その夜、私は眠れなかった。
眠れない理由なら、いくつもあった。
参観日に行ったこと。
尚さんに、陽斗の母だと知られたこと。
父に、教室を離れた日のことを初めて話したこと。
母が、私の知らなかった美紗子先生の話をしてくれたこと。
そして。
登坂美紗子。
その名前が、胸の奥から離れなかった。
登坂。
利月くんと、同じ苗字。
ただの偶然かもしれない。
そう思おうとした。
でも、思えなかった。
私は寝室の窓際に立って、東京タワーを見ていた。
高い場所から見る東京タワーは、いつも綺麗だ。
けれど、今夜は少し遠すぎる気がした。
あの赤い光の下で、利月くんは言った。
上に行くと、遠くまで見えすぎるから。
その言葉が、今も耳の奥に残っている。
そして、そのもっと奥に、別の声がある。
高いものってね、上ばかり見ると怖いの。
でも、ちゃんと足元から立っているでしょ。
美紗子先生の声。
小学生だった私に、東京タワーの下でそう言ってくれた人。
私が大丈夫なふりをしていたことに、気づいてくれた人。
私に、教室という場所を好きにさせた人。
もし、利月くんがあの先生の息子だったら。
私は、どうすればいいんだろう。
好きになってしまった気持ちに、理由がついてしまう気がした。
違う。
私は小さく首を振った。
違うはずだ。
利月くんを気になったのは、あの人の母親が誰かなんて知らない時だった。
食事会で声を聞いた時。
東京タワーの下で、先生じゃなくていい場所が欲しいと言った時。
私は、その人自身に触れてしまった。
過去の先生とは関係ない。
そう思いたいのに、胸の奥で古い教室が開いてしまう。
白いチョーク。
夕方の光。
机に置かれた漢字ドリル。
それから、私の前にしゃがんで目線を合わせてくれた、美紗子先生。
「灯理さんは、大丈夫って言うのが上手ね」
あの時、私は何も言えなかった。
だって、そう言うしかなかったから。
家のことも、父の会社のことも、母の疲れた顔も。
子どもだった私にはどうすることもできなかった。
だから大丈夫と言った。
大丈夫と言えば、大人たちは少し安心した顔をした。
その顔を見ると、私も少し役に立てた気がした。
でも、美紗子先生だけは違った。
「大丈夫じゃない時は、大丈夫じゃないって言ってもいいのよ」
あの一言を、私はきっと一生忘れない。
スマホが光った。
音葉からだった。
眠れてます?
私は思わず笑ってしまった。
この人は、秘書なのか、監視係なのか、時々分からない。
眠れてない。
送ると、すぐに既読がついた。
やっぱり。
やっぱりって何。
顔に書いてました。登坂って名前のこと。
私はスマホを握ったまま、動けなくなった。
音葉、気づいてたの?
可能性としては考えていました。
怖い。
優秀すぎる秘書は、時々本当に怖い。
調べた?
調べられますけど、やめました。
それは灯理さんが自分で聞くことだと思ったので。
胸の奥が、静かに痛んだ。
音葉は、必要なら何でも調べる人だ。
会社のためなら、私のためなら、先回りして道を作る。
でも今回は、しなかった。
それが、彼女の優しさなのだと思った。
聞けると思う?
