参観日から帰る車の中で、陽斗は少しだけ機嫌がよかった。
「お母さん、ちゃんと見てた?」
助手席で、陽斗が前を向いたまま聞いた。
「見てたよ」
「どこ?」
「陽斗が手を挙げたところ」
「そこだけ?」
「あと、佐伯先生に“片目でプリント見た”って言われてたところ」
「そこは見なくていい」
陽斗が口を尖らせる。
私は少し笑った。
その横顔を見ながら、胸の奥がゆっくり痛んだ。
この子は、今日、嬉しそうだった。
私が教室の後ろに立っているだけで、何度もちらりと振り返った。
気にしていないふりをしていたけれど、手を挙げる前も、発表したあとも、私の方を一瞬だけ見た。
たったそれだけのことを、私は今までどれだけ逃してきたんだろう。
「お母さん」
「なに?」
「また来る?」
その声は、何気ないふりをしていた。
でも、私は分かった。
何気ない言葉の中に、小さな期待が隠れていることを。
子どもたちは、欲しいものをいつも大きな声で言うわけじゃない。
「行くよ」
私は前を見たまま答えた。
「行ける時は、ちゃんと行く」
「ふーん」
陽斗は窓の外を見た。
でも、口元が少しだけ緩んでいた。
それだけで、私は泣きそうになった。
母親って、こんなに簡単に負ける。
仕事では泣かない。
会議でも、役員の前でも、銀行の担当者の前でも、私は泣かなかった。
でも陽斗が少し嬉しそうにするだけで、胸の奥が水でいっぱいになる。
「佐伯先生、いい先生だね」
私が言うと、陽斗はすぐに顔を向けた。
「うるさいけどね」
「うるさいんだ」
「うるさい。でも、見てる」
その言葉に、参観日の空き教室で尚さんに言われたことを思い出した。
陽斗は、たまにすごく大人っぽい顔をします。
自分が甘える前に、周りを見る。
胸が、また少し痛んだ。
「登坂先生は?」
聞いてから、自分でしまったと思った。
陽斗は特に気にした様子もなく答える。
「六年の先生でしょ? たまに廊下で会う」
「話すの?」
「話すっていうか、注意される」
「何を?」
「廊下走るな、とか」
私は思わず笑ってしまった。
「走ってるんじゃん」
「走ってない。早歩き」
「それ、だいたい走ってる」
陽斗は不満そうに頬を膨らませた。
「登坂先生、細かいんだよ。でも優しい」
優しい。
その言葉だけで、胸の奥に東京タワーの赤い光が灯る。
私はまだ、利月くんに何も言えていない。
陽斗の母であることも。
大きな会社の社長であることも。
本当は彼よりずっと年上であることも。
尚さんには知られた。
でも、利月くんにはまだ。
そう思うだけで、ハンドルを握る手に力が入る。
「お母さん、なんか考えてる?」
陽斗に言われて、私は少し驚いた。
「え?」
「今、顔こわかった」
「そんな顔してた?」
「してた」
子どもは時々、残酷なくらいよく見ている。
私は笑ってごまかした。
「仕事のこと考えてた」
嘘ではない。
でも、本当でもない。
まただ。
私はまた、中途半端な言葉で自分を守っている。
会社に戻ると、音葉がいつものように待っていた。
「おかえりなさい」
「ただいま」
陽斗が軽く手を振る。
「音葉さん、今日お母さん来たよ」
「知っています」
「なんで?」
「私が送り出しました」
「音葉さん、すご」
「もっと褒めてください」
陽斗が笑う。
そのやり取りが自然すぎて、私は少しだけ救われる。
音葉は、私の秘書で、陽斗にとっては家族に近い人だった。
学校の連絡も、提出物も、急な予定変更も、ずっと彼女が支えてくれた。
それに甘えていた。
その事実を、今日の私はもう見ないふりできなかった。
「陽斗、先に上行ってて」
「はーい」
陽斗がエレベーターに乗るのを見送ってから、音葉がこちらを見た。
「佐伯先生には?」
「バレた」
「でしょうね」
「もう少し驚いて」
「想定内です」
この人は本当に心臓に悪い。
私はため息をついた。
「怒られた」
「佐伯先生に?」
「怒られたというか、刺された」
「どこを」
「母親のところ」
音葉は少し黙った。
