硝子の鍵

参観日から帰る車の中で、陽斗は少しだけ機嫌がよかった。

「お母さん、ちゃんと見てた?」

助手席で、陽斗が前を向いたまま聞いた。

「見てたよ」

「どこ?」

「陽斗が手を挙げたところ」

「そこだけ?」

「あと、佐伯先生に“片目でプリント見た”って言われてたところ」

「そこは見なくていい」

陽斗が口を尖らせる。

私は少し笑った。

その横顔を見ながら、胸の奥がゆっくり痛んだ。

この子は、今日、嬉しそうだった。

私が教室の後ろに立っているだけで、何度もちらりと振り返った。
気にしていないふりをしていたけれど、手を挙げる前も、発表したあとも、私の方を一瞬だけ見た。

たったそれだけのことを、私は今までどれだけ逃してきたんだろう。

「お母さん」

「なに?」

「また来る?」

その声は、何気ないふりをしていた。

でも、私は分かった。

何気ない言葉の中に、小さな期待が隠れていることを。

子どもたちは、欲しいものをいつも大きな声で言うわけじゃない。

「行くよ」

私は前を見たまま答えた。

「行ける時は、ちゃんと行く」

「ふーん」

陽斗は窓の外を見た。

でも、口元が少しだけ緩んでいた。

それだけで、私は泣きそうになった。

母親って、こんなに簡単に負ける。

仕事では泣かない。
会議でも、役員の前でも、銀行の担当者の前でも、私は泣かなかった。

でも陽斗が少し嬉しそうにするだけで、胸の奥が水でいっぱいになる。

「佐伯先生、いい先生だね」

私が言うと、陽斗はすぐに顔を向けた。

「うるさいけどね」

「うるさいんだ」

「うるさい。でも、見てる」

その言葉に、参観日の空き教室で尚さんに言われたことを思い出した。

陽斗は、たまにすごく大人っぽい顔をします。

自分が甘える前に、周りを見る。

胸が、また少し痛んだ。

「登坂先生は?」

聞いてから、自分でしまったと思った。

陽斗は特に気にした様子もなく答える。

「六年の先生でしょ? たまに廊下で会う」

「話すの?」

「話すっていうか、注意される」

「何を?」

「廊下走るな、とか」

私は思わず笑ってしまった。

「走ってるんじゃん」

「走ってない。早歩き」

「それ、だいたい走ってる」

陽斗は不満そうに頬を膨らませた。

「登坂先生、細かいんだよ。でも優しい」

優しい。

その言葉だけで、胸の奥に東京タワーの赤い光が灯る。

私はまだ、利月くんに何も言えていない。

陽斗の母であることも。
大きな会社の社長であることも。
本当は彼よりずっと年上であることも。

尚さんには知られた。

でも、利月くんにはまだ。

そう思うだけで、ハンドルを握る手に力が入る。

「お母さん、なんか考えてる?」

陽斗に言われて、私は少し驚いた。

「え?」

「今、顔こわかった」

「そんな顔してた?」

「してた」

子どもは時々、残酷なくらいよく見ている。

私は笑ってごまかした。

「仕事のこと考えてた」

嘘ではない。
でも、本当でもない。

まただ。

私はまた、中途半端な言葉で自分を守っている。

会社に戻ると、音葉がいつものように待っていた。

「おかえりなさい」

「ただいま」

陽斗が軽く手を振る。

「音葉さん、今日お母さん来たよ」

「知っています」

「なんで?」

「私が送り出しました」

「音葉さん、すご」

「もっと褒めてください」

陽斗が笑う。

そのやり取りが自然すぎて、私は少しだけ救われる。

音葉は、私の秘書で、陽斗にとっては家族に近い人だった。
学校の連絡も、提出物も、急な予定変更も、ずっと彼女が支えてくれた。

それに甘えていた。

その事実を、今日の私はもう見ないふりできなかった。

「陽斗、先に上行ってて」

「はーい」

陽斗がエレベーターに乗るのを見送ってから、音葉がこちらを見た。

「佐伯先生には?」

「バレた」

「でしょうね」

「もう少し驚いて」

「想定内です」

この人は本当に心臓に悪い。

私はため息をついた。

「怒られた」

「佐伯先生に?」

「怒られたというか、刺された」

「どこを」

「母親のところ」

音葉は少し黙った。