少し迷ってから送った。
返事はすぐだった。
聞けるかどうかじゃなくて、聞かないまま好きになる方が怖いです。
私はスマホを伏せた。
その通りだった。
聞かないまま、近づく。
言わないまま、会う。
隠したまま、笑う。
私はもう、いくつも鍵を閉めている。
これ以上増やしたら、いつか自分でも、どの鍵がどの扉のものか分からなくなる。
私はコートを手に取った。
眠れなかったら。
また、ここで。
利月くんの声が、頭の中で静かに響く。
行けば会えるとは限らない。
でも、行かなければ絶対に会えない。
その違いだけで、今夜の私は動いてしまった。
東京タワーの下は、前に来た夜より少し風が冷たかった。
私は同じ場所に立った。
足元から見上げる東京タワーは、やっぱり高い。
でも不思議と、怖くはなかった。
高いものだって、ちゃんと足元から立っている。
美紗子先生の声。
上に行くと、遠くまで見えすぎるから。
利月くんの声。
二つの声が、同じ赤い光の中で重なる。
私はポケットの中で手を握った。
来ないかもしれない。
それなら、それでいい。
今日はただ、ここに来たかっただけ。
そう自分に言い聞かせた時だった。
「灯理さん」
背中に落ちた声に、心臓が跳ねた。
振り返ると、利月くんがいた。
黒いコート。
少し風で乱れた髪。
食事会の時よりも、東京タワーの下で会う彼の方が、ずっと静かに見える。
「……こんばんは」
自分の声が、思っていたより小さくなった。
「眠れなかったんですか」
利月くんが聞いた。
私は笑った。
「そういう登坂さんも」
「はい」
彼は隣に立った。
近すぎず、遠すぎず。
その距離が、今の私には少し苦しかった。
「また会えましたね」
利月くんが言った。
軽く聞こえる言葉なのに、胸の奥が揺れる。
「本当に会えると思ってました?」
「半分くらい」
「半分?」
「来てほしいなと思った半分と、来ない方がいいのかもしれないと思った半分です」
私は彼を見た。
「どうして、来ない方がいいんですか」
利月くんは少しだけ黙った。
その沈黙の間に、東京タワーの光がゆっくり瞬いた。
「ここは、俺が弱くなる場所なので」
その言葉に、息が止まった。
先生じゃなくていい場所。
弱くなる場所。
利月くんは、前よりも少しだけ奥の扉を開けてくれている。
「弱くなるのは、悪いことですか」
私が聞くと、利月くんは小さく笑った。
「先生は、あんまり弱くなっちゃいけない気がして」
「そんなことないと思います」
「灯理さんは、そう言いますよね」
「言います」
「先生だったから?」
胸がひやりとした。
食事会で、私は少しだけ話してしまった。
昔、学校にいたこと。
でも、どこまで話せばいいのか、まだ分からない。
「……そうかもしれません」
私は東京タワーを見上げた。
「子どもの前で完璧な大人でいるより、間違えた時にちゃんと謝れる大人の方が、私は信じられる気がします」
利月くんは何も言わなかった。
その横顔を見て、言いすぎたかもしれないと思った。
でも、もう遅い。
言葉は一度外に出ると戻せない。
「灯理さんは」
利月くんが静かに言った。
「本当に、学校が好きだったんですね」
その一言で、胸の奥がほどけそうになった。
好きだった。
大好きだった。
でも、その言葉を素直に認めると、教室を離れた日の自分が泣いてしまう気がした。
「好きでした」
私は短く答えた。
「今でも、たぶん」
利月くんがこちらを見る。
「たぶん?」
「好きだったって言い切るには、まだちゃんと諦められてないことが多すぎるので」
言った瞬間、利月くんが少し驚いた顔をした。
それから、ゆっくり笑った。
「俺の真似ですか」
「少しだけ」
初めて、ちゃんと笑えた気がした。
その笑いで、ほんの少しだけ空気がやわらかくなる。
でも私は、すぐに胸の中の名前を思い出した。
登坂美紗子。
聞かなきゃいけない。
聞かないまま、これ以上近づいてはいけない。
私は唇を湿らせた。
「登坂さん」
「はい」
「聞いてもいいですか」
利月くんの表情が少しだけ変わった。
「なんですか」
「登坂さんのお母さんって」
そこまで言って、声が止まった。
自分でも驚くくらい怖かった。
もし違ったら、私は勝手に過去を重ねていただけになる。
もし同じだったら。
それはもっと怖い。
「母ですか」
