硝子の鍵

嘘をついた夜ほど、眠れない。

家に戻って、ヒールを脱いで、メイクを落として、私はいつもの部屋に戻った。
東京タワーが見える、高すぎる場所。

この部屋にいると、私はいつも少しだけ現実から離れている気がする。

社長としての私。
母としての私。
家を継いだ私。
昔、教室にいた私。

いろんな私を高いところから見下ろして、全部まとめて「大丈夫なふり」をする。

でも今夜は、うまくいかなかった。

スマホの画面には、**音葉(おとは)**からのメッセージが届いていた。

今日は行ってよかったでしょ?

私はベッドに座ったまま、その文字を見つめた。

行ってよかった。

そう言ってしまえば、簡単だった。
本当に楽しかったから。

**佐伯尚(さえき なお)**さんはよく笑った。
距離の詰め方が上手くて、こちらが構える前に言葉を投げてくる人だった。

そして、**登坂利月(とさか りつ)**くん。

彼は、静かな人だった。

優しいのに、簡単には近づけない。
笑っているのに、どこか遠い。

その遠さが、妙に心に残った。

また、会えたらいいですね。

食事会の帰り際、利月くんが言った言葉を思い出す。

あれは社交辞令だったのかもしれない。
大人なら、いくらでも言える言葉だ。

それなのに私は、その一言を何度も思い出していた。

ばかみたい。

私はスマホを伏せて、窓の外を見た。

東京タワーが光っている。

あの赤い光を見るたびに、私は少しだけ息がしやすくなる。
理由なんて、ちゃんと考えたことはなかった。

ただ、そこに立っていてくれるから。

どれだけ夜が深くても、どれだけ部屋が静かでも、東京タワーだけはいつも変わらない顔で立っている。

私はクローゼットの前に立った。

寝ればいい。
明日も早い。
会社の予定もある。
息子の学校のことだって、音葉から確認が来ていた。

それなのに、私は薄手のコートを羽織った。

行く理由なんてなかった。

ただ、部屋から見下ろしているだけでは足りない夜がある。

その夜の私は、東京タワーを下から見上げたかった。

タクシーを降りた瞬間、夜風が頬を撫でた。

東京タワーの下は、思っていたより静かだった。
観光客の笑い声も、スマホのシャッター音も、遠くの車の音もあるのに、不思議と静かに感じる。

私は少し離れた場所に立って、上を見上げた。

高い。

部屋から見る時より、ずっと高い。

いつも見下ろしていた光が、ここでは私を見下ろしている。

そのことが、少しだけおかしかった。

「……やっぱり、下から見る方が綺麗」

自分でも驚くくらい小さな声だった。

「俺も、そう思います」

背後から聞こえた声に、胸が跳ねた。

振り返ると、そこに利月くんが立っていた。

黒いコートに、少し風で乱れた髪。
食事会の時よりも、ずっと静かな顔をしていた。

「登坂さん……?」

「こんばんは」

彼は少しだけ笑った。

「灯理さんも、ここに来るんですね」

その言い方が、まるで前から知っていたみたいで、私は返事に困った。

「たまたま、です」

「俺もです」

たまたま。

二人で同じ嘘みたいな言葉を言って、少しだけ笑った。

本当に偶然だったのかもしれない。
でも、偶然という言葉では片づけたくない何かが、その場にはあった。

「さっきの食事会の帰りですか?」

「いえ。一度帰りました」

「それで、また?」

「……眠れなくて」

言ってから、少しだけ後悔した。

初対面に近い人に言う言葉ではなかったかもしれない。
でも利月くんは、驚かなかった。

「俺も、眠れない時に来ます」

「ここに?」

「はい」

彼は東京タワーを見上げた。

「ここに来ると、先生じゃなくていい気がするんです」

先生じゃなくていい。

その言葉が、胸の奥にすとんと落ちた。

社長じゃなくていい夜。
母じゃなくていい夜。
家を継いだ誰かじゃなくていい夜。

私が欲しかったものと、よく似ていた。

「先生って、大変ですか?」

聞いてから、変な質問だと思った。

でも利月くんは、少し考えてから答えた。

「大変です。でも、嫌ではないです」

「好きなんですね」

「たぶん」

「たぶん?」

「好きって言い切るには、まだちゃんとできてないことが多すぎるので」

その言い方が、真面目すぎて、少し笑ってしまった。

「登坂さんって、ちゃんとしてますね」

「よく言われます」

「褒めてます」

「ありがとうございます」

会話は静かだった。
けれど、気まずくはなかった。

