硝子の鍵

その夜、私は眠れなかった。

眠れない理由なら、いくつもあった。

参観日に行ったこと。
尚さんに、陽斗の母だと知られたこと。
父に、教室を離れた日のことを初めて話したこと。
母が、私の知らなかった美紗子先生の話をしてくれたこと。

そして。

登坂美紗子。

その名前が、胸の奥から離れなかった。

登坂。

利月くんと、同じ苗字。

ただの偶然かもしれない。

そう思おうとした。
でも、思えなかった。

私は寝室の窓際に立って、東京タワーを見ていた。

高い場所から見る東京タワーは、いつも綺麗だ。
けれど、今夜は少し遠すぎる気がした。

あの赤い光の下で、利月くんは言った。

上に行くと、遠くまで見えすぎるから。

その言葉が、今も耳の奥に残っている。

そして、そのもっと奥に、別の声がある。

高いものってね、上ばかり見ると怖いの。
でも、ちゃんと足元から立っているでしょ。

美紗子先生の声。

小学生だった私に、東京タワーの下でそう言ってくれた人。
私が大丈夫なふりをしていたことに、気づいてくれた人。
私に、教室という場所を好きにさせた人。

もし、利月くんがあの先生の息子だったら。

私は、どうすればいいんだろう。

好きになってしまった気持ちに、理由がついてしまう気がした。

違う。

私は小さく首を振った。

違うはずだ。

利月くんを気になったのは、あの人の母親が誰かなんて知らない時だった。
食事会で声を聞いた時。
東京タワーの下で、先生じゃなくていい場所が欲しいと言った時。

私は、その人自身に触れてしまった。

過去の先生とは関係ない。

そう思いたいのに、胸の奥で古い教室が開いてしまう。

白いチョーク。
夕方の光。
机に置かれた漢字ドリル。
それから、私の前にしゃがんで目線を合わせてくれた、美紗子先生。

「灯理さんは、大丈夫って言うのが上手ね」

あの時、私は何も言えなかった。

だって、そう言うしかなかったから。

家のことも、父の会社のことも、母の疲れた顔も。
子どもだった私にはどうすることもできなかった。

だから大丈夫と言った。

大丈夫と言えば、大人たちは少し安心した顔をした。
その顔を見ると、私も少し役に立てた気がした。

でも、美紗子先生だけは違った。

「大丈夫じゃない時は、大丈夫じゃないって言ってもいいのよ」

あの一言を、私はきっと一生忘れない。

スマホが光った。

音葉からだった。

眠れてます?

私は思わず笑ってしまった。

この人は、秘書なのか、監視係なのか、時々分からない。

眠れてない。

送ると、すぐに既読がついた。

やっぱり。

やっぱりって何。

顔に書いてました。登坂って名前のこと。

私はスマホを握ったまま、動けなくなった。

音葉、気づいてたの?

可能性としては考えていました。

怖い。

優秀すぎる秘書は、時々本当に怖い。

調べた?

調べられますけど、やめました。
それは灯理さんが自分で聞くことだと思ったので。

胸の奥が、静かに痛んだ。

音葉は、必要なら何でも調べる人だ。
会社のためなら、私のためなら、先回りして道を作る。

でも今回は、しなかった。

それが、彼女の優しさなのだと思った。

聞けると思う?

