溺愛狂瀾〜元恋人たちの襲来で、私たちの恋は狂いだす〜

ウーー、と山を震わせるサイレンの音が、刻一刻と近づいてくる。
崖の上を覗くと、木々の隙間から何台もの赤色灯の光が不気味に明滅していた。
「紬ーー!! 瀬名くんーー!!」
雨音に混じって、遠くからお父さんの必死に叫ぶ声が聞こえる。
きっと警察だけじゃない、あの黒い車に乗っていた太陽や麗奈も、自分たちのしたことの重大さに恐怖して、今頃上で震えているに違いない。
助けが来た。ここでおとなしく救助を待てば、私たちは元の世界に戻れる。
病院に行って、傷を治して、また普通の高校生に戻れる……はずだった。
けれど、戻った世界に、私たちの居場所はもうない。
私の父親が、蓮くんの未来を奪った犯罪者。
その事実を背負ったまま、私たちは周りの憐れみや好奇の目に晒されながら、まともに顔を合わせて笑い合えるだろうか。
ううん、きっと大大人たちは「これがお互いのためだから」と言って、私たちを二度と会えないように引き離すだろう。
「……そんなの、絶対に嫌」
私の膝の上で、蓮くんがうっすらと目をあけた。
額からの血が目に入りそうになるのを、私は包帯の巻かれた手で優しく拭う。
「つむ……ぎ……? 逃げ、て……。俺のことは、いいから……」
意識が朦朧とする中で、蓮くんはまだ、私の心配をしていた。
私を護るために、自分の人生も、輝かしい未来も、体も、全部ボロボロにして。
そこまでして私を愛してくれたこの人を、どうして置いていけるだろう。
「蓮くん。私ね、やっと分かったよ」
私は微笑んだ。
生まれて初めて、蓮くんに向けて、自分の意志で、心からの笑顔を浮かべた。
「私はただ、甘やかされて守られるだけの『お姫様』じゃなくて、蓮くんと一緒なら、地獄の底にだって喜んで落ちる、蓮くんだけの『お化け』になりたいの」
「紬……」
蓮くんの瞳に、かすかな驚きと、それ以上の、狂おしいほどの歓喜の光が灯る。
私は大破した運転席へと潜り込み、震える手で車の鍵を回した。
ガガガッ……、と悲鳴を上げるようなエンジン音。奇跡的に、まだ息の根は止まっていなかった。
ギアをバックに入れ、木に引っかかっていた車体を、さらに崖の下へと滑り込ませる。
「おい!! 下に車があるぞ!! 動いてる!! 止まれ!!!」
崖の上から、懐中電灯の強い光が何本も私たちを照らし出した。
「紬ーーー!!!」とお父さんの絶叫が響く。
けれど、私は迷わずアクセルを踏み込んだ。
車は再び、暗闇の斜面を滑り落ちていく。
警察の追跡を振り切るように、私たちは誰も来られない、嵐の底へと沈んでいった。


それから、どれほどの時間が経ったのだろう。
雨はいつの間にか上がり、雲の切れ間から、信じられないくらい綺麗な満月が顔を覗かせていた。
私たちがたどり着いたのは、山を抜けた先にある、誰もいない寂れた海岸線だった。
車は完全に動かなくなり、私たちは這い出るようにして、静かな波が打ち寄せる砂浜へと横たわった。
潮風が、蓮くんと私の血の混ざった匂いを運んでいく。
「あはは……本当に、来ちゃったね、蓮くん」
月光に照らされた蓮くんの顔は、傷だらけだったけれど、今までで一番穏やかで、信じられないくらい格好よかった。
「うん。誰もいない。誰も、俺たちを邪魔しない……」
蓮くんは力なく手を伸ばし、私の包帯だらけの手をぎゅっと握りしめた。
その手の温もりだけで、もう何もいらないと思った。学校も、親の罪も、太陽たちの悪意も、すべてあの嵐の山に置いてきた。
「ねえ、紬。俺さ……お前のお父さんのこと、本当にどうでもよかったんだ。ただ、それをお前に知られたら、お前が罪悪感で俺の前からいなくなっちゃう気がして……それが一番怖かった」
蓮くんの声が、静かな波の音に溶けていく。
「分かってるよ、蓮くん。私がバカだったの。蓮くんの愛が重いなんて、一瞬でも怯えてごめんね。今の私はね……この愛がないと、もう息もできないくらい、蓮くんに溺れてるよ」
お互いの傷口を確かめ合うように、私たちは砂浜の上で、静かに唇を重ねた。
ハチミツのような甘さはもうない。
だけど、鉄の味がするそのキスは、私たちの魂が完全に一つに溶け合った、何よりも確かな証拠だった。
遠くから、また微かにサイレンの音が聞こえてくる。
きっと、すぐに警察がここを見つけるだろう。私たちの「逃避行」は、ここで終わりかもしれない。
けれど、私たちの「溺愛」は、ここからが本当の始まりだった。
たとえこの先、どんな現実が待ち受けていようとも。
世界中を敵に回そうとも。
この人が私の手を握りしめている限り、私は永遠に、世界一幸せな、狂ったお姫様でいられる。
「ずっと一緒だよ、紬」
「うん、ずっと一緒だよ、蓮くん」
2人の影が、満月の光によって砂浜に深く、一つの形となって焼き付けられていた──。