参観日の朝、私はいつもより早く目が覚めた。
カーテンの隙間から、薄い光が床に落ちている。
夜の東京タワーはあんなに綺麗なのに、朝になると、街は急に現実の顔をする。
仕事の日なら、起きてすぐ頭の中で予定を並べる。
十時に役員会。
十三時に取引先。
十五時に決裁。
十七時に資料確認。
社長としての私は、そうやって一日を組み立てるのが得意だった。
でも今日は違う。
陽斗の授業参観。
ただそれだけの予定が、どんな会議よりも重かった。
クローゼットの前で、私はしばらく動けずにいた。
派手すぎない服。
社長らしく見えすぎない服。
でも母親としてだらしなく見えない服。
そんな曖昧な条件で服を選ぶ自分が、少しおかしかった。
「社長、まだ迷ってます?」
背後から音葉の声がした。
振り返ると、彼女はいつものように冷静な顔で立っていた。
手には、学校からのプリントと私のスケジュール帳。
「その呼び方、今日はやめて」
「では、灯理さん」
「それもなんか緊張する」
「面倒ですね」
音葉は淡々と言って、プリントを差し出した。
「五年二組。三時間目、国語です。担任は佐伯先生」
佐伯尚。
その名前を聞いただけで、胸の奥が少し冷える。
食事会で、同じ歳くらいだと言われた。
私は否定しなかった。
ただの灯理でいたかったから。
でも今日は、その尚さんの前に、陽斗の母親として立つ。
「行くって言ったの、取り消したい」
「ダメです」
「即答」
「陽斗くん、昨日から少し浮かれてました」
その一言で、私は黙った。
「……浮かれてた?」
「はい。お母さん来るの?って三回聞かれました」
胸の奥が、柔らかく痛んだ。
陽斗は、もう11歳だ。
正確には小学五年生で、子ども扱いされるのを嫌がる時も増えた。
でも、母親が学校に来ることを、まだ少し喜んでくれる。
それを私は、今まで何度も誰かに預けてきた。
母に。
音葉に。
仕事に。
「行く」
私は小さく言った。
「ちゃんと行く」
音葉は、ほんの少しだけ目を細めた。
「はい」
その返事が、いつもより優しかった。
学校の門の前に立った瞬間、足が止まった。
懐かしい匂いがした。
校庭の土。
消毒液。
上履きのゴム。
廊下に貼られた画用紙。
どこか遠くから聞こえる、子どもたちの声。
胸の奥に、昔の私が顔を出す。
私は、こちら側にいた。
保護者として廊下に立つ人ではなく、教室の中で子どもたちを待つ側にいた。
チャイムが鳴る前に黒板を整えて、泣きそうな子の顔を見つけて、忘れ物をした子に「次は気をつけようね」と言う側にいた。
大好きだった。
その言葉を認めるだけで、今でも少し苦しくなる。
「お母さん!」
廊下の向こうから、陽斗が小さく手を振った。
周りの友達の目を気にしているのか、声は控えめだった。
でも、顔は少しだけ緩んでいる。
私は手を振り返した。
陽斗の目が、ぱっと明るくなる。
その瞬間、来てよかったと思った。
こんな簡単なことを、どうして私はずっと怖がっていたんだろう。
教室の後ろには、何人かの保護者が立っていた。
私はできるだけ目立たない位置に立つ。
黒板には、今日の課題が書かれている。
「気持ちが伝わる言葉を考えよう」
国語。
尚さんらしい気がした。
チャイムが鳴る少し前、教室の前方の扉が開いた。
「はい、席つけー」
明るい声。
佐伯尚さんだった。
昨日までスマホの画面越しに言葉を交わしていた人。
食事会で私を笑わせた人。
今は、教壇に立つ先生の顔をしている。
白いシャツの袖を少しまくり、手には教科書とプリント。
軽い人に見えるのに、教室に入った瞬間、空気がちゃんと整った。
「陽斗、プリント裏返し。まだ見るな」
