年の離れた先生の姉と兄は、弟のことを溺愛しているらしい。先生の実家――歯科医院を後にしながら、私は先ほどの家族ぐるみの食事会を思い出していた。
「やだー! 私のことアンタの女だって?」
明るい姉は、腹を抱えて笑っている。日本にはいなさそうな気の強い浅黒い美人だ。確かに目の前にいる女性は、この間見かけた女性そのものだ。ピンクの長い爪をした手で、先生の肩を叩いてる。
(良かった……本当にあの人だ)
私は安堵の息を漏らし、肩の力が抜けるのを感じる。
先生は大きなため息をついた。
「姉さんの距離が近すぎるから」
「うふふ。だってかわいい弟だから! ねえ、立花さん。コイツほんと甘えん坊だから気をつけて!」
「姉さん」
父親は院長。母は専業主婦。姉はアメリカで日本語通訳の仕事をしている。兄は外科医で無口で無愛想な人だが、弟には少し甘い態度を取っていた。
思い出しては安心する私を横目で見て、先生はクスクスと笑っている。
「先生、どうしたんですか」
人懐っこい笑顔を浮かべながら、私の顔をじっと見下ろしている。
「かおるさんは、わかりやすい人だなって」
「……!」
みるみるうちに顔を赤らめる。
先生は、私の手を繋いだ。細長い指先をからめ、ぎゅっと大きな手のひらでつつみ込む。
「これで、また前進したね」
私の手を自分の顔をに引き寄せながら言った。
「君のことをまた一つ知れた」
ニコニコ笑う先生は甘くささやく。
私の手の甲に軽く口づけた。
「もっとかおるさんのことを知りたいな」
先生は立ち止まった。
「ねぇ……まだ時間あるかな」
メガネごしの瞳は鋭く、それでいて優しかった。
「もう少し一緒にいようよ」
◆◆◆
ホテルの夜景が見える部屋で、先生と私はベッドに座っていた。
姉のアメリカ土産、トレーダージョーズのプレッツェルを二人で並んで食べている。
「かおるさんって、ジャンクなものを食べるイメージないよね」
「そうですね……言われてみたら」
バスローブに身を包んだ先生は缶ビールをあけながら言う。シャワーを浴びた後で、柔らかい髪に露がついている。
私は仕事柄、和菓子を食べる。それに美味しい銘菓を知っているほうが、茶道を学ぶ生徒のためにもなる。仕事の一貫としてお菓子を食べていることが多い。
「日本食、和菓子、日本酒……ってイメージ」
「そこまでじゃないですよ、確かに気づくとそうなっちゃいますが。変わってますよね……」
「え、ぼくはかおるさんの古風なところに惹かれたから逆に良いんだけど」
先生は私の長い黒髪を指にからめる。
節ばった細長い指は、髪の流れにそって梳く。
その繊細な手つきに、私は顔を赤らめた。
「別に古風じゃないんですが……ただ仕事のイメージで。茶道も祖母がやってた教室を継いだだけで……特にやりたい仕事もなくてそうしただけで」
黒髪をもてあそびつつ、先生は苦笑する。
「いや、そういうところが古風だなって……今までぼくはかおるさんみたいな女の子とは付き合ったことがなくて。ぼくから告白したのは、かおるさんがはじめてかな」
ビールを一気に飲み干す。彼は泡のついた口元をぬぐった。
元カノ。現在30代の彼なら、いったい何人の女性と関係をもっただろうか。
私は気乗りしない話題を遮るようにプレッツェルを口に運んだ。
「……いただきます」
知らなくても良いことは、知らないままでいるのが良いと言い聞かせながら。
「フフ。おいしい? はい、あーん」
先生はプレッツェルをつまみ、私の口元へ運んだ。
さりげなくこういう手慣れた行動ができる。
最初から、彼の熟練のテクニックを体験している気持ちになる。
(やっぱりこの人、たくさん遊んできたんだろうな……大丈夫なのか、結婚して。私に飽きたら浮気しそうで)
私が口を開けると、先生の指先が唇に触れた。
薬剤で水分の奪われた硬い皮膚の感触。
(この人の指先に、何人の女性が触れたのだろうか――)
カサつく私の唇に触れた先生の指は離れ、驚くほど繊細な動きでプレッツェルを再びつまんだ。
「あーん」
押し寄せる不安と、淡い期待……。それだけではない。
私の心の中でうごめいている黒いもの。
(ヤキモチ……妬いちゃうな)
先生の端正な横顔を、私だけのものにしたい。
過去から全てを塗り替えられたら、きっとこの重たい感情も楽になれるのに。
(流されるまま付き合って、先生からいつも愛されてたけど、本当は……)
私はほのかな甘みを感じていた。
(私のほうが先生のことを好きなんだ)
彼からの私への好意はまっすぐな太陽の日差しそのものだ。
でも、私から彼への好意は闇夜の月のよう。細く長く、さみしげな海を照らす月だ。
(先生のことを名前で呼べないのも、自分が傷つかないための予防線……)