それだけで、彼女が何を考えているのか分かった。
私が一番痛い場所。
社長でも、女でもなく、母としての場所。
「陽斗くん、喜んでいましたね」
「うん」
「また行ってください」
「うん」
「今度は逃げずに」
「分かってる」
言葉にすると、また胸が痛む。
分かってる。
私は今日、何度その言葉を心の中で言っただろう。
分かっているのに、できなかったことばかりだ。
「登坂先生には?」
音葉が聞いた。
私は首を横に振った。
「まだ」
「言いますか」
「言う」
「いつ」
その質問が、仕事みたいで少し嫌だった。
でも、恋のことも秘密のことも、結局は期限を決めないと逃げてしまう。
「近いうちに」
「それは逃げの言葉です」
「音葉」
「はい」
「今日は優しくして」
音葉は少しだけ目を細めた。
それから、珍しく何も言わなかった。
その沈黙が優しかった。
夕方、私は実家へ向かった。
陽斗は会社の部屋で宿題をすると言い、音葉が見てくれていた。
本当は一緒に帰るつもりだったけれど、母から連絡が来ていた。
父の調子が少し悪いらしい。
大きなことではない。
母はそう言った。
でも母が「大きなことではない」と言う時は、だいたい何かを隠している。
実家は、会社からそう遠くない場所にある。
大きな門。
長い廊下。
磨かれた床。
静かすぎるリビング。
子どもの頃、私はこの家が少し苦手だった。
広いのに、息がしづらかった。
父の会社は、この家と同じ匂いがした。
立派で、重くて、逃げ場がなくて。
「灯理」
玄関に出てきた母は、私を見るなり少し眉を寄せた。
「疲れてる顔ね」
「参観日に行ってきた」
「あなたが?」
母は本当に驚いた顔をした。
私は少し笑う。
「そんなに驚く?」
「驚くわよ。あなた、自分の学校でもないのに学校に行くの嫌がるから」
自分の学校でもないのに。
その言葉に、胸の奥が静かに鳴った。
母は、私がなぜ学校を避けていたか、本当は知っているのかもしれない。
リビングには父がいた。
ソファに座って、新聞を広げている。
けれど、読むというより、ただ持っているだけに見えた。
「来たのか」
父は短く言った。
「うん。体調悪いって聞いたから」
「大したことない」
父も母と同じことを言う。
大したことない。
大きなことではない。
大丈夫。
この家の人間は、どうしてこんなに同じ言葉で自分を隠すんだろう。
私も含めて。
「病院行ったの?」
「行った」
「なんて?」
「疲れだろうって」
父はそれ以上言わない。
私は母を見る。
母は少しだけ視線を逸らした。
何か、まだある。
でも今日は、深く聞けなかった。
聞いたら、今抱えているものがまたひとつ増える気がした。
私は弱い。
そう思った。
社長としては、問題があればすぐ確認する。
数字も、契約も、社員のことも、逃げない。
なのに家族のことになると、私は途端に怖くなる。
「陽斗は?」
父が聞いた。
「元気。今日、参観日で発表してた」
「そうか」
父の口元が少しだけ緩む。
陽斗のことになると、父はいつも少し柔らかくなる。
会社では怖い人だった父も、陽斗の前では不器用な祖父になる。
その姿を見るたびに、私は少し複雑な気持ちになった。
私には、あんな顔をあまり見せてくれなかったのに。
そう思ってしまう自分が、まだどこかにいる。
母がお茶を置いた。
「参観日、どうだった?」
「懐かしかった」
正直に言うと、母は少しだけ目を細めた。
「そう」
「教室の匂いって、変わらないね」
「あなた、学校好きだったものね」
胸の奥が、ぎゅっと縮んだ。
好きだった。
その言葉を、母の口から聞くと苦しい。
「好きだったよ」
私は湯呑みを見つめた。
「本当は、辞めたくなかった」
言った瞬間、リビングの空気が止まった。
父が新聞から顔を上げる。
母も、私を見る。
私はその視線を受け止めた。
今まで、言ったことがなかった。
大丈夫。
仕方ない。
私がやる。
そう言って、教室を離れた。
でも、辞めたくなかったとは言わなかった。