「え、見てないし」
「今、片目で見た」
「先生こわ」
教室が少し笑う。
尚さんも笑った。
でもすぐに、黒板の前で姿勢を正す。
「今日は、言葉の選び方の話をします」
私はその声を聞きながら、胸の奥が静かに震えるのを感じていた。
この人は、ちゃんと先生だ。
冗談を言う。
子どもたちを笑わせる。
でも、ひとりひとりの目を見ている。
陽斗が手を挙げると、尚さんはすぐに気づいた。
「はい、陽斗」
「相手によって言葉を変えるってことですか」
「そう。それもある」
尚さんは嬉しそうに頷いた。
「同じ“ありがとう”でも、誰に言うかで伝わり方は変わる。逆に、本当は言いたいのに、言えない言葉もある」
その言葉が、私の胸に刺さった。
本当は言いたいのに、言えない言葉。
利月くんに言えないこと。
尚さんに言えないこと。
陽斗にも、ちゃんと言えていないこと。
私は教室の後ろで、ひとりだけ違う授業を受けているみたいだった。
授業の途中、尚さんの視線が一瞬だけこちらに向いた。
ほんの一瞬。
でも、その目が止まったのが分かった。
昨日の食事会の灯理。
今日の教室の後ろに立つ保護者。
その二つが、尚さんの中でまだ繋がっていない。
私は息を止めた。
気づかないで。
そう思った自分に、すぐ嫌気がさした。
気づかれたくない。
でも、隠し続けるのはもう無理だ。
授業が終わると、子どもたちは一気にざわめいた。
陽斗が私のところへ来る。
「お母さん、どうだった?」
「ちゃんと手、挙げてたね」
「そこ?」
「そこ大事」
「もっと内容褒めてよ」
「相手によって言葉を変えるって言ってたの、よかった」
陽斗は少し照れたように目をそらした。
「まあね」
その顔が、まだ子どもで、私はたまらなくなる。
「陽斗」
背後から尚さんの声がした。
陽斗が振り返る。
「佐伯先生」
「次、体育館移動。忘れるなよ」
「忘れないって」
「昨日も同じこと言って忘れた人がいる」
「それは昨日の俺です」
尚さんが笑った。
そのあと、彼の視線が私に向く。
私は逃げられなかった。
陽斗が何気なく言った。
「先生、俺のお母さん」
その一言で、空気が止まった気がした。
尚さんの表情が、ほんの少しだけ変わる。
笑顔の端が消える。
目が、私を正面から捉える。
「……お母さん」
確認するような声だった。
私は、ゆっくり頷いた。
「はい」
たった一文字が、喉を通るのに時間がかかった。
「陽斗の母です」
言った。
言ってしまった。
胸の奥で、何かが割れる音がした。
でも同時に、少しだけ息が吸えた。
陽斗は、私たちの空気に気づいていない。
「じゃあ俺、体育館行く」
「行ってらっしゃい」
「お母さん、帰る?」
「懇談までいるよ」
「え、まじ?」
陽斗の顔が少し明るくなる。
「うん」
「じゃああとで」
陽斗は友達の方へ走っていった。
その背中を見送ってから、私は尚さんに向き直った。
教室にはまだ保護者が残っている。
廊下にも人の気配がある。
ここでは、話せない。
尚さんも同じことを思ったのだろう。
「少し、いいですか」
昨日までより低い声だった。
私は頷いた。
「はい」
案内されたのは、教室から少し離れた空き教室だった。
使われていない机が端に寄せられていて、窓際には古い掲示物が残っている。
春の交通安全。
図書委員会のお知らせ。
色あせた画用紙。
学校の空き教室というのは、どうしてこんなに寂しいのだろう。
尚さんは扉を閉めると、しばらく黙っていた。
私は先に頭を下げた。
「すみませんでした」
尚さんは、すぐには返事をしなかった。
その沈黙が痛い。
「灯理さんが、陽斗の母親だったんですね」
「はい」