それだけで、彼女が何を考えているのか分かった。

私が一番痛い場所。
社長でも、女でもなく、母としての場所。

「陽斗くん、喜んでいましたね」

「うん」

「また行ってください」

「うん」

「今度は逃げずに」

「分かってる」

言葉にすると、また胸が痛む。

分かってる。

私は今日、何度その言葉を心の中で言っただろう。

分かっているのに、できなかったことばかりだ。

「登坂先生には?」

音葉が聞いた。

私は首を横に振った。

「まだ」

「言いますか」

「言う」

「いつ」

その質問が、仕事みたいで少し嫌だった。

でも、恋のことも秘密のことも、結局は期限を決めないと逃げてしまう。

「近いうちに」

「それは逃げの言葉です」

「音葉」

「はい」

「今日は優しくして」

音葉は少しだけ目を細めた。

それから、珍しく何も言わなかった。

その沈黙が優しかった。

夕方、私は実家へ向かった。

陽斗は会社の部屋で宿題をすると言い、音葉が見てくれていた。
本当は一緒に帰るつもりだったけれど、母から連絡が来ていた。

父の調子が少し悪いらしい。

大きなことではない。
母はそう言った。

でも母が「大きなことではない」と言う時は、だいたい何かを隠している。

実家は、会社からそう遠くない場所にある。

大きな門。
長い廊下。
磨かれた床。
静かすぎるリビング。

子どもの頃、私はこの家が少し苦手だった。

広いのに、息がしづらかった。

父の会社は、この家と同じ匂いがした。

立派で、重くて、逃げ場がなくて。

「灯理」

玄関に出てきた母は、私を見るなり少し眉を寄せた。

「疲れてる顔ね」

「参観日に行ってきた」

「あなたが?」

母は本当に驚いた顔をした。

私は少し笑う。

「そんなに驚く?」

「驚くわよ。あなた、自分の学校でもないのに学校に行くの嫌がるから」

自分の学校でもないのに。

その言葉に、胸の奥が静かに鳴った。

母は、私がなぜ学校を避けていたか、本当は知っているのかもしれない。

リビングには父がいた。

ソファに座って、新聞を広げている。
けれど、読むというより、ただ持っているだけに見えた。

「来たのか」

父は短く言った。

「うん。体調悪いって聞いたから」

「大したことない」

父も母と同じことを言う。

大したことない。
大きなことではない。
大丈夫。

この家の人間は、どうしてこんなに同じ言葉で自分を隠すんだろう。

私も含めて。

「病院行ったの?」

「行った」

「なんて?」

「疲れだろうって」

父はそれ以上言わない。

私は母を見る。

母は少しだけ視線を逸らした。

何か、まだある。

でも今日は、深く聞けなかった。

聞いたら、今抱えているものがまたひとつ増える気がした。

私は弱い。

そう思った。

社長としては、問題があればすぐ確認する。
数字も、契約も、社員のことも、逃げない。

なのに家族のことになると、私は途端に怖くなる。

「陽斗は?」

父が聞いた。

「元気。今日、参観日で発表してた」

「そうか」

父の口元が少しだけ緩む。

陽斗のことになると、父はいつも少し柔らかくなる。

会社では怖い人だった父も、陽斗の前では不器用な祖父になる。

その姿を見るたびに、私は少し複雑な気持ちになった。

私には、あんな顔をあまり見せてくれなかったのに。

そう思ってしまう自分が、まだどこかにいる。

母がお茶を置いた。

「参観日、どうだった?」

「懐かしかった」

正直に言うと、母は少しだけ目を細めた。

「そう」

「教室の匂いって、変わらないね」

「あなた、学校好きだったものね」

胸の奥が、ぎゅっと縮んだ。

好きだった。

その言葉を、母の口から聞くと苦しい。

「好きだったよ」

私は湯呑みを見つめた。

「本当は、辞めたくなかった」

言った瞬間、リビングの空気が止まった。

父が新聞から顔を上げる。

母も、私を見る。

私はその視線を受け止めた。

今まで、言ったことがなかった。

大丈夫。
仕方ない。
私がやる。

そう言って、教室を離れた。

でも、辞めたくなかったとは言わなかった。