利月くんは少し不思議そうにした。
私は頷いた。
「昔、学校の先生をされていましたか」
一瞬。
本当に一瞬、利月くんの目が揺れた。
それだけで、答えは分かってしまった気がした。
「はい」
静かな声だった。
「小学校の教師でした」
足元が、少しだけ遠くなった。
東京タワーの光が滲む。
「名前は」
私の声は震えていたと思う。
「美紗子です」
その瞬間、胸の奥で古い扉が開いた。
白いチョーク。
放課後の教室。
東京タワーの足元。
高いものだって、ちゃんと足元から立っている。
美紗子先生。
私を見つけてくれた人。
「灯理さん?」
利月くんの声が近くで聞こえた。
私は笑おうとした。
でも、うまくいかなかった。
「私」
言葉が喉に引っかかる。
「あなたのお母さんに、昔、助けてもらったことがあります」
利月くんは、動かなかった。
東京タワーの光だけが、私たちの間に落ちていた。
「母に?」
「はい」
私は頷いた。
「小学生の頃の担任でした。登坂美紗子先生」
言った瞬間、目の奥が熱くなる。
泣くつもりなんてなかった。
でも、その名前を利月くんの前で言っただけで、長い時間が一気に戻ってきた。
「私は、あの先生がいたから、学校が好きになりました」
利月くんは黙って聞いていた。
「先生みたいになりたいって思って、学校で働きました」
声が震える。
「でも、家の事情で辞めて、会社を継いで」
そこまで言って、私は言葉を止めた。
言いすぎた。
まだ、社長であることをちゃんと話すつもりじゃなかったのに。
でも、もう止まらなかった。
「それでも、ずっと忘れられなかったんです。教室も、子どもたちも、先生の言葉も」
利月くんは、長い間黙っていた。
沈黙が怖かった。
彼が何を思っているのか分からない。
偶然だと笑うのか。
母のことを持ち出されて困るのか。
それとも、私が年齢の割に重すぎる話をしていると気づいてしまうのか。
年齢。
社長。
母。
まだ言えていない秘密が、背中にずしりとのしかかる。
私は、また大事な順番を間違えているのかもしれない。
「すみません」
私は小さく言った。
「急に、こんな話」
「いえ」
利月くんはようやく口を開いた。
その声は、少しだけ掠れていた。
「母の教え子に、こんなところで会うとは思いませんでした」
彼は東京タワーを見上げた。
「母も、東京タワーが好きでした」
心臓が、もう一度揺れた。
「やっぱり」
「やっぱり?」
「先生、昔言ってくれたんです。高いものも、ちゃんと足元から立っているって」
利月くんの顔が、静かに変わった。
驚きと、懐かしさと、少しの痛み。
「それ」
彼はゆっくり言った。
「俺も、よく言われました」
息が止まった。
同じ言葉。
美紗子先生は、私にも、利月くんにも、同じ言葉をくれていた。
それがたまらなくて、私は東京タワーを見上げた。
赤い光が、夜の中で滲む。
「だから、下から見るのが好きなんですね」
私が言うと、利月くんは小さく頷いた。
「母と来た時、いつも下から見ていました」
「上らなかったんですか」
「一度だけ上りました。でも母が、上は遠くまで見えすぎるねって」
同じだ。
利月くんの言葉が、少しずつ美紗子先生と重なっていく。
でも、重なってほしくなかった。
私は利月くんを、彼自身として見たい。
美紗子先生の息子だからじゃない。
過去の私を救った人の影だからじゃない。
今、東京タワーの下で隣に立っているこの人を、私は気になっている。
そのことだけは、間違えたくなかった。
「登坂さん」
「はい」
「私が、あなたのお母さんの教え子だったから、今こうして話しているわけじゃないです」
利月くんが私を見る。
私は逃げずに、その目を見た。
「それは、後から分かったことです」
言いながら、自分にも言い聞かせていた。
「私は、あなたと話したかったんです」
言ってしまった。
胸が一気に熱くなる。
こんなことを言う前に、話さなきゃいけないことが山ほどあるのに。
私はいつも、順番を間違える。
利月くんは、何も言わなかった。
ただ、私を見ていた。
その沈黙に耐えられなくなって、私は視線を落とす。
「すみません。変なことを言いました」
「変ではないです」
すぐに返ってきた声に、顔を上げる。
利月くんは、少しだけ困ったように笑っていた。
「俺も、灯理さんと話したかったので」