言ったら、誰かを責めることになる気がしたから。
「灯理」
父が低い声で呼んだ。
私は父を見た。
「お前に、背負わせすぎたな」
その言葉は、思っていたより静かだった。
怒りも、言い訳もない。
ただ、静かに落ちてきた。
「今それ言うの、ずるい」
思わず言った。
父は苦く笑った。
「そうだな」
あまりにも素直に認めるから、私は何も言えなくなる。
父は昔から不器用だった。
必要なことしか言わない。
感情を説明しない。
会社を守ることが、家族を守ることだと信じていた人。
その父が今、少し小さく見える。
「お父さんが倒れた時」
私はゆっくり言った。
「私、教室にいたの。子どもたちと給食の準備してた」
あの日のことは、今でも覚えている。
職員室に呼ばれて、電話を受けた。
母の声が震えていた。
父が倒れた。
会社が大変なことになっている。
その時、私は何を見ていたんだろう。
たぶん、配膳台の上の牛乳。
子どもたちのざわめき。
白い割烹着。
廊下に差し込む昼の光。
あんな日常の中で、私の人生は急に向きを変えた。
「私は、そのまま教室に戻れなかった」
声が少し震える。
「机の中に、子どもたちからもらった手紙が入ってた。まだ返事を書いてない子もいた。明日話そうと思ってた子もいた」
言葉にすると、胸の奥で古い痛みが目を覚ます。
「でも、私は帰った。会社に」
父は黙って聞いていた。
母も、何も言わなかった。
「仕方なかったって分かってる。お父さんだけのせいじゃない。家のことも、会社のことも、誰かがやらなきゃいけなかった」
私は父を見る。
「でも、私はあの日、教室を置いてきたままなの」
初めて言えた。
ずっと心の中で、言葉にならなかったもの。
私は、教室を置いてきた。
辞めたのではなく、置いてきた。
だから今でも、学校へ行くと胸が痛む。
陽斗の参観日なのに、私は昔の自分を探してしまう。
母が静かに言った。
「あなた、昔から大丈夫って言う子だった」
「うん」
「大丈夫じゃない時ほど、大丈夫って言うの」
私は笑おうとして、失敗した。
「知ってたなら、止めてよ」
責めるつもりはなかった。
でも、少しだけ子どもの私が顔を出した。
母は目を伏せた。
「止めたかったわ」
その声は、思ったより弱かった。
「でも、あの時は私も怖かった。お父さんのことも、会社のことも、家のことも。あなたが“大丈夫”と言ってくれたことに、甘えたの」
母の言葉に、胸が痛んだ。
大人になってから聞く親の弱さは、どうしてこんなに扱いづらいのだろう。
怒りたいのに、怒りきれない。
許したいのに、簡単には許せない。
「ごめんね」
母が言った。
その一言で、私は泣きそうになった。
ずっと聞きたかったのかもしれない。
でも、聞きたくなかったのかもしれない。
私は首を横に振った。
「今さら、困る」
「そうね」
母は小さく笑った。
「でも、言わせて」
私は何も言えなかった。
リビングの時計の音だけが、静かに響いている。
しばらくして、母がふと思い出したように言った。
「今日、学校に行って思い出したんじゃない?」
「何を?」
「美紗子先生のこと」
その名前に、心臓が跳ねた。
「……覚えてるの?」
「覚えてるわよ」
母は湯呑みを置いた。
「登坂美紗子先生。あなたの小学校の時の担任でしょう」
登坂。
その苗字が、胸の奥に落ちる。
「あなたのこと、よく見てくれていた先生だった」
母は懐かしむように言った。
「あなたが笑っていても、無理をしている時は分かっていたみたい。何度か電話をくださったわ」
「電話?」
私は知らなかった。
「灯理さんが最近、少し疲れて見えますって。ご家庭で何かありますかって」
胸の奥で、古い教室が開いた。
白いチョーク。
放課後の光。
美紗子先生の声。
高いものってね、上ばかり見ると怖いの。
でも、ちゃんと足元から立っているでしょ。
東京タワーの下で、そう言ってくれた人。
私を、最初に見つけてくれた先生。
「あの先生がいたから、私、学校が好きになった」
声が自然にこぼれた。
