東京タワーの下で利月くんと会った夜から、三日が過ぎていた。
眠れなかったら、またここで。
そう言ったのは、約束だったのか。
それとも、眠れない大人同士がその場しのぎに交わした、曖昧な言葉だったのか。
私はまだ、答えを出せずにいた。
あれから東京タワーには行っていない。
行けなかった、の方が近い。
会社の予定はいつも通り詰まっていたし、陽斗の学校のこともあった。
母からは実家の用事で連絡が来て、父の体調のことも少し気にかかっていた。
私は、いつもの私に戻っていた。
大きな会社の社長。
家を継いだ娘。
十二歳の息子を持つ母。
そして、登坂利月《とさか りつ》くんの前で、その全部を隠している女。
「社長」
応接室のドアが開いて、音葉が入ってきた。
手には書類の束と、白い封筒。
「その呼び方、朝から重い」
「では、灯理《あかり》さん」
「それも今はちょっと刺さる」
「面倒ですね」
「秘書が冷たい」
音葉はいつもの顔で、私の前に封筒を置いた。
「陽斗くんの学校からです。来週、授業参観と保護者懇談の案内が来ています」
陽斗(はると)。
その名前を聞くだけで、私の中の温度が変わる。
陽斗は小学五年生。
サッカーが好きで、肉が好きで、忘れ物が少し多い。
でも人の顔色には妙に敏感で、私が疲れていると、何も言わずにコップに水を入れてくるような子だった。
私の息子。
私が何より守らなければいけない子。
「また私が行きますか?」
音葉が聞いた。
それは、いつもの確認だった。
学校行事は、だいたい母か音葉が行ってくれていた。
私は仕事を理由に、そこから少し離れていた。
もちろん、陽斗を放っていたわけじゃない。
学校からの連絡も見ている。
成績も、友達のことも、体調も、できる限り把握している。
でも、学校という場所に足を運ぶことだけは、どこか怖かった。
昔の自分に会いに行くみたいで。
「……今回は、少し考える」
私がそう答えると、音葉がぴたりと動きを止めた。
「珍しいですね」
「珍しいとか言わないで」
「いつもなら即答で『お願い』です」
「そうだけど」
私は封筒に視線を落とした。
学校名を見るだけで、胸の奥がざわつく。
陽斗の学校。
尚さんと、利月くんがいる学校。
「食事会の影響ですか」
音葉が静かに言った。
私は返事をしなかった。
音葉は、私が黙った時ほどよく分かっている顔をする。
「先生たちと話したから?」
「……たぶん」
「登坂先生と?」
「そこだけ切り取らないで」
「では、佐伯先生も含めて」
佐伯尚さん。
その名前が出た瞬間、私は少しだけ視線を上げた。
食事会で、私に「同世代っぽい」と言った人。
よく笑って、よく話して、初対面なのに距離を詰めるのがうまい人。
利月くんとは違う。
利月くんは、扉の前で待つ人だった。
尚さんは、扉の鍵穴を見つけて、笑いながら覗き込んでくる人だった。
「佐伯さんって、何年生の先生なの?」
何気なく聞いたつもりだった。
本当に、ただの確認のつもりだった。
けれど、音葉の返事は思っていたより簡単に、私の胸を揺らした。
「五年生です」
私は、封筒に触れていた指を止めた。
「五年?」
「はい」
音葉は私を見る。
「陽斗くんの担任です」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
陽斗の、担任。
佐伯尚さんが。
昨日まで、ただ食事会で会った人だった。
同じ歳くらいだと言われて、私は否定しなかった。
社長でも母でもない顔で、笑ってしまった。
その人が、陽斗の担任。
胸の奥で、何かが細く鳴った。
カチリ、ではない。
硝子に、ほんの小さなヒビが入るような音だった。
「……言ってた?」
「担任の先生のお名前は、以前お伝えしたと思います」
「名前だけ?」
「はい。佐伯先生、と」
私は思わず額に手を当てた。
佐伯先生。
尚先生。
繋がっていなかった。
仕事の予定、学校の連絡、陽斗のプリント。
私はそれらを“母として処理する情報”として見ていた。
食事会で会った尚さんと、陽斗の担任である佐伯先生が同じ人だと、ちゃんと考えていなかった。
「まさか、食事会に来るとは思わないじゃん」
「それはそうですね」
「音葉、知ってたの?」
「最初は知りませんでした。食事会の後で確認しました」
「確認したなら言ってよ」
「言うタイミングを見ていました」
「今?」
「今です」
この秘書は、本当に心臓に悪い。
私は封筒を見つめたまま、息を吐いた。
「佐伯さん、私のこと何歳だと思ってるかな」