その言葉だけで、夜の温度が変わった気がした。
でも、同時に怖くなる。
言わなきゃ。
もっと本当のことを。
これ以上、利月くんの優しさを受け取る前に。
「登坂さん、私」
そこまで言った時、スマホが震えた。
現実は、いつも一番悪いタイミングで鳴る。
画面には、音葉。
私は一瞬迷って、電話に出た。
「どうしたの」
音葉の声は少しだけ硬かった。
陽斗くんが熱を出しました。
今、部屋で休んでいます。水分は取れていますが、戻れますか。
陽斗。
その名前を聞いた瞬間、体の中の何かが一気に母親へ戻った。
「すぐ戻る」
電話を切ると、利月くんがこちらを見ていた。
「何かありました?」
私は答えに詰まった。
陽斗のことを言えば、母であることが出る。
でも、ここでまた隠すのか。
息子が熱を出しているのに。
私は自分の中のずるさに、吐き気がしそうになった。
「家族が」
そこまで言って、喉が止まる。
家族。
なんて便利で、ずるい言葉だろう。
利月くんは静かに頷いた。
「行ってください」
「すみません」
「謝らなくていいです」
彼は少しだけ近づいた。
「また、ここで」
また。
その言葉に、泣きそうになった。
「はい」
私は頷いた。
「また、ここで」
タクシーに乗る直前、振り返ると、利月くんはまだ東京タワーの下に立っていた。
その姿が、美紗子先生の言葉と重なる。
高いものだって、ちゃんと足元から立っている。
でも今の私は、足元がぐらぐらだった。
社長であること。
母であること。
年齢のこと。
陽斗のこと。
言わなきゃいけないことを、また言えなかった。
それなのに、私は利月くんに会いたいと思っている。
タクシーの窓に、東京タワーの赤い光が流れていく。
私は膝の上で手を握った。
登坂という名前は、過去の鍵だった。
そして今夜、その鍵は、利月くんへ続く扉に差し込まれてしまった。
まだ回せない。
でも、もう抜けない。
私はそのことが、怖くてたまらなかった。
眠れない理由なら、いくつもあった。
参観日に行ったこと。
尚さんに、陽斗の母だと知られたこと。
父に、教室を離れた日のことを初めて話したこと。
母が、私の知らなかった美紗子先生の話をしてくれたこと。
そして。
登坂美紗子。
その名前が、胸の奥から離れなかった。
登坂。
利月くんと、同じ苗字。
ただの偶然かもしれない。
そう思おうとした。
でも、思えなかった。
私は寝室の窓際に立って、東京タワーを見ていた。
高い場所から見る東京タワーは、いつも綺麗だ。
けれど、今夜は少し遠すぎる気がした。
あの赤い光の下で、利月くんは言った。
上に行くと、遠くまで見えすぎるから。
その言葉が、今も耳の奥に残っている。
そして、そのもっと奥に、別の声がある。
高いものってね、上ばかり見ると怖いの。
でも、ちゃんと足元から立っているでしょ。
美紗子先生の声。
小学生だった私に、東京タワーの下でそう言ってくれた人。
私が大丈夫なふりをしていたことに、気づいてくれた人。
私に、教室という場所を好きにさせた人。
もし、利月くんがあの先生の息子だったら。
私は、どうすればいいんだろう。
好きになってしまった気持ちに、理由がついてしまう気がした。
違う。
私は小さく首を振った。
違うはずだ。
利月くんを気になったのは、あの人の母親が誰かなんて知らない時だった。
食事会で声を聞いた時。
東京タワーの下で、先生じゃなくていい場所が欲しいと言った時。
私は、その人自身に触れてしまった。
過去の先生とは関係ない。
そう思いたいのに、胸の奥で古い教室が開いてしまう。
白いチョーク。
夕方の光。
机に置かれた漢字ドリル。
それから、私の前にしゃがんで目線を合わせてくれた、美紗子先生。
「灯理さんは、大丈夫って言うのが上手ね」
あの時、私は何も言えなかった。
だって、そう言うしかなかったから。
家のことも、父の会社のことも、母の疲れた顔も。
子どもだった私にはどうすることもできなかった。
だから大丈夫と言った。
大丈夫と言えば、大人たちは少し安心した顔をした。
その顔を見ると、私も少し役に立てた気がした。
でも、美紗子先生だけは違った。
「大丈夫じゃない時は、大丈夫じゃないって言ってもいいのよ」
あの一言を、私はきっと一生忘れない。
スマホが光った。
音葉からだった。
眠れてます?