笹山陽平――。
先生からもらった名刺が思い浮かんでいた。
「やだー! 私のことアンタの女だって?」
明るい姉は、腹を抱えて笑っている。日本にはいなさそうな気の強い浅黒い美人だ。確かに目の前にいる女性は、この間見かけた女性そのものだ。ピンクの長い爪をした手で、先生の肩を叩いてる。
(良かった……本当にあの人だ)
私は安堵の息を漏らし、肩の力が抜けるのを感じる。
先生は大きなため息をついた。
「姉さんの距離が近すぎるから」
「うふふ。だってかわいい弟だから! ねえ、立花さん。コイツほんと甘えん坊だから気をつけて!」
「姉さん」
父親は院長。母は専業主婦。姉はアメリカで日本語通訳の仕事をしている。兄は外科医で無口で無愛想な人だが、弟には少し甘い態度を取っていた。
思い出しては安心する私を横目で見て、先生はクスクスと笑っている。
「先生、どうしたんですか」
人懐っこい笑顔を浮かべながら、私の顔をじっと見下ろしている。
「かおるさんは、わかりやすい人だなって」
「……!」
みるみるうちに顔を赤らめる。
先生は、私の手を繋いだ。細長い指先をからめ、ぎゅっと大きな手のひらでつつみ込む。
「これで、また前進したね」
私の手を自分の顔をに引き寄せながら言った。
「君のことをまた一つ知れた」
ニコニコ笑う先生は甘くささやく。
私の手の甲に軽く口づけた。
「もっとかおるさんのことを知りたいな」
先生は立ち止まった。
「ねぇ……まだ時間あるかな」
メガネごしの瞳は鋭く、それでいて優しかった。
「もう少し一緒にいようよ」
◆◆◆
ホテルの夜景が見える部屋で、先生と私はベッドに座っていた。
姉のアメリカ土産、トレーダージョーズのプレッツェルを二人で並んで食べている。
「かおるさんって、ジャンクなものを食べるイメージないよね」
「そうですね……言われてみたら」
バスローブに身を包んだ先生は缶ビールをあけながら言う。シャワーを浴びた後で、柔らかい髪に露がついている。
私は仕事柄、和菓子を食べる。それに美味しい銘菓を知っているほうが、茶道を学ぶ生徒のためにもなる。仕事の一貫としてお菓子を食べていることが多い。
「日本食、和菓子、日本酒……ってイメージ」
「そこまでじゃないですよ、確かに気づくとそうなっちゃいますが。変わってますよね……」
「え、ぼくはかおるさんの古風なところに惹かれたから逆に良いんだけど」
先生は私の長い黒髪を指にからめる。
節ばった細長い指は、髪の流れにそって梳く。
その繊細な手つきに、私は顔を赤らめた。
「別に古風じゃないんですが……ただ仕事のイメージで。茶道も祖母がやってた教室を継いだだけで……特にやりたい仕事もなくてそうしただけで」
黒髪をもてあそびつつ、先生は苦笑する。
「いや、そういうところが古風だなって……今までぼくはかおるさんみたいな女の子とは付き合ったことがなくて。ぼくから告白したのは、かおるさんがはじめてかな」
ビールを一気に飲み干す。彼は泡のついた口元をぬぐった。
元カノ。現在30代の彼なら、いったい何人の女性と関係をもっただろうか。
私は気乗りしない話題を遮るようにプレッツェルを口に運んだ。
「……いただきます」
知らなくても良いことは、知らないままでいるのが良いと言い聞かせながら。
「フフ。おいしい? はい、あーん」
先生はプレッツェルをつまみ、私の口元へ運んだ。
さりげなくこういう手慣れた行動ができる。
最初から、彼の熟練のテクニックを体験している気持ちになる。
(やっぱりこの人、たくさん遊んできたんだろうな……大丈夫なのか、結婚して。私に飽きたら浮気しそうで)
私が口を開けると、先生の指先が唇に触れた。
薬剤で水分の奪われた硬い皮膚の感触。
(この人の指先に、何人の女性が触れたのだろうか――)
カサつく私の唇に触れた先生の指は離れ、驚くほど繊細な動きでプレッツェルを再びつまんだ。
「あーん」
押し寄せる不安と、淡い期待……。それだけではない。
私の心の中でうごめいている黒いもの。
(ヤキモチ……妬いちゃうな)
先生の端正な横顔を、私だけのものにしたい。
過去から全てを塗り替えられたら、きっとこの重たい感情も楽になれるのに。
(流されるまま付き合って、先生からいつも愛されてたけど、本当は……)
私はほのかな甘みを感じていた。
(私のほうが先生のことを好きなんだ)
彼からの私への好意はまっすぐな太陽の日差しそのものだ。
でも、私から彼への好意は闇夜の月のよう。細く長く、さみしげな海を照らす月だ。
(先生のことを名前で呼べないのも、自分が傷つかないための予防線……)
笹山陽平――。
先生からもらった名刺が思い浮かんでいた。