「昨日の流れなら、同世代くらいでしょうね」
「だよね」
「否定しなかったんですよね?」
「……うん」
音葉は責めなかった。
でも、その沈黙が痛い。
「社長」
「その呼び方やめて」
「灯理さん」
音葉は言い直した。
「陽斗くんの担任なら、いずれ分かります」
「何が」
「あなたが、陽斗くんの母親だということです」
分かっている。
そんなことは、言われなくても分かっている。
けれど分かっているからこそ、胸の奥が苦しくなる。
私は利月くんだけに嘘をついたわけじゃない。
尚さんにも嘘をついた。
そして尚さんは、陽斗を見ている先生だった。
私の知らない学校での陽斗を、毎日見ている人だった。
「……陽斗、学校でどうなのかな」
ぽつりと、言葉がこぼれた。
音葉は少しだけ表情をやわらげる。
「先月の連絡では、友達とも問題なく過ごしているようです。忘れ物は少し多いと」
「それは知ってる」
「授業中は真面目で、体育はよく動く。サッカーが好き。ただ、少し周りを見すぎるところがあると」
私は顔を上げた。
「周りを見すぎる?」
「佐伯先生から、以前そう書かれていました」
私は何も言えなくなった。
陽斗が周りを見る子なのは知っている。
私が忙しい時、あの子はいつも先に空気を読む。
疲れている私に「大丈夫?」とは聞かず、「お茶いる?」と聞く。
優しい子だと思っていた。
でも、それが本当に優しさだけなのか。
我慢を覚えさせてしまった結果なのか。
その違いを、私はずっと見ないふりをしてきたのかもしれない。
「参観日、行きますか?」
音葉が聞いた。
私はすぐには答えられなかった。
行けば、尚さんに会う。
陽斗の母として。
昨日の食事会で笑っていた灯理ではなく、
同じ歳くらいだと誤解された女ではなく、
陽斗の母として。
「……考える」
また同じ答えになった。
音葉は、今度は何も言わなかった。
その日の夕方、仕事の合間にスマホが震えた。
画面には、食事会の時に交換した連絡先。
佐伯尚。
心臓が、少し跳ねた。
この前はありがとうございました。
ちゃんと帰れました?
登坂が無口ですみません。笑
尚さんらしい文章だった。
軽い。
近い。
でも、どこか逃げ道を作ってくれている。
私は少し迷ってから返信した。
こちらこそありがとうございました。
楽しかったです。登坂さん、無口というより落ち着いてますね。
すぐに既読がついた。
それ本人に言ったら喜びます。
でも俺からすると真面目すぎて、たまに宇宙人です。
思わず笑ってしまった。
音葉がこちらを見る。
「佐伯先生ですか」
「なんで分かるの」
「社長が少し笑ったので」
「私、そんなに分かりやすい?」
「登坂先生の時よりは、楽そうな顔をしています」
「……それ、どういう意味」
「そのままです」
音葉は淡々と答えた。
尚さんは、話しやすい。
そこが少し怖い。
利月くんの前では、言葉を選ぶ。
ひとつ間違えたら、何かが崩れそうで。
でも尚さんには、少し雑に返せてしまう。
それは距離が近いからなのか。
恋ではないからなのか。
それとも、尚さんが最初からこちらの呼吸を乱すのがうまいからなのか。
スマホがまた震えた。
そういえば灯理さん、子どもの話聞くの上手いですよね。
この前ちょっと思いました。
指先が冷えた。
利月くんにも、似たようなことを言われた。
学校関係の仕事をしてたことあります?
子どもの話を聞く顔が、なんとなく。
先生たちは怖い。
見ていないふりをして、ちゃんと見ている。
私は返信画面を開いて、閉じた。
もう一度開いて、また閉じた。
ただの灯理として返せばいいのか。
陽斗の母として警戒すればいいのか。
それとも、昔の自分を少しだけ見せてもいいのか。
迷った末に、私は短く打った。
昔、少しだけそういう仕事をしていたので。
送ってから、息を吐いた。
嘘ではない。
でも、本当を全部話したわけでもない。
この中途半端さに、私はもう慣れてしまっている。
尚さんから、すぐに返事が来た。
やっぱり。
先生っぽい目してました。
先生っぽい目。
その言葉に、胸の奥が静かに痛んだ。
私は昔、学校にいた。
子どもたちの名前を呼ぶ側にいた。
廊下の匂いも、教室の空気も、給食のにおいも、今でも思い出せる。
本当は、あの場所が好きだった。
でも私は家を継いだ。
会社を背負った。
社長と呼ばれる場所に立った。
誰かに必要とされている。
それは分かっている。
でも、教室を離れた日の自分だけが、まだどこかで立ち尽くしている。
先生っぽい目って、どんな目ですか?
