昔から、私は影が薄い。
比喩ではなく、本当に、視界に入れてもらえないのだ。
学校で出欠を取れば案の定飛ばされ、
集合写真では端にいる私だけ後から見て「あれ、いたの?」と言われる。
コンビニでレジに並んでいても順番を抜かされるし、
友人と待ち合わせをしていても、目の前を通り過ぎられる始末だ。
存在感が薄い。
そう言えば可愛いものだ。
けれど私の場合、それは病気か呪いのようなものだった。
もちろん透明ではない。
ちゃんと体もある。
声も出るし、触れることもできる。
なのに、人は私を認識しない。
見ているはずなのに、見えていない。
そんな人生だった。
だから私は、人と関わることを諦めた。
大学を卒業し、図書館で働き始めた。
本棚を整理する仕事は気楽だった。
誰にも気付かれないことは、時に便利でもある。
そう思うようにしていた。
彼と出会う、その日までは。
「すみません」
不意に声を掛けられた。
思わず後ろを見る。
誰もいない。
「あなたですよ」
もう一度声がした。
前を向き直ると、目の前に男性が立っていた。
20代くらいの、穏やかな顔立ち。
白い杖を持っている。
視線は私を見ていない。
いや、見られないのだろう。
どうやら彼は盲目らしい。
「点字の本を探しているんですが」
私は呆然とした。
「……私、ですか?」
「はい」
「私に話しかけたんですか?」
「そうですけど.......?」
不思議そうな声。
私のほうが不思議だった。
なぜ。
どうして。
どうやって.......この人は私を見つけたのだろう。
彼の名前は相沢悠真といった。
読書が好きらしく、週に何度も図書館にやってくる。
点字本だけではなく、朗読データも借りるらしい。
それから彼は、頻繁に私へ話しかけた。
「こんにちは」
「今日は雨ですね」
「お昼食べました?」
当たり前のように。
自然に。
まるで、私がそこにいるのが当然みたいに。
それが嬉しかった。
人生で初めてだったからだ。
誰かが私を探してくれるのは。
「不思議ですね」
ある日、私は聞いた。
「何がですか?」
「どうして私が分かるんですか。
ほら、私.......自分で言うのもなんですが、影、薄いでしょう?」
悠真は少し考えるように、顎に手を当てた。
「強いて言うなら......声、ですかね」
「声?」
「それもあるし、足音もあります」
「足音?」
「呼吸音もありますよ」
彼は笑った。
「人にはそれぞれ音がありますから」
私は黙った。
そんな風に言われたことはなかった。
声。
呼吸。
足音。
私を構成するもの。
私が確かにここにいる証拠。
それなのに、誰も見ようとしなかったもの。
それから、季節は巡った。
私は彼に恋をしていた。
気付くのは簡単だった。
彼の声が聞きたい。
会いたい。
笑ってほしい。
それだけで一日が明るくなる。
けれど怖かった。
もし断られたら。
唯一、私を見つけてくれる人を失う。
それが何より怖かった。
そんな悶々とした気持ちを抱えていた、
ある冬の日のこと。
雪が降っていた。
足元が滑って危ないからと、駅まで送っていた図書館の帰り道。
街灯の下で、ふと悠真が立ち止まった。
「聞いてもいいですか」
「何をです?」
「あなたは、自分が透明人間か何かだと思ってますよね」
心臓が止まりそうになった。
なぜ分かったのだろう。
誰にも話したことはないというのに。
「……どうして」
「雰囲気です」
彼は言った。
「ずっと、そういう話し方だから」
優しい声だった。
「でも違いますよ」
「違わないです」
思わず強く言う。
「私は昔から、誰にも見つけてもらえなかった。」
悠真は少し黙った。
それから笑った。
「それはあなたが透明だからじゃない」
雪が静かに降る。
「みんなが、ちゃんと見てなかっただけです」
私は泣いた。
どうして泣いているのか分からなかった。
悲しくない。
むしろ逆だった。
長い間、心の奥で凍っていた何かが溶けていく。
そんな気がした。
「......あの」
私は言った。
「はい?」
「私―――あなたが好きです」
降りしきる雪の中で、初めて。
私は誰かに、想いを伝えた。
悠真は驚かなかった。
まるで知っていたみたいに微笑む。
「知ってました」
「えっ」
「声で分かりますから」
「ずるいです」
「そうですか?」
「そうですよ」
二人で笑った。
白い息が重なる。
その時、私は思った。
透明人間じゃなくなったわけではない。
明日も誰かに順番を抜かされるかもしれない。
また目の前を素通りされるかもしれない。
けれど、それでもいい。
世界中の誰にも見つけてもらえなくても。
たった一人。
この人だけは。
私を見てくれるから。
目ではなく、もっと確かなもので。
私を見つけてくれるのだから。



