硝子の鍵

参観日の朝、私はいつもより早く目が覚めた。

カーテンの隙間から、薄い光が床に落ちている。
夜の東京タワーはあんなに綺麗なのに、朝になると、街は急に現実の顔をする。

仕事の日なら、起きてすぐ頭の中で予定を並べる。

十時に役員会。
十三時に取引先。
十五時に決裁。
十七時に資料確認。

社長としての私は、そうやって一日を組み立てるのが得意だった。

でも今日は違う。

陽斗の授業参観。

ただそれだけの予定が、どんな会議よりも重かった。

クローゼットの前で、私はしばらく動けずにいた。
派手すぎない服。
社長らしく見えすぎない服。
でも母親としてだらしなく見えない服。

そんな曖昧な条件で服を選ぶ自分が、少しおかしかった。

「社長、まだ迷ってます?」

背後から音葉の声がした。

振り返ると、彼女はいつものように冷静な顔で立っていた。
手には、学校からのプリントと私のスケジュール帳。

「その呼び方、今日はやめて」

「では、灯理さん」

「それもなんか緊張する」

「面倒ですね」

音葉は淡々と言って、プリントを差し出した。

「五年二組。三時間目、国語です。担任は佐伯先生」

佐伯尚。

その名前を聞いただけで、胸の奥が少し冷える。

食事会で、同じ歳くらいだと言われた。
私は否定しなかった。
ただの灯理でいたかったから。

でも今日は、その尚さんの前に、陽斗の母親として立つ。

「行くって言ったの、取り消したい」

「ダメです」

「即答」

「陽斗くん、昨日から少し浮かれてました」

その一言で、私は黙った。

「……浮かれてた?」

「はい。お母さん来るの?って三回聞かれました」

胸の奥が、柔らかく痛んだ。

陽斗は、もう11歳だ。
正確には小学五年生で、子ども扱いされるのを嫌がる時も増えた。

でも、母親が学校に来ることを、まだ少し喜んでくれる。

それを私は、今まで何度も誰かに預けてきた。

母に。
音葉に。
仕事に。

「行く」

私は小さく言った。

「ちゃんと行く」

音葉は、ほんの少しだけ目を細めた。

「はい」

その返事が、いつもより優しかった。

学校の門の前に立った瞬間、足が止まった。

懐かしい匂いがした。

校庭の土。
消毒液。
上履きのゴム。
廊下に貼られた画用紙。
どこか遠くから聞こえる、子どもたちの声。

胸の奥に、昔の私が顔を出す。

私は、こちら側にいた。

保護者として廊下に立つ人ではなく、教室の中で子どもたちを待つ側にいた。
チャイムが鳴る前に黒板を整えて、泣きそうな子の顔を見つけて、忘れ物をした子に「次は気をつけようね」と言う側にいた。