言ったら、誰かを責めることになる気がしたから。

「灯理」

父が低い声で呼んだ。

私は父を見た。

「お前に、背負わせすぎたな」

その言葉は、思っていたより静かだった。

怒りも、言い訳もない。

ただ、静かに落ちてきた。

「今それ言うの、ずるい」

思わず言った。

父は苦く笑った。

「そうだな」

あまりにも素直に認めるから、私は何も言えなくなる。

父は昔から不器用だった。

必要なことしか言わない。
感情を説明しない。
会社を守ることが、家族を守ることだと信じていた人。

その父が今、少し小さく見える。

「お父さんが倒れた時」

私はゆっくり言った。

「私、教室にいたの。子どもたちと給食の準備してた」

あの日のことは、今でも覚えている。

職員室に呼ばれて、電話を受けた。
母の声が震えていた。
父が倒れた。
会社が大変なことになっている。

その時、私は何を見ていたんだろう。

たぶん、配膳台の上の牛乳。
子どもたちのざわめき。
白い割烹着。
廊下に差し込む昼の光。

あんな日常の中で、私の人生は急に向きを変えた。

「私は、そのまま教室に戻れなかった」

声が少し震える。

「机の中に、子どもたちからもらった手紙が入ってた。まだ返事を書いてない子もいた。明日話そうと思ってた子もいた」

言葉にすると、胸の奥で古い痛みが目を覚ます。

「でも、私は帰った。会社に」

父は黙って聞いていた。

母も、何も言わなかった。

「仕方なかったって分かってる。お父さんだけのせいじゃない。家のことも、会社のことも、誰かがやらなきゃいけなかった」

私は父を見る。

「でも、私はあの日、教室を置いてきたままなの」

初めて言えた。

ずっと心の中で、言葉にならなかったもの。

私は、教室を置いてきた。

辞めたのではなく、置いてきた。

だから今でも、学校へ行くと胸が痛む。

陽斗の参観日なのに、私は昔の自分を探してしまう。

母が静かに言った。

「あなた、昔から大丈夫って言う子だった」

「うん」

「大丈夫じゃない時ほど、大丈夫って言うの」

私は笑おうとして、失敗した。

「知ってたなら、止めてよ」

責めるつもりはなかった。

でも、少しだけ子どもの私が顔を出した。

母は目を伏せた。

「止めたかったわ」

その声は、思ったより弱かった。

「でも、あの時は私も怖かった。お父さんのことも、会社のことも、家のことも。あなたが“大丈夫”と言ってくれたことに、甘えたの」

母の言葉に、胸が痛んだ。

大人になってから聞く親の弱さは、どうしてこんなに扱いづらいのだろう。

怒りたいのに、怒りきれない。
許したいのに、簡単には許せない。

「ごめんね」

母が言った。

その一言で、私は泣きそうになった。

ずっと聞きたかったのかもしれない。

でも、聞きたくなかったのかもしれない。

私は首を横に振った。

「今さら、困る」

「そうね」

母は小さく笑った。

「でも、言わせて」

私は何も言えなかった。

リビングの時計の音だけが、静かに響いている。

しばらくして、母がふと思い出したように言った。

「今日、学校に行って思い出したんじゃない?」

「何を?」

「美紗子先生のこと」

その名前に、心臓が跳ねた。

「……覚えてるの?」

「覚えてるわよ」

母は湯呑みを置いた。

「登坂美紗子先生。あなたの小学校の時の担任でしょう」

登坂。

その苗字が、胸の奥に落ちる。

「あなたのこと、よく見てくれていた先生だった」

母は懐かしむように言った。

「あなたが笑っていても、無理をしている時は分かっていたみたい。何度か電話をくださったわ」

「電話?」

私は知らなかった。

「灯理さんが最近、少し疲れて見えますって。ご家庭で何かありますかって」

胸の奥で、古い教室が開いた。

白いチョーク。
放課後の光。
美紗子先生の声。

高いものってね、上ばかり見ると怖いの。
でも、ちゃんと足元から立っているでしょ。

東京タワーの下で、そう言ってくれた人。

私を、最初に見つけてくれた先生。

「あの先生がいたから、私、学校が好きになった」

声が自然にこぼれた。

母は静かに頷く。