少し迷ってから送った。

返事はすぐだった。

聞けるかどうかじゃなくて、聞かないまま好きになる方が怖いです。

私はスマホを伏せた。

その通りだった。

聞かないまま、近づく。
言わないまま、会う。
隠したまま、笑う。

私はもう、いくつも鍵を閉めている。

これ以上増やしたら、いつか自分でも、どの鍵がどの扉のものか分からなくなる。

私はコートを手に取った。

眠れなかったら。
また、ここで。

利月くんの声が、頭の中で静かに響く。

行けば会えるとは限らない。
でも、行かなければ絶対に会えない。

その違いだけで、今夜の私は動いてしまった。

東京タワーの下は、前に来た夜より少し風が冷たかった。

私は同じ場所に立った。

足元から見上げる東京タワーは、やっぱり高い。
でも不思議と、怖くはなかった。

高いものだって、ちゃんと足元から立っている。

美紗子先生の声。

上に行くと、遠くまで見えすぎるから。

利月くんの声。

二つの声が、同じ赤い光の中で重なる。

私はポケットの中で手を握った。

来ないかもしれない。

それなら、それでいい。

今日はただ、ここに来たかっただけ。

そう自分に言い聞かせた時だった。

「灯理さん」

背中に落ちた声に、心臓が跳ねた。

振り返ると、利月くんがいた。

黒いコート。
少し風で乱れた髪。
食事会の時よりも、東京タワーの下で会う彼の方が、ずっと静かに見える。

「……こんばんは」

自分の声が、思っていたより小さくなった。

「眠れなかったんですか」

利月くんが聞いた。

私は笑った。

「そういう登坂さんも」

「はい」

彼は隣に立った。

近すぎず、遠すぎず。

その距離が、今の私には少し苦しかった。

「また会えましたね」

利月くんが言った。

軽く聞こえる言葉なのに、胸の奥が揺れる。

「本当に会えると思ってました?」

「半分くらい」

「半分?」

「来てほしいなと思った半分と、来ない方がいいのかもしれないと思った半分です」

私は彼を見た。

「どうして、来ない方がいいんですか」

利月くんは少しだけ黙った。

その沈黙の間に、東京タワーの光がゆっくり瞬いた。

「ここは、俺が弱くなる場所なので」

その言葉に、息が止まった。

先生じゃなくていい場所。
弱くなる場所。

利月くんは、前よりも少しだけ奥の扉を開けてくれている。

「弱くなるのは、悪いことですか」

私が聞くと、利月くんは小さく笑った。

「先生は、あんまり弱くなっちゃいけない気がして」

「そんなことないと思います」

「灯理さんは、そう言いますよね」

「言います」

「先生だったから?」

胸がひやりとした。

食事会で、私は少しだけ話してしまった。
昔、学校にいたこと。

でも、どこまで話せばいいのか、まだ分からない。

「……そうかもしれません」

私は東京タワーを見上げた。

「子どもの前で完璧な大人でいるより、間違えた時にちゃんと謝れる大人の方が、私は信じられる気がします」

利月くんは何も言わなかった。

その横顔を見て、言いすぎたかもしれないと思った。

でも、もう遅い。

言葉は一度外に出ると戻せない。

「灯理さんは」

利月くんが静かに言った。

「本当に、学校が好きだったんですね」

その一言で、胸の奥がほどけそうになった。

好きだった。

大好きだった。

でも、その言葉を素直に認めると、教室を離れた日の自分が泣いてしまう気がした。

「好きでした」

私は短く答えた。

「今でも、たぶん」

利月くんがこちらを見る。

「たぶん?」

「好きだったって言い切るには、まだちゃんと諦められてないことが多すぎるので」

言った瞬間、利月くんが少し驚いた顔をした。

それから、ゆっくり笑った。

「俺の真似ですか」

「少しだけ」

初めて、ちゃんと笑えた気がした。

その笑いで、ほんの少しだけ空気がやわらかくなる。

でも私は、すぐに胸の中の名前を思い出した。

登坂美紗子。

聞かなきゃいけない。

聞かないまま、これ以上近づいてはいけない。

私は唇を湿らせた。

「登坂さん」

「はい」

「聞いてもいいですか」

利月くんの表情が少しだけ変わった。

「なんですか」

「登坂さんのお母さんって」

そこまで言って、声が止まった。

自分でも驚くくらい怖かった。

もし違ったら、私は勝手に過去を重ねていただけになる。

もし同じだったら。

それはもっと怖い。

「母ですか」

利月くんは少し不思議そうにした。

私は頷いた。

「昔、学校の先生をされていましたか」

一瞬。

本当に一瞬、利月くんの目が揺れた。

それだけで、答えは分かってしまった気がした。

「はい」

静かな声だった。

「小学校の教師でした」

足元が、少しだけ遠くなった。

東京タワーの光が滲む。

「名前は」

私の声は震えていたと思う。

「美紗子です」

その瞬間、胸の奥で古い扉が開いた。

白いチョーク。
放課後の教室。
東京タワーの足元。
高いものだって、ちゃんと足元から立っている。

美紗子先生。

私を見つけてくれた人。

「灯理さん?」

利月くんの声が近くで聞こえた。

私は笑おうとした。

でも、うまくいかなかった。

「私」

言葉が喉に引っかかる。

「あなたのお母さんに、昔、助けてもらったことがあります」

利月くんは、動かなかった。

東京タワーの光だけが、私たちの間に落ちていた。

「母に?」

「はい」

私は頷いた。