「音葉さんは?」
「私の秘書です」
「秘書」
尚さんは小さく繰り返した。
「じゃあ、学校の連絡とか、今まで音葉さんが?」
「母と、音葉が対応してくれていました」
「なるほど」
尚さんは、ゆっくり息を吐いた。
怒っているのか、呆れているのか分からない。
でも、昨日の軽さはそこにはなかった。
「昨日、俺、灯理さんに同世代っぽいって言いましたよね」
心臓が嫌な音を立てた。
「……はい」
「否定しませんでしたよね」
「はい」
「なんでですか」
責める声ではなかった。
だから、余計につらかった。
私は指先を握った。
「嬉しかったんです」
言った瞬間、自分の声が震えた。
「社長でも、母親でもなく、ただの女として見られた気がして。嬉しくて、否定できませんでした」
尚さんは黙って聞いていた。
「嘘をつくつもりはなかった、って言いたいけど、それは言い訳です。私は、違うと言えた。言えたのに、言わなかった」
胸の奥が苦しい。
でも、ここでまたごまかしたら、何も変わらない。
「すみません」
私はもう一度頭を下げた。
「佐伯さんにも、陽斗にも、失礼なことをしました」
「陽斗には」
尚さんの声が少しだけ強くなった。
私は顔を上げた。
「陽斗には、まだ何も知られなくていいと思います」
その言葉に、胸を押された気がした。
「え……」
「大人の嘘に、子どもを巻き込む必要はないです」
尚さんはまっすぐ私を見た。
「ただ、俺は担任なので。陽斗のことは見ます」
「はい」
「学校での陽斗は、明るいです。友達もいる。体育もよく動くし、サッカーの話になるとうるさいくらいです」
その言い方に、少しだけ笑いそうになった。
「でも」
尚さんの声が静かになる。
「たまに、すごく大人っぽい顔をします」
私は息を止めた。
「誰かが困ってると先に動く。空気を読みすぎる。自分が甘える前に、周りを見る」
それは、私が一番見たくなかった陽斗の顔だった。
「今日、お母さんが来て、あいつ嬉しそうでした」
尚さんは言った。
「だから、そこはちゃんと見てあげてください」
胸が痛かった。
社長としてなら、私はたくさんの厳しい言葉を受けてきた。
でも母として言われる言葉は、別の場所に刺さる。
「はい」
声が震えた。
「見ます」
尚さんは頷いた。
それから少しだけ間を置いて、低い声で聞いた。
「登坂には、言うんですか」
その名前が出た瞬間、指先が冷えた。
利月くん。
東京タワーの下で、また会えたらと約束した人。
先生じゃなくていい場所が欲しいと言った人。
私はまだ、何も言えていない。
「……まだ」
正直に言うしかなかった。
「言えていません」
「でしょうね」
尚さんは小さく言った。
私は顔を上げる。
「分かりますか」
「昨日の灯理さん、登坂を見る時だけ、少し違ったので」
心臓が跳ねた。
「そんな顔、してました?」
「してました」
即答だった。
「本人が気づいてるかは知りませんけど」
「やめてください」
「何を」
「そういうこと言うの」
尚さんは少しだけ笑った。
けれどすぐに、先生の顔に戻る。
「言った方がいいです」
分かっている。
音葉にも言われた。
自分でも分かっている。
でも、分かっていることほど、できない時がある。
「言ったら、終わるかもしれない」
口から落ちた言葉は、思っていたより弱かった。
尚さんは黙って聞いていた。
「社長で、母親で、年上で。昨日、同じ歳くらいの顔をして笑っていた女なんて、軽蔑されても仕方ないです」
「登坂は、そんなに薄い男じゃないですよ」
その声は、意外なほどはっきりしていた。
「でも、黙ったまま進んでいいとも思いません」
「分かっています」
