名前のない恋人〜先生の名前を呼べなくて〜

歯科医師の先生は、とても指先の綺麗な男性だった。
すらりと細長い指は、男性らしく節ばってはいるが、なだらかなラインを描いている。爪は短くきりそろえらえ、縦に細長いCカーブ。白くなめらかな肌は男性のものとは思えない。

――その指先を初めて見た時のことを今でも覚えている。

私は家業の茶道教室を継いで、茶道家として細々と活動し、生計を立てていた。
そんな中、区のボランティアスタッフとして毎月参加する茶道教室。
そこには高齢者ばかりが集っていたのだが、新しく、一人の若めの男性が参加した。

(平日の真っ昼間に参加する若い男性なんてほとんどいないのにな……)

年齢の割りに落ち着いた雰囲気の男性だった。
メガネをかけた、端正な顔立ちの三十代の男性。
シワ一つない白いシャツに、黒のパンツ。清潔感のある黒髪は短く切られ、ワックスでまとめられている。
礼儀正しく正座をしながら、お茶を立てている。茶碗を持つ手がとても繊細な指先をしていたことが、今でも思い出される。

「ぼくは、歯医者なんですよ。そこの」

やがて教室終わりにおじいちゃんおばあちゃんの世間話に混じって、その人が近所の歯科医院の副院長であることを知った。平日休診日のリフレッシュをかねて来ているという。
皆が「先生」と彼のことを呼ぶのにつられて、私もいつのまにか「先生」と呼ぶことが増えていた。
口数は多くないものの、爽やかな笑顔を浮かべる好青年だ。私も先生とはすぐに親しくなった。

「立花さん、ぼくは茶道をもっと学びたいなって思ってて。この展覧会に行こうと思うんです。もし立花さんが参加されるなら、ご一緒してみたくて。いかがですか?」

それが、今から思えば初デートの誘いだった。

「はい、私もこの展覧会には行かなければならなかったので。当日時間を合わせられたらお会いしましょうか?」

「では、当日会うために連絡先交換しましょうか」

淡々とした口調だが、あたたかみのある声音。先生はスマホを胸ポケットから即座に取り出した。一瞬考え込んだが、私は流されて連絡先を交換した。

(ま……いいか。先生はお医者さんだし忙しいから変なことにもならないわよね)

――しかし予想は外れた。
私は、人生ではじめて、男性から熱烈なアプローチを受けることになる。

「立花かおる……」

先生は休憩時間にスマホの電話帳を眺めて、静かに微笑んだ。