大好きだった。

その言葉を認めるだけで、今でも少し苦しくなる。

「お母さん!」

廊下の向こうから、陽斗が小さく手を振った。

周りの友達の目を気にしているのか、声は控えめだった。
でも、顔は少しだけ緩んでいる。

私は手を振り返した。

陽斗の目が、ぱっと明るくなる。

その瞬間、来てよかったと思った。

こんな簡単なことを、どうして私はずっと怖がっていたんだろう。

教室の後ろには、何人かの保護者が立っていた。
私はできるだけ目立たない位置に立つ。

黒板には、今日の課題が書かれている。

「気持ちが伝わる言葉を考えよう」

国語。

尚さんらしい気がした。

チャイムが鳴る少し前、教室の前方の扉が開いた。

「はい、席つけー」

明るい声。

佐伯尚さんだった。

昨日までスマホの画面越しに言葉を交わしていた人。
食事会で私を笑わせた人。
今は、教壇に立つ先生の顔をしている。

白いシャツの袖を少しまくり、手には教科書とプリント。
軽い人に見えるのに、教室に入った瞬間、空気がちゃんと整った。

「陽斗、プリント裏返し。まだ見るな」

「え、見てないし」

「今、片目で見た」

「先生こわ」

教室が少し笑う。

尚さんも笑った。

でもすぐに、黒板の前で姿勢を正す。

「今日は、言葉の選び方の話をします」

私はその声を聞きながら、胸の奥が静かに震えるのを感じていた。

この人は、ちゃんと先生だ。

冗談を言う。
子どもたちを笑わせる。
でも、ひとりひとりの目を見ている。

陽斗が手を挙げると、尚さんはすぐに気づいた。

「はい、陽斗」

「相手によって言葉を変えるってことですか」

「そう。それもある」

尚さんは嬉しそうに頷いた。

「同じ“ありがとう”でも、誰に言うかで伝わり方は変わる。逆に、本当は言いたいのに、言えない言葉もある」

その言葉が、私の胸に刺さった。

本当は言いたいのに、言えない言葉。

利月くんに言えないこと。
尚さんに言えないこと。
陽斗にも、ちゃんと言えていないこと。

私は教室の後ろで、ひとりだけ違う授業を受けているみたいだった。

授業の途中、尚さんの視線が一瞬だけこちらに向いた。

ほんの一瞬。

でも、その目が止まったのが分かった。

昨日の食事会の灯理。
今日の教室の後ろに立つ保護者。

その二つが、尚さんの中でまだ繋がっていない。

私は息を止めた。

気づかないで。

そう思った自分に、すぐ嫌気がさした。

気づかれたくない。
でも、隠し続けるのはもう無理だ。

授業が終わると、子どもたちは一気にざわめいた。

陽斗が私のところへ来る。

「お母さん、どうだった?」

「ちゃんと手、挙げてたね」

「そこ?」

「そこ大事」

「もっと内容褒めてよ」

「相手によって言葉を変えるって言ってたの、よかった」

陽斗は少し照れたように目をそらした。

「まあね」

その顔が、まだ子どもで、私はたまらなくなる。

「陽斗」

背後から尚さんの声がした。

陽斗が振り返る。

「佐伯先生」

「次、体育館移動。忘れるなよ」

「忘れないって」

「昨日も同じこと言って忘れた人がいる」

「それは昨日の俺です」

尚さんが笑った。

そのあと、彼の視線が私に向く。

私は逃げられなかった。

陽斗が何気なく言った。

「先生、俺のお母さん」

その一言で、空気が止まった気がした。

尚さんの表情が、ほんの少しだけ変わる。

笑顔の端が消える。
目が、私を正面から捉える。

「……お母さん」

確認するような声だった。

私は、ゆっくり頷いた。

「はい」

たった一文字が、喉を通るのに時間がかかった。

「陽斗の母です」

言った。

言ってしまった。

胸の奥で、何かが割れる音がした。

でも同時に、少しだけ息が吸えた。

陽斗は、私たちの空気に気づいていない。

「じゃあ俺、体育館行く」

「行ってらっしゃい」

「お母さん、帰る?」

「懇談までいるよ」

「え、まじ?」

陽斗の顔が少し明るくなる。

「うん」

「じゃああとで」

陽斗は友達の方へ走っていった。

その背中を見送ってから、私は尚さんに向き直った。

教室にはまだ保護者が残っている。
