桜の花びらがスーツの肩に落ち、藤崎湊は足を止めた。
風が吹くたび、川沿いの桜並木が白く揺れる。
仕事帰りだった。
得意先との打ち合わせを終え、
駅までの近道を歩いているだけのつもりだった。
こんな場所を通る予定はなかった。
なのに気が付けば、ここにいた。
十年前、中学三年の春。
まだ、社会のことなんか何も知らなかったあの頃に、
俺はこの桜の下で、ある約束をした。
『お互いに夢が叶っていたら、十年後にまたここで桜を見よう』
相手は幼馴染だった。
いつも隣にいて、何をするにも一緒だった。
名前を口に出そうとしてやめる。
思い出さないようにしていたからだ。
約束も。
夢も。
全部。
俺は画家になりたかった。
絵を描くことだけが取り柄で、唯一の好きなことだった。
高校も、美術大学も、その先も。
ひたすら絵を描いた。
俺は画家として生きていくんだと、あの頃は信じて疑わなかったから。
けれど、才能は残酷だった。
自分より上手い人間はいくらでもいた。
努力だけでは埋まらない差があることも知った。
賞は取れない。
評価もされない。
生活は苦しい。
気が付けば筆を持つことが怖くなっていた。
そして二十二歳の冬。
湊は夢を諦めた。
画材を捨て、キャンバスを処分した。
今まで書いた作品も全部燃やしたし、
就職活動をして、商社に入った。
それからは必死だった。
絵への未練を感じる暇もないほど働いた。
朝早く出社し、終電近くに帰る。
休日も資格勉強。
仕事で結果を出して、昇進して、給料を上げて。
そうやって夢を忘れようとした。
約束のことも。
幼馴染のことも。
全部、全部。
だから。
十年後の春が来たときも。
俺はここへ来なかった。
その日が約束の日だとさえ思い出せなかった。
それから一年が過ぎた今日。
自分こそが美しいのだと主張するように咲き乱れる桜並木。
その先に、一人の男が立っていた。
イーゼルを立てて、パレットを持って。
楽しげな横顔で、キャンバスに向かっている。
その姿が、なぜか妙に懐かしかった。
心臓が嫌な音を立てる。
俺は知っている。
あの横顔を、ずっと昔から。
男は筆を止めた。
何かに気付いたように振り返る。
視線が合った。
時間が止まった。
十年と一年の空白が、一瞬で崩れ落ちる。
ああ――そうか。
湊はようやく名前を思い出した。
ずっと呼ばなかった名前。
ずっと胸の奥にしまっていた名前。
男は少しだけ目を見開いた。
驚いたように。
でもどこか納得したように。
それから静かに笑った。
その笑顔は昔と同じだった。
けれど少しだけ寂しかった。
「……桜、綺麗でしたね」
風が吹く。
花びらが二人の間を流れていく。
まるで一年分の時間を埋めるみたいに。
湊は何も言えなかった。
言葉が出なかった。
約束を忘れていたことも。
来なかったことも。
謝りたいのに。
胸の奥に詰まったまま動かない。
男はそんな湊を責めなかった。
ただ桜を見上げる。
「去年も、綺麗でしたよ」
その一言が、何よりも痛かった。



