指先の距離〜歯医者さんの名前が呼べなくて〜

 シンプルでオシャレな歯科医院は、目の覚めるような白い壁、白いソファ、白いデンタルチェアユニットが並ぶ。
 薬液の香りが充満する室内で、先生は歯科用ルーペを首に下げながらかおるを見下ろしている。


 「はい、楽にして」


 白衣にスクラブ姿の先生は、淡々と指示を出す


 (まさか、ほんとに診てくれるなんて)


 かかりつけの歯医者に行くかおるの手をつかんだのだ。

 ゴム手袋を長い指先へ几帳面にはめこむ。青いゴム手袋は、先生のなめらかな手肌をぴったりと覆った。

 かおるの目前はタオルで隠れる。


 「口開けて、あーん」


 何にも見えないまま、かおるは口を思い切り開けた。
 先生はひと息にかおるの口の中に指を挿し込む。


 (あっ……)


 口内に当たる先生の指先の感触に、かおるは伏せた目を開きそうになる。
 人差し指と親指が左奥歯に当てられた。
 グリグリと歯肉に当たる先生の指圧。


 (これは――)


 ただの、触診なのに。

 かおるは、小刻みにヒールを履いた足先が震えてしまい、小さな声を上げる。


 (ちょっと……待って)


 遠慮なくかおるの口内に侵入する先生の指の感触。
 細く長い、すらりとした指先はゴム手袋によって無機質な感触に変わっている。


 「あー、そっか。これは痛かったね」


 歯肉を押しながら言った。
 かおるのこめかみに冷や汗が流れる。


 「ここに当たってる、親知らずが。かおるさん、痛かったのに頑張ってたね」


 かおるの口から指をゆっくりと抜く。
 その感触に、背筋が震えた。

 タオルが取られ、真っ白な光が射し込んでくる。
 よだれで粘つくゴム手袋をサッと脱いで、ゴミ箱に捨てた。
 先生の清潔な手の平があらわになる。

 先生はメガネをかけ直しながら、デンタルチェアユニットを起こした。


 「どうする? 簡単に抜けるけど抜いちゃう?」


 身体が強張り、かおるはうまく言葉が出てこない。
 小刻みに肩が震えてしまう。
 自分の身体が、自分のものではなくなってしまったみたいに。


 「あの先生――……」


 先生。

 その言葉が口からふいに出て、我に返る。

 かおるの視界の端に近くにいた女性スタッフの笑顔が見えた。
 患者も多くいる。
 かおるはその中で、世界が停止した。

 ――先生。

 胸に杭が刺さったような鈍い痛みが走った。


 「かおるさん?」


 微笑む彼。
 かおるは喉を鳴らしながら、目をそらした。


 (……やっぱり、そうよね)


 周りのスタッフは若い女性ばかり――歯科衛生士も歯科助手も、きらきらとした笑顔を先生に向けていた。


 (どうして、かな……)


 胸が重くなる。


 (私のこと本当に……?)


 呆然と、肩を落とした。


 「かおるさん、気分悪いの?」

 「い、いえ……大丈夫です」


 口内に先生の指先の感触だけが残っている。