尚さんとは違う。

尚さんは、こちらの扉をノックする前に、笑いながら開けてくる人だった。
利月くんは、扉の前に立って、私が鍵を開けるまで待っている人のように見えた。

だから怖かった。

待たれると、自分で開けたくなる。

「灯理さんは」

利月くんが、こちらを見た。

「どうしてここに?」

本当のことを言えるはずがなかった。

私の部屋から東京タワーが見えること。
その部屋が、私が社長として手に入れたもののひとつであること。
そこから毎晩、嘘みたいに綺麗な東京を見ていること。

言えなかった。

「なんとなく、です」

私は曖昧に笑った。

「上から見るより、下から見たくなって」

「上から?」

しまった、と思った。

ほんの小さな言葉の端から、本当の私がこぼれそうになる。

「前に、展望台に行ったことがあって」

嘘を重ねるのは簡単だった。
一度目の鍵を閉めてしまえば、二度目からは手が勝手に動く。

利月くんは、何も疑わなかった。

「俺、上ったことないんです」

「え、そうなんですか?」

「はい。東京タワーは下から見る方が好きで」

「どうして?」

昨日も聞いたはずの質問を、私はもう一度聞いた。

利月くんは、少しだけ目を細めた。

「上に行くと、遠くまで見えすぎるから」

その言葉の奥に、何かがあった。

遠くまで見えすぎる。

未来のことなのか。
過去のことなのか。
それとも、見たくないものが見えてしまうという意味なのか。

聞きたかった。
でも聞けなかった。

私だって、見られたくないものだらけだったから。

「下からだと、何が見えるんですか?」

利月くんは東京タワーを見上げたまま、ゆっくり答えた。

「足元です」

「足元?」

「こんなに高くても、ちゃんと下から立ってるんだなって思えるんです」

その瞬間、胸の奥が静かに震えた。

昔、同じようなことを言ってくれた人がいた。

小学生だった私に、教室で。
泣きそうな顔を隠していた私に。

大丈夫。
高いものだって、ちゃんと足元から立っているのよ。

その先生の声を、私はまだ覚えている。

白いチョーク。
夕方の教室。
窓から差し込む薄い光。

忘れていたはずの記憶が、急に胸の中で開いた。

「灯理さん?」

利月くんの声で、私は我に返った。

「すみません。ちょっと、懐かしい言葉だったから」

「懐かしい?」

「昔、似たようなことを言ってくれた先生がいたんです」

言ってから、息を止めた。

また、余計なことを話してしまった気がした。

でも利月くんは、ただ静かに聞いていた。

「いい先生だったんですね」

「はい」

今度は、すぐに答えられた。

「私の人生で、たぶん一番忘れられない先生です」

利月くんは、少しだけ目を伏せた。

「そういう先生に、俺もなれたらいいんですけど」

その横顔を見て、胸が苦しくなった。

この人は、きっと知らない。

私がどれだけ先生という言葉に弱いか。
教室という場所を、どれだけ遠くに置いてきたか。

そして今、どれだけ嘘をついてここに立っているか。

「登坂さんなら、なれますよ」

「そんな簡単に言います?」

「簡単には言ってないです」

利月くんがこちらを見た。

私は笑えなかった。

「子どものことを話す時の顔って、嘘つけないから」

利月くんは少し驚いたように黙った。

その沈黙が、私の方を向いている気がした。

近づきすぎた。

そう思った。

私は慌てて視線を東京タワーに戻した。

「ごめんなさい。偉そうでしたね」

「いえ」

利月くんの声は、さっきより少し低かった。

「嬉しかったです」

その言葉だけで、心が危うくなる。

私は本当の私ではないのに。

年齢も。
肩書きも。
母であることも。

何も言っていないのに。

「灯理さん」

名前を呼ばれて、私はまた彼を見た。

「またここで会えますか?」

東京タワーの光が、彼の横顔を赤く照らしていた。

それは約束というほど強くなくて、
でも偶然というには少しだけ温度があった。

私はすぐに頷けなかった。

会いたい。

そう思ってしまったから。

「……眠れなかったら」

私はそう答えた。

「じゃあ、眠れない日に」

利月くんは静かに笑った。

その笑顔に、私はまた鍵を閉めた。

二つ目の鍵。

東京タワーの下で交わした、曖昧で優しい約束。

私はその夜、初めて知った。

嘘は、ひとつだけでは終わらない。

守りたいものが増えるたびに、
鍵は増えていく。

そして私は、またひとつ、
自分の心を閉じ込めた。