母は静かに頷く。
「知ってる」
「先生みたいになりたかった」
「それも、知ってる」
母は、思っていたより多くを知っていた。
私が言葉にしなかったことまで、ずっと見ていたのかもしれない。
なのに、どうして。
どうして私たちは、こんなにすれ違ってきたのだろう。
父が低い声で言った。
「登坂先生は、いい人だったな」
「お父さんも覚えてるの?」
「覚えてる」
父は少し遠くを見るような目をした。
「一度、俺に言ったんだ。灯理さんは、誰かのために我慢するのが上手すぎますって」
息が止まった。
美紗子先生。
あの人は、そんなことまで見ていたのか。
小学生の私が、自分でも分からなかったことを。
「その先生がね」
母が言った。
「あなたが教職を選んだ時、本当に嬉しかったの」
「え?」
「直接お会いしたわけじゃないけど、年賀状に書いてあった。灯理さんなら、きっと子どもの小さな声を拾える先生になりますって」
胸の奥が、熱くなる。
私は知らなかった。
知らないところで、先生はまだ私を見てくれていた。
「その年賀状、残ってる?」
「たぶん、どこかに」
母は少し考えた。
「探しておくわ」
私は頷いた。
「お願い」
登坂美紗子。
その名前が、今の私には別の意味を持っている。
利月くん。
登坂利月。
同じ苗字。
偶然かもしれない。
違う人かもしれない。
でも、胸の奥がざわついて仕方がない。
「灯理?」
母が私の顔を覗き込む。
「顔色が変よ」
「大丈夫」
口から出た瞬間、自分で嫌になった。
また、大丈夫。
私は何度この言葉で、自分に鍵をかけてきたんだろう。
「大丈夫じゃないかも」
言い直すと、母が少しだけ目を見開いた。
父も、こちらを見る。
たったそれだけなのに、胸の奥が少し軽くなった。
「今日、学校に行って、いろいろ思い出した」
私はゆっくり言った。
「陽斗のことも。昔の私のことも。教室を離れた日のことも」
母は黙って聞いていた。
「私、ちゃんと母親できてるのかな」
声が震えた。
「会社を継いだことを言い訳にして、陽斗の学校のこと、音葉やお母さんに任せすぎてた」
「灯理」
「今日、陽斗が嬉しそうだった。私が行っただけで」
言いながら、涙が出そうになる。
「それが嬉しくて、苦しかった」
母はそっと手を伸ばし、私の手に触れた。
「母親はね、全部ちゃんとできる人のことじゃないわ」
私は母を見る。
「戻ろうとする人のことよ」
その言葉に、胸の奥が震えた。
戻ろうとする人。
私は、戻れるのだろうか。
陽斗の母として。
教室を好きだった自分として。
そして、利月くんの前に立つ、本当の私として。
父が言った。
「会社は、お前ひとりで背負うものじゃない」
「今さら?」
「今さらだな」
父は苦く笑った。
「でも、今さらでも言う。お前の人生まで、会社のものにする必要はない」
その言葉を、もっと早く聞きたかった。
でも、今聞けたことにも意味はあるのかもしれない。
私は泣かなかった。
泣く代わりに、深く息を吸った。
帰り道、車の窓から夜の街を見た。
実家からは東京タワーは見えない。
それなのに、頭の中には赤い光が浮かんでいる。
高いものだって、ちゃんと足元から立っている。
美紗子先生の声。
上に行くと、遠くまで見えすぎるから。
利月くんの声。
二つの声が、同じ場所で重なった。
登坂。
ただの苗字のはずだった。
でもその二文字が、私の過去と今を繋ごうとしている。
私はスマホを手に取った。
利月くんの連絡先は、まだない。
東京タワーの下で交わした曖昧な約束だけがある。
眠れなかったら、またここで。
今夜、行けば会えるかもしれない。
でも、まだ怖かった。
美紗子先生のことを聞くのも。
利月くんに本当のことを話すのも。
陽斗の母である私を見せるのも。
私はスマホを伏せた。
窓の外の夜に、私の顔が薄く映る。
社長でもない。
母でもない。
昔の先生でもない。
それら全部を抱えた、私。
硝子の鍵が、またひとつ鳴った。
今度の鍵は、過去の音がした。
