名前のない恋人〜先生の名前を呼べなくて〜

シンプルでオシャレな歯科医院は、目の覚めるような白い壁、白いソファ、白いデンタルチェアユニット。
薬液の香りが充満する室内で、先生は歯科用ルーペを首に下げながら私を見下ろしている。

「はい、楽にして」

白衣にスクラブ姿の先生は、デート時とは打って変わって冷静な面持ちだ。
淡々とした態度も、オフの時と違う。
本当に先生は歯科医師なのだ――と失礼ながら感心した。

(まさか、親知らずを診てくれるなんて……断りきれなかった)

――え?
――ぼくを差し置いて他の歯医者なんか行くの?

かかりつけの歯医者に行く私を知り、先生が嫉妬の目で睨んだのだ。

「口開けて、あーん」

ゴム手袋を長い指先へ几帳面にはめこむと、先生はひと息に私の口の中に指を入れた。

(あ……)

口内に当たる先生の指先の感触に、私は伏せた目を開きそうになる。グリグリと歯肉に当たる先生の指圧に、静かな興奮を覚えた――それは、彼と過ごす夜を思い起こさせる。

(ば、ばか!! 不謹慎な――)

診察なのだから当たり前。
遠慮なく私の口内に侵入する先生の指の感触。細く長い、すらりとした指先はゴム手袋によって無機質な感触に変わっている。

「あー、そっか。これは痛かったね」

歯肉を押しながら言った。

「ここに当たってる、親知らずが。かおるさん、痛かったのに頑張ってたね」

私の口から指をゆっくり抜く。よだれで粘つくゴム手袋をサッと脱いで、ゴミ箱に捨てた。先生の清潔な手の平があらわになる。
先生はメガネをかけ直しながら、デンタルチェアユニットを起こした。

「どうする? 簡単に抜けるけど抜いちゃう?」

いつになく鼓動が早まり、頬を紅潮させた。身体が強張り、うまく言葉が出てこない。小刻みに肩が震えてしまう。
そんな私に先生は小首をかしげた。

「かおるさん?」

ニッコリと微笑む先生は、何の心の揺れも感じられない。それはそうだ、医療行為なのだから。
けれど、私は喉を鳴らしながら、目をそらした。

(こ、この人は……女慣れしている……やっぱり、そうよね)

周りのスタッフは可愛らしい若い女性ばかりだ――なぜこんな地味な茶道教室の先生である私と婚約したのか理解ができない。

(やっぱり遊ばれてるんじゃ……)

強引に女性へアプローチできる積極性と、フットワークの軽さ。顔立ちだって整っていて背も高い。頭の回転も速くてコミュニケーション能力もある。

(遊びの女と結婚する女を分けてる? 私が地味で堅実そうだから? これは……結婚しても苦労するかな)

私は呆然と、肩を落とした。
マリッジブルーどころか、先生と恋人でいることすら嫌になる。

「かおるさん、気分悪いの?」

「いいえ……大丈夫です。親知らず、抜いてください」

結婚なんてしなくたって良い時代なんだから――と、私は俯いた。