「小学生の頃の担任でした。登坂美紗子先生」

言った瞬間、目の奥が熱くなる。

泣くつもりなんてなかった。

でも、その名前を利月くんの前で言っただけで、長い時間が一気に戻ってきた。

「私は、あの先生がいたから、学校が好きになりました」

利月くんは黙って聞いていた。

「先生みたいになりたいって思って、学校で働きました」

声が震える。

「でも、家の事情で辞めて、会社を継いで」

そこまで言って、私は言葉を止めた。

言いすぎた。

まだ、社長であることをちゃんと話すつもりじゃなかったのに。

でも、もう止まらなかった。

「それでも、ずっと忘れられなかったんです。教室も、子どもたちも、先生の言葉も」

利月くんは、長い間黙っていた。

沈黙が怖かった。

彼が何を思っているのか分からない。

偶然だと笑うのか。
母のことを持ち出されて困るのか。
それとも、私が年齢の割に重すぎる話をしていると気づいてしまうのか。

年齢。

社長。

母。

まだ言えていない秘密が、背中にずしりとのしかかる。

私は、また大事な順番を間違えているのかもしれない。

「すみません」

私は小さく言った。

「急に、こんな話」

「いえ」

利月くんはようやく口を開いた。

その声は、少しだけ掠れていた。

「母の教え子に、こんなところで会うとは思いませんでした」

彼は東京タワーを見上げた。

「母も、東京タワーが好きでした」

心臓が、もう一度揺れた。

「やっぱり」

「やっぱり?」

「先生、昔言ってくれたんです。高いものも、ちゃんと足元から立っているって」

利月くんの顔が、静かに変わった。

驚きと、懐かしさと、少しの痛み。

「それ」

彼はゆっくり言った。

「俺も、よく言われました」

息が止まった。

同じ言葉。

美紗子先生は、私にも、利月くんにも、同じ言葉をくれていた。

それがたまらなくて、私は東京タワーを見上げた。

赤い光が、夜の中で滲む。

「だから、下から見るのが好きなんですね」

私が言うと、利月くんは小さく頷いた。

「母と来た時、いつも下から見ていました」

「上らなかったんですか」

「一度だけ上りました。でも母が、上は遠くまで見えすぎるねって」

同じだ。

利月くんの言葉が、少しずつ美紗子先生と重なっていく。

でも、重なってほしくなかった。

私は利月くんを、彼自身として見たい。

美紗子先生の息子だからじゃない。
過去の私を救った人の影だからじゃない。

今、東京タワーの下で隣に立っているこの人を、私は気になっている。

そのことだけは、間違えたくなかった。

「登坂さん」

「はい」

「私が、あなたのお母さんの教え子だったから、今こうして話しているわけじゃないです」

利月くんが私を見る。

私は逃げずに、その目を見た。

「それは、後から分かったことです」

言いながら、自分にも言い聞かせていた。

「私は、あなたと話したかったんです」

言ってしまった。

胸が一気に熱くなる。

こんなことを言う前に、話さなきゃいけないことが山ほどあるのに。

私はいつも、順番を間違える。

利月くんは、何も言わなかった。

ただ、私を見ていた。

その沈黙に耐えられなくなって、私は視線を落とす。

「すみません。変なことを言いました」

「変ではないです」

すぐに返ってきた声に、顔を上げる。

利月くんは、少しだけ困ったように笑っていた。

「俺も、灯理さんと話したかったので」

その言葉だけで、夜の温度が変わった気がした。

でも、同時に怖くなる。

言わなきゃ。

もっと本当のことを。

これ以上、利月くんの優しさを受け取る前に。

「登坂さん、私」

そこまで言った時、スマホが震えた。

現実は、いつも一番悪いタイミングで鳴る。

画面には、音葉。

私は一瞬迷って、電話に出た。

「どうしたの」

音葉の声は少しだけ硬かった。

陽斗くんが熱を出しました。
今、部屋で休んでいます。水分は取れていますが、戻れますか。

陽斗。

その名前を聞いた瞬間、体の中の何かが一気に母親へ戻った。

「すぐ戻る」

電話を切ると、利月くんがこちらを見ていた。

「何かありました?」

私は答えに詰まった。

陽斗のことを言えば、母であることが出る。

でも、ここでまた隠すのか。

息子が熱を出しているのに。

私は自分の中のずるさに、吐き気がしそうになった。

「家族が」

そこまで言って、喉が止まる。

家族。

なんて便利で、ずるい言葉だろう。

利月くんは静かに頷いた。

「行ってください」

「すみません」

「謝らなくていいです」

彼は少しだけ近づいた。

「また、ここで」

また。

その言葉に、泣きそうになった。

「はい」

私は頷いた。

「また、ここで」

タクシーに乗る直前、振り返ると、利月くんはまだ東京タワーの下に立っていた。

その姿が、美紗子先生の言葉と重なる。

高いものだって、ちゃんと足元から立っている。

でも今の私は、足元がぐらぐらだった。

社長であること。
母であること。
年齢のこと。
陽斗のこと。

言わなきゃいけないことを、また言えなかった。

それなのに、私は利月くんに会いたいと思っている。

タクシーの窓に、東京タワーの赤い光が流れていく。

私は膝の上で手を握った。

登坂という名前は、過去の鍵だった。

そして今夜、その鍵は、利月くんへ続く扉に差し込まれてしまった。

まだ回せない。

でも、もう抜けない。

私はそのことが、怖くてたまらなかった。