そして私はまだ、その鍵穴の前で立ち尽くしていた。
「お母さん、ちゃんと見てた?」
助手席で、陽斗が前を向いたまま聞いた。
「見てたよ」
「どこ?」
「陽斗が手を挙げたところ」
「そこだけ?」
「あと、佐伯先生に“片目でプリント見た”って言われてたところ」
「そこは見なくていい」
陽斗が口を尖らせる。
私は少し笑った。
その横顔を見ながら、胸の奥がゆっくり痛んだ。
この子は、今日、嬉しそうだった。
私が教室の後ろに立っているだけで、何度もちらりと振り返った。
気にしていないふりをしていたけれど、手を挙げる前も、発表したあとも、私の方を一瞬だけ見た。
たったそれだけのことを、私は今までどれだけ逃してきたんだろう。
「お母さん」
「なに?」
「また来る?」
その声は、何気ないふりをしていた。
でも、私は分かった。
何気ない言葉の中に、小さな期待が隠れていることを。
子どもたちは、欲しいものをいつも大きな声で言うわけじゃない。
「行くよ」
私は前を見たまま答えた。
「行ける時は、ちゃんと行く」
「ふーん」
陽斗は窓の外を見た。
でも、口元が少しだけ緩んでいた。
それだけで、私は泣きそうになった。
母親って、こんなに簡単に負ける。
仕事では泣かない。
会議でも、役員の前でも、銀行の担当者の前でも、私は泣かなかった。
でも陽斗が少し嬉しそうにするだけで、胸の奥が水でいっぱいになる。
「佐伯先生、いい先生だね」
私が言うと、陽斗はすぐに顔を向けた。
「うるさいけどね」
「うるさいんだ」
「うるさい。でも、見てる」
その言葉に、参観日の空き教室で尚さんに言われたことを思い出した。
陽斗は、たまにすごく大人っぽい顔をします。
自分が甘える前に、周りを見る。
胸が、また少し痛んだ。
「登坂先生は?」
聞いてから、自分でしまったと思った。
陽斗は特に気にした様子もなく答える。
「六年の先生でしょ? たまに廊下で会う」
「話すの?」
「話すっていうか、注意される」
「何を?」
「廊下走るな、とか」
私は思わず笑ってしまった。
「走ってるんじゃん」
「走ってない。早歩き」
「それ、だいたい走ってる」
陽斗は不満そうに頬を膨らませた。
「登坂先生、細かいんだよ。でも優しい」
優しい。
その言葉だけで、胸の奥に東京タワーの赤い光が灯る。
私はまだ、利月くんに何も言えていない。
陽斗の母であることも。
大きな会社の社長であることも。
本当は彼よりずっと年上であることも。
尚さんには知られた。
でも、利月くんにはまだ。
そう思うだけで、ハンドルを握る手に力が入る。
「お母さん、なんか考えてる?」
陽斗に言われて、私は少し驚いた。
「え?」
「今、顔こわかった」
「そんな顔してた?」
「してた」
子どもは時々、残酷なくらいよく見ている。
私は笑ってごまかした。
「仕事のこと考えてた」
嘘ではない。
でも、本当でもない。
まただ。
私はまた、中途半端な言葉で自分を守っている。
会社に戻ると、音葉がいつものように待っていた。
「おかえりなさい」
「ただいま」
陽斗が軽く手を振る。
「音葉さん、今日お母さん来たよ」
「知っています」
「なんで?」
「私が送り出しました」
「音葉さん、すご」
「もっと褒めてください」
陽斗が笑う。
そのやり取りが自然すぎて、私は少しだけ救われる。
音葉は、私の秘書で、陽斗にとっては家族に近い人だった。
学校の連絡も、提出物も、急な予定変更も、ずっと彼女が支えてくれた。
それに甘えていた。
その事実を、今日の私はもう見ないふりできなかった。
「陽斗、先に上行ってて」
「はーい」
陽斗がエレベーターに乗るのを見送ってから、音葉がこちらを見た。
「佐伯先生には?」
「バレた」
「でしょうね」
「もう少し驚いて」
「想定内です」
この人は本当に心臓に悪い。
私はため息をついた。
「怒られた」
「佐伯先生に?」
「怒られたというか、刺された」
「どこを」
「母親のところ」
音葉は少し黙った。
それだけで、彼女が何を考えているのか分かった。