「じゃあ、分かってるうちに言ってください」
その言葉はまっすぐだった。
まっすぐすぎて、痛い。
利月くんが扉の前で待つ人なら、
尚さんは、閉じた扉を見て「そこ、鍵かかってますよ」と言う人だ。
腹が立つくらい、正しい。
「佐伯さんは」
私は息を吸った。
「私のこと、どう思いましたか」
「どうって?」
「嘘つきだな、とか」
「思いました」
迷いのない答えだった。
私は思わず笑ってしまった。
「正直ですね」
「そこ嘘ついても仕方ないので」
「ですよね」
笑っているのに、目の奥が熱くなる。
尚さんは少し困ったように眉を寄せた。
「でも」
「でも?」
「悪い人だとは思ってません」
その言葉が、静かに落ちた。
「なんでですか」
「陽斗が“お母さん”って言った時の、灯理さんの顔を見たから」
私は言葉を失った。
「昨日の食事会の顔とも違った。東京タワーの話をしてた時の顔とも、たぶん違う」
「東京タワー?」
しまった、と思った。
尚さんがすぐにこちらを見る。
「え、東京タワーで何かあったんですか」
「何も」
「今のは何もない人の反応じゃないです」
「佐伯さん、先生って怖いですね」
「よく言われます」
少しだけ空気がゆるんだ。
でも、それも一瞬だった。
尚さんは、もう一度真面目な声で言った。
「俺から登坂には言いません」
胸が軽くなる前に、尚さんは続ける。
「でも、灯理さんが言わないまま進むなら、俺は止めます」
「止める?」
「登坂を傷つける形になるなら」
それは、静かな警告だった。
尚さんは味方かもしれない。
でも、利月くんの同僚で、友人でもある。
そして、陽斗の担任でもある。
私だけの都合では動かない人。
それが、かえって信用できる気がした。
「分かりました」
私は頷いた。
「自分で言います。ちゃんと」
いつか。
そう言いそうになって、飲み込んだ。
いつか、ではだめだ。
鍵を閉め続ければ、硝子はいつか内側から割れてしまう。
「近いうちに」
尚さんは、その言葉を聞いてから頷いた。
「待ってます」
それは、利月くんの待ち方とは違った。
扉の前で静かに待つのではなく、
時間を区切って、逃げ道をふさぐ待ち方。
先生という人たちは、本当に怖い。
空き教室を出ると、廊下の向こうから子どもたちの声が聞こえた。
体育館へ向かう陽斗が、友達と笑っているのが見える。
その隣を、知らない先生が通り過ぎる。
少し離れた階段のところで、利月くんの姿が見えた。
胸が、どくんと鳴った。
六年生の子どもたちに何かを指示している。
穏やかな声。
少しだけ困ったような笑い方。
そして、陽斗がその横を通る時、利月くんが軽く声をかけた。
「陽斗、廊下走るなよ」
陽斗が振り返って笑う。
「走ってません!」
「今、半分走ってた」
「先生、細かい」
利月くんが小さく笑った。
その光景を見た瞬間、私は動けなくなった。
利月くんは、陽斗を知っている。
陽斗も、利月くんを知っている。
でも、二人は知らない。
私を挟んでいることを。
尚さんが、隣で静かに言った。
「登坂は、六年担任です。陽斗とは担任関係じゃないけど、学校では普通に関わります」
「……そう、なんですね」
「灯理さんが思ってるより、世界は狭いですよ」
その言葉が、胸に落ちた。
本当に、狭い。
私が隠したいと思ったものほど、近くにある。
陽斗が私に気づいて、手を振った。
私は手を振り返す。
母として。
尚さんは隣に立っている。
陽斗の担任として。
そして少し離れた場所に、利月くんがいる。
私がまだ本当を言えていない人として。
硝子の鍵が、またひとつ鳴った。
今度の鍵は、母の顔をしていた。
そしてその鍵穴は、もう私ひとりの胸の中にはなかった。
