「違う、違うの蓮くん……! 私は、あなたを……っ」
伸ばしかけていた手を弾かれたように引っ込め、私はベッドの上にへたり込んだ。
床に散らばった食材の向こうで、蓮くんは立ち尽くしている。
その手から力なく滑り落ちたビニール傘が、床に虚しい音を立てて転がった。
「瀬名、ちょうどいいところに帰ってきたじゃん。今、お前の可愛い彼女に『本当の父親の罪』を教えてあげてたところだよ」
太陽は挑発するように、ニヤニヤと歪んだ笑みを浮かべる。
けれど、蓮くんは太陽の言葉なんて、まるで最初から聞こえていないかのようだった。
その濁りきった瞳は、ただ一点──恐怖と罪悪感でガタガタと震える私だけを、じっと見つめている。
「……そんなこと、どうでもいい」
蓮くんの口から漏れたのは、低く、掠れた声だった。
「お前の親父が何をしたかなんて、俺には最初からどうでもよかったんだよ、紬」
「え……?」
耳を疑った。
知っていたの?
お父さんが蓮くんの足を奪ったことを、蓮くんは全部知っていて、それでも私を──?
「俺が陸上を失ったとき、お前は毎日、俺のために泣いてくれた。自分のことみたいに胸を痛めて、俺の傍にいてくれた。……そのとき決めたんだ。たとえお前の父親が俺の仇だろうが、世界中の人間がお前を責めようが、俺はお前を愛し抜くって」
蓮くんは一歩、また一歩と近づいてくる。
その足取りは、かつて陸上界のスターだった面影を完全に失い、執念だけで動く操り人形のようだった。
「なのに……なんでお前は、俺を置いていこうとするの? なんで俺の愛だけで満たされてくれないの? ……お前が俺を拒むなら、俺が走れなくなったあの暗闇の中で、俺は一人でどうやって生きていけばいいんだよ!!」
「蓮、くん……!」
蓮くんの絶叫が部屋に響き渡る。
その瞬間、蓮くんはポケットから、小さな、けれど鈍い光を放つ「果物ナイフ」を取り出した。
「ひっ……!?」
麗奈が短い悲鳴を上げて後ずさりする。
太陽も流石に顔を引き攣らせた。
けれど、蓮くんがその刃先を向けたのは、太陽でも、麗奈でも、私でもなかった。
──自分の、左胸だった。
「蓮くん、やめてええええ!!」
「紬が俺の傍にいてくれないなら、この心臓なんて、生きて動いてる意味がないんだよ……! お前がそいつの手を取ってここを出ていくなら、今ここで、お前の目の前で死んでやる!!」
刃先が、蓮くんの制服のシャツを突き破り、じわりと赤い血が滲む。
その光景を見た瞬間、私の頭の中から、太陽の脅迫も、お父さんの罪も、すべての雑音が消え去った。
ただ一つ、確かな真実が胸に突き刺さる。
私は、蓮くんの輝いているところしか知らない「薄っぺらいお姫様」なんかじゃない。
蓮くんが一番苦しくて、ドロドロの暗闇にいたときから、私はずっと彼の隣にいて、彼の傷を一緒に背負ってきたんだ。
麗奈の言葉も、太陽の呪いも、全部嘘だ。
私が蓮くんを狂わせたんじゃない。
蓮くんは、最初から私なしでは生きられないくらい、私を求めてくれていた。
それなら──その重すぎる狂気を丸ごと愛し、一生背負うのが、私の役目だ。
「蓮くん、ダメ!!! 死なないで!!!」