私が一番痛い場所。
社長でも、女でもなく、母としての場所。
「陽斗くん、喜んでいましたね」
「うん」
「また行ってください」
「うん」
「今度は逃げずに」
「分かってる」
言葉にすると、また胸が痛む。
分かってる。
私は今日、何度その言葉を心の中で言っただろう。
分かっているのに、できなかったことばかりだ。
「登坂先生には?」
音葉が聞いた。
私は首を横に振った。
「まだ」
「言いますか」
「言う」
「いつ」
その質問が、仕事みたいで少し嫌だった。
でも、恋のことも秘密のことも、結局は期限を決めないと逃げてしまう。
「近いうちに」
「それは逃げの言葉です」
「音葉」
「はい」
「今日は優しくして」
音葉は少しだけ目を細めた。
それから、珍しく何も言わなかった。
その沈黙が優しかった。
夕方、私は実家へ向かった。
陽斗は会社の部屋で宿題をすると言い、音葉が見てくれていた。
本当は一緒に帰るつもりだったけれど、母から連絡が来ていた。
父の調子が少し悪いらしい。
大きなことではない。
母はそう言った。
でも母が「大きなことではない」と言う時は、だいたい何かを隠している。
実家は、会社からそう遠くない場所にある。
大きな門。
長い廊下。
磨かれた床。
静かすぎるリビング。
子どもの頃、私はこの家が少し苦手だった。
広いのに、息がしづらかった。
父の会社は、この家と同じ匂いがした。
立派で、重くて、逃げ場がなくて。
「灯理」
玄関に出てきた母は、私を見るなり少し眉を寄せた。
「疲れてる顔ね」
「参観日に行ってきた」
「あなたが?」
母は本当に驚いた顔をした。
私は少し笑う。
「そんなに驚く?」
「驚くわよ。あなた、自分の学校でもないのに学校に行くの嫌がるから」
自分の学校でもないのに。
その言葉に、胸の奥が静かに鳴った。
母は、私がなぜ学校を避けていたか、本当は知っているのかもしれない。
リビングには父がいた。
ソファに座って、新聞を広げている。
けれど、読むというより、ただ持っているだけに見えた。
「来たのか」
父は短く言った。
「うん。体調悪いって聞いたから」
「大したことない」
父も母と同じことを言う。
大したことない。
大きなことではない。
大丈夫。
この家の人間は、どうしてこんなに同じ言葉で自分を隠すんだろう。
私も含めて。
「病院行ったの?」
「行った」
「なんて?」
「疲れだろうって」
父はそれ以上言わない。
私は母を見る。
母は少しだけ視線を逸らした。
何か、まだある。
でも今日は、深く聞けなかった。
聞いたら、今抱えているものがまたひとつ増える気がした。
私は弱い。
そう思った。
社長としては、問題があればすぐ確認する。
数字も、契約も、社員のことも、逃げない。
なのに家族のことになると、私は途端に怖くなる。
「陽斗は?」
父が聞いた。
「元気。今日、参観日で発表してた」
「そうか」
父の口元が少しだけ緩む。
陽斗のことになると、父はいつも少し柔らかくなる。
会社では怖い人だった父も、陽斗の前では不器用な祖父になる。
その姿を見るたびに、私は少し複雑な気持ちになった。
私には、あんな顔をあまり見せてくれなかったのに。
そう思ってしまう自分が、まだどこかにいる。
母がお茶を置いた。
「参観日、どうだった?」
「懐かしかった」
正直に言うと、母は少しだけ目を細めた。
「そう」
「教室の匂いって、変わらないね」
「あなた、学校好きだったものね」
胸の奥が、ぎゅっと縮んだ。
好きだった。
その言葉を、母の口から聞くと苦しい。
「好きだったよ」
私は湯呑みを見つめた。
「本当は、辞めたくなかった」
言った瞬間、リビングの空気が止まった。
父が新聞から顔を上げる。
母も、私を見る。
私はその視線を受け止めた。
今まで、言ったことがなかった。
大丈夫。
仕方ない。
私がやる。
そう言って、教室を離れた。
でも、辞めたくなかったとは言わなかった。
言ったら、誰かを責めることになる気がしたから。
