溺愛狂瀾〜元恋人たちの襲来で、私たちの恋は狂いだす〜

蓮くんが買い物で家を空けてから、数時間が経っていた。
時計の針は夕方の4時を回っている。
雨の音が静かな部屋に響く中、私はベッドの上で膝を抱えていた。
スマホがない日常は、時間の感覚を狂わせる。
──カチャ、カチャ。
突然、玄関の鍵が不自然に動く音がした。
蓮くんが帰ってきたのかな?
でも、いつもより鍵を開ける手際が悪い。
嫌な予感がして、私はベッドからゆっくりと立ち上がった。
バタン、と重い扉が開く。
「……ハロー、紬ちゃん。お留守番、退屈そうね」
入ってきたのは、蓮くんの部屋の合鍵をなぜか手にした佐々木麗奈だった。
その後ろから、あの忌まわしい影──はちみつ色の髪を濡らした後藤太陽が、狂気に満ちた笑みを浮かべて入ってくる。
「な、んで……どうしてここが……っ」
「蓮くんの行動パターンなんて、昔から全部把握してるもの。実家の引き出しから、この部屋の予備の合鍵を盗み出すなんて、私にとっては朝飯前よ」
麗奈はクスクスと笑いながら、蓮くんの綺麗に整頓された部屋を見回した。「
相変わらず病的な過保護ね」と吐き捨てる彼女の目は、完全に嫉妬で濁っている。
「さあ、紬。瀬名がいない間に、本当のゲームを始めようか」
太陽が私との距離を詰めてくる。
私は壁際まで後ずさりしたが、もう逃げ場はどこにもない。
太陽はポケットからタブレット端末を取り出し、私の目の前に突きつけた。
「瀬名が俺を殴ったとき、『中学の事故の真相は知ってる』って言ってたよな。……でもさ、アイツも『すべて』を知っているわけじゃないんだよ」
画面に表示されたのは、ある企業の内部告発データと、数年前の新聞記事。
そこには、私の父親が経営している会社の名前が大きく載っていた。
「お前の父親の会社、数年前に経営難で潰れかけてただろ。その時、裏で巨額の融資をして救ってやったのが……俺の父親のグループ会社だ」
「え……?」
「俺の親父は、お前の親父を脅したんだよ。『融資を続けてほしければ、陸上界のスター候補である瀬名蓮を潰せ。アイツの存在が邪魔な奴らがいる』ってな。……つまりさ、紬。瀬名の足を壊す計画を裏で承認し、実行犯に金を流したのは、他でもない──お前の父親なんだよ」
「嘘……嘘よ……お父さんが、そんなこと……っ!!」
頭の中が真っ白になり、激しい耳鳴りがした。
世界で一番優しくて、私の幸せを誰よりも願ってくれていたお父さんが、蓮くんの未来を奪った?
「嘘じゃない。お前の親父は、娘のお前が瀬名と付き合ってることも知って、罪悪感でずっと怯えてるよ。……なぁ紬、よく考えてみろよ?」
太陽は私の髪を掴み、耳元で残酷な事実をこれでもかと吹き込んでいく。
「瀬名は、お前の父親のせいで走れなくなったんだ。お前が瀬名の隣で『世界一幸せなお姫様』でいる間、アイツはお前を見るたびに、自分の人生を狂わせた元凶の血を引く女だってことを、無意識に突きつけられてるんだよ。……それでもお前は、アイツの隣にいる資格があるって言えるか?」
美味しいとこ取り。
麗奈のあの言葉が、今度は確実な『真実の凶器』となって、私の心を完全に粉々に打ち砕いた。
「私は……私は、蓮くんの、光を……」
「そう、お前が瀬名の光を奪ったんだ。お前がアイツの傍にいる限り、瀬名は一生、過去の呪縛から逃れられない。アイツを本当に救いたいなら、お前が消えるしかないんだよ」
太陽の言葉に、私は反論する言葉を一切持たなかった。
涙すら出ないほどの絶望。
私が蓮くんを愛していること自体が、蓮くんに対する一番の罪だったんだ。
「可哀想に、紬ちゃん。顔真っ青よ?」
麗奈が憐れむような声で、だけど勝ち誇った顔で私を見下ろす。
「さあ、決めて。このままここに残って、蓮くんを一生呪い続けるか。それとも……すべてを終わらせるために、太陽くんと一緒にここから消えるか」
私は、力なく視線を床に落とした。
私のせいで、蓮くんは傷ついた。私のせいで、蓮くんは狂ってしまった。
もし、私が最初からいなければ──。
私が太陽の手を取ろうと、ゆっくりと右手を伸ばしたその時。
ガチャン!!! と、玄関の扉がもの凄い音を立てて開いた。
ビニール袋から溢れた食材が、床にバラバラと散らばる。
そこに立っていたのは、ビニール傘を握りしめ、肩を激しく上下させている蓮くんだった。
その瞳は、太陽や麗奈の存在なんて視界に入っていないかのように、真っ直ぐに私だけを捉えていた。
だけど、その目は、すべてを察して絶望に染まりきっていた。
「……紬、お前、また俺を置いて……そいつの手を取るの?」
震える蓮くんの声。
完璧だったはずの溺愛の檻が、内側から完全に崩壊していく音が聞こえた──。