私はベッドから飛び降り、床に散らばる食材を踏み越えて、蓮くんに体当たりするように抱きついた。
刃物を握る彼の右手を、両手で必死に包み込む。手のひらに、蓮くんの流した冷たい血の感触が伝わってくる。
「紬……? 離れろ、お前は俺を捨てるんだろ……?」
「捨てない! 捨てないよ!! どこにも行かない!!! ごめんなさい、私がバカだった……! 蓮くんを護りたくて嘘をついたの。お父さんのことも、全部私が一生かけて蓮くんに償うから……! だから、お願いだから、私を置いていかないで!!!」
私は蓮くんの胸に顔を埋め、狂ったように泣き叫んだ。
その瞬間、蓮くんの手からカランとナイフが落ちる。
次の瞬間、折れそうなくらい強い力で、蓮くんの腕が私の体を、骨がきしむほど強く抱きしめ返してきた。
「本当に……? 本当に、どこにも行かない? 俺だけの、お姫様でいてくれる……?」
「うん……! 私のすべてを、蓮くんにあげる。だから、お願い、生きて……っ」
2人で床に崩れ落ち、血と涙に塗れながら抱き合う。
その異様な光景に、太陽と麗奈は、完全に気圧されたように立ち尽くしていた。
「……チッ、イカれてる。2人とも、完全に狂ってやがる……!」
太陽は忌々しげに吐き捨てると、これ以上ここにいても無駄だと悟ったのか、壊れたタブレットを拾いもせず、逃げるように部屋を飛び出していった。
麗奈もまた、自分の知っている「完璧な蓮」が完全に崩壊し、私という怪物に溺れている姿に絶望したように、ふらふらと後を追っていった。
静かになった部屋。
激しい雨の音だけが響く中、蓮くんは私の髪を、何度も、何度も、狂おしそうになぞりながら、歪んだ極上の笑顔を浮かべた。
「あはは……捕まえた。やっと、本当にお前を捕まえたよ、紬。もうお前には、お父さんも、友達も、学校も、何も必要ないよね。……俺だけを見て、俺の檻の中で、一生幸せに溺れてね」
私の首筋に、蓮くんの熱い唇が押し当てられる。
もう、ここから逃げ出すことはできない。
けれど、その底なしの暗闇のような溺愛が、今の私には、何よりも温かくて、心地よかった──。
伸ばしかけていた手を弾かれたように引っ込め、私はベッドの上にへたり込んだ。
床に散らばった食材の向こうで、蓮くんは立ち尽くしている。
その手から力なく滑り落ちたビニール傘が、床に虚しい音を立てて転がった。
「瀬名、ちょうどいいところに帰ってきたじゃん。今、お前の可愛い彼女に『本当の父親の罪』を教えてあげてたところだよ」
太陽は挑発するように、ニヤニヤと歪んだ笑みを浮かべる。
けれど、蓮くんは太陽の言葉なんて、まるで最初から聞こえていないかのようだった。
その濁りきった瞳は、ただ一点──恐怖と罪悪感でガタガタと震える私だけを、じっと見つめている。
「……そんなこと、どうでもいい」
蓮くんの口から漏れたのは、低く、掠れた声だった。
「お前の親父が何をしたかなんて、俺には最初からどうでもよかったんだよ、紬」
「え……?」
耳を疑った。
知っていたの?
お父さんが蓮くんの足を奪ったことを、蓮くんは全部知っていて、それでも私を──?