そう送ると、少しだけ間が空いた。
それから、返事が来た。
子どもが嘘ついてる時に、怒る前に気づく目。
あと、寂しそうな子を見逃さない目。
息が止まった。
軽い人だと思っていた。
よく笑って、冗談を言って、距離が近くて。
昨日も、私に同世代っぽいと言って笑った。
でも、この人も先生なのだ。
毎日、子どもたちを見ている人なのだ。
そしてその中に、陽斗がいる。
私はスマホを伏せた。
これ以上返したら、何か余計なことを言ってしまいそうだった。
「灯理さん」
音葉が、私の正面に立っていた。
「恋をするなら、嘘は少ない方がいいです」
私は顔を上げる。
「恋って決めないで」
「では、気になる人」
「それも決めないで」
「では、東京タワーの下で会うかもしれない人」
思わず音葉を見た。
「なんで知ってるの」
「社長の顔に書いてあります」
「書いてない」
「書いてます。赤いペンで大きく」
この人は本当に容赦がない。
私はため息をついて、椅子にもたれた。
「利月くんには、まだ言えない」
そう言った瞬間、自分で驚いた。
利月くん。
名前が、自然に口から出た。
音葉の目が少しだけ細くなる。
「佐伯先生には?」
「尚さんは……」
私は言葉を探した。
近い人。
話しやすい人。
陽斗の担任。
そして、私の嘘に一番早く近づいてしまう人。
「尚さんには、たぶん隠しきれない」
音葉は小さく頷いた。
「なら、先に味方にするのも手です」
「味方?」
「少なくとも、敵にしないことです」
その言い方が、仕事みたいで少し笑いそうになった。
でも、笑えなかった。
尚さんが陽斗の担任なら、いつか必ず私の正体に触れる。
私が言わなくても、参観日や懇談や、学校のどこかで。
その時、私はどんな顔をするんだろう。
同じ歳くらいに見えると笑ってしまった女が、
実は彼の生徒の母親だったと知った時。
尚さんは、どんな顔をするのだろう。
スマホがまた震えた。
尚さんからだった。
そういえば来週、参観日あります。
灯理さん、そういう行事とか好きそうですよね。
私は画面を見つめたまま、動けなくなった。
来週、参観日。
尚さんは、まだ知らない。
私がその参観日に行くかもしれない“保護者”だということを。
私は返事を打とうとして、指が止まった。
好きそうですね。
その言葉が、悪気のない刃みたいに胸に触れる。
私は学校行事が嫌いなわけじゃない。
むしろ、好きだった。
子どもたちが少し緊張しながら親を探す顔も、
いつもより背筋を伸ばして手を挙げる姿も、
授業が終わった瞬間にほっとする笑顔も。
全部、知っている。
先生だった頃の私は、そこに立っていた。
でも今は、保護者として立つのが怖い。
陽斗の母として。
そして、嘘をついた女として。
私はやっと返信した。
そういう行事、昔は好きでした。
すぐに既読がついた。
昔は?
私は短く返す。
今は少し、苦手です。
今度は、少しだけ間が空いた。
じゃあ、無理しなくていいと思います。
でも、来たらたぶん子どもは喜びます。
その文章を読んだ瞬間、胸の奥がぎゅっと痛んだ。
陽斗は、喜ぶだろうか。
私が行ったら。
いつも音葉や母に任せていた学校の場所に、私が立ったら。
あの子は、どんな顔をするだろう。
私はスマホを伏せて、窓の外を見た。
東京タワーが、遠くに見える。
三日前の夜、私はその下で利月くんと会った。
先生じゃなくていい場所が欲しいと言った彼の横顔を、まだ覚えている。
そして今、私は社長でも母でもない自分でいたかった時間から、少しずつ引き戻されている。
陽斗の学校。
尚さんのメッセージ。
参観日の案内。
現実は、いつも私の隠しごとを見つけるのがうまい。
音葉が静かに言った。
「参観日、行きますか」
私は東京タワーから目を離さなかった。
行けば、尚さんに会う。
もしかしたら、利月くんにも会う。
でも、行かなければ。
陽斗の「お母さん」を、また誰かに預けることになる。
私はゆっくり息を吐いた。
「行く」
声に出すと、胸の奥で何かが小さく震えた。
「私が行く」
音葉は少しだけ驚いた顔をして、それから静かに頷いた。
「分かりました」
私はスマホを手に取り、尚さんのメッセージをもう一度開いた。
来たらたぶん子どもは喜びます。
その一文を見つめながら、私は返信した。
そうですね。
行けたら、行ってみます。
嘘ではない。
でも、また逃げ道を残した言い方だった。
送信ボタンを押すと、胸の奥で鍵が鳴った。
今度の鍵は、学校の匂いがした。
陽斗の母として立つ場所へ続く鍵。
そして、佐伯尚という人が、
私の嘘のすぐ近くまで来ている音がした。