カーテンの隙間から、薄い光が床に落ちている。
夜の東京タワーはあんなに綺麗なのに、朝になると、街は急に現実の顔をする。
仕事の日なら、起きてすぐ頭の中で予定を並べる。
十時に役員会。
十三時に取引先。
十五時に決裁。
十七時に資料確認。
社長としての私は、そうやって一日を組み立てるのが得意だった。
でも今日は違う。
陽斗の授業参観。
ただそれだけの予定が、どんな会議よりも重かった。
クローゼットの前で、私はしばらく動けずにいた。
派手すぎない服。
社長らしく見えすぎない服。
でも母親としてだらしなく見えない服。
そんな曖昧な条件で服を選ぶ自分が、少しおかしかった。
「社長、まだ迷ってます?」
背後から音葉の声がした。
振り返ると、彼女はいつものように冷静な顔で立っていた。
手には、学校からのプリントと私のスケジュール帳。
「その呼び方、今日はやめて」
「では、灯理さん」
「それもなんか緊張する」
「面倒ですね」
音葉は淡々と言って、プリントを差し出した。
「五年二組。三時間目、国語です。担任は佐伯先生」
佐伯尚。
その名前を聞いただけで、胸の奥が少し冷える。
食事会で、同じ歳くらいだと言われた。
私は否定しなかった。
ただの灯理でいたかったから。
でも今日は、その尚さんの前に、陽斗の母親として立つ。
「行くって言ったの、取り消したい」
「ダメです」
「即答」
「陽斗くん、昨日から少し浮かれてました」
その一言で、私は黙った。
「……浮かれてた?」
「はい。お母さん来るの?って三回聞かれました」
胸の奥が、柔らかく痛んだ。
陽斗は、もう11歳だ。
正確には小学五年生で、子ども扱いされるのを嫌がる時も増えた。
でも、母親が学校に来ることを、まだ少し喜んでくれる。
それを私は、今まで何度も誰かに預けてきた。
母に。
音葉に。
仕事に。
「行く」
私は小さく言った。
「ちゃんと行く」
音葉は、ほんの少しだけ目を細めた。
「はい」
その返事が、いつもより優しかった。
学校の門の前に立った瞬間、足が止まった。
懐かしい匂いがした。
校庭の土。
消毒液。
上履きのゴム。
廊下に貼られた画用紙。
どこか遠くから聞こえる、子どもたちの声。
胸の奥に、昔の私が顔を出す。
私は、こちら側にいた。
保護者として廊下に立つ人ではなく、教室の中で子どもたちを待つ側にいた。
チャイムが鳴る前に黒板を整えて、泣きそうな子の顔を見つけて、忘れ物をした子に「次は気をつけようね」と言う側にいた。
大好きだった。
その言葉を認めるだけで、今でも少し苦しくなる。
「お母さん!」
廊下の向こうから、陽斗が小さく手を振った。
周りの友達の目を気にしているのか、声は控えめだった。
でも、顔は少しだけ緩んでいる。
私は手を振り返した。
陽斗の目が、ぱっと明るくなる。
その瞬間、来てよかったと思った。
こんな簡単なことを、どうして私はずっと怖がっていたんだろう。
教室の後ろには、何人かの保護者が立っていた。
私はできるだけ目立たない位置に立つ。
黒板には、今日の課題が書かれている。
「気持ちが伝わる言葉を考えよう」
国語。
尚さんらしい気がした。
チャイムが鳴る少し前、教室の前方の扉が開いた。
「はい、席つけー」
明るい声。
佐伯尚さんだった。
昨日までスマホの画面越しに言葉を交わしていた人。
食事会で私を笑わせた人。
今は、教壇に立つ先生の顔をしている。
白いシャツの袖を少しまくり、手には教科書とプリント。
軽い人に見えるのに、教室に入った瞬間、空気がちゃんと整った。
「陽斗、プリント裏返し。まだ見るな」
「え、見てないし」
