指先の距離〜歯医者さんの名前が呼べなくて〜

 「海は綺麗だね」


 先生はすらりとした背を向けた。


 「ハネムーン、ここにして良かったね。かおるさんと一緒に歩けるなんて夢みたいだ」


 南イタリアの古い町並みは遠くなっていく。


 「せ、先生……」


 かおるの言葉尻は次第に小さくなり、消えた。

 先生。


 (まだ……)


 かすかなため息をもらし、うつむいた視線の先――薬指のワンカラットのダイヤモンドが陽の光を反射した。


 「こっち」


 純白のワンピースのすそがひらひらと潮風で揺れる。


 「……教会?」


 先生は、扉の前で立ち止まる。

 銅製のドアノブはギイ……と、重たい音をゆっくり立てて開いた。
 埃と湿った香りが立ち込めている。

 ステンドグラスが虹色の光を放って、薄暗い礼拝堂の中へと一斉に振り注ぐ。
 赤い絨毯の敷かれた一本道は、海を見守るマリア像の祭壇へと続いていた。

 先生はふりかえる。


 「かおるさん…」


 かおるの手を握ろうと先生の指先が触れる。


 (あ、だめ……)


 かおるは小さく後ずさった。


 「ねぇ……」


 彼は、眉をひそめて息を吐く。


 「君はもう、僕の奥さんなんだよ?」


 先生はかおるをじっと見つめる。のばしたままの彼の指先がかすかに震えている。

 かおるは「違う」と言いかけて唇だけが動いた。


 (……どうしよう)


 これでは、先生は遠くに行ってしまう。


 (どうしよう、このままじゃ私ずっと――)


 じっとかおるをとらえたまま、目には涙が浮かびはじめた。


 「あの……」


 先生。

 ――ちがう。


 「さ、笹山さん……」


 先生の目が見開かれる。 


 「かおるさん」


 ややあって笑い出した。


 「君も笹山なんだけど……」

 「……」


 先生は目の涙をぬぐう。


 「無理しなくていいよ。かおるさんの先生呼び、気に入ってるから」


 かおるは幼子のように頷いた。


 「でも、名前で呼ばせてください」

 「――え」


 先生は口元をゆるませている。

 かおるは、小さな決心をして息を呑んだ。
 そして、先生の指先に自ら手を伸ばした。

 先生の繊細な指に、自分の指をからめる。
 彼の手は汗ばんでいる。
 細く長い、器用な指先が――今はなぜか不器用にこわばっている。


 (あれ……)


 ステンドグラスの虹色の光が、手をつなぐ二人の手元を照らしている。


 (……触れてるのに)


 かおるの身体は、以前のように反応したりはしなかった。

 からめた指先を、ぎゅっと結ぶ。


 「……陽平さん」


 どこからともなく、さざ波が聞こえる。
 鳥の鳴き声は遠く響き渡る。

 白いマリア像がやわらかな光をまとっていた。





 【完】