「灯理」
父が低い声で呼んだ。
私は父を見た。
「お前に、背負わせすぎたな」
その言葉は、思っていたより静かだった。
怒りも、言い訳もない。
ただ、静かに落ちてきた。
「今それ言うの、ずるい」
思わず言った。
父は苦く笑った。
「そうだな」
あまりにも素直に認めるから、私は何も言えなくなる。
父は昔から不器用だった。
必要なことしか言わない。
感情を説明しない。
会社を守ることが、家族を守ることだと信じていた人。
その父が今、少し小さく見える。
「お父さんが倒れた時」
私はゆっくり言った。
「私、教室にいたの。子どもたちと給食の準備してた」
あの日のことは、今でも覚えている。
職員室に呼ばれて、電話を受けた。
母の声が震えていた。
父が倒れた。
会社が大変なことになっている。
その時、私は何を見ていたんだろう。
たぶん、配膳台の上の牛乳。
子どもたちのざわめき。
白い割烹着。
廊下に差し込む昼の光。
あんな日常の中で、私の人生は急に向きを変えた。
「私は、そのまま教室に戻れなかった」
声が少し震える。
「机の中に、子どもたちからもらった手紙が入ってた。まだ返事を書いてない子もいた。明日話そうと思ってた子もいた」
言葉にすると、胸の奥で古い痛みが目を覚ます。
「でも、私は帰った。会社に」
父は黙って聞いていた。
母も、何も言わなかった。
「仕方なかったって分かってる。お父さんだけのせいじゃない。家のことも、会社のことも、誰かがやらなきゃいけなかった」
私は父を見る。
「でも、私はあの日、教室を置いてきたままなの」
初めて言えた。
ずっと心の中で、言葉にならなかったもの。
私は、教室を置いてきた。
辞めたのではなく、置いてきた。
だから今でも、学校へ行くと胸が痛む。
陽斗の参観日なのに、私は昔の自分を探してしまう。
母が静かに言った。
「あなた、昔から大丈夫って言う子だった」
「うん」
「大丈夫じゃない時ほど、大丈夫って言うの」
私は笑おうとして、失敗した。
「知ってたなら、止めてよ」
責めるつもりはなかった。
でも、少しだけ子どもの私が顔を出した。
母は目を伏せた。
「止めたかったわ」
その声は、思ったより弱かった。
「でも、あの時は私も怖かった。お父さんのことも、会社のことも、家のことも。あなたが“大丈夫”と言ってくれたことに、甘えたの」
母の言葉に、胸が痛んだ。
大人になってから聞く親の弱さは、どうしてこんなに扱いづらいのだろう。
怒りたいのに、怒りきれない。
許したいのに、簡単には許せない。
「ごめんね」
母が言った。
その一言で、私は泣きそうになった。
ずっと聞きたかったのかもしれない。
でも、聞きたくなかったのかもしれない。
私は首を横に振った。
「今さら、困る」
「そうね」
母は小さく笑った。
「でも、言わせて」
私は何も言えなかった。
リビングの時計の音だけが、静かに響いている。
しばらくして、母がふと思い出したように言った。
「今日、学校に行って思い出したんじゃない?」
「何を?」
「美紗子先生のこと」
その名前に、心臓が跳ねた。
「……覚えてるの?」
「覚えてるわよ」
母は湯呑みを置いた。
「登坂美紗子先生。あなたの小学校の時の担任でしょう」
登坂。
その苗字が、胸の奥に落ちる。
「あなたのこと、よく見てくれていた先生だった」
母は懐かしむように言った。
「あなたが笑っていても、無理をしている時は分かっていたみたい。何度か電話をくださったわ」
「電話?」
私は知らなかった。
「灯理さんが最近、少し疲れて見えますって。ご家庭で何かありますかって」
胸の奥で、古い教室が開いた。
白いチョーク。
放課後の光。
美紗子先生の声。
高いものってね、上ばかり見ると怖いの。
でも、ちゃんと足元から立っているでしょ。
東京タワーの下で、そう言ってくれた人。
私を、最初に見つけてくれた先生。
「あの先生がいたから、私、学校が好きになった」
声が自然にこぼれた。
母は静かに頷く。
「知ってる」