「今、片目で見た」
「先生こわ」
教室が少し笑う。
尚さんも笑った。
でもすぐに、黒板の前で姿勢を正す。
「今日は、言葉の選び方の話をします」
私はその声を聞きながら、胸の奥が静かに震えるのを感じていた。
この人は、ちゃんと先生だ。
冗談を言う。
子どもたちを笑わせる。
でも、ひとりひとりの目を見ている。
陽斗が手を挙げると、尚さんはすぐに気づいた。
「はい、陽斗」
「相手によって言葉を変えるってことですか」
「そう。それもある」
尚さんは嬉しそうに頷いた。
「同じ“ありがとう”でも、誰に言うかで伝わり方は変わる。逆に、本当は言いたいのに、言えない言葉もある」
その言葉が、私の胸に刺さった。
本当は言いたいのに、言えない言葉。
利月くんに言えないこと。
尚さんに言えないこと。
陽斗にも、ちゃんと言えていないこと。
私は教室の後ろで、ひとりだけ違う授業を受けているみたいだった。
授業の途中、尚さんの視線が一瞬だけこちらに向いた。
ほんの一瞬。
でも、その目が止まったのが分かった。
昨日の食事会の灯理。
今日の教室の後ろに立つ保護者。
その二つが、尚さんの中でまだ繋がっていない。
私は息を止めた。
気づかないで。
そう思った自分に、すぐ嫌気がさした。
気づかれたくない。
でも、隠し続けるのはもう無理だ。
授業が終わると、子どもたちは一気にざわめいた。
陽斗が私のところへ来る。
「お母さん、どうだった?」
「ちゃんと手、挙げてたね」
「そこ?」
「そこ大事」
「もっと内容褒めてよ」
「相手によって言葉を変えるって言ってたの、よかった」
陽斗は少し照れたように目をそらした。
「まあね」
その顔が、まだ子どもで、私はたまらなくなる。
「陽斗」
背後から尚さんの声がした。
陽斗が振り返る。
「佐伯先生」
「次、体育館移動。忘れるなよ」
「忘れないって」
「昨日も同じこと言って忘れた人がいる」
「それは昨日の俺です」
尚さんが笑った。
そのあと、彼の視線が私に向く。
私は逃げられなかった。
陽斗が何気なく言った。
「先生、俺のお母さん」
その一言で、空気が止まった気がした。
尚さんの表情が、ほんの少しだけ変わる。
笑顔の端が消える。
目が、私を正面から捉える。
「……お母さん」
確認するような声だった。
私は、ゆっくり頷いた。
「はい」
たった一文字が、喉を通るのに時間がかかった。
「陽斗の母です」
言った。
言ってしまった。
胸の奥で、何かが割れる音がした。
でも同時に、少しだけ息が吸えた。
陽斗は、私たちの空気に気づいていない。
「じゃあ俺、体育館行く」
「行ってらっしゃい」
「お母さん、帰る?」
「懇談までいるよ」
「え、まじ?」
陽斗の顔が少し明るくなる。
「うん」
「じゃああとで」
陽斗は友達の方へ走っていった。
その背中を見送ってから、私は尚さんに向き直った。
教室にはまだ保護者が残っている。
廊下にも人の気配がある。
ここでは、話せない。
尚さんも同じことを思ったのだろう。
「少し、いいですか」
昨日までより低い声だった。
私は頷いた。
「はい」
案内されたのは、教室から少し離れた空き教室だった。
使われていない机が端に寄せられていて、窓際には古い掲示物が残っている。
春の交通安全。
図書委員会のお知らせ。
色あせた画用紙。
学校の空き教室というのは、どうしてこんなに寂しいのだろう。
尚さんは扉を閉めると、しばらく黙っていた。
私は先に頭を下げた。
「すみませんでした」
尚さんは、すぐには返事をしなかった。
その沈黙が痛い。
「灯理さんが、陽斗の母親だったんですね」
「はい」
「音葉さんは?」
