指先の距離〜歯医者さんの名前が呼べなくて〜

 「こんにちは、立花さん」

 「先生、こんにちは」

 「着物、似合っていますよ」


 薄藤色の色無地の一つ紋。
 並んで歩くかおるの横で、頭一つ背の高い先生は低い声で言う。


 「え、いや……そうですか?」


 先生は肩のふれる近さで「うん」と言う。


 「立花さんは、大和撫子だね」


 着付けがきついせいなのか――かおるは締め付けられるような胸の重さを覚えた。


 (まるで彫刻みたい……)


 かおるの視線は――パンフレットをめくる先生の指先ばかり追ってしまう。


 「立花さん」


 かおるの瞳をじっと見つめ、かすかに手が触れた。
 ひんやりしていて、冷たい。
 かおるの腕に先生の手が触れるたびに、身体がこわばった。


 「この道具は何に使うの?」


 先生が指さす。
 その指先に目を奪われる。

 展示会場を歩きながら、かおるの視線は常に先生の手元に向けられていた。





 「じゃあ……これで帰りますね」


 家元への挨拶を済ませて、かおるは美術館を後にしようとした時、先生がかおるの手を掴んだ。


 「待ってください。ぼくは車で来たんです。駅まで送っていきますよ」


 ザラザラとした感覚。
 なめらかな白い手なのに、薬剤で硬くなっている。


 (……あっ)


 その指先の感覚に、かおるの足元はすくんだ。


 「着物だと、歩きにくいですよ」


 黒い高級車は光を水面のように反射した。





 気づけば、車は繁華街を走っている。
 先生との会話ははずみ、行きつけのバーを紹介してくれた。

 かおるは、いつになくカウンターにうつ伏す。先生はグラスを傾けながら、優しく微笑んでいる。


 「立花さん……大丈夫ですか?」

 「ちょっと、着物が苦しくて」

 「ぼくが見てあげるから、ほら楽にして」


 包み込むような声音でささやいた。
 そっと、先生の指先がかおるの背中に触れる。トントンと一定のリズムで叩く。


 (あ……また)


 ――その時、かおるは肩を大きく揺らしてしまった。
 どうしても、先生の手に身体が反応してしまう。
 緊張しているせいなのか、それとも……。


 「どうしたの?」

 「い、いえ……」


 乱れもなく一心にかおるの背中に触れている。


 「……先生って、女性に慣れていますよね」

 「え。そんなことありませんよ」


 先生は肩をすくめた。
 とっさに指先が離れる。


 「職業柄、人と接するからかもしれませんね」


 視界が揺らぎ、思わず軽口を叩く。


 「え〜嘘ですよ……モテそうですよ」

 「フフ。そう見えますか?」


 イタズラっぽく笑い、先生はノンアルコールのビールを口に運んだ。
 その視線だけは、やけに真剣だった。


 「仮にそうだったとしても……今は立花さんのことしか見えていません」


 すぐには続けなかった。


 「――ぼくと試しに付き合ってみませんか?」


 先生の繊細な指先がグラスを持っている。
 かすかに震えているのが、目に入った。