葉が止まった。
佐伯は、いつもの軽さをほとんど消していた。
「灯理さんは、お前に言いたいんだと思う」
「俺に?」
「うん」
「でも、佐伯に言ってる」
「俺が安全だからだよ」
安全。
その言葉が、鋭く胸に刺さる。
灯理さんにとって、佐伯は安全なのだ。
笑える相手。
目を見て話せる相手。
弱さをこぼせる相手。
俺の前では、息を止める。
それを、俺は嬉しいと思ったことがある。
緊張されることすら、譲りたくないと。
でも今は、その緊張の奥に痛みがあることを思い知らされていた。
「灯理さんが、本当に見てほしい相手が俺ならよかったんだけどな」
佐伯が、軽く笑う。
その笑いは、軽くなかった。
「でも、たぶん違う」
「佐伯」
「勘違いすんなよ。俺、まだ完全に引いたわけじゃない」
その言葉は、昨日も聞いた。
でも今日は、もっと重く聞こえた。
「ただ、今は陽斗優先」
「分かってる」
「それと、灯理さんが壊れそうなら、俺は助ける」
「それも分かってる」
「お前が嫌でも」
「……分かってる」
佐伯は少しだけ笑った。
「分かってるばっかりだな」
「それしか言えない」
「じゃあ、ちゃんとしろ」
またそれだ。
ちゃんとしろ。
簡単に言うなと思う。
でも、たぶん、今の俺に必要な言葉だった。
放課後、陽斗が帰ったあと、俺は一人で教室に残った。
窓の外では、校庭に残った子どもたちがボールを追いかけている。
笑い声が聞こえる。
子どもたちの声は、やはり好きだった。
好きだ。
間違いなく。
けれど、その声が遠くなる日がある。
書類。
会議。
保護者対応。
行事。
調整。
責任。
子どもたちに返したいものがあるのに、返す前に削られていく。
自分の中から、余白がなくなる。
笑顔で教室に立っていても、心の奥では息が切れている。
それでも、灯理さんから見れば、俺はそこに立っている人だ。
彼女が戻れない場所に。
俺は、立っている。
その事実だけで、彼女を傷つけることがあるのだと、ようやく知った。
スマホを開いた。
灯理さんとのトーク画面。
最後のやりとりは、昨日のままだ。
今は、うまく返せないです。
でも、聞きたいです。ちゃんと。
その言葉の奥に、彼女はどれだけのものを飲み込んでいたのだろう。
先生の話が痛い。
佐伯から聞いたその言葉を、俺は彼女に直接聞いたわけではない。
だから、今すぐ触れてはいけない。
それでも、何も送らないことが正しいのか分からなかった。
俺はしばらく画面を見つめた。
打っては消す。
昨日はすみません。
違う。
謝れば、彼女はまた気をつかう。
先生の話、無理に聞かなくていいです。
違う。
それは、こちらから距離を取っているように見える。
話したくなったら聞かせてください。
これも、少し違う。
彼女は、話したいのかもしれない。
でも、話したくないのかもしれない。
話したいけど、話したら崩れるのかもしれない。
俺は言葉を選び直した。
そして、短く送った。
昨日の話、受け取ってくれてありがとうございました。
うまく返せなくても大丈夫です。
俺も、自分の言葉をちゃんと持っておきます。
送信。
既読は、すぐにはつかなかった。
それでよかった。
すぐ読まれたら、また返事を急がせてしまう気がした。
俺はスマホを伏せた。
教室の机を整える。
一つずつ、椅子を入れる。
陽斗の席の横で、少しだけ手が止まった。
辞めたら、図書室の本、誰が選ぶの。
その言葉を思い出す。
子どもにとっての俺は、そんな些細な場所にいる。
返却日を覚えている人。
廊下で注意する人。
本を選ぶ人。
少し面倒なことを言う人。
そんなふうに、日常の中にいる。
俺はそれを捨てたいのだろうか。
分からない。
辞めたいのか。
休みたいのか。
逃げたいのか。
続けたいのに、続け方が分からないだけなのか。
まだ、分からない。
けれど、灯理さんの痛みに触れた今、その分からなさを軽く扱うことだけはできなかった。
夕方、職員室へ戻ると、スマホが震えた。
灯理さんからだった。
胸が強く鳴る。
ありがとうございます。
先生の話、少し痛いです。
でも、聞きたい気持ちもあります。
今日はここまででお願いします。
俺は、その文章を何度も読んだ。
先生の話、少し痛いです。
彼女が、初めて直接言ってくれた。
佐伯からではなく。
灯理さん自身の言葉で。
痛い。
そのたった二文字に、俺は何も返せなくなった。
彼女を傷つけたくない。
でも、彼女が痛いと言ってくれたことを、なかったことにしたくない。
俺は、ゆっくり返事を打った。
言ってくれてありがとうございます。
今日はここまでにします。
その言葉を、大事にします。
送ったあと、しばらく画面を見ていた。
返事はなかった。
それでいい。
今日はここまで。
彼女がそう言ったのだから。
俺は、初めて少しだけ分かった気がした。
待つというのは、何もしないことではない。
相手の言葉を、勝手に進めないことだ。
相手の沈黙を、自分の不安で埋めないことだ。
痛いと言われて、すぐに謝って終わらせないことだ。
教室の窓の外は、もう暗くなり始めていた。
冬の空は、暮れるのが早い。
その暗さの中で、校舎の窓だけが明るく浮かんでいる。
俺はその光を見ながら思った。
ここは、灯理さんが戻れない場所なのかもしれない。
そして俺にとっても、いつか戻れなくなる場所なのかもしれない。
だからこそ、今ここにいる自分を、適当に扱ってはいけない。
硝子の鍵は、また手の中で鳴った。
今度の鍵は、戻れない場所の形をしていた。
灯理さんの痛みを開ける鍵であり、
俺自身の迷いを閉じ込めていた鍵でもある。
その鍵を回すには、まだ早い。
でも、手放すことだけは、もうできなかった。

