名前のない恋人〜歯医者の先生の名前を呼べなくて〜

――こうして、私と先生は夫婦になることが決まった。

私は目を開けた。
窓から吹く潮風で、真珠のネックレスが音を立てて揺れた。
教会の祭壇の前でキスをしていた私達は、我に返ったようにお互い見つめ合っている。

先生は甘い瞳でじっと私をとらえていた。

「あの……」

心臓の音がうるさい。私は、目をそらしながら先生の名前を探していた。
黒髪が白いワンピースと共にひらひらとたなびく。

「さ、笹山さん……」

先生の目が見開かれる。
ややあって、腹を抱えて笑い出した。

「君も笹山になるんだけど、それって!」

私は熱を帯びた顔を隠しながら、半歩下がった。

「えーと、あの……じゃあ陽平さん」

苦笑しながら、先生は目の涙をぬぐう。

「無理しなくていいよ。かおるさんの先生呼び、気に入ってるから」

私は幼子のように頷いた。

「でも、名前で呼びたくて」

「なんで?」

「……逃げたくないんです、自分の気持ちに」

先生は口元をゆるませながら小さく笑っている。

「好きです、陽平さん」

薄暗い教会、ステンドグラスの虹色の光が二人の姿を照らしている。
どこからともなく、さざ波が聞こえる。
海鳥の鳴き声は遠く響き渡る。
二人の行く末を見守るように、マリア像がやわらかな影を落としていた。


【完】