私は思わず笑ってしまった。
この人は、秘書なのか、監視係なのか、時々分からない。
眠れてない。
送ると、すぐに既読がついた。
やっぱり。
やっぱりって何。
顔に書いてました。登坂って名前のこと。
私はスマホを握ったまま、動けなくなった。
音葉、気づいてたの?
可能性としては考えていました。
怖い。
優秀すぎる秘書は、時々本当に怖い。
調べた?
調べられますけど、やめました。
それは灯理さんが自分で聞くことだと思ったので。
胸の奥が、静かに痛んだ。
音葉は、必要なら何でも調べる人だ。
会社のためなら、私のためなら、先回りして道を作る。
でも今回は、しなかった。
それが、彼女の優しさなのだと思った。
聞けると思う?
少し迷ってから送った。
返事はすぐだった。
聞けるかどうかじゃなくて、聞かないまま好きになる方が怖いです。
私はスマホを伏せた。
その通りだった。
聞かないまま、近づく。
言わないまま、会う。
隠したまま、笑う。
私はもう、いくつも鍵を閉めている。
これ以上増やしたら、いつか自分でも、どの鍵がどの扉のものか分からなくなる。
私はコートを手に取った。
眠れなかったら。
また、ここで。
利月くんの声が、頭の中で静かに響く。
行けば会えるとは限らない。
でも、行かなければ絶対に会えない。
その違いだけで、今夜の私は動いてしまった。
東京タワーの下は、前に来た夜より少し風が冷たかった。
私は同じ場所に立った。
足元から見上げる東京タワーは、やっぱり高い。
でも不思議と、怖くはなかった。
高いものだって、ちゃんと足元から立っている。
美紗子先生の声。
上に行くと、遠くまで見えすぎるから。
利月くんの声。
二つの声が、同じ赤い光の中で重なる。
私はポケットの中で手を握った。
来ないかもしれない。
それなら、それでいい。
今日はただ、ここに来たかっただけ。
そう自分に言い聞かせた時だった。
「灯理さん」
背中に落ちた声に、心臓が跳ねた。
振り返ると、利月くんがいた。
黒いコート。
少し風で乱れた髪。
食事会の時よりも、東京タワーの下で会う彼の方が、ずっと静かに見える。
「……こんばんは」
自分の声が、思っていたより小さくなった。
「眠れなかったんですか」
利月くんが聞いた。
私は笑った。
「そういう登坂さんも」
「はい」
彼は隣に立った。
近すぎず、遠すぎず。
その距離が、今の私には少し苦しかった。
「また会えましたね」
利月くんが言った。
軽く聞こえる言葉なのに、胸の奥が揺れる。
「本当に会えると思ってました?」
「半分くらい」
「半分?」
「来てほしいなと思った半分と、来ない方がいいのかもしれないと思った半分です」
私は彼を見た。
「どうして、来ない方がいいんですか」
利月くんは少しだけ黙った。
その沈黙の間に、東京タワーの光がゆっくり瞬いた。
「ここは、俺が弱くなる場所なので」
その言葉に、息が止まった。
先生じゃなくていい場所。
弱くなる場所。
利月くんは、前よりも少しだけ奥の扉を開けてくれている。
「弱くなるのは、悪いことですか」
私が聞くと、利月くんは小さく笑った。
「先生は、あんまり弱くなっちゃいけない気がして」
「そんなことないと思います」
「灯理さんは、そう言いますよね」
「言います」
「先生だったから?」
胸がひやりとした。
食事会で、私は少しだけ話してしまった。
昔、学校にいたこと。
でも、どこまで話せばいいのか、まだ分からない。
「……そうかもしれません」
私は東京タワーを見上げた。
「子どもの前で完璧な大人でいるより、間違えた時にちゃんと謝れる大人の方が、私は信じられる気がします」
利月くんは何も言わなかった。
その横顔を見て、言いすぎたかもしれないと思った。
でも、もう遅い。
