スターチス図書館へようこそ


いつの間にか駅に立っていた。

名前も知らない小さな駅だった。

夜風は冷たく、ホームには自分以外ほとんど人影がない。

それでも列車だけは静かに待っていた。

黒く長い車体。

窓から漏れる橙色の灯り。

どこか懐かしい匂いがする。

老人は切符を握りしめ、ゆっくりと乗り込んだ。

車内は不思議なほど温かかった。

向かいの席には若い女性が座っている。

胸元には赤ん坊。

隣の席では学生服の少年が参考書を開いていた。

通路を挟んだ先には仕事帰りらしい男が缶コーヒーを飲んでいる。

誰もが自然にそこにいた。

老人も荷物を棚に上げ、窓際へ腰を下ろす。

列車は音もなく動き出した。

窓の外で、夜の景色が流れていく。

不意に、赤ん坊が泣き出した。

「あらあら、ごめんなさいね」

若い母親が慌てる。

「いやいや」

老人は笑った。

「元気でいいじゃあないか」

それがきっかけだった。

その女性と語らった。

学生服の少年とも話した。

サラリーマン風の男とも話した。

どこへ向かうのか。

何が好きなのか。

どんな人生だったのか。

話題は尽きなかった。

いつ以来だろう。

こんなに人と話したのは。

妻が亡くなってからは初めてかもしれない。

老人の妻は三年前に病で死んだ。

子供はいない。

友人も少しずつ減った。

家は静かだった。

朝起きても、食事をしても、夜になっても。

話し相手はいない。

テレビの音だけが流れる。

そんな日々だった。

だから、どうしようもなく嬉しかった。

誰かと笑い合うことが、

こんなにも温かいとは思わなかったからだ。

列車は走り続ける。

窓の外には星空。

見知らぬ山。

遠い街の灯。

時間の感覚が曖昧になっていく。

ふと、老人は違和感を覚えた。

そういえば。

自分はなぜこの列車に乗ったのだろう。

どこへ向かうのだろう。

切符を見た。

行き先は書かれていない。

奇妙だ。

記憶を辿る。

最後に覚えているのは――病室だった。

白い天井。

消毒液の匂い。

苦しく、途切れ途切れに鳴る呼吸。

窓の外から差し込む夕焼け。

そして――誰かが言った、「お疲れさまでした」。

そこで記憶は途切れている。

老人は静かに目を閉じた。

そうか。

そうだったな。

思い出してしまった。

「儂は......死んだのか」

不思議と恐怖はなかった。

車内を見渡す。

少年は窓の外を見ている。

母親は赤ん坊を抱いて微笑んでいる。

男は穏やかな表情で目を閉じている。

皆、知っているのかもしれない。

ここがどこなのか。

この列車が何なのか。

やがて車掌が現れた。

深い紺色の制服。

白い手袋。

「まもなく終点です」

車掌は優しく告げた。

「お忘れ物のないようお願いいたします」

終点。

その言葉が車内に響く。

誰も慌てない。

誰も怯えない。

まるで、長旅を終えた乗客たちのようだった。

列車はゆっくり減速する。

窓の外に灯りが見えた。

大きな駅だった。

けれど賑やかではない。

静かで、柔らかくて、どこまでも穏やかだった。

列車が止まり、扉が開く。

乗客たちは一人ずつ降りていき、やがて老人も立ち上がった。

これまでの人生を思い返す。

失敗もあったし、後悔もあった。

もっとできたこともあっただろう。

それでも、悪い人生ではなかった。

愛する人と出会い、笑って、泣いて、

精一杯に生きた。

それだけで、もう十分だ。

老人は車掌へ向かって深く一礼した。

「ありがとう」

車掌は帽子を取って応えた。

「こちらこそ」

老人はホームへ降りる。

そこで足を止めた。

一人の女性が立っていた。

柔らかな髪。

懐かしい瞳。

穏やかな笑顔。

何十年も見続けた顔。

誰より、会いたかった人。

「あなた」

老人の目から涙が零れた。

妻は少し困ったように笑う。

「遅かったわね」

「すまん」

「いいことよ」

妻は手を差し出した。

「素敵な列車でしょう。」

老人はその手を握った。

生きていた頃と同じように、二人は並んで歩き出す。

改札の向こうには柔らかな光が満ちていた。