「私の秘書です」
「秘書」
尚さんは小さく繰り返した。
「じゃあ、学校の連絡とか、今まで音葉さんが?」
「母と、音葉が対応してくれていました」
「なるほど」
尚さんは、ゆっくり息を吐いた。
怒っているのか、呆れているのか分からない。
でも、昨日の軽さはそこにはなかった。
「昨日、俺、灯理さんに同世代っぽいって言いましたよね」
心臓が嫌な音を立てた。
「……はい」
「否定しませんでしたよね」
「はい」
「なんでですか」
責める声ではなかった。
だから、余計につらかった。
私は指先を握った。
「嬉しかったんです」
言った瞬間、自分の声が震えた。
「社長でも、母親でもなく、ただの女として見られた気がして。嬉しくて、否定できませんでした」
尚さんは黙って聞いていた。
「嘘をつくつもりはなかった、って言いたいけど、それは言い訳です。私は、違うと言えた。言えたのに、言わなかった」
胸の奥が苦しい。
でも、ここでまたごまかしたら、何も変わらない。
「すみません」
私はもう一度頭を下げた。
「佐伯さんにも、陽斗にも、失礼なことをしました」
「陽斗には」
尚さんの声が少しだけ強くなった。
私は顔を上げた。
「陽斗には、まだ何も知られなくていいと思います」
その言葉に、胸を押された気がした。
「え……」
「大人の嘘に、子どもを巻き込む必要はないです」
尚さんはまっすぐ私を見た。
「ただ、俺は担任なので。陽斗のことは見ます」
「はい」
「学校での陽斗は、明るいです。友達もいる。体育もよく動くし、サッカーの話になるとうるさいくらいです」
その言い方に、少しだけ笑いそうになった。
「でも」
尚さんの声が静かになる。
「たまに、すごく大人っぽい顔をします」
私は息を止めた。
「誰かが困ってると先に動く。空気を読みすぎる。自分が甘える前に、周りを見る」
それは、私が一番見たくなかった陽斗の顔だった。
「今日、お母さんが来て、あいつ嬉しそうでした」
尚さんは言った。
「だから、そこはちゃんと見てあげてください」
胸が痛かった。
社長としてなら、私はたくさんの厳しい言葉を受けてきた。
でも母として言われる言葉は、別の場所に刺さる。
「はい」
声が震えた。
「見ます」
尚さんは頷いた。
それから少しだけ間を置いて、低い声で聞いた。
「登坂には、言うんですか」
その名前が出た瞬間、指先が冷えた。
利月くん。
東京タワーの下で、また会えたらと約束した人。
先生じゃなくていい場所が欲しいと言った人。
私はまだ、何も言えていない。
「……まだ」
正直に言うしかなかった。
「言えていません」
「でしょうね」
尚さんは小さく言った。
私は顔を上げる。
「分かりますか」
「昨日の灯理さん、登坂を見る時だけ、少し違ったので」
心臓が跳ねた。
「そんな顔、してました?」
「してました」
即答だった。
「本人が気づいてるかは知りませんけど」
「やめてください」
「何を」
「そういうこと言うの」
尚さんは少しだけ笑った。
けれどすぐに、先生の顔に戻る。
「言った方がいいです」
分かっている。
音葉にも言われた。
自分でも分かっている。
でも、分かっていることほど、できない時がある。
「言ったら、終わるかもしれない」
口から落ちた言葉は、思っていたより弱かった。
尚さんは黙って聞いていた。
「社長で、母親で、年上で。昨日、同じ歳くらいの顔をして笑っていた女なんて、軽蔑されても仕方ないです」
「登坂は、そんなに薄い男じゃないですよ」
その声は、意外なほどはっきりしていた。
「でも、黙ったまま進んでいいとも思いません」
「分かっています」
「じゃあ、分かってるうちに言ってください」
