記憶障害の男と写真家の恋♡消せない過去

末山愛斗は35歳。 
数年前の事故で頭を強く打ち、それ以来記憶障害を抱えるようになった。昨日あったことでさえ翌朝には曖昧になり、昔勤めていた工場での仕事のこと、一緒に働いていた仲間たちの顔や名前、自分が何を目指して生きてきたのか――そうした過去の大半は、まるで霧に包まれたようにぼんやりとしている。だが不思議なことに、たった二人の存在だけは、どんなに時間が経っても決して薄れることがなかった。恋人であるふみと、彼女の父である貞夫のことだけは、いつでも心の奥に鮮明に刻まれ、忘れることがないのだ。

ふみはそんな愛斗を支えながら、同時に認知症が少しずつ進行していく父・貞夫の介護も担っている。朝から晩まで慌ただしい日々の中でも、自分の夢である写真家としての仕事を手放さず、カメラを持って街を歩き、光と影の一瞬をレンズに収めていく。疲れがたまることもあるが、愛斗の側にいる時間だけは、何にも代えがたい安らぎとなっていた。

ある晴れた午後、カーテン越しに柔らかな日差しが部屋いっぱいに広がり、空気の中には初夏の草のにおいが微かに漂っていた。愛斗はふみの肩をそっと自分の方に引き寄せ、迷いのないまなざしで彼女の瞳を見つめると、静かに唇を重ねた。短いけれど心の底から込み上げるような、温かいキスだった。

唇を離すと、ふみは頬を少し染めながら、優しく囁いた。

「愛斗くん、好きだよ。ずっと、これからも」

記憶が定かでないことで不安になることも多い愛斗だったが、この言葉だけは疑う余地もなく、まっすぐに受け止められた。彼は少しだけ力強く、はっきりと答える。

「俺も好きだ、ふみ。どんなことを忘れても、この気持ちだけは絶対に忘れない」

二人は顔を見合わせて、自然に笑みがこぼれた。愛斗はそのままふみを両腕で優しく抱きしめ、彼女の背中に手を回して、互いの体温を確かめるように長い間抱き合っていた。言葉がなくても、心と心が通い合っているのがわかる。
やがて時間がゆっくりと流れ、体を離すと、愛斗は少しぎこちない手つきで自分の服を着始めた。指先の動きが思うようにいかないこともあり、ボタンの位置を確認しながらゆっくりと上へ進んでいくが、慣れないせいか、すぐにかけ違えてしまう。
「愛斗くん、ちょっと待って。ボタンかけ間違えてるよ」
ふみがくすりと笑って、愛斗の手をそっと制す。愛斗は自分でも気づいて、少し照れたように頭をかいた。
「そうか……ありがとう。自分ではなかなかうまくいかなくて」
「うん、大丈夫。私がやってあげるから」

ふみはもう一度、愛斗の唇に柔らかくキスを落とすと、彼の前に立って、かけ違えたボタンを一つずつ丁寧に外し、正しい穴に通して留め直していく。指先がボタンを滑るたびに、愛斗の胸には温かい安心感が広がっていく。記憶が失われても、こうした小さな触れ合いや、相手を思いやる心の動きだけは、しっかりと体と心に刻まれていくのだった。
これからも忘れてしまうことはたくさんあるだろう。だが、ふみと過ごすこの時間、彼女がくれる笑顔と優しさ、そして二人の間にある確かな愛情――それだけは、いつまでも失われることのない、二人だけの真実なのだ。