指先の距離〜歯医者さんの名前が呼べなくて〜

 風が桜の花を散らしながら、吹いていった。


 「あら、立花さん。いらっしゃい」


 銀座で行きつけの茶道具の買い付けをしに出かけた日の出来事。
 新しい生徒のために、流派直営店に足を運んだ。
 真新しいふくさを紙袋にいれて店を出た時、かおるの目は奪われる。

 ――先生と、明るい茶髪の派手な女性が並んで歩いている。 


 (……そんな)


 露出した肌は小麦色に輝き、赤い唇は大きく笑い声を立てている。
 社交的そうな女性は、ピンクの長いネイルをした手で先生の腕に気安く触れている。


 (そんな、まさか)


 先生はくつろいだ面持ちで笑っている。
 楽しげな二人の背中は遠くなっていく。


 (……やっぱり騙されていた)


 手が震えていた。
 紙袋を道端にバサリと落とす。
 自然と涙が幾筋も流れる。



 ◆


 「先生、別れてください」


 茶道教室のおわりに、畳の上で正座しながらかおるは告げた。あぐらをかいていた先生は驚いて肩を大きく揺らす。


 「え……!?」

 「お話することは何もありません。私達はここ以外では二度とお会いしません」


 かおるが低く言うと、先生の瞳は大きく見開かれる。


 「ねぇ!!」

 「自分の胸に手を当てて良く考えてください」


 冷たく言い放つと、先生は子犬のように身を縮めた。


 「ぼくは、かおるさんと別れたくない」

 「他に女がいて、よく言えますね……」

 「女!? いないよ」

 「銀座で楽しそうに派手な女と歩いてたじゃないですか」

 「銀座……?」


 先生は顎に手を当てて、小さく声を上げた。
 かおるは、それ見たことか――と反射的に笑う。
 心の中は黒いものがうずまき、先生の顔をじっと見つめた。


 「――姉のことかな」

 「え?」


 家族写真。
 先生はスマホをそっとスワイプし、画像を見せた。
 ヨーロッパらしき背景――両親と3人の子ども。末っ子の先生は真ん中で、姉と兄がいる。
 姉――この間見た女性らしき、派手な身なりの女性が笑顔でこちらを見ていた。


 「姉と銀座で食事をしたんだ」


 小さな頃からアメリカにいる姉は久しぶりに帰国した。

 先生は堰を切ったように、大きく笑った。


 「ぼくは、かおるさん一筋だよ」


 そっと手を伸ばし、かおるの肩を引き寄せる。
 先生の指先。
 かおるはビクリと身体を大きく揺らしてしまった。


 (あぁ、また……)


 やわらかな先生の胸の感触の中で、唇をかんだ。


 「君のことしか見えてないよ」


 抱きしめながら、耳元でささやく。


 「ぼくにとっては衝撃的な出会いだったんだ、一目ぼれしたのははじめてだから」


 かおるはその胸を押し返さずに黙っていた。


 「好きだよ、かおるさん。別れるなんて、絶対に嫌だからね」


 先生の腕に力がこもる。


 「と、とりあえずわかりましたから……」


 しばらくしてから、先生は少し笑った。


 「怒ったかおるさんも、すごくかわいい」