「俺が陸上を失ったとき、お前は毎日、俺のために泣いてくれた。自分のことみたいに胸を痛めて、俺の傍にいてくれた。……そのとき決めたんだ。たとえお前の父親が俺の仇だろうが、世界中の人間がお前を責めようが、俺はお前を愛し抜くって」
蓮くんは一歩、また一歩と近づいてくる。
その足取りは、かつて陸上界のスターだった面影を完全に失い、執念だけで動く操り人形のようだった。
「なのに……なんでお前は、俺を置いていこうとするの? なんで俺の愛だけで満たされてくれないの? ……お前が俺を拒むなら、俺が走れなくなったあの暗闇の中で、俺は一人でどうやって生きていけばいいんだよ!!」
「蓮、くん……!」
蓮くんの絶叫が部屋に響き渡る。
その瞬間、蓮くんはポケットから、小さな、けれど鈍い光を放つ「果物ナイフ」を取り出した。
「ひっ……!?」
麗奈が短い悲鳴を上げて後ずさりする。
太陽も流石に顔を引き攣らせた。
けれど、蓮くんがその刃先を向けたのは、太陽でも、麗奈でも、私でもなかった。
──自分の、左胸だった。
「蓮くん、やめてええええ!!」
「紬が俺の傍にいてくれないなら、この心臓なんて、生きて動いてる意味がないんだよ……! お前がそいつの手を取ってここを出ていくなら、今ここで、お前の目の前で死んでやる!!」
刃先が、蓮くんの制服のシャツを突き破り、じわりと赤い血が滲む。
その光景を見た瞬間、私の頭の中から、太陽の脅迫も、お父さんの罪も、すべての雑音が消え去った。
ただ一つ、確かな真実が胸に突き刺さる。
私は、蓮くんの輝いているところしか知らない「薄っぺらいお姫様」なんかじゃない。
蓮くんが一番苦しくて、ドロドロの暗闇にいたときから、私はずっと彼の隣にいて、彼の傷を一緒に背負ってきたんだ。
麗奈の言葉も、太陽の呪いも、全部嘘だ。
私が蓮くんを狂わせたんじゃない。
蓮くんは、最初から私なしでは生きられないくらい、私を求めてくれていた。
それなら──その重すぎる狂気を丸ごと愛し、一生背負うのが、私の役目だ。
「蓮くん、ダメ!!! 死なないで!!!」
私はベッドから飛び降り、床に散らばる食材を踏み越えて、蓮くんに体当たりするように抱きついた。
刃物を握る彼の右手を、両手で必死に包み込む。手のひらに、蓮くんの流した冷たい血の感触が伝わってくる。
「紬……? 離れろ、お前は俺を捨てるんだろ……?」
「捨てない! 捨てないよ!! どこにも行かない!!! ごめんなさい、私がバカだった……! 蓮くんを護りたくて嘘をついたの。お父さんのことも、全部私が一生かけて蓮くんに償うから……! だから、お願いだから、私を置いていかないで!!!」
私は蓮くんの胸に顔を埋め、狂ったように泣き叫んだ。
その瞬間、蓮くんの手からカランとナイフが落ちる。
次の瞬間、折れそうなくらい強い力で、蓮くんの腕が私の体を、骨がきしむほど強く抱きしめ返してきた。
「本当に……? 本当に、どこにも行かない? 俺だけの、お姫様でいてくれる……?」
「うん……! 私のすべてを、蓮くんにあげる。だから、お願い、生きて……っ」
2人で床に崩れ落ち、血と涙に塗れながら抱き合う。
その異様な光景に、太陽と麗奈は、完全に気圧されたように立ち尽くしていた。
「……チッ、イカれてる。2人とも、完全に狂ってやがる……!」
太陽は忌々しげに吐き捨てると、これ以上ここにいても無駄だと悟ったのか、壊れたタブレットを拾いもせず、逃げるように部屋を飛び出していった。
麗奈もまた、自分の知っている「完璧な蓮」が完全に崩壊し、私という怪物に溺れている姿に絶望したように、ふらふらと後を追っていった。
静かになった部屋。
激しい雨の音だけが響く中、蓮くんは私の髪を、何度も、何度も、狂おしそうになぞりながら、歪んだ極上の笑顔を浮かべた。
「あはは……捕まえた。やっと、本当にお前を捕まえたよ、紬。もうお前には、お父さんも、友達も、学校も、何も必要ないよね。……俺だけを見て、俺の檻の中で、一生幸せに溺れてね」
私の首筋に、蓮くんの熱い唇が押し当てられる。
もう、ここから逃げ出すことはできない。
けれど、その底なしの暗闇のような溺愛が、今の私には、何よりも温かくて、心地よかった──。