その言葉はまっすぐだった。
まっすぐすぎて、痛い。
利月くんが扉の前で待つ人なら、
尚さんは、閉じた扉を見て「そこ、鍵かかってますよ」と言う人だ。
腹が立つくらい、正しい。
「佐伯さんは」
私は息を吸った。
「私のこと、どう思いましたか」
「どうって?」
「嘘つきだな、とか」
「思いました」
迷いのない答えだった。
私は思わず笑ってしまった。
「正直ですね」
「そこ嘘ついても仕方ないので」
「ですよね」
笑っているのに、目の奥が熱くなる。
尚さんは少し困ったように眉を寄せた。
「でも」
「でも?」
「悪い人だとは思ってません」
その言葉が、静かに落ちた。
「なんでですか」
「陽斗が“お母さん”って言った時の、灯理さんの顔を見たから」
私は言葉を失った。
「昨日の食事会の顔とも違った。東京タワーの話をしてた時の顔とも、たぶん違う」
「東京タワー?」
しまった、と思った。
尚さんがすぐにこちらを見る。
「え、東京タワーで何かあったんですか」
「何も」
「今のは何もない人の反応じゃないです」
「佐伯さん、先生って怖いですね」
「よく言われます」
少しだけ空気がゆるんだ。
でも、それも一瞬だった。
尚さんは、もう一度真面目な声で言った。
「俺から登坂には言いません」
胸が軽くなる前に、尚さんは続ける。
「でも、灯理さんが言わないまま進むなら、俺は止めます」
「止める?」
「登坂を傷つける形になるなら」
それは、静かな警告だった。
尚さんは味方かもしれない。
でも、利月くんの同僚で、友人でもある。
そして、陽斗の担任でもある。
私だけの都合では動かない人。
それが、かえって信用できる気がした。
「分かりました」
私は頷いた。
「自分で言います。ちゃんと」
いつか。
そう言いそうになって、飲み込んだ。
いつか、ではだめだ。
鍵を閉め続ければ、硝子はいつか内側から割れてしまう。
「近いうちに」
尚さんは、その言葉を聞いてから頷いた。
「待ってます」
それは、利月くんの待ち方とは違った。
扉の前で静かに待つのではなく、
時間を区切って、逃げ道をふさぐ待ち方。
先生という人たちは、本当に怖い。
空き教室を出ると、廊下の向こうから子どもたちの声が聞こえた。
体育館へ向かう陽斗が、友達と笑っているのが見える。
その隣を、知らない先生が通り過ぎる。
少し離れた階段のところで、利月くんの姿が見えた。
胸が、どくんと鳴った。
六年生の子どもたちに何かを指示している。
穏やかな声。
少しだけ困ったような笑い方。
そして、陽斗がその横を通る時、利月くんが軽く声をかけた。
「陽斗、廊下走るなよ」
陽斗が振り返って笑う。
「走ってません!」
「今、半分走ってた」
「先生、細かい」
利月くんが小さく笑った。
その光景を見た瞬間、私は動けなくなった。
利月くんは、陽斗を知っている。
陽斗も、利月くんを知っている。
でも、二人は知らない。
私を挟んでいることを。
尚さんが、隣で静かに言った。
「登坂は、六年担任です。陽斗とは担任関係じゃないけど、学校では普通に関わります」
「……そう、なんですね」
「灯理さんが思ってるより、世界は狭いですよ」
その言葉が、胸に落ちた。
本当に、狭い。
私が隠したいと思ったものほど、近くにある。
陽斗が私に気づいて、手を振った。
私は手を振り返す。
母として。
尚さんは隣に立っている。
陽斗の担任として。
そして少し離れた場所に、利月くんがいる。
私がまだ本当を言えていない人として。
硝子の鍵が、またひとつ鳴った。
今度の鍵は、母の顔をしていた。
そしてその鍵穴は、もう私ひとりの胸の中にはなかった。