「先生みたいになりたかった」
「それも、知ってる」
母は、思っていたより多くを知っていた。
私が言葉にしなかったことまで、ずっと見ていたのかもしれない。
なのに、どうして。
どうして私たちは、こんなにすれ違ってきたのだろう。
父が低い声で言った。
「登坂先生は、いい人だったな」
「お父さんも覚えてるの?」
「覚えてる」
父は少し遠くを見るような目をした。
「一度、俺に言ったんだ。灯理さんは、誰かのために我慢するのが上手すぎますって」
息が止まった。
美紗子先生。
あの人は、そんなことまで見ていたのか。
小学生の私が、自分でも分からなかったことを。
「その先生がね」
母が言った。
「あなたが教職を選んだ時、本当に嬉しかったの」
「え?」
「直接お会いしたわけじゃないけど、年賀状に書いてあった。灯理さんなら、きっと子どもの小さな声を拾える先生になりますって」
胸の奥が、熱くなる。
私は知らなかった。
知らないところで、先生はまだ私を見てくれていた。
「その年賀状、残ってる?」
「たぶん、どこかに」
母は少し考えた。
「探しておくわ」
私は頷いた。
「お願い」
登坂美紗子。
その名前が、今の私には別の意味を持っている。
利月くん。
登坂利月。
同じ苗字。
偶然かもしれない。
違う人かもしれない。
でも、胸の奥がざわついて仕方がない。
「灯理?」
母が私の顔を覗き込む。
「顔色が変よ」
「大丈夫」
口から出た瞬間、自分で嫌になった。
また、大丈夫。
私は何度この言葉で、自分に鍵をかけてきたんだろう。
「大丈夫じゃないかも」
言い直すと、母が少しだけ目を見開いた。
父も、こちらを見る。
たったそれだけなのに、胸の奥が少し軽くなった。
「今日、学校に行って、いろいろ思い出した」
私はゆっくり言った。
「陽斗のことも。昔の私のことも。教室を離れた日のことも」
母は黙って聞いていた。
「私、ちゃんと母親できてるのかな」
声が震えた。
「会社を継いだことを言い訳にして、陽斗の学校のこと、音葉やお母さんに任せすぎてた」
「灯理」
「今日、陽斗が嬉しそうだった。私が行っただけで」
言いながら、涙が出そうになる。
「それが嬉しくて、苦しかった」
母はそっと手を伸ばし、私の手に触れた。
「母親はね、全部ちゃんとできる人のことじゃないわ」
私は母を見る。
「戻ろうとする人のことよ」
その言葉に、胸の奥が震えた。
戻ろうとする人。
私は、戻れるのだろうか。
陽斗の母として。
教室を好きだった自分として。
そして、利月くんの前に立つ、本当の私として。
父が言った。
「会社は、お前ひとりで背負うものじゃない」
「今さら?」
「今さらだな」
父は苦く笑った。
「でも、今さらでも言う。お前の人生まで、会社のものにする必要はない」
その言葉を、もっと早く聞きたかった。
でも、今聞けたことにも意味はあるのかもしれない。
私は泣かなかった。
泣く代わりに、深く息を吸った。
帰り道、車の窓から夜の街を見た。
実家からは東京タワーは見えない。
それなのに、頭の中には赤い光が浮かんでいる。
高いものだって、ちゃんと足元から立っている。
美紗子先生の声。
上に行くと、遠くまで見えすぎるから。
利月くんの声。
二つの声が、同じ場所で重なった。
登坂。
ただの苗字のはずだった。
でもその二文字が、私の過去と今を繋ごうとしている。
私はスマホを手に取った。
利月くんの連絡先は、まだない。
東京タワーの下で交わした曖昧な約束だけがある。
眠れなかったら、またここで。
今夜、行けば会えるかもしれない。
でも、まだ怖かった。
美紗子先生のことを聞くのも。
利月くんに本当のことを話すのも。
陽斗の母である私を見せるのも。
私はスマホを伏せた。
窓の外の夜に、私の顔が薄く映る。
社長でもない。
母でもない。
昔の先生でもない。
それら全部を抱えた、私。
硝子の鍵が、またひとつ鳴った。
今度の鍵は、過去の音がした。
そして私はまだ、その鍵穴の前で立ち尽くしていた。