「知ってる」

「先生みたいになりたかった」

「それも、知ってる」

母は、思っていたより多くを知っていた。

私が言葉にしなかったことまで、ずっと見ていたのかもしれない。

なのに、どうして。

どうして私たちは、こんなにすれ違ってきたのだろう。

父が低い声で言った。

「登坂先生は、いい人だったな」

「お父さんも覚えてるの?」

「覚えてる」

父は少し遠くを見るような目をした。

「一度、俺に言ったんだ。灯理さんは、誰かのために我慢するのが上手すぎますって」

息が止まった。

美紗子先生。

あの人は、そんなことまで見ていたのか。

小学生の私が、自分でも分からなかったことを。

「その先生がね」

母が言った。

「あなたが教職を選んだ時、本当に嬉しかったの」

「え?」

「直接お会いしたわけじゃないけど、年賀状に書いてあった。灯理さんなら、きっと子どもの小さな声を拾える先生になりますって」

胸の奥が、熱くなる。

私は知らなかった。

知らないところで、先生はまだ私を見てくれていた。

「その年賀状、残ってる?」

「たぶん、どこかに」

母は少し考えた。

「探しておくわ」

私は頷いた。

「お願い」

登坂美紗子。

その名前が、今の私には別の意味を持っている。

利月くん。

登坂利月。

同じ苗字。

偶然かもしれない。
違う人かもしれない。

でも、胸の奥がざわついて仕方がない。

「灯理?」

母が私の顔を覗き込む。

「顔色が変よ」

「大丈夫」

口から出た瞬間、自分で嫌になった。

また、大丈夫。

私は何度この言葉で、自分に鍵をかけてきたんだろう。

「大丈夫じゃないかも」

言い直すと、母が少しだけ目を見開いた。

父も、こちらを見る。

たったそれだけなのに、胸の奥が少し軽くなった。

「今日、学校に行って、いろいろ思い出した」

私はゆっくり言った。

「陽斗のことも。昔の私のことも。教室を離れた日のことも」

母は黙って聞いていた。

「私、ちゃんと母親できてるのかな」

声が震えた。

「会社を継いだことを言い訳にして、陽斗の学校のこと、音葉やお母さんに任せすぎてた」

「灯理」

「今日、陽斗が嬉しそうだった。私が行っただけで」

言いながら、涙が出そうになる。

「それが嬉しくて、苦しかった」

母はそっと手を伸ばし、私の手に触れた。

「母親はね、全部ちゃんとできる人のことじゃないわ」

私は母を見る。

「戻ろうとする人のことよ」

その言葉に、胸の奥が震えた。

戻ろうとする人。

私は、戻れるのだろうか。

陽斗の母として。
教室を好きだった自分として。
そして、利月くんの前に立つ、本当の私として。

父が言った。

「会社は、お前ひとりで背負うものじゃない」

「今さら?」

「今さらだな」

父は苦く笑った。

「でも、今さらでも言う。お前の人生まで、会社のものにする必要はない」

その言葉を、もっと早く聞きたかった。

でも、今聞けたことにも意味はあるのかもしれない。

私は泣かなかった。

泣く代わりに、深く息を吸った。

帰り道、車の窓から夜の街を見た。

実家からは東京タワーは見えない。

それなのに、頭の中には赤い光が浮かんでいる。

高いものだって、ちゃんと足元から立っている。

美紗子先生の声。

上に行くと、遠くまで見えすぎるから。

利月くんの声。

二つの声が、同じ場所で重なった。

登坂。

ただの苗字のはずだった。

でもその二文字が、私の過去と今を繋ごうとしている。

私はスマホを手に取った。

利月くんの連絡先は、まだない。

東京タワーの下で交わした曖昧な約束だけがある。

眠れなかったら、またここで。

今夜、行けば会えるかもしれない。

でも、まだ怖かった。

美紗子先生のことを聞くのも。
利月くんに本当のことを話すのも。
陽斗の母である私を見せるのも。

私はスマホを伏せた。

窓の外の夜に、私の顔が薄く映る。

社長でもない。
母でもない。
昔の先生でもない。

それら全部を抱えた、私。

硝子の鍵が、またひとつ鳴った。

今度の鍵は、過去の音がした。

そして私はまだ、その鍵穴の前で立ち尽くしていた。