言葉は一度外に出ると戻せない。
「灯理さんは」
利月くんが静かに言った。
「本当に、学校が好きだったんですね」
その一言で、胸の奥がほどけそうになった。
好きだった。
大好きだった。
でも、その言葉を素直に認めると、教室を離れた日の自分が泣いてしまう気がした。
「好きでした」
私は短く答えた。
「今でも、たぶん」
利月くんがこちらを見る。
「たぶん?」
「好きだったって言い切るには、まだちゃんと諦められてないことが多すぎるので」
言った瞬間、利月くんが少し驚いた顔をした。
それから、ゆっくり笑った。
「俺の真似ですか」
「少しだけ」
初めて、ちゃんと笑えた気がした。
その笑いで、ほんの少しだけ空気がやわらかくなる。
でも私は、すぐに胸の中の名前を思い出した。
登坂美紗子。
聞かなきゃいけない。
聞かないまま、これ以上近づいてはいけない。
私は唇を湿らせた。
「登坂さん」
「はい」
「聞いてもいいですか」
利月くんの表情が少しだけ変わった。
「なんですか」
「登坂さんのお母さんって」
そこまで言って、声が止まった。
自分でも驚くくらい怖かった。
もし違ったら、私は勝手に過去を重ねていただけになる。
もし同じだったら。
それはもっと怖い。
「母ですか」
利月くんは少し不思議そうにした。
私は頷いた。
「昔、学校の先生をされていましたか」
一瞬。
本当に一瞬、利月くんの目が揺れた。
それだけで、答えは分かってしまった気がした。
「はい」
静かな声だった。
「小学校の教師でした」
足元が、少しだけ遠くなった。
東京タワーの光が滲む。
「名前は」
私の声は震えていたと思う。
「美紗子です」
その瞬間、胸の奥で古い扉が開いた。
白いチョーク。
放課後の教室。
東京タワーの足元。
高いものだって、ちゃんと足元から立っている。
美紗子先生。
私を見つけてくれた人。
「灯理さん?」
利月くんの声が近くで聞こえた。
私は笑おうとした。
でも、うまくいかなかった。
「私」
言葉が喉に引っかかる。
「あなたのお母さんに、昔、助けてもらったことがあります」
利月くんは、動かなかった。
東京タワーの光だけが、私たちの間に落ちていた。
「母に?」
「はい」
私は頷いた。
「小学生の頃の担任でした。登坂美紗子先生」
言った瞬間、目の奥が熱くなる。
泣くつもりなんてなかった。
でも、その名前を利月くんの前で言っただけで、長い時間が一気に戻ってきた。
「私は、あの先生がいたから、学校が好きになりました」
利月くんは黙って聞いていた。
「先生みたいになりたいって思って、学校で働きました」
声が震える。
「でも、家の事情で辞めて、会社を継いで」
そこまで言って、私は言葉を止めた。
言いすぎた。
まだ、社長であることをちゃんと話すつもりじゃなかったのに。
でも、もう止まらなかった。
「それでも、ずっと忘れられなかったんです。教室も、子どもたちも、先生の言葉も」
利月くんは、長い間黙っていた。
沈黙が怖かった。
彼が何を思っているのか分からない。
偶然だと笑うのか。
母のことを持ち出されて困るのか。
それとも、私が年齢の割に重すぎる話をしていると気づいてしまうのか。
年齢。
社長。
母。
まだ言えていない秘密が、背中にずしりとのしかかる。
私は、また大事な順番を間違えているのかもしれない。
「すみません」
私は小さく言った。
「急に、こんな話」
「いえ」
利月くんはようやく口を開いた。
その声は、少しだけ掠れていた。
「母の教え子に、こんなところで会うとは思いませんでした」
彼は東京タワーを見上げた。
「母も、東京タワーが好きでした」
心臓が、もう一度揺れた。
「やっぱり」
「やっぱり?」
「先生、昔言ってくれたんです。高いものも、ちゃんと足元から立っているって」
