名前のない恋人〜先生の名前を呼べなくて〜

そんな不安がせめぎ合う中、私の予想は的中した。
銀座で行きつけの茶道具の買い付けをしに出かけた日の出来事。
新しい生徒のために、流派直営店に足を運んだ。
真新しいふくさを紙袋にいれて店を出た時、私は偶然見てしまったのだ。

――先生と、明るい茶髪の派手な女性が並んで歩いている。

露出した肌は小麦色に輝き、赤い唇は大きく笑い声を立てている。社交的そうな女性は、ピンクの長いネイルをした手で先生の腕に気安く触れている。

――先生は、私には見せないくつろいだ面持ちで笑っている。

――楽しげな二人の背中は遠くなっていく。

(やっぱり……遊ばれてたのね。そりゃ……そうよね、私つまらない女だし)

紙袋を道端にバサリと落として、立ちすくんだ。
着物の袖をぎゅっと握りしめ、涙が幾筋も流れるのを静かに感じていた。 

(馬鹿みたい、本気になっちゃって)


◆◆◆


「先生、別れてください」

茶道教室のおわりに、畳の上で正座しながら私は告げた。あぐらをかいていた先生は驚いて肩を大きく揺らす。

「え……!?」

「お話することは何もありません。教室には来たければ来てください。ただし、私達はここ以外では二度とお会いしません」

私が低く言うと、先生の瞳は大きく見開かれる。

「ねぇ!! 理由は!?」

「は、理由? 自分の胸に手を当てて良く考えてみたらどうですか?」

冷たく言い放つと、先生は子犬のように身を縮めた。

「ぼくは、かおるさんと別れたくない。ねえ、なんで? 心当たりはないんだけど! ぼくはかおるさんじゃなきゃイヤなんだ!」

涙が浮かび、先生は私の手首をつかむ。私は思い切り先生を振り払った。生理的な不快さがこみ上げてくる。

「他に女がいて、よく言えますね! そうやって私を騙して、楽しんでたんですか!?」

「女!? いないよ!!」

「銀座で楽しそうに派手な女と歩いてたじゃないですか!! もういい加減にしてください!!」

先生は顎に手を当てて、小さく声を上げた。
私は、それ見たことか――と鼻で笑い、軽蔑のまなざしを向ける。

「――あ、それうちの姉だ」

「は?」

先生はスマホを即座にスワイプし、画像を見せた。ヨーロッパらしき背景の家族写真――両親と3人の子ども。末っ子の先生は真ん中で、姉と兄がいる。
姉――この間見た女性らしき、派手な身なりの女性が笑顔でこちらを見ていた。

「今度、姉と会ってみてよ。ねえ、そしたら誤解も解けるかな……」

小さな頃からアメリカにいる姉は久しぶりに帰国した。アメリカ人と結婚した姉は奔放な性格で、日本人とは違うスキンシップで弟を溺愛している。

先生は安堵した面持ちで、笑った。

「ぼくは、かおるさん一筋だよ。着物を着て歩く君をたまたま見かけて――この教室に入っていくのを追った。一目ぼれした時からずっと君だけしか考えられない」

抱きしめながら、耳元でささやく。

「ぼくにとっては衝撃的な出会いだったんだ、一目ぼれしたのははじめてだから」

半信半疑ながらも、私はその胸を押し返さずに黙っていた。

「好きだよ、かおるさん。別れるなんて、絶対に嫌だからね」

先生の腕に力がこもる。

「と、とりあえずわかりましたから! ここ区の教室なんで離してください!」

しばらくしてから、先生は少し笑った。

「怒ったかおるさんも、すごくかわいい」