廊下にも人の気配がある。

ここでは、話せない。

尚さんも同じことを思ったのだろう。

「少し、いいですか」

昨日までより低い声だった。

私は頷いた。

「はい」

案内されたのは、教室から少し離れた空き教室だった。

使われていない机が端に寄せられていて、窓際には古い掲示物が残っている。
春の交通安全。
図書委員会のお知らせ。
色あせた画用紙。

学校の空き教室というのは、どうしてこんなに寂しいのだろう。

尚さんは扉を閉めると、しばらく黙っていた。

私は先に頭を下げた。

「すみませんでした」

尚さんは、すぐには返事をしなかった。

その沈黙が痛い。

「灯理さんが、陽斗の母親だったんですね」

「はい」

「音葉さんは?」

「私の秘書です」

「秘書」

尚さんは小さく繰り返した。

「じゃあ、学校の連絡とか、今まで音葉さんが?」

「母と、音葉が対応してくれていました」

「なるほど」

尚さんは、ゆっくり息を吐いた。

怒っているのか、呆れているのか分からない。

でも、昨日の軽さはそこにはなかった。

「昨日、俺、灯理さんに同世代っぽいって言いましたよね」

心臓が嫌な音を立てた。

「……はい」

「否定しませんでしたよね」

「はい」

「なんでですか」

責める声ではなかった。

だから、余計につらかった。

私は指先を握った。

「嬉しかったんです」

言った瞬間、自分の声が震えた。

「社長でも、母親でもなく、ただの女として見られた気がして。嬉しくて、否定できませんでした」

尚さんは黙って聞いていた。

「嘘をつくつもりはなかった、って言いたいけど、それは言い訳です。私は、違うと言えた。言えたのに、言わなかった」

胸の奥が苦しい。

でも、ここでまたごまかしたら、何も変わらない。

「すみません」

私はもう一度頭を下げた。

「佐伯さんにも、陽斗にも、失礼なことをしました」

「陽斗には」

尚さんの声が少しだけ強くなった。

私は顔を上げた。

「陽斗には、まだ何も知られなくていいと思います」

その言葉に、胸を押された気がした。

「え……」

「大人の嘘に、子どもを巻き込む必要はないです」

尚さんはまっすぐ私を見た。

「ただ、俺は担任なので。陽斗のことは見ます」

「はい」

「学校での陽斗は、明るいです。友達もいる。体育もよく動くし、サッカーの話になるとうるさいくらいです」

その言い方に、少しだけ笑いそうになった。

「でも」

尚さんの声が静かになる。

「たまに、すごく大人っぽい顔をします」

私は息を止めた。

「誰かが困ってると先に動く。空気を読みすぎる。自分が甘える前に、周りを見る」

それは、私が一番見たくなかった陽斗の顔だった。

「今日、お母さんが来て、あいつ嬉しそうでした」

尚さんは言った。

「だから、そこはちゃんと見てあげてください」

胸が痛かった。

社長としてなら、私はたくさんの厳しい言葉を受けてきた。
でも母として言われる言葉は、別の場所に刺さる。

「はい」

声が震えた。

「見ます」

尚さんは頷いた。

それから少しだけ間を置いて、低い声で聞いた。

「登坂には、言うんですか」

その名前が出た瞬間、指先が冷えた。

利月くん。

東京タワーの下で、また会えたらと約束した人。
先生じゃなくていい場所が欲しいと言った人。

私はまだ、何も言えていない。

「……まだ」

正直に言うしかなかった。

「言えていません」

「でしょうね」

尚さんは小さく言った。

私は顔を上げる。

「分かりますか」

「昨日の灯理さん、登坂を見る時だけ、少し違ったので」

心臓が跳ねた。

「そんな顔、してました?」

「してました」

即答だった。

「本人が気づいてるかは知りませんけど」

「やめてください」

「何を」

「そういうこと言うの」

尚さんは少しだけ笑った。

けれどすぐに、先生の顔に戻る。

「言った方がいいです」

分かっている。

音葉にも言われた。
自分でも分かっている。

でも、分かっていることほど、できない時がある。

「言ったら、終わるかもしれない」

口から落ちた言葉は、思っていたより弱かった。