利月くんの顔が、静かに変わった。
驚きと、懐かしさと、少しの痛み。
「それ」
彼はゆっくり言った。
「俺も、よく言われました」
息が止まった。
同じ言葉。
美紗子先生は、私にも、利月くんにも、同じ言葉をくれていた。
それがたまらなくて、私は東京タワーを見上げた。
赤い光が、夜の中で滲む。
「だから、下から見るのが好きなんですね」
私が言うと、利月くんは小さく頷いた。
「母と来た時、いつも下から見ていました」
「上らなかったんですか」
「一度だけ上りました。でも母が、上は遠くまで見えすぎるねって」
同じだ。
利月くんの言葉が、少しずつ美紗子先生と重なっていく。
でも、重なってほしくなかった。
私は利月くんを、彼自身として見たい。
美紗子先生の息子だからじゃない。
過去の私を救った人の影だからじゃない。
今、東京タワーの下で隣に立っているこの人を、私は気になっている。
そのことだけは、間違えたくなかった。
「登坂さん」
「はい」
「私が、あなたのお母さんの教え子だったから、今こうして話しているわけじゃないです」
利月くんが私を見る。
私は逃げずに、その目を見た。
「それは、後から分かったことです」
言いながら、自分にも言い聞かせていた。
「私は、あなたと話したかったんです」
言ってしまった。
胸が一気に熱くなる。
こんなことを言う前に、話さなきゃいけないことが山ほどあるのに。
私はいつも、順番を間違える。
利月くんは、何も言わなかった。
ただ、私を見ていた。
その沈黙に耐えられなくなって、私は視線を落とす。
「すみません。変なことを言いました」
「変ではないです」
すぐに返ってきた声に、顔を上げる。
利月くんは、少しだけ困ったように笑っていた。
「俺も、灯理さんと話したかったので」
その言葉だけで、夜の温度が変わった気がした。
でも、同時に怖くなる。
言わなきゃ。
もっと本当のことを。
これ以上、利月くんの優しさを受け取る前に。
「登坂さん、私」
そこまで言った時、スマホが震えた。
現実は、いつも一番悪いタイミングで鳴る。
画面には、音葉。
私は一瞬迷って、電話に出た。
「どうしたの」
音葉の声は少しだけ硬かった。
陽斗くんが熱を出しました。
今、部屋で休んでいます。水分は取れていますが、戻れますか。
陽斗。
その名前を聞いた瞬間、体の中の何かが一気に母親へ戻った。
「すぐ戻る」
電話を切ると、利月くんがこちらを見ていた。
「何かありました?」
私は答えに詰まった。
陽斗のことを言えば、母であることが出る。
でも、ここでまた隠すのか。
息子が熱を出しているのに。
私は自分の中のずるさに、吐き気がしそうになった。
「家族が」
そこまで言って、喉が止まる。
家族。
なんて便利で、ずるい言葉だろう。
利月くんは静かに頷いた。
「行ってください」
「すみません」
「謝らなくていいです」
彼は少しだけ近づいた。
「また、ここで」
また。
その言葉に、泣きそうになった。
「はい」
私は頷いた。
「また、ここで」
タクシーに乗る直前、振り返ると、利月くんはまだ東京タワーの下に立っていた。
その姿が、美紗子先生の言葉と重なる。
高いものだって、ちゃんと足元から立っている。
でも今の私は、足元がぐらぐらだった。
社長であること。
母であること。
年齢のこと。
陽斗のこと。
言わなきゃいけないことを、また言えなかった。
それなのに、私は利月くんに会いたいと思っている。
タクシーの窓に、東京タワーの赤い光が流れていく。
私は膝の上で手を握った。
登坂という名前は、過去の鍵だった。
そして今夜、その鍵は、利月くんへ続く扉に差し込まれてしまった。
まだ回せない。
でも、もう抜けない。
私はそのことが、怖くてたまらなかった。