尚さんは黙って聞いていた。

「社長で、母親で、年上で。昨日、同じ歳くらいの顔をして笑っていた女なんて、軽蔑されても仕方ないです」

「登坂は、そんなに薄い男じゃないですよ」

その声は、意外なほどはっきりしていた。

「でも、黙ったまま進んでいいとも思いません」

「分かっています」

「じゃあ、分かってるうちに言ってください」

その言葉はまっすぐだった。

まっすぐすぎて、痛い。

利月くんが扉の前で待つ人なら、
尚さんは、閉じた扉を見て「そこ、鍵かかってますよ」と言う人だ。

腹が立つくらい、正しい。

「佐伯さんは」

私は息を吸った。

「私のこと、どう思いましたか」

「どうって?」

「嘘つきだな、とか」

「思いました」

迷いのない答えだった。

私は思わず笑ってしまった。

「正直ですね」

「そこ嘘ついても仕方ないので」

「ですよね」

笑っているのに、目の奥が熱くなる。

尚さんは少し困ったように眉を寄せた。

「でも」

「でも?」

「悪い人だとは思ってません」

その言葉が、静かに落ちた。

「なんでですか」

「陽斗が“お母さん”って言った時の、灯理さんの顔を見たから」

私は言葉を失った。

「昨日の食事会の顔とも違った。東京タワーの話をしてた時の顔とも、たぶん違う」

「東京タワー?」

しまった、と思った。

尚さんがすぐにこちらを見る。

「え、東京タワーで何かあったんですか」

「何も」

「今のは何もない人の反応じゃないです」

「佐伯さん、先生って怖いですね」

「よく言われます」

少しだけ空気がゆるんだ。

でも、それも一瞬だった。

尚さんは、もう一度真面目な声で言った。

「俺から登坂には言いません」

胸が軽くなる前に、尚さんは続ける。

「でも、灯理さんが言わないまま進むなら、俺は止めます」

「止める?」

「登坂を傷つける形になるなら」

それは、静かな警告だった。

尚さんは味方かもしれない。

でも、利月くんの同僚で、友人でもある。
そして、陽斗の担任でもある。

私だけの都合では動かない人。

それが、かえって信用できる気がした。

「分かりました」

私は頷いた。

「自分で言います。ちゃんと」

いつか。

そう言いそうになって、飲み込んだ。

いつか、ではだめだ。

鍵を閉め続ければ、硝子はいつか内側から割れてしまう。

「近いうちに」

尚さんは、その言葉を聞いてから頷いた。

「待ってます」

それは、利月くんの待ち方とは違った。

扉の前で静かに待つのではなく、
時間を区切って、逃げ道をふさぐ待ち方。

先生という人たちは、本当に怖い。

空き教室を出ると、廊下の向こうから子どもたちの声が聞こえた。

体育館へ向かう陽斗が、友達と笑っているのが見える。

その隣を、知らない先生が通り過ぎる。

少し離れた階段のところで、利月くんの姿が見えた。

胸が、どくんと鳴った。

六年生の子どもたちに何かを指示している。
穏やかな声。
少しだけ困ったような笑い方。

そして、陽斗がその横を通る時、利月くんが軽く声をかけた。

「陽斗、廊下走るなよ」

陽斗が振り返って笑う。

「走ってません!」

「今、半分走ってた」

「先生、細かい」

利月くんが小さく笑った。

その光景を見た瞬間、私は動けなくなった。

利月くんは、陽斗を知っている。

陽斗も、利月くんを知っている。

でも、二人は知らない。

私を挟んでいることを。

尚さんが、隣で静かに言った。

「登坂は、六年担任です。陽斗とは担任関係じゃないけど、学校では普通に関わります」

「……そう、なんですね」

「灯理さんが思ってるより、世界は狭いですよ」

その言葉が、胸に落ちた。

本当に、狭い。

私が隠したいと思ったものほど、近くにある。

陽斗が私に気づいて、手を振った。

私は手を振り返す。

母として。

尚さんは隣に立っている。

陽斗の担任として。

そして少し離れた場所に、利月くんがいる。

私がまだ本当を言えていない人として。

硝子の鍵が、またひとつ鳴った。

今度の鍵は、母の顔をしていた。

そしてその鍵穴は、もう私ひとりの胸の中にはなかった。